第一話
その洋館は森の中をニキロほど進んだ所にあった。壁は赤茶色のレンガでできており、その間には白いセメントの筋が網のように張り巡らせられていた。屋根は黒く、建物全体がコの字型になっていて、玄関がへこんでいる。
僕はもう一度手に持っていた求人情報の紙をよく見直した。その紙には仕事内容や待遇、仕事場所への地図などが記されていた。僕はその中の地図を確認する。どうやら場所はここで間違いないようだ。
僕は着ていたコートを脱ぎ、手に持つと一つ深呼吸をする。吐き出した息は白い蒸気となり、やがて空中で消えた。そしてドアの横に備えつけられた呼び鈴を押す。
少し間があって、可愛らしいメイドが姿を見せた。ここで雇われているのだろう。黒と白の仕事着がよく似合っていた。
「どちら様ですか?」
とメイドが尋ねてきた。
「桜塚弘一といいます。アルバイトの面接を受けに来ました」
「桜塚さんですか。ちょっとお待ちください」
そう言ってメイドは引っ込んでいった。
ちょっと暇ができたので壁に沿って置かれている花壇に目をやると、名前も知らないピンク色の花が顔を覗かせていた。あれは何という花だろう。
「綺麗でしょう。シクラメンっていうんです」
いつの間にか戻ってきていたメイドが言った。
「シクラメンですか。メイドさんが育てているんですか?」
名前を知らなかったので僕は彼女をそう呼んだ。
「ええ、そうですよ。ご主人様が待っています。こちらへどうぞ」
メイドの招きに応じ、僕は洋館へ足を踏み入れた。玄関には靴入れとコートかけがあった。僕は靴を脱いで並べると、コートかけにコートをかけた。
更に進むと家具のない大きな広間があり、奥にはいくつかのドアと二階に続く階段があった。天井にはシャンデリアが輝いており、床や壁やドアの色は黒っぽい色調で統一されていた。
外から見た時も感じた事だが、見事な洋館だなと僕は思った。メイドを雇っている事も併せて考えるとこの家の主人はかなりの資産家なのだろう。
「それではこれから二階の書斎にご案内します」
そう言ってメイドは階段を上がっていく。僕もそれに続く。二階にも一階と同じようにドアが並んでいた。違いと言えば端に大きな振り子時計がある点だけだった。
メイドが一つのドアの前で立ち止まり、そのドアをノックした。すると中から、どうぞと声がした。それを合図にメイドはドアを開けた。
中を見た時最初に目についたのは、来客時用と思われる二人がけの二つのソファとその間に置かれたテーブルだった。次に本棚に収まっているたくさんの本が見えた。壁の一面がすべて本で埋め尽くされている。そしてドアが開き切ると机に向かっているおじいさんと壁のガラスケースの中に飾られた二丁の銃、そして外の庭が一望できる窓が目に入った。
おじいさんの年の頃は六十代から七十代といった所だろうか。髪が白み始めている。何か書き物をしていたようで僕達が入ってくると顔を上げた。
「こんにちは。僕は桜塚弘一です」
と声をかけるとおじいさんはゆっくりと立ち上がり、
「よくいらっしゃいました。私は長谷川勝茂と言います」
そしてソファの方に手を向けた。
「どうぞ席にかけてください」
僕は二つあるソファのうち手前にある方を選んで座った。ソファは高級な物らしくふわふわとして、とても座り心地が良かった。僕は背負っていたリュックを下ろし、膝に載せた。そして長谷川さんは僕とテーブルを挟んで向かい側に座った。
「川見さん、お客様に紅茶を出してください」
川見さんとは恐らくメイドの名前だろうと僕はぼんやり考えた。
「分かりました、ご主人様。今お持ちします」
そう言うとメイドは僕達に背を向け、部屋を出るとドアを閉めた。
僕と長谷川さんの二人っきりになり、これから面接が始まるのだと思うと、僕はいよいよ緊張した。
「それではまず仕事内容の確認から始めましょうか」
と長谷川さんが切り出した。
「仕事内容は本の整理でしたよね。具体的にはどのような事をするのですか?」
「この家の書庫にある本を処分して欲しいのです。価値のある本は図書館に寄贈して、価値のない本は裁断して古紙回収業者に渡してください」
