第十話
呼び鈴が押される音がした。
「集荷に来た方でしょうか。ちょっと見てきますね」
川見さんは席を立って台所の出口へと歩き出す。それを見て、僕は慌てて立ち上がった。
「待ってください。僕も行きます。僕が呼んだんですから僕もいた方がいいでしょう?」
川見さんは立ち止まり、首を傾げて思案顔になる。
「そうかもしれませんね。では一緒に行きましょうか」
僕と川見さんは連れ立って台所を出て、一緒に玄関に着いた。
川見さんがドアを開けると制服を着ている男性が一人いた。
手短に自己紹介を済ませる。その男性は松崎と言った。それから仕事の話に移る。
「回収して貰いたい荷物は、この洋館の書庫にあります」
と僕は発言する。
「家の中にまで入る事は規則で禁じられています。外まで荷物を運んでくる事は可能ですか?」と松崎さん。
「はい、できます。ちょっと待っていてください」
そう伝え、僕は書庫へと向かう。すると川見さんもついてくる。
「私も手伝います。何をすればいいですか?」
「ガムテープを持ってきてダンボールに貼ってください。僕が運びます」
「分かりました」
川見さんがガムテープを持ってくるのを書庫で待つ間に、忘れずにプリントした申し込み用紙をダンボールの中に入れておいた。
川見さんがやってきてガムテープを貼り始める。そして僕がダンボールを外まで運ぶ。するとそれを松崎さんがトラックまで運ぶという流れ作業が繰り返された。
程なくしてその作業は終わり、松崎さんはトラックに乗って帰っていった。
時間ができた僕は川見さんとの本の話を再開しようと思ったが、川見さんは買い物をすると言って出かけてしまった。川見さんは土曜日の朝は必ず買い物に行くらしい。
それで僕は完全にやる事がなくなった。本を読む事はもうできないし、荷造りはもう済ませてある。少し考えた後、庭の散歩をしようと決めた。広い庭を一周して、魚を観察するだけでかなりの暇つぶしになるだろう。僕は許可を得るため、長谷川さんの書斎に向かう。
書斎のドアをノックする。どうぞと声が聞こえてからドアを開けた。
長谷川さんは椅子に座って、顔だけでこちらを見ていた。その前にある机には鉛筆と原稿用紙が置いてある。何か書いていたようだ。
「あの……お願いがあるんですけど」
「はい、なんでしょう」
長谷川さんは愛想よく応じてくれた。
「庭に行っても構いませんか? 一度、散歩してみたいんです」
「もちろん構いませんよ。自慢の庭です。好きなだけ散歩してください」
長谷川さんは誇らしげに僕の頼みを聞き入れた。長谷川さんは庭を相当気に入っているらしい。後で感想を訊かれそうだから、何か考えておいた方がいいだろう。
「ありがとうございます。早速散歩してきます」
そう礼を言って部屋を去りかけた僕の背中に、付け足すように声がかけられた。
「あ、物置に鯉の餌があります。あげたかったら、あげてもいいですよ」
あの魚影はやはり鯉だったのか。そんな小さい驚きと共に、僕は書斎を退出した。
コートを着てから食堂を通り抜けて庭に出た。出てすぐの所はまったく植物が生えていない空間が広がっている。昨日バーベキューをした所だ。
奥には森があるので、僕はよく見るために近づいた。森は様々な高さの木や草があり、それが密集して壁のようになっている。それはまるで自然が一丸となって、僕の侵入を拒んでいるようだった。
確か入り口があったはずだと思いながら見回すと、左端と右端、塀の近くにアーチを見つけた。左端のアーチは入ってすぐに物置があるので長谷川さんと一緒に何回か通った事がある。だから今回は右端のアーチを使おうと決め、歩き出した。
アーチに着き、中を覗き込むと植物園のような光景が目に入ってきた。まず頭上の白いアーチには何本かのツタが絡みついている。その下の道は舗装されておらず、少し進んだ所で二手に分かれていた。そして道の両脇にはたくさんの種類の植物が所狭しとばかりに生えている。背の高い木の中には道に覆い被さってきて天然の屋根のようになっている物もあった。
