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第七話

 僕が二匹目の獲物を見つけたのは、九個目の罠を探している時だった。僕が発見したのはイノシシだった。僕は後ろでシカを運んでいる長谷川さんを見やった。

「どうかしましたか?」

 僕の様子を不審に思ったのか、長谷川さんが尋ねてきた。

「イノシシを見つけました」

 そう言って僕は犬のようにお座りしているイノシシを指差した。

「はい、いますね」

 喜びとも落胆ともつかない微妙な声色だった。そうなるのも無理はない。二匹目の獲物を持って帰るのはとても難しいからだ。

 台車はシカが場所を占領していてイノシシを載せる余裕はない。となると一旦帰ってシカを置いてから戻ってくるしかない。そうなればお昼ご飯の時間に間に合わなくなり、ひいては仕事をする時間が短くなる。

 僕が考える限りどうやってもイノシシを持って帰る事はできないのだ。長谷川さんは一体どうするつもりなのだろう。僕は強く興味を引かれた。

「ちょっとここで待っていてください。危ないので」

 そう僕に指示すると長谷川さんは台車を僕に預けた。そして銃の安全装置のレバーを回し、イノシシに向けて構えた。

 やはり殺すつもりなのか。僕はそっと耳栓をつけながら長谷川さんの挙動を見守った。

 いや……待て。長谷川さんは耳栓をつけていない。忘れているのだろうか。指摘しようか迷っていると長谷川さんは銃を構えたまま歩き出した。

 歩いていく方向にはイノシシがいる。イノシシは長谷川さんに気がつくと、長谷川さんから離れる方向に走り出した。だが数メートル走った所で左前足にかかったワイヤーに足をとられて立ち止まり、それからジタバタと暴れて罠から逃れようとした。

 その間にも長谷川さんは歩き続け、罠へと辿り着いた。そしてしゃがみ込むと、銃の引き金にかけていた方の手を罠の上で動かし始めた。あれは何をしているのだろうと思う間もなく、イノシシがワイヤーから脱出し、脱兎のごとく逃げ出した。

 その様子を数秒ぽかんとして眺めていたが、しばらくしてからようやく僕にも事態が飲み込める。長谷川さんはイノシシを逃がしてしまったのだ。しかし一体なぜ?

「どうしてイノシシを逃がしてしまったんですか? せっかく捕まえたのに」

 僕は長谷川さんがいる所まで行き、問いかけた。

「理由はいくつかありますが、最大の理由は食べ切れないからです」

 そうか。そういう視点でこの状態を見た事はなかった。シカの体重の三分の一が食用肉になるとしても、十六キロにもなる。ステーキ一人前が二百グラムだとして考えると、八十食分だ。三人では到底食べ切れないだろう。イノシシまで狩る余裕はないというのも頷ける。しかし獲物が一匹だとしても僕達だけで食べ切れるとは思えない。余った分はどうするのだろう。

「シカ一匹だけでも僕達で食べるには多過ぎると思うんですけど余った肉はどうするんですか? 売るんですか?」

「友人に送るか、干し肉にして保存します。この辺りにシカ肉を買い取ってくれる所はありませんから」

 僕は内心驚いていた。まさか長谷川さんに友人がいたとは。いや、いても不思議はないのかもしれない。何しろ娘がいるのだから。

「理由はいくつかあるって言いましたよね。他の理由というのはなんですか?」

「私達では時間内に運び切れないという理由と自然の物を捕り過ぎるのはあまり良くないという理由です」

 長谷川さんは簡潔に答えると、罠を掘り出し始めた。

「なるほど。長谷川さんも気がついていたんですね」

 二匹運べば時間が足りなくなる事に──という言葉は省略した。

「当然です」

 その後、僕が木からワイヤーを外し、長谷川さんが罠を掘り起こすと、九個目の罠は無事、僕のリュックへと収められた。


 それから十個目の罠を回収した僕達は家路についた。道中シカを交替で運んだ。僕は時間が経つにつれ疲弊し、ふらつき始めた。だが長谷川さんは時間が経っても、足取りがしっかりしていて息一つ乱れていなかった。僕はひどく驚嘆した。この細い体のどこにそんな力が眠っているのだろう。

