【1】元カレと元カノ
日が落ちたホテルのエントランスは吹き込む風が冷たい。
白地にオレンジのラインが入った空港へと乗客を運ぶリムジンバスの高い位置から窓を開け、女が男を見つめる。
瞳は切なく恋心に潤み、今にも泣き出しそうだ。それでも彼女は笑みを浮かべる。
彼女に微笑まれて男も女も恋に墜ちない人はいないと言われた、天下一品の笑顔を送りながら、手を差し延べる。
その手を取り、口付けるのは彼女の恋人だ。
名残惜しげに手の甲を撫で擦る彼の手に、指を絡めて彼女は言う。
「行ってきます」
「気をつけて」
ええ、と形の良い口元から言葉が漏れる。
本当なら、駆け寄って身を投げ出したい衝動を抑えてふたりは見つめ合う。
発車を告げるアナウンスの後、バスはゆるやかに走り出し、赤いテールランプを閃かせてあっという間に去って行った。
後に残された男の前髪を、風がなぶる。
ほんの少し前まで、ふたりは抱き合っていた。
衣服も理性も全て脱ぎ捨て、肌を重ねた。
一時も無駄にできないというように、ぴったりと身を合わせ、繋がっていた。
別れが近かったから、余計燃え上がったのかもしれない。
交歓の名残をお互いの肌に纏わせた。
どれだけの時間、そうして立っていただろう。
「後朝の別れ――というやつかしら」
時間にしてほんの数分。男にとっては一瞬とも永遠とも受け取れた時を寸断するように、その声は彼の元に届いた。
彼は一気に現実世界へ舞い戻り、声がする方へ振り返る。
女だった。
ふふ、と相手は笑みを浮かべる。
「お久し振り、慎一郎」
片足に体重をかけて腕組みをして立つ彼女は腕を解き、彼に手を振った。
「――三浦、か」
「そう。覚えていてくれた?」
小さくため息を漏らし、彼、尾上慎一郎は言う。
「バカも休み休み言いたまえ。私は、同級生を忘れるほど耄碌してはいない」
「同級生、かあ」ははっと三浦は笑った。「元・彼女、とは言ってくれないんだ」
慎一郎は顔を引き締める。それを見逃す三浦ではない。
「あら、恐い顔しちゃって」あははと三浦は畳みかける。
「怒った?」
「怒ってなどいない」
「あら、でも、ムッとした顔してるくせして?」
それには彼は応えない。
三浦はバスが消えた方向に顎をしゃくった。
「新しい彼女?」
見られていたのか。
どこから?
慎一郎は沈黙を持って返事とする。
「まるで映画かドラマか何かのワンシーンみたいだったわね」三浦は彼の意図にお構いなしだ。
わかっていた、彼女ならそういう態度を取る。
「どうしてここに」
慎一郎は話題を変えた。
「決まってるでしょ。宿泊してるの。ここにいるのは偶然よ。あの子、あなたの相手にしてはおとなしすぎそうだったけど。趣味変わったのかしら? いつまで続くことやら」
「君には関係ない」
「そうね、私には関係ない」
「彼女は――妻だ」
『私の妻』とスマートに言いたいのに、言い慣れていない彼は何とも締まりのない口調になった。
「は? つまぁ? あなたの? 嘘でしょ」
三浦は目を丸くし、そして吹き出す。
「あなたが結婚? それはおめでとうと言っておくわね」
三浦は勝手知った風に彼の隣に立ち、腕を組む。そして彼の首筋を指した。
「ここ」
触れるか触れないかの所で指先を止める。
「ふうん」曰くあり気な言い方をし、人の悪い笑みを浮かべる。
「妻かどうかはともかく、恋人か愛人ってのは本当のようね。へたくそみたいだけど」
何を、と言いかけ、慎一郎は首筋に手をやる。
束の間の逢瀬の時、がりりと噛みついてベソをかいた恋人、秋良。
力の加減がわからない、と困惑しながら唇を寄せ、吸ったつもりで歯を立てた。
ごめんなさいと何度も言う彼女へ、慎一郎は何倍ものキスを浴びせ、赤い花をその身体中に散らした。
困惑と恥じらいを隠さず歓喜の声を上げる彼女は可愛かった。
慎一郎の頬がつい緩む。三浦はそれを見逃さない。
「何をヤニ下がっちゃって」
彼の二の腕をつねりながら言った。「どう? 久し振りに」
「は」
「あなたが満足できるとは思えないんだけど。足りないんじゃない?」
身体をずらし、足元を組み替えて身をすり寄せてくる仕草は、明らかに男を誘っている。
「バカも休み休み言いたまえ」
慎一郎は身を離してエントランスへ向かった。
「まあ、残念」と全く残念そうな口調ではなく彼女は言い、ぱん、と丈が短いドレスの裾を引っ張って整えた。
「またね、慎一郎。近いうちに会いましょう」
聞く義理はない。
立ち去る慎一郎の背に彼女の笑い声が刺さった。
同じ『笑い』でも、こうも印象が変わるのか。
慎一郎は秋良の笑顔を思い出す。
つい数日前まで、知人の域を出なかった。今は恋人、そう遠くない将来、人生を共にする秋良、ひたむきに慎一郎を思い続けてきた彼女を。
もうすぐ、彼女の笑顔も何もかもが自分だけのものになる。
慎一郎は襟元を寄せ、シャツのボタンを締め直す。
確かに三浦の言うように無防備だったかも知れなかった。
キスマークを指摘されて憤慨するより、隙を見せなければいい。
彼は客室へ戻ろうとし、足を止めた。
交歓の跡を残す部屋で一晩、独り寝するのか。女々しいにも程がある。
帰ろう。
彼は片手を上げて従業員を呼んで部屋番号を告げ、チェックアウトすると伝えた。少しばかり多めにチップを渡し、私物を持ってくるように指示を出した。
室内に入ると、何をしていたか一目瞭然だ。まるでラブホテルでさっさと事を済ませて慌てて帰る若者と同じだが、構うものか。
たまさか三浦が訪ねて来るようなことはないだろうが、今宵は秋良以外の女のにおいがするところでは寝たくない。
慎一郎は掌を広げ、自らの前に掲げる。
この手に指を絡めた秋良の柔らかさを抱くように握り締めた。