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STSW

作者: 城屋 えり

 明日、明後日には使うプリントを印刷した。帰るか、そう思いデスクから立ち上がると、他に誰もいなかった。

 夏見 早(ナツミ サヤ)、県内の小学校に勤務している、人より段取りが悪くこうして一人残業する事の多い寂しい教員。……こういうと自分でも泣ける程虚しい人生だ。小さく伸びをした、とっぷりと日が暮れた窓の外は生徒の多い昼間とは全く異なる姿だ。

 まるで、怪談話に出てきそうな程。

 そうしてふと思い出したのだ、受け持ったクラスで七不思議が騒ぎになっていることを。俺に懐いた生徒から話された七つの話。俺の時も怖がる女子とかいたな、と懐かしく思いながら、最後に「だからサヤちゃんもやっちゃだめだよ!」と言われたので「先生を下の名前で呼ぶんじゃない」と言って次の時間のチャイムが鳴ったのだった。

 そんな雰囲気だけはあるな、と職員室を見回した。だけど生憎、そんなのに怖がる質ではない。

 荷物を纏めていつも通り警備員の元に向かう。すぐにある階段を下って右に、……そこで異変に気付いてしまった。何かを動かす音がするのだ、固い何かを引きずるようなガタガタという音。彼が何か見つけて回収しているのかと思って思わず一歩前に出て声をかけた。

「あの、手伝いましょうか?」

 すると音はひたりと止まり、一拍してこちらにがたりがたと音が迫る。駆け出したのだろうか、彼にしてはあまりにも早くはないか? そんなに急ぐことだろうか? ちらりと廊下の先に見えた姿を見て俺は慌てて身を隠した。なんだ、あれは! おぞましかった、目ははっきりと"ソレ"を視界に入れてしまった。鍵の掛かった箱の中にある筈の人体模型だ。何故かそれが廊下にいて、こちらに歩いていた。がたりがたという音はそれが原因だったのだろうか! 警備員は取り出せない筈で、後ろには誰も見えなくて、まるで、人体模型が自力で動いているみたいだった。いや、動いていたのだ。自力で。そうでなければあんなにしっかりと、人体模型は歩くだろうか? 人間のように右手と左足を上げて、何かを探すように左右に首を振る。受け入れたくはないけれど、これは事実なんだと目も耳も伝えた。慌てて職員玄関に駆け込み、校舎から出ようとして紙の存在に気付いた。

 

 ナツミ先生

 遅かったので先に施錠させて頂きました。

 お仕事が終わりましたら事務室へ。

 

 そんなに遅かっただろうか、早く出たいのに! 舌打ちをして職員玄関のすぐ脇の事務室に入る。

「すみませーん、遅くなりました夏見ですー」

 そう言って部屋を見回すがそこには誰も居らず、見回りに出たのだろうかと普段彼が座っている机を覗いても、ある筈の荷物や缶コーヒーすらもそこには無かった。……仕方が無い。

 いつもの自分なら彼が来るまでここで待っているだろうが、直前のおかしな人体模型を見てこのまま待つなんて出来なかった。

 小さくスイマセンと言って鍵を管理しているケースに手を出す。急いで開けるとそこには教室をはじめとする学校中の鍵が……一つも無かった。

「……はぁ?」

 目を疑った。

 ここで管理しているのは予備キーで、普段持ち出されることなんてない筈。なのに、何故一つも無いんだ。

 ざぁっと血が引く錯覚に陥る。

 盗難か、紛失か、あるいはあの奇妙なのが持って行ったのか。

 何にせよ、急いで外に出るには職員室から鍵を持ってこなければならない。

 何か問題になったとしてもどうにか誤魔化そう。いや、それよりも書き置きしてから生徒用の昇降口から出て、鍵を閉めてもらった方が賢明だろうか。

 急いで鞄からペンとメモを出して、急用があって昇降口から出たという旨と鍵を閉めてらうよう書置き、デスクに乗せる。後は人体模型モドキに会わないように外に出るだけだ。足音を殺して、耳を澄ませる。大丈夫、聞こえない。昇降口はそんなに遠くない、あっという間にたどり着いて鍵を開ける。戸を横に引く。

「……え」

 なんで、鍵は開いているし、建て付けが悪い訳ではない。

 まあ昇降口には他の戸もある。気を取り直して別の戸を引く。開かない!

