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第九話

 別れの朝が来た。ベットから起き上がった瞬間そう思った。七日間のアルバイトも今日で終わりだ。そう考えると感慨深い物がある。

 やっと帰れるという安堵感と長谷川さんや川見さんと別れてしまうという寂しさが入り混じったような心境だ。

 スマホを見ると五時だった。目覚まし時計が鳴る前に起きてしまったようだ。僕は大きく伸びをする。そして昨夜たくさんの肉と野菜を食べて重くなったお腹を、引きずるようにベットを降りた。着替えを済ませて書庫へと向かう。

 寝起きで体温が上がりきっていない事もあり肌寒い。仄暗い洋館の中を腕を組み、震えながら歩いているうちに書庫に着いた。

 僕は書庫でいつものように作業を始めようとしてある事に気がついた。どんな本でも寄付できる団体に本を送るのだから、もう本を仕分ける必要はないのだ。だから後は残った本をダンボールに詰めるだけだ。

 僕は本をダンボールに詰めながら、これまでの徒労を思った。長谷川さんがもうちょっと調べてくれていれば、僕がこんな虚しい労働をする必要はなかった。

 だがこの洋館でのアルバイトはとても楽しい一週間だった。差し引きして大幅にプラスだと言っていいだろう。

 考えているうちに本棚から本がなくなり、僕はダンボールから少し離れた所に腰を下ろした。

 目の前にあるダンボールの山とたくさんの紙の束、ビニール袋にまとめられた本の表紙。それらを眺めてしばし達成感に浸る。

 腕時計を見ると、朝食まではまだ時間があったので、作業の時に気になっていたいくつかの本を読んで過ごした。時間があっと言う間に過ぎていく。


 朝食は残りの肉と野菜、それからみそ汁とご飯だった。昨夜とほとんど同じ食事だが、不思議と飽きなかった。だが明日も同じ食事だったらさすがに飽きるだろう。長谷川さん達はこれから先、飽きたりしないのだろうか。

