平凡を嘲った火曜日
皆が口を揃えて提示する『平凡』は
僕らの目には、歪んで見えたんだ。
「灯夜。」
登校したばかりの僕を呼び止めたのは、担任の教師だった。……ああ、“灯夜”というのは僕の苗字である。『灯夜椿』。どっちが下の名前だかわかりにくいのは、自覚済み。
「今日の日直、お前だったよな?これ、日誌。」
「はい。」
差し出された黒いファイルを受け取って、端的な返事を返す。僕としてはこの程度が普通の生徒教師間の距離だと思っているのだけれど、20そこそこの新任教師はどうやら違う意味に取ったようで。
「……お前、俺になんか不満でもあるのか?俺が話しかけた時、いっつも迷惑そうな顔するだろ。」
ーー彼には悪いが。よく言えば熱心悪く言えば馬鹿。そんな教師であることは、最初からわかっていた。僕だけじゃない。きゃあきゃあと騒いでいた女子も、友達のように接していた男子も、そして茜だって気づいていただろう。その上でそういう距離感を作っていた、というだけ。きっと誰も、彼が一線を越えてしまうことを望んでいなかった。好き嫌いよりも、自己防衛のために。ーー気づいていなかったのは、当人の教師だけ。だから、きっとこんなことを言い出したのだろう。
僕が彼に不満を抱くなんて、そんな訳が無いのに。だって僕は、不平が不満を持つ程彼を重要視していないのだから。
「別に、ありませんけど。」
「ならいいけどな。なんかあったら日誌に書いてくれよ。誰にも言わないから。そのためにあるんだしな!」
だから無いと言ってるだろうに。どうやら、想像以上に人の話を聞かないタイプらしい。どうだっていいけれど、勝手にこっちを問題児扱いしないで欲しいんだが。
「じゃ、頼んだぞー!」
ぽん、と僕の肩を軽く叩き、彼はいい笑顔で颯爽と職員室に入っていく。その後ろ姿を他人事のように眺めながら、僕は思わず溜息を吐いた。
まったく、面倒なことを。
ーーって、あれ?
そういえば、さっきから茜の姿が見えない。何かあったんだろうか?いつもは、なんとなく毎朝一緒に過ごすのに。
……まぁ、いいか。
放課後。
誰もいない教室に、少し音のずれたチャイムが鳴る。窓の外には、目に痛い程鮮やかな夕日。そして僕は窓側の一番後ろ、自分の席に腰掛けていた。カリカリと、シャーペンが再生紙の上を這う。ーーだけどそれはすぐに止まって、僕は溜息を零した。日誌の中で埋まっていない項目は一つ。『今日の出来事』。
「書くこと無いっていうのは、とてもじゃないけど不便だな。昨日と同じこと書いとけばいいんだろうけど、昨日のは……、」
そう。僕は毎回、昨日の日誌に書いてあることをそのまま丸写ししていたのだった。前日の日直が頭を捻って書いているものだから、別に二日続いたっていいだろう。という、我ながら屁理屈じみた理由で。どうせ昨日と同じような日常しか送っていないのだから、あながち嘘でもないのだけれど。でも今日だけはーー今回だけは、丸写しの出来ない理由があったのだ。
というのも、
「流石に、な。」
漏れたのは苦笑。というかもはや失笑。昨日の日誌には、“女子に告白されました。どうしようかと思いましたが、付き合おうと思います。”以下、略。そういう内容が、汚いけれど丁寧な字で記されていて。これを写すのは、やっぱりちょっと無茶である。いくら僕でも。
さてどうしようか。こんな事態に陥るなんてまるで想像していなかったから、何を書こうかなんて全然考えて過ごしていなかった。おまけに、担任には今朝あんなことを言われたばかりだ。下手なことを書くわけにもいかないだろう、と本日何度目かの溜息が机に落ちて、
「あれ、おかしいね。」
同時にーーガラリと、ドアが開けられた。
「おかしいってなんだよ。」
「今日は絵じゃなくて、文字なんだなぁと思って。」
「日直だからね。っていうか、今日初めて会ったな。」
「そうだね、昨日ぶりだぁ。」
すると茜は心底不思議そうに僕とファイルを見て、それから「あぁ」と微笑んでみせる。何だか、見透かされているような気分だ。
「学級日誌って、そんなに悩むものだったっけ?」
「書くことが無いんだよ。お前だって同じだろ?」
「まぁ、そうなんだけどね。でもほら、私は要領が良いからーー、」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、僕の前の席に座った茜がページを一つめくる。そして例の項目を指差し、彼女は何かを言おうとして、止めた。
「成る程、これは駄目だね。」
苦笑。というより失笑。僕とまるきり同じ反応を示して、見なかったことにするみたいにぱさりと、めくったページを元に戻す。それが何故だか愉快で、気づけば僕は笑っていた。