 なぜ、なぜだろう。戸がどこかに引っかかるガタガタという音もしない。

 他の戸も試したが、一つも開くものは無かった。

「くそ……、なんなんだよ……!」

 いい加減苛立ちも募りガラスを殴る。あるはずの鈍い音すら立たず、流石におかしい事を受け入れた。

 幸いは人体模型もどきが来る音がしないことだけだ。

「ホラゲだろ、これ」

 吐き捨てた。学校の怪談をモチーフにしたホラーゲームに良くありそうだ、なんて現実逃避が事実のように思えて今更恐れが増してくる。

 もし、本当にそんな状態だとしたら。……こういうのは怪談に全部遭遇して解決しないと出られないというのが定石だ。

 七不思議が流行ってるなら人体模型もどきを除いてあと六つ。

 そこでがたりと聞き覚えのある音がして慌てて様子を伺った。

 少し離れた場所に人体模型。気づかれないようにそっと逃げ出した。

 

 予想が正しければ他の七不思議に会わねばならない。

 どこが一番無害か、なんてわからないけれどとりあえず大丈夫そうな怪談を探さなければならない。何故か開いている適当な教室に入り教卓に紙を広げた。生徒達の言っていた七不思議を書き出して対策を立てたほうがいいだろう。あっていようがいまいが、対策するのに越したことはない。

 ・動く人体模型

 ・放課後の音楽室でピアノが聞こえる

 ・首をボールにするバスケ少年

 ・プールから伸びる手

 ・飛び降りる生徒

 ・死神ネット

 ・十三階段

 記憶頼りに簡潔に書いた内容を見て、首を捻った。対処法がわからない。

 口裂け女にポマードと叫ぶとか、テケテケに地獄に帰れと叫ぶとか、そういう方法は無いのか。不親切な七不思議め、と自分でも理不尽だと思うけれど一番理不尽食らってんのは紛れもなく俺だ。とりあえず、危険なのは人体模型とプールと死神ネットだろうか、とあたりをつける。人体模型は物音がした時に理科室に近寄ると追いかけられる。今奴が動いているから見つかったらアウトだろう。プールから伸びる手は文字通りに伸びた手が足を掴んで中に引き摺り込むらしい。死神ネットはPCルームで一台だけ電源がついているパソコンに、消えて欲しい相手を一分以内に打ち込むとそいつが消えるらしい。打ち込まないと自分が消える。

 ふむ、と考えた。音楽室か体育館……飛び降りる生徒は噂ではどこから見えるか分からないから探しようがない。階段もどこにあるのかわからない。

 どれも詳細がわからないし近場でいいや。そう思って体育館へ歩を進めた。

 

「ねえ、兄ちゃん。兄ちゃんは、バスケ、できる?」

 体育館についてすぐ、忽然と目の前に現れた子供に驚いて俺は一歩後ずさった。

「ねえ。バスケ、できる?」

 小首を傾げる中学年くらいの子供に慌てて俺は頷いた。

「できるよ。こう見えてバスケ部だったんだ」

「じゃあ、やろ! ボールはこれね!」

 答えた直後、彼……子供は笑顔になって、飛び跳ねた。

 それから平然とボールと言って子供は自分の頭を外して差し出した。

「っ! 体育、倉庫は開いてないの……かな? それは君の……ええと、大事なものだろう?」

 すんでで悲鳴を堪えて体育倉庫へ向かった。

 晒された首元からは何も滴らず、ただ断面があった。頭は、当然そうに瞬きを繰り返す。なんなんだよ、本当に。

 倉庫は簡単に開き、バスケットボールも中に入っていた。ボールを選ぶ振りしてすこし後悔に時間をあてた。

 これ、死ぬまでバスケとかじゃないだろうな……流石に無い、と思いたい。

「ちゃんとしたボールの方がいいだろう?」

 何事もなさそうに倉庫を出て、ボールを子供に投げた。

「うわあ、兄ちゃんすごいや! 僕、がんばっても倉庫あかないんだもん。

 ずっとボールでバスケしたかったんだ!」

 嬉しそうにドリブルする彼からはただただ無邪気さだけしか感じない。

「……やるか!」

 そう言って彼の前に立ち塞がった。

 彼は楽し気にボールをついて、……瞬間。

 子供ならではの瞬発力で俺の横をすり抜けようとした!

 …………。


 案外、早く終わった。それが正直な感想だ。

 もちろん死ぬまでバスケなんて事は無くて――でも少し安心した――。結果は引き分け。手加減は多少していたけれど、小学校のゴールは低く慣れた高さで撃つとまず入らなかった。

「楽しかったね! 兄ちゃん」

 そう言う子供は息を乱しておらず、やはり生きてはいないんだと改めて感じだ。さて、彼をどうすればいいのだろう?

「ねえ、兄ちゃん! 兄ちゃんはダンクできる?」

 楽し気にこちらを覗き込む、怪談。

 対処法なんて知らない。満足すれば成仏するのだろうか、本当に対処法があるのだろうか、無くてずっとこのままなんだろうか……?

「わかんないなー」

 不安だけはぐるぐると巡るけれど子供相手だとやはりそのような対応を無意識に行う。表情に出ないのは本当に助かる。

「やってみてよ!」

 怪談は無邪気にボールを差し出した。受けとって、だん、と床に一度打つ。

 ゴールはだいぶ低いから、俺でも届くかな。ドリブルをする。

 踏み切って、ゴールに叩き込んだ!

