第三話
朝、スマホの目覚ましの音で起きた。昨夜、目覚ましを六時にセットしたので今はその時間のはずだと半分眠った頭で考える。そのままうつらうつらとしていると、外の景色を見ようと思っていた事をふと思い出し、窓に駆け寄る。
窓からは庭を見渡せた。家の両側から塀が伸びており、それが庭を囲んでいた。広さは四十分程散歩できる位あった。庭にはたくさんの植物があり、よく手入れされているようだった。庭の真ん中の辺りには池もあった。池の中には魚影がちらちら見える。恐らく鯉か何かを飼っているのだろう。
僕はしばしの間窓の外を見つめてぼんやりとしていたが、やがて仕事がある事に思い至った。僕は急いで着替えると、書庫へと向かった。
それは十五時頃の事だった。書庫のドアを四回ノックする音がした。その音を聞いて、川見さんかなと僕は思った。その思いは川見さんの顔を見る事で確信へと変わった。
何か用事ですかと言いかけて、昨日の約束を思い出す。確か午後に紅茶とお菓子を持ってくると言っていた。
川見さんが読書用のテーブルにお盆を置くと、お盆に載せられた食べ物が見えた。紅茶が入った二つのティーカップとティーポット、そしてお皿に載せられたビスケット。どれも良い香りを放っていた。
川見さんはにっこりと笑った。
「お茶が入りましたよ。休憩しませんか?」
「いいですね」
丁度仕事が一段落した所だった。僕はそのタイミングの良さに舌を巻いた。川見さんが僕の仕事を覗いていたのでは、と疑ってしまう程に。
僕は席に着くとビスケットに手を伸ばした。手に持つとビスケットはほんのりと温かい。もしかしてと思い、僕は尋ねる。
「このビスケット、川見さんの手作りなんですか?」
「ええ、その通りです」
僕はちょっぴり感動した。女の子に手作りのお菓子を食べさせて貰うのは初めてだったからだ。と考えかけて、去年のバレンタインに妹から失敗作のチョコレートを貰った経験があるのを思い出す。だが家族から貰った物を含まなければこれが初めてだ。
「すごく嬉しいです。いただきます」
僕はビスケットをかじった。そして一噛み一噛みよく味わう。僕がそうしたのは手作りの食べ物を貰ったら、味の感想を言うのは義務であると考えたからだ。
「味はどうですか?」
「とてもおいしいです。最初に噛んだ時はサクッとしているんですけど、途中から口の中にふわっと甘さが広がる感じで」
「お口に合ったようで良かった」
川見さんは安心したようにほっと一息ついた。川見さんは続けて言った。
「今度は食べた後に紅茶を飲んでみてください」
僕はその通りにしてみた。するとまた違った味わいになった。
「すごい。味が変わりました」
「そうでしょう。紅茶とビスケットは相性が良いんです」
自慢気に言って川見さんは紅茶を飲んだ。
その時、僕は違和感を覚えた。食事の時の雰囲気と今の雰囲気の違いに。どうしてだろうと思い、その疑問を川見さんにぶつけてみた。
「食事中は喋らないのに、今は喋ってもいいんですか?」
川見さんは指摘されて今初めてその事を意識したかのような表情になった後、語り出した。
「この屋敷に食事中喋ってはいけないなどというルールはありませんよ」
「え?」
僕は思わず聞き返していた。
「ご主人様は寡黙な方で、特に食事中は一切喋りません。なので私もそれにつられて喋らなくなってしまっただけです。桜塚さんも喋らないので、ご主人様と同じように食事中に喋るのが苦手な方なのだろうと思っていたんです。今日お菓子が手作りかどうかを聞かれるまでは。不快な思いをさせてしまったのなら謝ります」
「なるほど。そういう事情があったんですか」
僕の疑問は氷解した。
「正直に言うと、おいしい物を食べているのに、おいしいと言えないというのは心苦しいと感じていたんです」
僕は心中を吐露した。
「そうですか。それはすみませんでした」
「川見さんが謝る事はありませんよ。ただ不幸な行き違いがあっただけなんですから」
その後はただたわいもない話をして過ごした。何を話したのかは覚えていない。きっとたいした話ではなかったのだろう。
ただその時から僕が食事中に黙っている事はなくなった。仕事のついての話をしたり、料理がおいしいと褒めちぎったりした。それに対して川見さんが受け答えをして、長谷川さんは主に黙って聞いていた。
そうして日が流れた。
僕がその提案を受けたのは、五日目の朝の事だった。
僕は洋館での生活にすっかり慣れていた。いつも通り六時に目を覚まし、川見さんが洗濯してくれた服に手早く着替えると、窓の外には目もくれずに、書庫へと向かった。
良い景色は三日で飽きると誰かが言っていた。その通りだと僕は思う。事実、来たばかりの時はよく見ていた窓の外を僕はほとんど見なくなっていた。景色の中に動く物があまりないというのもその傾向に拍車をかけていた。
こうなると分かっていれば僕は、食堂にも書庫にも近い西館に寝室を取っていただろう。いや、今からでも変えられないだろうか。
