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2 安住啓士

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 彼は目覚まし時計の音で体を起こした。目を開けると、夏の太陽が彼の眼球に飛びついてきた。あまりの眩しさに目がくらむ。やれやれ、こんなに光エネルギーを放出しなくてもいいのに(もちろん、これだけの光エネルギーが地球まで伝わらなければ、生命体系維持の秩序は完全に失われてしまうのだが)。彼は天井に向かって拳を突き上げるように伸びをした。身長182センチの彼の腕の先は今にも天井を突き破ってしまいそうだった。そして彼は枕元の目覚まし時計に目をやった。長針は3、短針は8を指している。寝ぼけた頭では、それが一体何を意味するのか理解するのに時間がかかった。「長い方の針が8、いや、短いほうが8、で、長い方の針が3・・・」8時15分だ。しまった。寝坊した。彼はやっと自分の犯したミスを悟った。やれやれ、二学期の初日からいきなり遅刻かよ。大急ぎで洗面台まで向かう。彼は真面目なのだ。これまで一度だって寝坊したことなんてないし、良からぬことをして先生に叱られたこともない。優等生なのだ。


 彼の名前は安住啓士という。三代続く自動車会社の家に生まれた。アズミ自動車は、大不況などお構いなしに売上を伸ばし続けている大会社である。函館は、アズミ自動車のおかげで大都市に発展した。安住家は、函館の繁栄に貢献したことを誇りとし、東京や名古屋や大阪へと本社を移転させようとはしていない。しかしながら販売台数、売り上げ額共に、トヨタやホンダなど、他の企業を軽く上回っている。工場はフル回転、函館の失業率は大幅に低下、名実ともに最高の自動車会社なのである。そんなアズミ自動車の、三代目社長安住浩士の息子として彼は育ってきた。金には不自由せず、学業も優秀で、スポーツ万能。野球部ではキャプテンを務めた。顔立ちも良く、大会では応援生徒の女子が、彼がフライを取るたび、キャーキャー黄色い声で騒いでいた。冗談を言うのも上手く、いつも彼の周りには人が集まった。そして今は学級委員を務めており、彼のおかげで3年A組は先生方からも一目置かれる存在になっている。彼は、「歪んだ形の優等生」ではない。正真正銘の「誰からも愛される優等生」なのだ。また彼もその立場を理解していた。誰もが憧れの眼差で彼を見ていた。


 そんな優秀な彼が、寝坊である。だが、急げばまだ間に合う。学校から家まで歩いて5分である。5分で歯磨きと着替えを済ませれば、登校時間の8時25分にギリギリ間に合う。チューブを取り、1センチほど歯磨き粉を押し出し、歯ブラシにつける。ブラシで歯を磨く。口を水ですすぐ。鏡で顔を見る。寝癖はついていなようだ。そして制服に着替える。真新しい夏服のYシャツ。彼は1ヶ月毎に新しい制服を買うのだ。父の口癖は、「持てるものは使わなければならない。そして持たざる者にも金を流してやるのだ。これが”勝者が与える恵み”というものだ」である。この制服も、”勝者が与える恵み”の副産物なのだ。おっと、手が止まっている。急ぐ。今は急ぐことが何よりも重要なのだ。”効率優先至上主義”。父に言わせればこんなところだろうか。「この際だ もう 目指そうか せっかくだから 効率優先至上主義の 現代の億万長者でも」――RADWIMPSの曲にこんなのがあったな。金持ちはいつでも皮肉られる。では俺はそんなに卑しい一族に生まれてきたのだろうか。彼は悩んでいる。とても深刻に悩んでいるのだ。だが今は自分の心の揺らぎなど関係ない。今は時間が全てなのだ。