 大きな音を立ててボールがネットを潜り抜ける。

「どうだ!」

 そう叫んで振り向くと、そこに怪談はいなかった。

 きょろ、と辺りを見回しても見当たらない。困惑。

「すげーよ、兄ちゃん! ……ほんと、すげえ」

 彼の声がした。先程までそこにいなかった筈なのに、いつの間にか怪談は俺の隣に俯いている。

「ねえ、なんで兄ちゃんはダンクできるの? なんで僕はできないの?」

 震えた声がした。どうしようかと悩んで、なんとか言葉を吐き出した。

「今まで、ちゃんとしたボール使って無かったんだろ?

 それじゃ、ドリブルだって大変だろう。

 次からそのボール使って練習してみなよ、できるようになるさ」

 ……どうだろうか、ボールに責任転嫁しちまったけど。

 大きくなったらなとか駄目そうだし、これが一番いいと思ったのだけど。

「……ほんと? 僕も出来るようになる?」

「……今すぐ、とは言えないけど出来るようになるよ。絶対」

 ばっと顔を上げた彼にそう言って、頭を撫でた。不思議な事に彼はボールを難なく動かしていた。

 それなのに、固そうな髪の毛は俺の手をすり抜けてしまう。

「……ありがと、兄ちゃん。僕、頑張る」

「おう、頑張れ」

 にっ、と笑うと彼はそのまま跡形もなく消えてしまった。

 存外呆気なくて、けれど少し寂しく俺は暫くそこに突っ立ったままだった。

「そろそろ、行くか」

 使ったバスケットボールはそのまま片付けずに置いて、体育館を後にした。

 

 次に安全そうだと踏んだ音楽室の前に来ると、中から軽やかなピアノの音が聞こえた。跳ねるように、流れるように……あまり音楽に明るくない俺でも上手い事はわかる。邪魔せず、気づかれぬようにそっと音を立てず音楽室に入る。ここは窓に向かってピアノが置いてあるから音に気づきさえしなければ奏者が気づくことはない。こちらから奏者を眺める。長い黒髪に細い身体、小学生のものとは全く異なるからきっと教諭だったのだろう。演奏中に声をかけるのも悪いし、それに腹を立てて襲ってくるなんて事になったら最悪だ。ドアの目の前で待っていると数分も立たぬ内に演奏が止む。

 どうなるだろう、念の為扉に手をかけておく。……と彼女が動いた。

「こんばんは」

 首だけ振り向いて彼女はにこりと微笑んだ。案外、可愛らしい人で今の所敵意は見えない。俺も笑い返して丁重に尋ねた。

「こんばんは。突然入ってすいません、すてきな演奏でした。……少し聞きたいんですけど、構いませんか?」

 そう言うと彼女は快く頷いてくれた。どう切り出すか少し悩んで……結局、直接的に言うしかないだろうと思い口を開いた。

「ここに閉じ込められてしまったみたいで……、戸が開かないんです。出る方法って、わかります?」

「知ってますよ」

 あっさりとそう答えた彼女に驚いて思わず俺は一歩前に踏み出して尋ねた。

「ど……どうやってですか⁉ 教えて下さい!……さっきからおかしなことばかりで訳が分からなくて……」

「簡単ですよ。消しちゃいましょう」

 あっけらかんと彼女は言った。

「……へ?」

「倒せばいいんです。それだけには限りませんが、ね?

 あなたは知っています? ここにいる七不思議を」

 七不思議、彼女から軽く出た言葉に俺はうんざりとした。

「……やっぱり、関わるんですか? 七不思議が」

 言いたい事は全てこれに纏められた。思った事そのままが口調に出てしまったのだろうか。彼女は少し困り顔で答えた。

「そうでしょうね。ここには私たちしかいませんから」

 安易に、私たちというのが七不思議を指していると分かる。けれど、彼女は自分達を消して……倒すようにと言った。それは、いいのだろうか?

「……その、こういうとおかしいですけど、いいんですか? 倒して」

「はい。なんていうか……私たちは死にません。生きていないんですもの。だから、倒すといっても暫くしたらここに戻ります。けれどあなたは生きているんでしょう?」

 大きく俺は頷いた。彼女はくすりと笑う。

 表情豊かでまるで生きていないなんて嘘みたいだ。

「……けれど、その為には少し頑張ってほしいんです。私はこの事を理解していますが、他の皆は違うのです。死にたくなくて、生きたくて……あなたの魂を奪おうとするでしょう。

 奪われたら、死ぬ。何もしなくてま死ぬ。……どうします? 貴方は少しでも生きる可能性を追いますか?」

「もちろんです」

 間髪を入れずに俺がそう答えると、彼女は満足気に頷いた。

 心なしか、身体がふよふよと少しだけ浮いている。

「良かったです。……でも、どうすればいいかは自分で、ね? そこまで教えたら面白くないですもの」

 意地悪気な顔をする彼女に、一筋縄じゃ行くわけ無いかと少し落胆した。

 けれど、情報を貰えるだけでも、非常にありがたい。

「ありがとうございます。早速教えて頂けますか? この学校の七不思議……人体模型と、バスケする子、プールから伸びる手に、死神ネット、飛び降りる生徒、十三階段 、それからあなた……ピアノを弾く人。以上で間違いないですか?」