アーチをくぐって森に入り、分かれ道で止まった。立ったままゆっくりと深呼吸をする。それから頭上を見た。太陽の光を存分に受けて茂っている木の梢と葉。それらが青空に映えて美しい。充分に観賞してから、視線を下げた。その瞬間、思い出したかのように一陣の風が吹いた。揺られた葉が優しい音を立てる。
僕は分かれ道のどちらに進むか思案した。まずは池を目指そう。池は庭の真ん中にあったはずだから左に行くべきだ。そう考えて僕は左に進んだ。
庭は迷路のようになっていた。少し進む毎に分かれ道がある。さらに植物で囲まれていて周囲や洋館が見えないため、ともすれば方向感覚を失いそうになる。庭はかなり広いので迷子になってしまいそうだ。
しばらく歩くうちに開けた場所に出た。真ん中には石で囲まれた池があり、中では鯉が泳いでいる。
座り込み、鯉を眺めながらしばしの休憩を取る。池に着いたのだから大体、迷路の三分の一を攻略したのだろう。この庭は塀に囲まれているので、残り三分の二を攻略すれば塀に突き当たるはずだ。
僕は斜め上を見回して、洋館の位置を確認した。森に入ると見えなくなってしまうからだ。そして僕は洋館とは反対の方向を向いて、立ち上がった。
奥に行けば行く程、森は意地悪になっていった。方向感覚を失い、池に戻される事三回。迷っているうちに段々、道が分かってきた。それに特徴的な植物の位置を覚えた。
池を出発する前に僕は、洋館の位置と腕時計を確かめた。古紙回収が来る時間が迫っている。時間的にこれが最後の挑戦になるだろう。次に池に戻されたら諦めよう。そう決心し、僕は森の中に入っていった。
鬱蒼とした森を進んでいく。分かれ道に差しかかる度、経験を頼りに道を選んだ。次第に見慣れない道が多くなってくる。
そろそろどこかに出てもいい頃だと思いながら道を曲がると、果たしてアーチのかかった出口があった。出口の先は光が満ちている。僕はやっと迷路を攻略し終え、マラソンを走りきったような達成感を感じた。
アーチを通り抜けると、そこは鮮やかな花園だった。奥にはレンガでできた花壇がたくさんあり、そこではたくさんの花が咲き誇っている。花壇の中心には葉を落とした一本の見事な木があり、庭のシンボルになっていた。
目の前の景色にはっと息を呑んだ。洋館の二階から見た時は、花なんて見えなかった。だからここは恐らく木の陰に隠れていたのだろう。いい所だなと僕は思った。迷路を突破した人だけが見る事ができる秘境だ。
僕は花壇へと進んだ。そこには花の甘い香りが満ちていて、僕の鼻腔をくすぐった。一辺が一メートル程の正方形の花壇が、見た所三十個位ある。花は数種類あり、それぞれ同じ種類が隣り合わせにならないように配置されている。
僕は季節外れの蝶になったかのように花から花へと渡り歩いた。そして花に辿り着くと、蜜を吸う代わりに観察して、香りを嗅いだ。どれも美しくて良い香りだった。
傍から見れば奇妙な事をしているという自覚はあるが、ここで人目に付く心配はないだろう。たとえ洋館の二階から望遠鏡を使ったとしても、木の陰になってここは見えないのだから。
一通り花を堪能すると、ふと時間の確認を忘れている事に気づいた。僕は腕時計を見て、そろそろ帰った方が良いだろうと判断した。もっとここにいたかったが、時間なので仕方ない。
長谷川さんはこの洋館を売りに出すと語っていた。なので残念だがもう二度とここに来る事はできない。僕は花園を惜しむように一目見ると、アーチをくぐった。
洋館に帰った僕は古紙回収が来た時のために、古紙を書庫から外に運び出していた。また集荷が来てから外に運ぶのは、非効率的だからだ。
すると自転車に乗った川見さんがやってきた。僕は作業の手を止め、近づいてくる川見さんを見つめた。川見さんは玄関前を通って、一度洋館の脇に行き自転車を止めると、また玄関前に戻ってきた。