「シカ肉ってまだたくさんあるんですよね。同じ物を食べていて飽きないんですか?」

「シカ肉はただ焼くだけじゃなくていろんな食べ方があるんですよ。生姜焼きにしたり、団子にしたり、カツ丼にしたり」

「シチューにするっていう食べ方もあります。川見さんが作るシカのシチューは絶品ですよ」

 川見さんと長谷川さんは丁寧に教えてくれた。さらに川見さんは続ける。

「それに友達や実家に送りますから、そんなに量は残らないですし。あ、そうだ。桜塚さんも是非お土産に持って帰ってください」

「ありがとうございます。きっと妹が喜びます」

 川見さんは優しく微笑む。その笑顔は心なし、今日の別れを惜しんでいるように思えた。なんとなく僕は、その顔を直視できなくて目線を食べ物へと滑らせた。

 僕は肉、それからご飯を口にする。そして咀嚼していると、仕事の事で話をしなければならない事があるのを思い出した。食べ物を飲みくだすと川見さんに話しかける。

「今日、川見さんの自転車を借りてもいいですか?」

「自転車ですか。何に使うんですか?」

 川見さんはきょとんとした様子で聞き返す。

「駅の近くにネットカフェがありますよね。そこで寄付の申し込み用紙をプリントアウトしたいんです。ダンボールの中に申し込み用紙を入れる必要があるので」

 僕は順序立てて要領良く説明する。昨日考えた事であるためか言葉がすらすらと出てくる。

「ああ、あの駅の裏にあるネットカフェですか。それはいつまでに済ませなければならないんですか?」

「集荷に来るのが九時なのでそれまでに。朝食後すぐに行くつもりです」

 答えながら僕は古紙回収を頼む電話をまだしていないという事に気づく。ネットカフェに行く前に電話しておいた方が良いだろう。

「はい。なるほど」

 川見さんは言いながらゆっくりと一回頷いた。どうやら腑に落ちたようだ。

「ではこの食事が終わった後、台所に来てください。そこで自転車の鍵を渡します」

「分かりました。それと長谷川さん」

「はい。なんでしょう」

 急に呼びかけられた長谷川さんは、戸惑ったように体ごとこちらを向いた。

「ネットカフェにかかる費用を出してくれませんか」

「あぁ、その事ですか。千円あれば足りますか?」

「はい」

 長谷川さんはポケットから二つ折り財布を取り出すと、千円札を一枚抜き出した。そしてそれを僕に手渡す。

「お釣りが出たら桜塚さんがもらっていいです。手数料だと思ってください」

「ありがとうございます」

 仕事の話が終わった後は、様々な話題で談笑しながらの朝食になった。楽しいひとときが流れる。


 朝食が終わった後、僕は自分のスマホで古紙回収業者へ電話した。少しやり取りをしてから、十一時に来てくれるよう頼んで電話を切った。そして約束通り台所へ行く。

 台所のドアをノックすると、中から、どうぞとくぐもった声がした。ドアを開けて僕は軽く驚いた。

 まず川見さんが椅子に座ってこちらを見ている。ここまでは普通だ。だがテーブルの上には本が広げられていた。その事が僕にとっては意外だった。川見さんも読書する人だったのか……。

「約束通り台所の鍵を借りに来ました」

 僕がそう告げると、川見さんは僕から見て左側の壁を指し示した。

「鍵ならそこの壁についている、左から二番目のフックにかけてあります」

 言い終わると川見さんは伸ばした手を引っ込める。そしてその手で肩にかかった髪をさっと掻き上げると、読書に戻った。

「ありがとうございます。借りていきます」

 僕は壁まで歩きながら、川見さんが読んでいる本をちらっと見た。文字がびっしりと書かれているので、料理の本ではないらしい。

 鍵を手に取ると、僕は川見さんに話しかけようかと逡巡する。川見さんは本にかなり集中しているようだ。

 こういう時はあまり話しかけない方がいいだろう。本に集中している時に話しかけられる事の煩わしさは経験上よく知っている。なぜか本に夢中になっている時に限って、僕を呼ぶ母さんのおかげで。

 この本の事は午後の紅茶の時にでも訊いてみよう。そう考えて僕は台所を退出した。


 外に出ると突き刺すような寒さが、コートの上から襲ってきた。朝も思った事だが、今日は昨日までより一段と寒い。

 自転車に鍵を差し込んで捻ると、カチッと金属音が森に響く。川見さんの身長に合わせられた少し低めのサドルに跨がると、僕は足でペダルを踏み込んで走り出した。

 ガラスのように澄み切った空の中。葉を落とした木の梢の間から木漏れ日が差してくる道を進んでいく。吹きつけてくる風が自転車の動きを鈍らせる。まるで抵抗する冷たい空気の塊を引き裂いているようだ。だがしばらくして駅に着く頃には体が温まり、寒さを無視できるようになっていた。

 駅に着いた僕は、近くにあった駐輪場に自転車を停めて鍵をかける。それから顔を上げて辺りを見回す。朝であるという事もあり、人通りは少ない。とりあえず僕はネットカフェを探すため、駅を一周する事にした。

 これは自転車に乗っている時に気がついた事だが、僕はネットカフェの正確な位置がよく分かっていない。長谷川さんに訊いてくる事をすっかり失念していた。駅の裏にあるという川見さんの朝食での証言と、このスマホだけが頼りだ。

 駅を回り込むと道を挟んで向かい側に、四階建ての比較的新しい灰色の建物があった。入り口には看板が掲げられている。看板を見るとネットカフェが二階にあると分かった。

 建物の階段を上がりドアを開く。するとそこには、木目調の床や壁で統一された静謐な空間が広がっていた。室内は暖房が効いていて暖かい。席は二割程埋まっている。冬休みであるためか学生が多い。

 受付で初回利用の手続きを済ませ、一番短い三十分コースを選択して席に座る。パソコンで素早く目的のページを開き、パスワードを決め印刷の準備を済ませる。パスワードを決めるのは他の人が、間違えて印刷してしまう事を防ぐためだ。