「……やっと笑ってくれたと思ったのに。」
一方の茜は少しの間目を見開いてこっちを見ていたけれど、すぐに不貞腐れたような表情を浮かべて言う。その頬は、薄っすらと赤い。きっと夕日のせいだろう。
「は?いっつも笑ってるけど。」
「嘘つき。滅多に見たこと無いよ。」
「そうだっけ?」
僕は、握ったままのシャーペンを片手間に回しながら首を傾げた。そんなに無愛想だった覚えはないのだけれど、と。そうしたら、不意に何かを考え込むように茜が用紙を覗き込んだ。
「……仕返し、しよっかな。」
「は?」
言うが早いか、彼女は僕の手元からするりとペンを抜き取ってにやりと口角を上げる。折角美少女だなんだと言われてるのに、これじゃあ台無しだろうな、と思う。いや、僕は茜の外見を注視したことがないから、あんまり関係ないんだけれど。とにかく、彼女がこういう表情をしているときは油断ならない訳で。
「えっと、私ーーじゃなくて。僕は、と。」
そちらからだと逆さまだろうに、茜は大して気にした風もなくさらさらと文字を書き込んでいく。変なとこ器用だな、本当。
「何書いてんの。」
「んー、」
聞いているのか、聞いていないのか。もしくは、聞いていないフリなのか。その間もシャーペンは踊るように紙を這い、
「出来た。」
微かにそう呟かれて顔を上げると、すぐ目の前に茜の顔があって。
驚愕。
だけど僕は、何も言えなかった。言おうとはした、のだと思う。でも、言えなかった。
開きかけた口は隙間なく塞がれて。喉元まで出かかった言葉は、全て呑み込まれて。控えめに触れた柔らかい何かの正体を、一瞬遅れて理解する。
それは、“そう”呼ぶには拙いものだったけれど。でも他に呼びようが無いのだから、やっぱりこれは。
ーーじゃなくて。
「、ん。」
「……ご馳走様、椿。」
あっけなく離れる僕ら。何が起こったか半分くらいしかわかってない僕と違い、茜は恥ずかしそうにしながらもどこか得意気で。指先で示された先、僕じゃ埋められなかった項目に書かれた一文を見て、やっと僕も全てを知った。
そこにあったのは、たった7つの文字。
“キスをしました”
「、成る程。」
思わず漏れた言葉は、場違いも甚だしい内容だったけれど。茜は律儀に句読点を付け足すと、ファイルごと持ち上げこちらへ晒して見せる。こう見ると明らかに字体が変わってしまっているので、僕が書いたと思う人はいないと思うんだが。彼女は一体どういうつもりで書いたのだろう。仕返しか、悪ふざけか、それともーーーーいや、これはわかりきってることだった。僕だってそこまで馬鹿じゃないから。
……ああ、だったら別にいいのか。茜はともかくとして、僕にしてみれば。
「これなら嘘じゃないでしょ?」
「ん。それで出してくるよ。」
「……え?」
凍りつく笑顔。あれ、やっぱりこうなるとは想定してなかったのかな?こういう時、いつもなら早々に撤回して無かったことにさせてあげるのだけれど、今回だけはもう少し続けようか。何故って、呆然とする茜の姿が予想以上に面白かったから。ま、半分くらい仕返しも混ざっているけれど。
「ちょ、待って待って!椿!?」
「いや、別に嘘じゃないし。どうせ書くことも無いし。」
「そういう問題じゃ、」
慌てて消そうとする茜からファイルを奪い取れば、取り返さんとばかりにこちらへ彼女の両手が伸ばされる。だけどその手は虚しく空を切って。
一瞬の沈黙。それから、二人同時に席を立った。
「なんで今日に限ってそんなにノリ良いの!?」
「僕はいつも通りだよ。茜がいつも通り抜けてるだけで。」
「抜けてなんか……」
「このまま出したって、誰も僕が書いたとは思わないだろうし。」
「あ、」
「なら僕に被害はないし?」
「っーーーー『by椿』って書き足し、」
「却下。」
「なら消す!」
間にあった机一つ分の距離は一気に縮まって、ファイルの取り合いが始まる。それはきっと、じゃれているだけにも見えなくは無いような光景で。
だけどそんなの、本来なら違和感の塊だ。まるで普通の高校生みたいで、非常に不自然。僕と茜の関係は、“普通”と称すには永遠過ぎるから。……なの、だけれど。
ただ、ただ少しだけ。普通の高校生みたいで楽しいと、不覚にも思ってしまったのは。
僕だけの、秘密だ。そして、
「ねぇ、椿。」
数十分後。なんやかんやで問題の文を消すことに成功した茜が、いつもの調子で寂しそうに聞いたいつもの質問に、答えられなかったこと。
「私のこと、嫌い?」
……そのせいで僕は、新しい感情を知ることになる。生まれて初めての、重苦しいーーーー
後悔という、感情を。
それは、この日から数日後。13日の金曜日に、引き起こされた。