「間違いないです」

 彼女は大きく頷いた。それを見て俺は次の質問にうつる。

「……この中で、貴方が危険だと思うものは?」

「プールの手、それから人体模型」

 これにも間髪入れず答えてくれた彼女に次の質問をする。

「安全なのは?」

「……内緒です」

 少し考えた素振りをしてそう言った彼女に苦笑を返す。

「……ありなんですか、それ」

「攻略本片手にゲームなんて、面白くないでしょう?」

 先程見たような意地の悪い笑みを浮かべて彼女は言った。

「貴方はさしずめ攻略本だと?」

「ラスボスになりたかったなぁ」

 少しだけ的の外れた返事に俺は苦笑するしかなかった。

 それにしてもゲームだとか、攻略本だとか、現代感溢れる怪談だ。

「……十三階段はどこにありますか?」

「あら、もう貴方は十三階段を通ってきたじゃないですか」

 切り替えて質問した俺に驚いた様子でそう答えた彼女に俺も驚いた。

 階段なんて、四階にあるこの音楽室に行く為に登っただけだ。

 道中何も無かったけれど、本当にその中に怪談が混じっていたのだろうか。

「……十三階段は異世界に繋がる、と噂されていたでしょう?」

 唐突に言われた事に不思議に思いながら頷いた。

「貴方にとって、ここは異世界と言えませんか?」

「……まさか、……十三階段って!」

 衝撃。確かに、ここは俺にとって普通とは言い難い。まるで異世界だ。

 そうすると、思い当たるのは一つだけ。彼女はあっさりと場所を告げた。

「はい。職員室から一番近い、一階に向かう階段ですよ」

「……それじゃあ、今その階段をのぼったら?」

「ここの職員室前ですね。来たからには私たちを……ね?」

 そう簡単に俺を帰す気は無いらしい、ため息をついた。

「全員に会って倒すまで帰れないんですね……」

「はい!」

 楽しそうに彼女は微笑んだ。殊更可愛らしいのが少し憎い。

 その後も彼女に色々と尋ねると、曰く、体育館の彼と十三階段はあれでクリア。飛び降り生徒の居場所はランダム。そしてプールの手は一人の手しか出ないらしい、うようよと沢山の手が伸びる図を想像したから少し安心した。

「ありがとうございました。また、来ます」

「はい、いつでも」

 そう言って、音楽室の戸を閉めた。


 誰もいない廊下を考え込みながら歩く。

 死神ネットはまだ安全そうだけど、音楽室の彼女曰く、俺が知らない人でも同名がいればそいつが死ぬらしい。だから安易に挑戦はできない。危険とはいえ、いつかやらなくてはいけない人体模型とプールの手を見に行くことにした。暫く歩いた所でがたりがたり、と音が聞こえた。人体模型だ。

 ちらっとその方向を覗き込むと、ぱちり、血走った目と目が合う。

 ……しまった! 急に走り出した人体模型に慌てて逃げ出す。

 どうする、どうする、どうする⁉

 走る速度はギリギリ人並だ、全力で走って距離が保てる程度。そんなに長くは持たない。ここは三階、特別教室も少なく撒けそうな場所も思い浮かばない。怪談が見えたところで手すりを掴んで、やんちゃな生徒がやるみたいに滑り降りる。普段は叱る立場だが、緊急事態だしいいよな。

 それにしても案外難しい、実はあいつら器用だったんだなと現実逃避した頭は的外れな事を考える。後ろからはガタガタと人体模型の走る音。階段から落ちて壊れねえかななんて期待してもそんなことは無くて、滑り降りた一階でまた駆け抜ける。振り返るとだいぶ遠い場所にいるみたいで音しか聞こえなかった。別の階段でまた三階へこっそり戻る。撒けた!

 でも、あれをどうにかしなければ下へ降りるのは大変だろう。なにか無いだろうか、あれを動かなくする方法は。鉄の棒なんかで殴りたいけれど、……体育館にはあるだろうか。けれど体育館にいくにも下へ降りなければいけない。……万が一には道具なしで壊さなければならない、ゲームみたいだと言うならゲームの定石にヒントがあったりしないだろうか。

 少し悩んで思いついたのは、閉じ込めるか、壁に当てるかだ。

 けれど閉じ込めるとして、鍵が無いんじゃ閉じ込めようもないだろう。

 一か八かになるが、自ら囮になって壁に突っ込ませるのが最適だろうかと二

 階に降りた。下の方から音が聞こえるので人体模型は一階だろう。念の為遠回りして、音の遠い階段から降りた。突き当たりの壁。逃げ込む為にすぐ横の教室のドアを前後ともに開ける。振り返って気がついた。