などと考えているうちに、書庫へと着いた。そこで一時間程仕事をし、その足で食堂へと向かった。
食堂には給仕のために忙しなく動き回る川見さんと席に座って食事を待つ長谷川さんがいた。
「おはようございます」
と僕が挨拶をすると、
「おはようございます。気持ちのいい朝ですね」
「おはようございます」
と挨拶が返ってきた。
長谷川さんの方は何か言いたげな顔をしていた。僕はその表情を見て叱られるのではないか──もちろんやましい事は何もしていないが──と感じ身構えた。
そして僕はその提案を受けたのだった。
「今日と明日、私と一緒に狩猟に行きませんか?」
厳しい言葉を予想していたのでこの質問はとても意外な物だった。
「狩猟ですか」
僕は間の抜けた声を出す。
「ええ。最近狩猟をする若い人が減っているでしょう。ちょうど今は猟期ですから、この機会に狩猟を楽しんで欲しいと思いまして」
なるほど、本当の狙いはこれだったのかと僕は思った。アルバイトという名目で若者を呼び出し、狩猟をさせ、あわよくば自分の後継者に。狩猟の世界は人手不足が深刻で、農作物への被害も多いと聞いている。だからといってこんな騙すような事をするなんて。
「仕事はどうしたらいいんでしょうか。狩猟に行ったら、恐らく間に合わなくなります」
僕は必死に抵抗を試みる。
「うーん、仕事ですか……」
長谷川さんはこめかみに手を当て、真剣な表情で考え込む。
それがあまりにも真剣なので、やはりさっきの考えは間違いで、狩猟に行くというのは急に思いついた事なのではないかと思ってしまった。いや、もしかしたら演技かもしれない。用心しなければ。
そこまで思考を巡らせた所で長谷川さんがようやく口を開く。
「ではこうしましょう。午前中、私の狩猟を手伝っていただければ、昼食から夕食までの間、私が桜塚さんの仕事を手伝います」
なるほどそうすれば何も問題はなくなる。何とか断る理由が見つからないかと考えたが、焦っているためか何も思い浮かばない。
「どうでしょうか」
と長谷川さんがたたみかけてくる。
僕は渋々頷いた。
「ほっ、良かった。これで決まりですね」
長谷川さんは安心したように笑みを浮かべる。
「という事は、明日の夜はバーベキューですか?」
と川見さんが嬉々として尋ねる。
「獲物が手に入ればそうなります」
「やった! 私、準備しておきます」
川見さんは無邪気に喜んだ。僕はその笑みを皮肉な思いで見つめていた。
「捕らぬ狸の皮算用という言葉もありますし、準備するのは帰ってきてからでいいです」
「はい、分かりました」
「それでは食事を取ってから行きましょうか、桜塚さん」
「はい」
狩猟用の道具は庭を少し進んだ所の物置にあった。二階から庭を見た時には気がつかなかったので、恐らく木で隠れて死角になっていたのだろう。
長谷川さんと共に物置を覗き込むと、雑多な道具が置かれたり、並べられたり、立てかけられたりしていた。中にはどう工夫しても狩猟には使えないと思われる物があったりするので、狩猟とは関係のない物もしまわれているようだ。
僕はまずゴム手袋を手渡された。
「作業はすべてこのゴム手袋をつけて行います。獣は人間の匂いを嫌いますから」
「そうですか」
僕はゴム手袋をはめた。肌にぴったりと吸いついてくるような感触だった。
次に僕ははちまきを長谷川さんから受け取る。
「先程と同じ理由で作業ははちまきをつけて、汗が垂れないようにして行います」
長谷川さんははちまきを結ぶ。僕も真似て結んでみる。鏡がないので何とも言えないが、なかなか上手く結べたのではないだろうか。と思っていたら長谷川さんの手が伸びてきて、はちまきをきつく結び直した。
「これ位きつく結ばないと意味がありませんよ」
そしてシャベルを渡された。長さは地面から僕の腰位まであり、足をかける所があった。この道具についての説明は一切なかった。
長谷川さんは二つのリュックに、ワイヤーが巻かれた、網がかかった筒を五個ずつ入れた。そのリュックの一つを僕に差し出し、もう一つを自分で背負った。僕もリュックを背負う。
「それでは川見さんに水筒を貰ってから行きましょうか」
「はい」
食堂では川見さんが水筒を用意して待っていた。僕達は水筒を受け取り、リュック脇のポケットに差し込んだ。
「中身はなんですか?」
と僕が尋ねると、
「麦茶です」
と返事が返ってきた。
スポーツドリンクの方が嬉しかったが、この洋館にそんな物はないのだろう。僕は少し残念に思った。
「それでは行ってきます。昼食までには帰ります」
僕も長谷川さんに合わせて、
「行ってきます」
とぶっきらぼうに言った。あまりやりたくない事をやらされる苛立ちを込めて。そして二人で食堂を後にした。
すると背後から元気な声が響いてきた。
「行ってらっしゃいませ。ご主人様、桜塚さん」
お辞儀をしながら言っているのであろうその声を聞きながら、僕達は洋館を出発した。