第五話
十五時に川見さんが梯子を伝って降りてきた。休憩の時間になったんだと僕は反射的に感じた。三回も同じ経験をしたのでそう感じるのは不思議な事ではない。
「二階のテーブルに紅茶とお菓子を用意しましたよ。休憩しませんか?」
僕の予想通り川見さんは提案した。
長谷川さんは目線を川見さんから僕へと移した。休憩のタイミングは僕に任せるという意思表示だろう。
「はい、休憩を取りましょう。温かい紅茶が冷たくなっては台なしですから」
僕達は長谷川さん、僕、川見さんの順で梯子を登った。そうしたのは川見さんがスカートを履いていた事への配慮からだ。
梯子を登った僕達はテーブルを囲んだ。テーブルは円形で、椅子は四つあったので僕達全員が座る事ができた。
テーブルには三つのティーカップとティーポット、ジャムの瓶とスプーンがあり、真ん中のお皿には楕円形のパンが二つ重なったようなお菓子らしき物がたくさん置かれていた。
「これは何というお菓子なんですか?」
僕はテーブルの真ん中を指差し訊いた。
「これはスコーンというイギリスのお菓子です。そのまま食べるのではなく、ジャムなどを塗って食べるんですよ」
川見さんは説明しながらティーカップに紅茶を注ぐ。そして一つを僕の前に、もう一つを長谷川さんの前へと置く。
僕はスコーンを一つ手に取ってみた。スコーンはほんのりと温かい。僕はスコーンを両手で握り、ちぎってみる。スコーンは二つの楕円形に分解された。
そのうちの一つを口に放り込む。ジャムはあえてつけなかった。ジャムの有無での味の違いを知りたかったからだ。スコーンは少しパサついていて、もっさりとした食感でパンに近かった。
次にジャムを塗ってみた。用意されていたのはイチゴジャムだった。そして食べる。味がついて程良い甘さになった。紅茶を飲むとさらに味が変化した。
「これ、すごくおいしいです。スコーンとジャムと紅茶を合わせると絶妙な味になります」
僕はこんなにおいしい物を食べても味を上手く言い表せないもどかしさを感じた。
「そうですか。喜んで貰えて良かった」
川見さんは安堵の笑みを浮かべる。
「これも川見さんが作ったんですか?」
「はい、その通りです。その、毎回質問されるのが面倒なので言いますけど……」
僕は川見さんの言葉に興味を引かれ、黙って続きを待つ。
「この屋敷の食べ物はすべて手作りです」
「本当ですか?」
僕はびっくりして、気の抜けた声を出してしまった。
「はい。ご主人様は手作りの食べ物しか食べませんから。そうですよね。ご主人様」
川見さんは長谷川さんに目線を投げかける。
「ええ、そうです。手作りの食べ物でないと体が受けつけなくなってしまって」
「それは大変ですね」
僕は相槌を打ちながら自分の家の事を考えていた。僕の家では食事はほとんど母さんか妹が作る。だがお菓子はさすがに手作りする事はない。大抵は市販のお菓子を食べる。その違いに川見さんの料理の技量の高さが伺える。
「最近の食べ物はほら、甘味料や保存料といった添加物が入っているでしょう。あれが駄目なんです」
話した事で嫌悪感を思い出してしまったのか長谷川さんは顔をしかめる。そして続ける。
「ああいう物を食べたら体にどんな影響があるか分かりませんし、味もおいしくないですから食べないようにしているんです」
「なるほど」
表面上の言葉とは裏腹に僕は複雑な気分だった。体に悪影響があるかもしれないという点には納得したが、味がおいしくないという点については賛成できなかった。僕がこれまで食べてきたスナック菓子はおいしい物が多かったからだ。そう思うのは僕の舌が肥えていないせいだろうか。
それからも、話をしながらスコーンを食べ続け、山のようにあったスコーンはすべてなくなってしまった。量としては多過ぎず、少な過ぎず、おやつとしてちょうど良かった。
休憩が終わると、川見さんは食器をお盆に載せて去っていった。腕時計を見ると、休憩を取り始めてから三十分弱経過している事が分かった。午後のティータイムで英気を養った僕達は、勢い込んで仕事に取りかかった。
その後も仕事は順調に進み、夕食の時刻になった。夕食を食べた後、長谷川さんと別れ、一人で仕事をした。なぜなら仕事を手伝ってくれるのは昼食から夕食までと取り決めてあったからだ。
長谷川さんは良く働いてくれ、午前中仕事をしなかった分の遅れは十分に取り返せた。三時間程、仕事をした後、いつものように寝る前の準備をして床に就いた。
横になると午前中、運動していた事もあり、強烈な睡魔に襲われた。完全に眠ってしまう前に、僕は明日の予定について考えた。
明日も今日と同じように狩猟を手伝う事になっている。長谷川さんは明日、罠にかかった獲物を殺すと言っていた。僕はそんなグロテスクな場面を見て耐えられるのだろうか。吐いたりしてしまうのではないかと不安になった所で──僕は眠りについた。
僕は朝、スマホの目覚ましで起きた。画面をタップして目覚ましを止める。そしてうとうとしたまま、仰向けの状態から寝返りを打って横になった。