僕は買い物袋を手に提げた川見さんに、何と声をかけたものか悩んだ。「お帰りなさい」はおかしいし、「こんにちは」もちょっと変だ。
逡巡していると、川見さんが先に話しかけてくる。
「手伝いましょうか?」
控えめな声で協力を申し出てきた。
「いえ、もうすぐ終わるので大丈夫です。昼食も近いですし、川見さんは料理の準備をしていてください」
「分かりました。それと、桜塚さんは昼食は食べていきますか?」
「はい。食べてから帰ります」
古紙回収の集荷が来るのを待ってから、昼食を食べて帰る。それが今日の予定だ。
「なら昼食は三人分必要なんですね。承知しました。後、これからちょっと忙しくなるので、集荷の方への応対は桜塚さんに任せてもいいですか?」
僕は少し間を置いた後、返事をする。
「はい」
「ではお任せします」
川見さんは安心したような微笑みを浮かべると、僕の横を通り過ぎ洋館へと入った。
それから十分程で古紙をすべて運び終えた。僕は疲労した手足をほぐすように伸びをした。するとちょうどその時、トラックが森から現れた。
僕は降りてきた運転手と少し話した後、共に古紙をトラックに運び込んだ。しばらくしてから運転手は、古紙がたんまり積まれたトラックに乗って帰っていった。
古紙回収業者が帰ると、僕は再び暇になった。だが僕は暇ができたらやりたい事があった。昼食まで残り三十分。庭の鯉に餌をあげるつもりだ。
僕は庭に出て物置で餌を取ってから、池に向かった。迷路のような道も今は迷わず進める。
大して時間もかからずに池に着いた。僕は池を覗き込みながらしゃがみ込んだ。池には四つの魚影。僕は一日に与えて良い目安量を確認してから餌を撒いた。鯉が水面に浮き上がって口をパクパクとする。おお、食べてる。
僕は鯉を観察しながら、二十分程をそこで過ごした。
昼食では当然のように庭の話になった。僕が庭に行った時の話をして、川見さんが相槌を打った。長谷川さんがそれを満足げに聞き、たまに庭の豆知識を披露する、といった具合だった。
そして昼食が終わった。
「そろそろ帰るので二階にリュックを取りに行ってきます」
二人にそう伝えてから立ち上がって、食堂を出ようとした。
「桜塚さん、玄関まで見送るので玄関に来てください」
川見さんの追いかけるような声が飛んでくる。僕は振り向いて、首を縦に振って返す。それから食堂を出た。
二階の自分の部屋でリュックを手に持った。この中に僕のすべての荷物が入っている。忘れ物がないか部屋を点検してから、僕は玄関に向かった。
玄関では二人が待っていた。僕は二人の横を通り過ぎ、玄関で靴を履いた。それからコートを着ると、リュックを背負った。それから二人に向き直る。
まず川見さんが近づいてきて僕に大きめの紙袋を差し出す。
「これ、桜塚さんの分のシカ肉です。是非家族みんなで食べてください」
「ありがとうございます。きっと妹が喜びます」
僕は川見さんから紙袋を受け取った。リュックの中にスペースがないので、手で持って運ぶ事にした。
「桜塚さん、私からも渡す物があります」
「何ですか?」
「これです」
長谷川さんは懐から一枚の封筒を取り出した。それを見て僕はピンと来た。
「給料ですか」
「そうです。一週間よく頑張りましたね」
僕は長谷川さんから封筒を受け取った。すぐに中身を確認したかったが、長谷川さんを信用していないと思われるのが嫌で我慢した。
「この一週間とても楽しかったです。お世話になりました」
僕は別れの言葉を述べた。
「私も楽しかったです。ありがとうございました」
川見さんは朗らかな笑顔で感謝した。
「桜塚さん、またどこかで会いましょう」
長谷川さんは別れを惜しみながら言った。
「それじゃあ帰ります。さようなら」
僕は後ろ手にドアを閉めた。そして僕はドアの向こうから聞こえる別れの言葉を背に、家に向かって一歩踏み出した。