なるほどと僕は思った。求人要項に本の知識ある人求むと書かれていたのはこのためだったのだろう。僕は大手古書店で三カ月ほどアルバイトをした経験があり、また一カ月に二十冊ほど本を読むので、本の知識には自信があった。
「僕は本について詳しいです。僕に任せてください」
「確かに履歴書には古書店で働いた事があるとありましたね」
長谷川さんには事前に履歴書を送ってあった。その審査の結果、僕が面接できる事になったのだ。
「はい。なので本の価値については詳しいです」
「それでは一つテストをしましょう」
長谷川さんは立ち上がり、本棚まで歩くと、本を十冊ほど抜き出した。そしてこちらへ戻ってきながら、
「これから著者名を隠して十冊の本を見せますので、その著者名を答えてください。十問中九問正解で合格です」
と言ってソファに腰かけた。
「分かりました」
まず一問目、見せられたのは『こころ』だった。本の表紙の著者名は指で隠されている。
「夏目漱石」
僕は即答する。
「正解です」
長谷川さんは首を大きく縦に振り、本をテーブルの隅に置いた。
次に見せられたのは『車輪の下』だった。『車輪の下』は僕が最も好きな小説の一つだ。何回も読み返した事があった。間違えるはずがない。
「ヘルマン・ヘッセ」
とためらう事なく僕は答えた。
「正解です」
その後も日本や海外の有名文学についての出題が続き、僕はそれを難なく正答していった。
ようやく十問目が終わると、長谷川さんは、
「十問すべて正解です。あなたを採用します」
と格式張って告げた。
僕は面接に合格し、ほっと胸をなで下ろした。正直に言うともっと難しい問題が出されると思っていた。恐らく長谷川さんが欲しているのは古書店で働いた事があるという経歴であって、テストはそれが嘘でないかという事を確かめるための保険なのだろう。
とその時、ドアを四回ノックする音が部屋に響いた。長谷川さんが、どうぞと声をかけると、ドアが開き、先程のメイドが顔を出した。左手でドアノブを握り、右手は大きなお盆を支えている。
「紅茶をお持ちしました」
メイドはお盆をテーブルに置き、僕達の前にソーサーを並べると、その上にオレンジ色の紅茶が入ったティーカップを置いた。そして最後にティーポットをテーブルの上に置いた。おかわりが必要になった時のための物だろう。
僕はティーカップに手を伸ばし、一口飲んだ。おいしいともまずいとも言えない不思議な味だった。そう思うのは本格的な紅茶を飲むのが初めてだからだろうか。
「僕にはこの紅茶の味が分かりません。こういう紅茶を飲むのは初めてなので」
少し迷いながらも僕はそう口にした。
「初めは誰でもそんな物ですよ。飲んでいくうちに味が分かるようになります」
と長谷川さんが笑って言った。どうやら僕の正直な言動に好感を持ってくれたようだ。
「この紅茶は何という品種なんですか?」
「これはダージリンといって、さわやかな味が特徴なんです。世界三大紅茶の一つにも数えられているんですよ」
僕の疑問にメイドが答えた。
なるほどこれはダージリンというのか。僕は先程飲んだ紅茶の味とダージリンという単語を頭の中で関連づけた。
長谷川さんは慣れた手つきでティーカップを手にすると、鼻を近づけ香りを楽しんだ後、口に寄せて少し飲んだ。
「はい、今日もおいしいです」
「お褒めいただきありがとうございます。ご主人様」
「川見さん、おいしい紅茶をありがとう。もう下がっていいですよ」
「失礼します」
メイドは部屋を出て、静かにドアを閉めた。そしてまた長谷川さんと二人きりになった。
「それでは仕事の話に戻りましょうか」
「そうしましょう」
「仕事は一週間泊まり込みで、給料は一日一万円、食事と寝床はこちらで用意します」
僕は手元の求人要項を見直した。これはネットで見つけた求人広告を紙に印刷した物だ。待遇などについての食い違いを防ぐために用意しておいたのだ。
「分かりました」
「できるのであれば今日から働いて欲しいのですが、可能ですか?」