「長谷川さんって意外と力持ちなんですね」

 僕は褒めそやした。

「これはまだ軽い部類ですよ。桜塚さんの方こそ運動不足が過ぎるんじゃないですか。私は百キロのイノシシを運んで持って帰った事があります」

 長谷川さんは自慢気に言った。

「百キロですか! すごいです。でも百キロより重い獲物を捕まえたらどうするんですか?」

 僕は長谷川さんを困らせたくてちょっと意地悪な事を訊いた。

「運べないと判断したら逃がします」

 さらりと断言する。その言葉には重みがあった。これまでの経験に裏打ちされた重みが。

「今までもそういう事があったんですか?」

「ええ、数え切れない程。運べると思って殺した後で運べない事に気がついた事もあります」

「そういう時はどうするんですか?」

「その場で解体して食べる事ができる部分だけ持って帰り、後は放置します」

 残していった部分は自然に処理させているのだと推測した。自然に人工のごみを放置するのであれば問題になるが、自然のごみならば何も言う事はない。

「ところで今日は川見さんが獲物を解体してくれるんですよね」

 僕は念のため確認する。

「ええ、そうです。私と桜塚さんは仕事がありますから。もしかして見学したいんですか?」

 じゃあ時間を作って見学しましょうと言いかねない様子だったので急いで否定する。

「まさか。そんな気はありません。むしろ逆です。見たくないんです。血や内臓なんかが苦手で」

「でもさっきは血抜きをしていましたよね」

 痛い所をつかれた。予想外の出来事に僕は慌てる。

「それはその……急いでと言われたので夢中になって……」

「つまり克服できたという事なのでは?」

 長谷川さんは追及の手を緩めようとしない。僕はそのしつこさに疑問を感じながら、諦めて負けを認めた。

「はい。そうかもしれません。でも見学はしませんよ。仕事がありますから」

 すると長谷川さんは安心したように息を一つ吐いた。

「それを聞いてほっとしました。今日はレバーを食べられないのかと思いました」

 そうか。僕が内臓を見るのが苦手だとそれに配慮してレバーを食べる事ができなくなってしまうのだ。それが嫌で本当は大丈夫なんじゃないかと質問してきたのだ。

「切ってある内臓ならば元から平気です。というか僕もレバーは好きです」

「そうだったんですか。シカのレバーはおいしいですから楽しみにしておいてください」

「はい。楽しみです」

 その後は特に会話もなく、ただ黙って歩いた。


 ようやく洋館の黒い屋根が見えてきて、僕は帰ってきたのだと実感する。その時シカは僕が運んでいた。洋館の近くまで来たという安堵感で気が緩み、石につまづいてしまった。慌てて体勢を立て直す。

 玄関の入り口で台車を止め、長谷川さんがシカを首の後ろと肩で担いだ。シカが重たいのか長谷川さんは辛そうだ。そしてそのまま洋館の中へと入る。

「ただいま」

 僕は僕達が帰ってきた事を川見さんに知らせ、呼ぶために大きな声で挨拶した。

 すぐに台所から川見さんが飛び出してくる。そして長谷川さんが担いでいる物を見るなり目を輝かせた。

「お帰りなさいませ。ご主人様、桜塚さん。シカを捕まえたんですね」

「はい。台所まで運べばいいですか?」

 長谷川さんが辛そうな声で問う。

「そうです。ついてきてください」

 川見さんは台所へと入る。長谷川さんと僕もそれに続く。台所に入るのは初めてだ。これから川見さんの仕事場に入るのだと思うとなぜだか少し緊張した。川見さんも僕の仕事場に入る時、同じような気分になっているのだろうか。

 台所は良く整理整頓されていた。入り口から見て右側にはコンロや流し場などの調理器具があり、奥には冷蔵庫と食器棚がある。真ん中には大きめのテーブル、左側には棚があり、細々とした物が並んでいた。

「この新聞紙の上に置いてください」

 テーブルの上には新聞紙が敷かれていた。ここにシカを置いて欲しいのだろう。長谷川さんはそこまで歩いていくと、シカを下ろした。

「それでは水筒をお預かりします。ご主人様達は先に食堂に行って、待っていてください。私も洗い終わったら向かいます」

「いえ。私達は道具を片づけなければいけないので、私達の方が遅れると思います」

「分かりました。食堂で待っています」

 僕と長谷川さんは川見さんに水筒を手渡した。二つの水筒を受け取った川見さんは流し場へと向かった。僕達は川見さんに背を向け、台所を出た。

 歩きながら腕時計を見ると、十二時五分前だった。僕達はいい匂いのする食堂を通り抜け、庭の物置に着いた。

 僕達はリュックのファスナーを開くと、罠を物置に並べて置く。最後にリュックを置くと、二階の書斎に移動した。

 書斎に着くと部屋の前で、ここで待っていてくださいと指示された。そして長谷川さんは部屋に入り、そっとドアが閉められた。

 僕は部屋の前で待機している間に、その意図に気づいた。銃とナイフは凶器になり得る。だからその隠し場所や開け方を知られる訳にはいかないのだろう。

 しばらく待っていると長谷川さんが出てきた。

「終わりましたよ。さぁ、食堂に向かいましょう」

 階段を降りている時に再度時計を見ると、十二時を少し過ぎた所だった。川見さんはもう席に着いているだろうなと思ってドアを開けると、果たしてその通りだった。

 僕達も座り、「いただきます」と斉唱すると昼食を食べ始めた。昼食はあさりとキャベツのスパゲッティだった。三人で談笑しながら、スパゲッティを味わう。

 そして二十分後、僕達は書庫にいた。

「それでは始めましょうか」

 と長谷川さんが言って作業が始まった。

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