 ……椅子って殴ったら痛いよな、というなんとも当然な事を。

 鉄の棒なんて使いやすい物ではないけれど、ここは一年生の教室、小さな椅子なんてのは簡単に振り回せる。適当な椅子を掴んで動きを確かめる。

 ……そこで、何と無く嫌な予感がして窓を見た。

 途端、落ちてくる人影。

「ちょ、待て早まるな!」

 思わず大声を出すと、それはこちらを見て厭らしく笑った。

 勿論早まっていなければ上から落ちる事はない、……響いた落下音。ベランダから外に出ようとしたが鍵が開かず、窓からどうにか覗き込む。

 ……ひどい有り様だった。明らかに折れておかしな方向に曲がった手足、流れ出る血。つい顔を見るとそれはにやりと先程の厭らしい笑みを深くしてすうっと消えてしまった。瞬きしても血すら残っていないその様子に漸く、それが七不思議の一つ、飛び降りる生徒だと気づいた。

 恐怖は感じつつも、人体模型に追われる方が恐ろしかったな、なんて思う。……そこで、聞き慣れてしまったかたりという音に気づいた。段々と近づくその音。ああ、思い切り叫んじまったから、聞こえたんだろうな。

 人体模型が廊下側の窓から見えた。

 俺を見かけてすぐに開いていたドアから急接近。

 手を伸ばされる寸前でどうにかよけて適当な椅子を掴む。

 人体模型は勢いを殺しきれずにがしゃりと音を立て、壁に当たる。そのまま動かなくなってくれるのが最も良かったのだけれど、そんなことはなくてすぐにそれは起き上がった。

 特に変わった点もなく人体模型はこちらにまた駆け出した。

 椅子をぐっと握りしめて、遠心力を使うように大きく振り回すと、当たった感触と共に大きな音がなった。

 距離を開けてから人体模型を見やると、左腕が肩の下からなくなっていてどうやら先ほどので吹っ飛ばしたようだった。

 けれど人体模型は特に気にした素振りもなく、かたりかたりと音をたてた。まるで笑っているように見えて余計気味悪く感じた。

 かたりかたり、かたかたかた。人体模型は笑うのをやめない。

「はやく、来いよ」

 そう言うものの人体模型はまだかたかたと笑い続ける。

 何の疑いも無く笑っていると思ってしまう俺もどうなんだ、と思う。

 こんな場所にいて気が狂いそうだ。

「来い、って言ってるだろ!」

 焦れて思わずそう叫んだ。

 ああ、嫌だ。教師たるもの冷静であれ……なんて俺が勝手に思ってる事だけれど、外面だけは冷静でいたいのだ。

 けれどしかし、ふつふつとどこかが煮える気がする。興奮か、怒りか、恐怖か。手近な場所にまだ幾つか椅子がある事を確認してから、手に持っていた椅子を人体模型にぶん投げた。がしゃりと嫌な音がして人体模型が倒れた、けれどそれはかたかたという笑いを止めない。苛立ちが募る。

 新たな椅子を片手に人体模型が倒れた位置に行き、その頭に椅子を振り落とした。

 二度、三度と繰り返し頭が完全に胴体から切り離された。

 かたり、とまだ聞こえてその頭に椅子を力強く叩きつける。それから、胴や足にも椅子を振り落とした。

 ばらばらになるまで! それが笑わなくなるまで!

 ふと我に返ると、足元にはばらばらになった人体模型だったもの。もう、どれも小さな破片に変わってしまい、動く気配なんてどこにもなかった。脅威だった校舎を徘徊する人体模型を壊したことによる安心感と、ほんの数刻とはいえ我を忘れて人体模型を殴り壊していた自分自身への恐怖が募る。

 気が長くはないと自負していたけれど……、改めて壊した人体模型を見て自分の一面を否が応でも知ってしまう。

 壊れた人体模型とそれから目を逸らすように教室から出た。

 

 一先ず、自分から動かない限りは怪談なんかと会うこともないだろう。それでも、人体模型のある教室から離れるように三階まで登ってから適当な教室に腰を落ち着けた。残る怪談は死神ネットとプールから伸びる手。それから音楽室の彼女もそうだろうか? 兎も角、折り返し地点は過ぎたと思うとどっと疲れが押し寄せた気になる。

 ……まあ、人体模型とあれだけ走り回ればな、と運動不足を悔やんだ。

 なんとなく慣れた教員用のデスクに突っ伏してこの先を考えた。もう二度と人体模型みたいな目は御免だ。あれ程俺を追い回した奴でも、バラバラになったあの惨状を見てざまあないなと思うよりも何をやっていたんだろうと思ってしまった。何を思っていたのかあまり覚えていないけれど腕に残る感触。気づいた時にはバラバラになっていたそれが目に焼きついた。首を振って悪い方へ巡りそうだった思考を飛ばす。