 席を立ちプリンターへと移動する。タッチパネルでパスワードを入力すると、硬貨の投入を求められた。必要な金額を投入すると印刷が始まる。印刷が終わるまで手持ち無沙汰でしばし待つ。そして出てきた紙を取って確認すると、ポケットに入れ席に引き返す。

 席に座って腕時計を見ると五分強経過している事が分かった。このまま帰ってしまうのはもったいない。時間一杯まで楽しもう。

 僕はパソコンの電源を落とすと、本棚を見に行く。漫画を読むだけの時間はない。目的は雑誌だ。僕はラックから週刊誌を取ると、席に戻る途中でドリンクコーナーに立ち寄り、紙コップにコーヒーを注ぐ。

 席に腰かけるとキーボードを立てかけると、週刊誌を広げて横にコーヒーを置いた。そして週刊誌を開いておもしろそうな記事を探し、文字列を追う事に没頭し始める。腕時計の秒針の音が流れる時間を刻んでいく。

 しばらくしてめぼしい記事を読み終わると、そろそろ三十分経とうとしている事に気づく。コーヒーを飲み干すと週刊誌をラックに入れる。受付で会計を済ませると外に出た。

 外は室内との寒暖差が激しくとても寒かった。冷気が温かい体に染み込んでくる。駐輪場で自転車に乗ると洋館へと急いだ。


 洋館に着いてまず一番に台所に行く。自転車の鍵を返すためだ。台所のドアをノックする。これは今日二回目だ。すると中から、どうぞと今日二回目の返事が来た。

 ドアを開けると川見さんは本を読んでいる所だった。だが僕を見るとそっと本を閉じた。

「遅かったですね」

「はい。雑誌を読んでいたので」

「雑誌? 買って読んだんですか?」

 川見さんは不思議に思ったのか首を傾げる。川見さんはネットカフェについて明るくないらしい。

「ネットカフェでは雑誌や漫画が時間の許す限り読み放題なんですよ」

「へぇ、そうなんですか」

 簡単に説明してから僕は自転車の鍵を胸の前に掲げる。

「自転車の鍵は元の場所に戻せばいいですか?」

「はい。左から二番目のフックに」

 僕は壁まで歩き、フックに鍵をかけた。それから頼み事を思い出し、川見さんの方を向いて軽い口調で切り出す。

「川見さん。お願いがあるんですけど」

「なんでしょう?」

 川見さんは真面目な顔で僕の言葉の続きを待つ。

「書庫にある本の表紙を処分して貰えませんか?」

「分かりました。後で燃やしておきます」

「えっ、燃やす?」

 意外な言葉に僕は思わず、敬語を忘れて聞き返していた。

「はい。この屋敷で出たゴミはすべて庭の焼却炉で燃やしています」

 確かにこんな所にまでゴミ回収車が来るとは思えない。焼却炉を使えば煙が立つはずなのに、まったく気がつかなかった。僕が日中いた書庫には、庭が見える窓がないせいもあるのだろう。

「じゃあ、燃やしておいてください」

「はい。承知しました」

 仕事の話が終わったので、僕はずっと気になっていた事を訊く。

「川見さんも読書をするんですね。それって何の本なんですか?」

「これはミステリー小説です」

 返事を聞きながら席に座る。

「へぇ、ミステリーですか。僕もミステリーはよく読みますよ」

 すると川見さんは、びっくりしたように少し仰け反る。

「えっ、そうなんですか!? 私、てっきり桜塚さんが読むのは純文学だけかと思っていました」

「えっ、どうしてそんな勘違いを?」

「ご主人様が、純文学についてのテストを面接ですると言っていたんです。だからアルバイトに来る人は純文学をよく読む方だと思ってました」

 なるほど。それで勘違いをしてしまったのか。ならその勘違いを払拭しよう。

「僕は純文学も大衆文学も専門書も満遍なく読みますよ」

「そうだったんですか。意外です」

「それでその本はなんというタイトルの本なんですか?」

 川見さんはタイトルと作家名を告げた。

「僕もその本は読んだ事がありますよ」

「本当ですか!?」

 その後はその本についての話に花を咲かせた。楽しい時間を過ごした。

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