僕は家の自室にあったカレンダーを思い起こす。今日は高校の冬休み二日目でクリスマスイブだ。悲しい事に特に予定はない。今日から働き始めるとすると大晦日の前日までに帰れる計算になる。
次に親の事について考える。僕の親は放任主義な所があるので、連絡さえすればすぐに一週間の外泊を許可してくれるはずだった。
「はい、できます」
「では仕事についての話は以上です。他に質問等ありますか?」
「仕事と関係のない質問でも構いませんか?」
「ええ、どうぞ」
「あの銃は本物なんですか?」
僕は壁にかけてある、ガラスケースに囲まれた銃を指差す。
「本物ですよ」
長谷川さんの言葉に僕は衝撃を受けた。今までこの銃はレプリカとばかり思っていたからだ。
「という事はここでは狩猟をするんですか?」
「ええ、ここは森や山に囲まれていて自然が豊かですから。シカやイノシシなどが狩れます」
僕は銃を手にして獲物を狙う長谷川さんを想像して、かっこいいなと思った。
「質問は以上ですか?」
「はい」
「それでは桜塚さんの仕事場である書庫に案内します。ついてきてください」
洋館は先程述べた通り、コの字型に建っていた。本館、西館、東館に分かれていて、西館と東館は手前、つまり玄関側に出っ張っていた。それぞれに大きな吹き抜けの広間があり、そこからたくさんの部屋につながっていた。
僕達は書斎を出ると、二階の廊下を右に曲がり、西館へと向かった。西館の二階の廊下にはドアが一つしかなかった。恐らくこの奥に書庫があるのだろうと僕は予想した。
長谷川さんがドアを開くと、確かにそこには本棚と本があった。だが本棚にはそれ程本が入っていなかった。その上、部屋には読書用と思われるテーブルと椅子があり、場所を取っていた。そのため本棚の数も少なかった。
それを見て僕は疑問に思った。どうして仕事は一週間もあるのだろう。この量なら三日もかからないだろう。僕は怪訝な表情で長谷川さんを見た。
「今からこの梯子を降ります」
長谷川さんは部屋の隅にある穴にかけられた梯子を指で示した。この梯子の下には一体何があるのだろうと思いながら、長谷川さんに続いて梯子を降りた。
梯子を降りると、等間隔に並んでいるたくさんの本棚が見えた。しかも前の物とは違い、本がびっしりと入っている。まるで図書館のような光景だった。本の数は上の階と合わせると五千冊は下らないだろう。
「桜塚さんにはここと上の階にあるすべての本を処分してもらいます」
この量を一週間で処理しろというのか。僕は気が遠くなるような心地がした。
「食事は七時と十二時と十九時。食堂は本館の一階です。お風呂とトイレは東館の一階にあります。寝室は使われていない部屋ならどれでも使って構いません」
「分かりました」
「それでは頑張ってください」
そう言って長谷川さんは書庫の一階のドアを開いて去っていった。
まず僕はスマホを使い家に電話をした。しばらく間があって誰かが電話に出る音がする。
「もしもし」
「もしもし。お兄ちゃんなの?」
妹の眠たそうな声が頭に響く。もう九時になるのにまだ寝ていたのかと僕はあきれたが、冬休みだから仕方ないかと思い返す。
「そうだ。父さんと母さんは?」
「お父さんは会社。お母さんは寝てるよ」
母さんは夜働く仕事をしているので昼間は大抵寝ている。
「そうか。父さんと母さんに僕が今日から一週間、アルバイトで外泊するって伝えておいてくれ」
「へぇ、面接に合格したんだ。クリスマスイブなのにアルバイトだなんて大変だね。それで大晦日までには帰れるの?」
僕は目の前の大量の本を見ながら考える。
「多分、帰れる」
「多分じゃ駄目。絶対に帰ってきて。大晦日は家族みんなでこたつに入って、テレビを見ながら、みかんと年越しそば食べるんだから。お兄ちゃんが欠けるなんて考えられない」
「分かったよ。絶対に帰る」
僕は妹の長広舌に根負けして答えた。まったく妹には適わない。
「それでよし。お父さんとお母さんには私から伝えておくから」
妹は勝ち誇って言った。
「それじゃあ、切るぞ」
「はーい」
僕は電話を切った。そしてまず僕は書庫にどんな種類の本があるのか調べる事にした。