「過ぎた事より、これからだろ」

 確認するようにそう呟いて、残りの怪談について考える。音楽室の彼女についてはあまり考えなくても大丈夫だろう。問題は死神ネットとプールから伸びる手だ。死神ネットは書き込む名前を決めてしまえばいい。プールから伸びる手は彼女もあまり情報を教えてくれなかった。ただ、溺死した少年の霊だという事だけ。そこで、ふと思った。

 その手の主を死神ネットに書いたら、どうだろうと。

 一度死んでいるが、怪談は死んでほしい人ではなく消えてほしい人だ。……ありえない訳ではないよな。

 音楽室の彼女は手の持ち主の名前を知っているだろうか、それとも校内の何処かに彼を取り上げた事件の詳細とかあるんじゃないか。

 すく、と立ち上がった。とりあえず、音楽室に行こう。


 戸の前まで行くと、またピアノの演奏が聞こえた。邪魔したくなくてそうっと中に入る。どうやら終盤だったようですぐに彼女は鍵盤から指を離して振り返った。

「おかえりなさい。どうでした?」

 おかえりなさい、と微笑む彼女は怪談には見えず戸惑う。纏う雰囲気からか、どうにもこの音楽室は落ち着くのだ。

「飛び降りる生徒を見て、……人体模型を壊しました」

「あら、なら後3つですね!どうです?何か思いつきました?」

 そう報告すると、彼女は嬉しそうに手を合わせた。それで、俺は聞きたかった事を切り出した。

「はい。……それでですね、プールの手の持ち主の名前ってご存知ですか?」

「知って、どうするんですか?」

「死神ネットに消してもらいます」

 小首を傾げた彼女に俺は迷いなく答えると、彼女はほうと驚き感心したような素振りをした。

「それは名案ですね! ……けれど、ごめんなさい。私知らないんです、あの子のこと」

「……そうですか、では校内にその資料が無いか探してみます」

 眉をへなりと下げる彼女につられて俺の声も小さくなる。

 彼女なら知っているだろうと予想以上に俺は期待していたようだ。

 置いてあるとしたら職員室か図書室か……、考えているとおずおずといった様相で彼女は問いかけた。

「……私は、消さないんですか?」

 一瞬、俺は驚いて……問いかけに問いで返事した。

「消さないと俺は出られないんですよね?」

「そうですね」

 彼女がこくりと頷いたので俺は小さく笑って言った。

「そうしたら、他の二つを倒しました! と伝えてからにします。……ちなみに、貴方はどうすれば?」

 消えるんですか、とまでは言わなかったが彼女は正確に問いを捉えたのだろう。意地悪げに微笑んだ。

「……後でのお楽しみです」

「……お手柔らかにお願いしますね」

 思わず、そう言葉を返した。


 音楽室から出た後、俺は職員室で棚を漁っている。なんだかんだ言っても職員室は慣れた場所だ、……こんな状態じゃなければ。けれど、校舎の間取りも置いてあるものもまるで違わない。もし職員室にあるならばこの辺りだろうと検討を付けて年代別に纏まっているファイルから何冊か纏めて取り出した。確か十…何年か前の話だったはずだ、生徒の話をどうにか思い出す。バラバラとページを捲りプールに関係する記事を探すと、案外早く見つかった。目を通す。二波啓くんという小学二年生の男の子がプールの深い場所で足を滑らせて溺れてしまったそうだ。救助は間に合わず、死亡。この子だろうな、と確信する。手早くメモ帳に名前を書いてコンピューター室に急いだ。

 コンピューター室の小さな窓を覗くと、奥の方に一台だけ白い画面が写るパソコンがあった。手元のメモを確認する、二波啓くん。一つ頷いて気合を込めてから室内に入った。目の前の椅子に座ると、ざあっと砂嵐が走り途端画面が黒くなる。驚いてマウスを動かしても画面には何も写らない。ふと、白い字が浮かんだ。

 "我は死神、存在を司る者なり。

 此処へ辿り着いた褒賞に貴殿が願うものの存在を消そう。"

 ごくり、と唾を飲んだ。

 一分だ。……画面から入力スペースが浮き上がる。

 "望め。貴殿の思う儘。"

 かちりと、カソールが浮き上がった。

 二波、啓。あっている事を確認してエンターキーをもう一度押す。

 "二波啓。貴殿の望み、確かに聞き届けた。"

 そう画面に文字が浮かんだのを見てすぐに、

「これでは、貴殿は人を殺したのだ、と言えないではないか。つまらぬ事をして」

 と、耳元で囁かれた。慌てて振り返っても何も見えず、またかと思いながらも辺りを見回す。すると、背後からまた同じ声が聞こえた。

「けれども安心するがいい。貴殿の願いは聞き入れた、プールの怪異は消えたのだ」

 からがらと嗄れた笑い声が遠ざかるように消えていく。そしてぷつりとパソコンの電源が切れて部屋から何かが去ったような、そんな気がした。……終わったのだろうか。

 椅子から立ち上がってぐるりと周囲を見回すが、いつも通りのコンピューター室だ。ともかく、これで死神ネットとプールの手をクリアしたのだ。後は彼女……、音楽室の彼女だけだ。すぐに終わるといいけれど、と思いつつ再び音楽室へと向かった。