 彼は家を出た。8時21分。これなら間に合う。彼は長い鍛え上げられた足で思い切り走り出した。夏の空気。じめじめと頬に絡みつく茹だるような空気。彼はふと疑問に思った。そういえば今日起きてから、自分以外の人間を見ていない。いくら急いでたとしても、親の顔くらいは見るものだし、散歩中の老人や、学校に行かず遊んでいる不良少年や、ゴミ袋を持って外に出た主婦だって街にはいるはずだ。そもそも、いつもは、時間をちょっとでも過ぎれば、仕えの人が起こしてくれるのに、何故今日はほったらかしだったんだろう。いや、待てよ。こんなこと考え出したらきりがない。彼は、「誰もが愛するプリンス・安住啓士」を演じるべく、無駄な考えをストップした。頭が痛い。本当の自分は、一体何処にいるのだろう?仮面の中の自分とは、一体何者なのだろう?下を向くと、さらに頭痛がひどくなる。彼はうつむいていた顔を上げた。そして、彼は目の前の光景にひどく混乱した。


 彼は学校へ近づいてはいなかった。むしろ、彼の家から学校の方とは逆に走っていたのだ。遅刻はもう決定的である。全く、余計なことを考えるからだ。彼は遅れを取り戻すために、もう一度、今度は来た道を逆に走ろうとした。しかし、体はまるで学校を拒むかのようにどんどん目的地から遠ざかっていく。彼は学校に向かおうと懸命に体の動きに逆らった。しかし、どれほど抗ってみたところで、全くの無駄であった。そして、彼の体は、公園の中に入ったところで止まった。彼はここの公園をよく知っていた。小さい頃毎日遊んでいた公園である。


 そこには、髪の長い男が立っていた。前髪が目までかかっている。彼は、その男の顔に見覚えがあった。先に話しかけたのは、男の方だった。

「悪いね、手荒い真似をして。オレはBUMP OF CHICKINの藤原基央だよ」

勘は当たっていた。昔テレビで見たのだ。音楽専門チャンネルか何かに。でも、なぜミュージシャンがここに?オレの体を操っていたのはこの男だっていうのか?そもそも、この男が本当に藤原基央なら、「音楽禁止国際法」ができた今、こんな普通に外に出れないはずだ。彼は混乱した。

「困惑しているようだね。すまない。君にちょっと頼みがあるんだ」

「はい、何ですか」おかしな話だ。初対面の男に頼みがあると言われたら、普通は不審者か何かだとしか思えないはずだ。でも、彼は何故かそうは思わなかった。

「君に、世界を救ってほしんだ。音楽の世界をね」

「音楽の世界を、ですか?」彼は少し驚いた。話のスケールがでかい。住宅街の中の小さな公園でするような話じゃない。

「君、音楽禁止国際法は知っているだろ。実はその法の下、オレは処刑されちゃったんだ。ひどい話だよな、音楽やってることを罪とするなんてよ。で、もうじき世界中からバンドも歌手も消えちゃうわけよ。オレみたいに殺されて。そこで君の出番だ。オレが今から君にロックの力を与える。君に、ロックで世界を救って欲しいんだ。君、見ればわかるんだけど、今激しくロックを求めてないか?」

「まぁ、そうかもしれない」腐った現状に鋭い一撃を下せたらどんなに気持ちいいだろう。「でも、どうやって?」彼はその術を何一つ知らない。

「ロックは簡単さ。自分の心をメロディに合わせてさらけ出す。それでいいんだ。見栄とか体裁なんてもんはそこにはない。表現することが一番大事」

「それは分かったけど、具体的にどうすれば・・・」

「それこそ最も簡単だよ。音を奏でればいいのさ。東風が強く吹く夜にね」

「そもそも藤原さん、あなたは何故ここにいるの?死んだんじゃないんですか?」一番重要な質問。

「ああ、オレは死んでる。でも、ここにいるのはオレじゃないんだ。何言ってるか分かんないだろうけど、オレは誰かの「音楽を救う」という意志だけでここに姿を現してる。オレも君と同じく、「導かれた者」なんだよな。生きてるか死んでるかの違いはあるけど」

「それってどういうこと?もう少し詳しく説明してください!」彼は言った。

「これより先のことはオレもよく分かっちゃいない。でも、いいな。ギターを練習して音を響かせるんだ。君の役目はそれだけ。頼むよ」

「ちょっと待ってよ!待ってってば!」彼は焦った。どうなってるんだ?学校は?これは夢?現実だとすればオレは一体どうすれば?

しかし、男はもう消えていた。そこには、漆のように輝く6弦のギターだけが残っていた。

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