横になると視界に窓の外が入ってきた。この角部屋には二つの窓があり、それぞれドアから見ると真正面と右側にある。真正面の窓からは庭が見えるが、右側の窓からは木しか見えないので特に注意を払った事がなかった。今見ているのはその右側の窓だ。
その窓からはたくさんの木と雲一つなく晴れ渡った空が見える。どうやら今日の狩猟に雨の心配は必要ないようだ。
しばらく眺めていると、つがいの鳥が現れて、木の上すれすれを飛んでいく。僕はそれを無意識のうちに目で追っていた。黒い鳥の体はだんだん小さくなっていき、二つの点になり、やがて消えた。僕はそれをきっかけに起き上がった。
仕事をしてから食堂に向かうと一番乗りだった。来るのが早過ぎたようだ。僕は誰もいない食堂の何も置かれていないテーブルの席に座った。こんな事は初めての事だ。やっぱりもう少し仕事をしてから出直そうかと思い、立ち上がりかける。
「桜塚さん、もう来ていたんですか」
僕は声が聞こえた広間につながるドアの方に目をやった。そこでは川見さんが、迷い込んできた子猫でも見るかのような好奇の目で僕を見つめていた。
「間違えて早く来てしまったみたいで、出直そうかと思っていた所です」
僕の説明を聞いて川見さんは合点がいったようだ。
「そうですか。もうすぐ料理ができるので待っていてください」
「分かりました」
しばらくすると長谷川さんがやってきた。僕の斜め向かいに腰を下ろすと手に持っていた新聞を広げる。それを見て僕は不思議に思う。こんな場所にも新聞が届くのだろうか。僕はそれを訊いてみる事にした。まずは挨拶から入る。
「おはようございます」
長谷川さんは新聞から目を離すと、僕を見据えた。
「おはようございます」
「長谷川さんが新聞を読んでいる所を初めて見ました。ここでも新聞を取っているんですね」
「いえ、違いますよ」
「え?」
僕は思わず聞き返す。長谷川さんは新聞に目線を戻して続ける。
「こんな所まで新聞を配達させるのは気の毒ですから新聞は取っていません。ただ世情に疎くなるのは避けたいので、週に一度川見さんに新聞を買ってきて貰っているんです」
長谷川さんが新聞のページをめくる。どうやら喋りながら新聞を読んでいたようだ。器用だなと僕は感じた。
「新聞を買ってくるって駅で買っているんですか?」
「ええ、そうです」
ここから森を出るまで二キロ、出てから駅まで一キロある。時速四キロで歩くと仮定すると、往復に一時間半もかかる計算になる。それだけの距離を歩いてから料理をするというのはさぞかし大変だろうと僕は察した。
「そんなにたくさん歩いて、朝ご飯も作るなんて川見さんはすごいですね」
考えていた事が素直に口をついて出る。
「いえ、違いますよ」
「え?」
僕はまたも聞き返す。
「歩きではなく自転車で行っているんです」
なるほど。それならあまり時間はかからない。時速十五キロで走るとすると往復で二十四分位だろう。
「この洋館に自転車なんてありましたっけ?」
「普段は洋館の西側の壁に立てかけてあるんです」
朝食のお盆を持って入ってきていた川見さんが、長谷川さんに代わって答える。
そういえばここに来てから、洋館の西側を一度も見ていない。初めてここを訪れた時は洋館の東側から来て、狩猟に出かけた時はまっすぐ南側に向かったからだ。自転車を発見できなかった事ももっともな事だ。
と考えているうちに川見さんが全員分のお盆を配り終わり、僕の隣に座った。
「いただきます」
と全員で言って食べ始めた。
朝ご飯はご飯類がメインの時とパン類がメインの時がある。今日はパン類がメインのようだった。
トーストに昨日スコーンを食べる時に使ったイチゴジャムを塗って、クラムチャウダーと一緒に食べる。当然のように美味だった。
「すごくおいしいです。このスープ」
「そうですか。ありがとうございます」
ふと昨日の言葉が頭に蘇り、尋ねる。
「この屋敷の食べ物はすべて手作りですって言ってましたけど、この食パンもそうなんですか?」
「ええ、そうです。後、ジャムもイチゴから手作りしています。ご主人様が市販の物は駄目だと言うので」
「すごいですね」
僕は感嘆した。食パンを手作りする方法なんて僕には想像もつかない。
「ところで今日バーベキューですよね」
川見さんが嬉しそうに話し始める。それ程バーベキューが好きなのだろう。
「ええ、獲物が見つかればですけどね」
長谷川さんもやや楽しそうに相槌を打つ。
「どこでやりましょうか。やっぱり庭ですか」
「ええ、今日は天気もいいですし、庭にしましょう」
「分かりました。バーベキューの準備をしておきます」
バーベキューの準備とは恐らく野菜を切っておいたり、コンロを用意しておいたりする事だろう。
「それでもし獲物が捕れなかったらどうしましょう」
「うーん、そうですね……」
長谷川さんは目を閉じて考え込む。そしてぱっと目を開ける。
「その時は肉抜きでバーベキューをしましょう」
長谷川さんは茶目っ気たっぷりに言った。僕と川見さんは冗談に気づくとくすりと笑った。