 

 音楽室のノブに手を掛けて、俺は何か違和感を感じた。

 少し考えて気がつく、ピアノの音が聞こえないのだ。不思議に思って音楽室に入り、俺は目を疑った。先刻まで、新しくはないけれど清潔で明るい空間だった筈なのだ。それなのに、今眼前に広がるのは暗く澱んだ音楽室。真っ先に目についたピアノには血痕が見える。床には血が水たまりになっていて、ぽたりぽたりと新たなそれが波紋を広げる。見たくはないけれどその元を辿ると、足の付け根で切り取られた身体。細い身体に綺麗な黒髪が倒錯的な何かをも与えようとする。

「お待ちしていました。おかえりなさい」

 それが音楽室の彼女の声を発して振り返る。やはりそれは彼女の顔で、嫌でも目の前にいる彼女と先刻までの音楽室の彼女が同じだと認識してしまう。

「…………あ、……の」

「うふふ、驚きました? あのね、嘘なんだ。みんなが戻って来るなんて嘘なんです。信じてくれてありがとうございます。みんなを消してくれてありがとうございます。邪魔者、みーんないなくなっちゃいましたね?」

 歌うように軽やかな口調で笑うそれ。頭が追いつかない。嘘だ。

「嘘だ……!」

「嘘? そうね、本当はあなたと入れ替わりたくて仕方なかったの、あなたが欲しくて堪らなかったの、……あなたの魂が欲しくて欲しくて」

 血で赤く染まる唇をにんまりと曲げる。さっきから理解が追いつかない俺は嘘だ、違うとしか頭が働かない。騙されていた? 彼女に? そんなの嘘だ。

「だから、頂戴? 私を生かして? ピアノもこれじゃあ弾けないの。さっきは貴方のために頑張っちゃいました、……あなたに信用してもらうために」

 それは手を俺に見せるように出した。まるで何かに押しつぶされたようにぐちゃぐちゃとしたそれ、彼女の細長く白い指とは大違いだ。

 べちゃりと、それが椅子から落ちた。腕だけでどうにか身体を持ち上げたそれが這うようにこちらに近づいてくるのを見て、俺は急いで音楽室から逃げ出した。どこに逃げればいい。それは足が無いのだからそんなに早いわけではないだろう、そう思っていたのにすぐにぺたぺたと音が聞こえてちらりと振り返った……いる。人体模型よりはまだマシだなと思うけれどそう思って気を抜いたらあっという間に追いつかれてしまいそうだ。まるでテケテケだ、そう思ってふと思い出した。大きく息を吸い込んだ。

「っ……、地獄に、帰れ!」

 テケテケの対処法だといつか教わった事、おそらく生徒か妹かに。効果があればいいのに、念じて振り返ってもそれは依然笑みを浮かべて這い近寄る。

「うふふ、無駄ですよう? 私、違いますから。……ええと、テケテケでしたっけ?」

 涼やかな声で小首を傾げる姿はこんな状況じゃなければ彼女のようだ。人体模型に追いかけられた時と同じように階段を手すりを使って滑り降りる。これで人体模型から距離を取れたけれど、それは……ごろりごろりと一気に階段を転がり落ちた。

「……マジかよ」

「マジです。だって時間かかるんだもの」

 くすりとそれは微笑んで俺の小さな呟きに返事する。とにかく降りて……上に登るのは腕だけなんだから時間かかるだろう、流石に! そう思って一気に一階まで滑り降りた。それもごろごろと転がり落ちる。それから、できる限りの速さで廊下を走り抜ける。さっきから教師としてどうなんだろうかと思うことばかりだ。ちらりと後ろを気にすると相変わらずそれが廊下に血痕を残しながら近寄る。

 そういえば彼女はラスボスになりたかったと言っていたけれど。

「ラスボスだろ、これ」

 小さく毒づくと、それは嬉しそうな声を上げた。

「本当ですか? 嬉しいです! そうしたら、もっと頑張らないといけませんね、ラスボスらしく!」

 にこやかにそう言ったのがはっきり理解できるほど弾んだ声だ。けれどこんな所で聞きたくなんてなかった! 残った気力を振り絞ってスピードを上げる。階段が見えて思った。……これで、あれが普通に登ってきたら終わりだな、と。もう体力なんて残っていない。気を抜いたら足が止まるか転ぶか、どちらにしろお仕舞だ。必死で階段を一段飛ばしで駆け上がる、登り切って後ろを見て俺は目を疑った。それが、いや……彼女が階段の終わりに立っていたからだ。先程までのおどろおどろしいものではなく、初めに会った時と同じ姿の彼女が立っている。

