何かが続いた金曜日。
水彩絵の具っていうのは、いうほど水で落ちやすくない。特に皮膚についた色素は、簡単に取れやしない訳で。僕が、少なくとも目立たないレベルまで絵の具を洗い落とした頃には、とっくに登校時間を過ぎていた。
「出席日数とか気にしてないし正直面倒だから休みたいのだけれど、」
そうすると担任が煩そうだよなぁ、と思う。ただでさえ印象悪いのだ、無断で欠席したりしたら確実に不良扱いされるだろう。そっちの方が遥かに面倒臭い。ならば遅刻確定でも行くべきか、と。うっとおしく張り付いてくる湿った髪を掻き上げながら、僕は一つ溜息を吐いた。
丁度、その時。
部屋の何処かで、聞き慣れた電子音が響く。多分、メールの着信音だ。しかもいつだか茜が設定してた、茜専用の着信音。だから急ぐ必要はない、けれど。
「……携帯何処だよ……。」
見渡す限り前後左右全てにおいて、携帯の姿がまるで見当たらない。急がなくていいとはいえ、中を見なくていい訳ではないのだからーー探さなければならないことは必須だ。この画用紙の山の中から、全長約12cmの携帯電話を。
「いやいや、考えれば考えるだけ探したくなくなるんだからさ。」
思考は要らない。そう結論付けた僕は、そそくさとワイシャツの袖をめくり上げる。汚れるのは覚悟の上だ。一晩で絵の具が乾いているとは、到底思えない。
「まずは、手当たり次第漁ってみようか。」
ばさり、と適当に両手を突っ込み、紙を持てる限りの量抱え上げて、ソファの上へ一気に落とす。その中に、携帯は無かった。
まぁ当然といえば当然、最終的には見つかるのだけれど。それはこれから、30分後のことである。
「なんだよ、これ。」
やっとのことで見つけ出した携帯電話。早速起動させ、メール画面を見た僕はその内容に内心首を傾げた。
差出人は、案の定茜なんだけれど。
“日が暮れるまで学校には来ないで下さい。”
で、文末に“久遠茜”の文字。さて多分これは、遠回しに『夕方学校に来い』って言いたいんだろうと思う。でも何故?僕らはあくまで他人だから、僕が遅刻常習犯であることが周囲に知れた後でも、茜に注意されたことはない。委員長には一回怒られたけれど。なのに、よりにもよって『来るな』とはこれ如何に。
「言葉通りの意味だろうけどさ、」
よくわからないが、とりあえず僕が学校にいると不便なことがあるらしいのは確かだ。色々と疑問が残るけれど、茜が「来るな」と言うなら僕の答えは決まっている。僕らの間には友愛も親愛も忠誠も恋愛も存在しない。だけれど、代わりに刹那にして永遠の縁がある。それは僕にとって、他の何より……多分、優先すべきものだから。
とん、と軽く画面上のボタンを押して、最初の画面に戻す。表示された時間は10時30分、35秒。季節的に日が落ちるのは18時が回ってからだろう。茜の言う“日が暮れるまで”の正確な時刻はわからないけれど、わざわざそんな曖昧な言い方をしたということは、きっと時間自体はそこまで重要じゃないのだ。重要なのは、それが“夕方以降”であるという事実。ならば時間について考える必要はない。焦って行く必要も、然りだ。
「さて、」
これで今日一日、というか日が落ちるまでの8時間弱、僕には暇な時間が出来上がったこととなる。幸い、年がら年中時間が足りてない僕にはやらなきゃならないことが有り余っている。折角だから、それを消費することにしよう。
何にせよ、まずは掃除からだ。
「やるか。」
無造作に絵を一枚ずつ拾い上げ、思うままに引き裂いてみたり丸めてみたりを繰り返していく。ちらりと目に入った描きかけの絵は笑えるぐらい拙くて、「馬鹿みたいだ」なんて苦笑まじりに、作業は続いたのだった。