 どういうことだ、彼女は先程までの恐ろしいそれで、足のある状態で追いかけられるのか、逃げなければ。

 俺が何か行動を起こす前に彼女は微笑んだ。

「全クリ、って奴ですかね?おめでとうございます」

 意味がわからず首を傾げる。追いかける様子はないので少し安心した。

「ああ、理解していなさそうですね。当然かな、言っていませんから。

 ……では、改めておめでとうございます! あなたは六つの怪談を消したのち、私を振り切ってこちらとあちらを繋ぐ十三階段を抜けました! 私の消える条件は、こちらに来た人が他の怪談を消したのち、出口まで来ることです」

 ばっと振り返ると見慣れた職員室が見えた。適当に見えた階段を上ったが、十三階段だったのか。ここは。

「はじめはここに迷い込んだ方を普通に助けていたんですよ? でも一から十まで助けるのはつまらなかったから私を襲う人には怖い思いをしてもらいました。でもそれも飽きちゃって。色々な事をして楽しませて頂きました」

 手を広げてぐるりと回った彼女、心底楽しげに笑った彼女は言う。

「ラスボスみたいでした?……怖かったですか?」

 こくこくと頷くとまた彼女は笑った。

「それなら僥倖、私も満足です」

 そうしてとん、と階段を一段登って仰々しく彼女は頭を下げた。

「おかえりなさい、十三階段の向こうへ。

 おかえりなさい、貴方の世界へ」

 そう言うと彼女の体がすうっと薄れていった。

 彼女の身体が見えなくなる前に俺の視界も暗く染まる。


 暗転。

 

 

 予鈴が鳴り、教室に入るといつもと変わらない。こんな時間から元気な生徒に囲まれて、朝が来たのだと感じる。

「サヤちゃんおはよー!」

「サヤちゃん先生おはよ!」

「おはよう、先生をちゃん付けするんじゃない」

 ため息をついていつもと同じように呼び名を訂正する。

「サヤちゃんはサヤちゃんだよ。あ、ナツミちゃん?」

 生徒たちが聞いてくれないのもいつものことだ。そうして俺は、しみじみと思った。……昨夜の出来事なんて嘘のように普通だな、と。

 あの後。気がつくと俺は、校舎から追い出されたかのように昇降口の外側に凭れていた。

「どっちにしろやめなさい、女の子みたいだから」

 悪戯顔の生徒にそう言って軽く頭に手を置いた。

「えー、可愛いじゃん!」

「可愛い方がいいでしょ?」

 無邪気な顔を見るともうそれでもいいかとすら思えてくる。いや、駄目だ。一度許すとどこからか同じように呼ぶ子が増えるんだ。

 ……それから、時計を見ると最後に見た時よりもかなり時間が経っていて、日付も越えそうな時間だった。あんまり疲れて外に出た瞬間に寝てしまって見た夢だったとか、なんて馬鹿げた事を思ってみるけれど逃げるために限界まで走った足は相変わらず悲鳴をあげていた。

「先生ら可愛くなくていいんです。そんなにあだ名で呼びたいならソウヤって呼びなさい」

「やだ、可愛くないもん」

「サヤちゃんの方が可愛いよ? あ、さっちゃんとかの方がいい?」

 知人に呼ばれる渾名を伝えても悪気すらなく却下された。

 凭れていた俺の傍らにはすっかりと忘れていた鞄が置いてあり、中身を確認するとあの世界で俺が書いた筈の七不思議の内容がある紙と二波啓と書かれたメモが入っていて、やはり夢なんかではなかったと再確認した。とにかく車で自宅に帰り、恐怖だかなんだかも疲れには敵わず朝までしっかりと寝た後、休みたい、学校に行きたくないと思いつつ、仕事なのだからと嫌々ながら出勤し、今に至った。

「可愛くなくていいんだって言ってるだろ。

 ほら、もう鳴るから席つけ」

 今朝、戦々恐々と校舎に入っても散々音楽室の霊に追いかけられ、廊下に付いた筈の血痕は少しも残っていなかった。人体模型を壊した一階の端の教室にはその残骸も、投げた椅子の痕跡もなかった。体育館に置いたままだった筈のバスケットボールは見当たらなかった。職員室で他の先生がその事について話すこともなくて、やはりあそこは異次元だとか異世界だとか、そういう世界だったと何度も何度も痛感した。

 俺は非常に、そして他にない程奇妙な体験をしたんだ、と。

 チャイムが鳴った、聞きなれたチャイムの音と共に子供達がわあわあと自分の席に戻る。

 教室にいる子供達がみんな席についたのを確認して俺はいつもと同じように声を張って慣れた言葉を言う。

「朝の会はじめるぞー! ほら、起立!」

 脳裏に過る昨夜の出来事、あの非日常をずっと忘れることはないだろうが、きっともう少ししたら思い出すことは薄れ、また同じような日々が続いていくのだ。

「おはよう、早速だけど出席取ります。相田ぁー」

 そして出席を取っている中、俺は今やっと気づいたのだ。

 日常に帰ってきたのだ、と。

 

文化祭で発行した部誌の改稿作です。


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