1 高峰ヒロト
20XX年
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「賛成192、反対0」――テレビ画面の隅っこに、テロップが白抜きの文字で表示されている。国連緊急特別総会が生中継されているのだ。アメリカやらイギリスやら中国やらブラジルやらエジプトやら、各国の長達が一堂に会している。腕時計はロレックス、送迎にはリムジン、と決まっているエリートばかりだ。そして彼らの表情は共通して、何やら肝心なものを隠蔽しているような不気味な微笑を浮かべているようだった。本当にニヤニヤと笑っているわけではない。ただ、彼らの表情のどこか一部からそういった匂いを感じ取る、というだけの話だ。
僕はテレビの液晶が映し出すその光景をじっと眺めていた。しかしその眼差は、一切の関心とか興味とかいった心理的要素を含んではいない。非常に中立的な眼差である。中立的というよりは、無機的といった方が正しいのかもしれない。そのような眼差でこの中継をもう20分は見ているだろうか。3分毎くらいに手元のスイカを噛る以外は、ずっと画面を見つめている。函館の8月。東京や大阪に比べれば涼しいとはいえ、真夏である。この時期に、一人の少年が自分の部屋で窓も開けずにじっとテレビを見ているというのは、いささか常識的ではない光景である。
僕の名前は高峰ヒロトという。片仮名で「ヒロト」。何の考えもない名前。父は、ブルーハーツの甲本ヒロトにあやかって付けた名前だと言う。今はクロマニョンズとかいうバンドにいたっけな。類人猿。図太い声で下品な日本語をわめき散らすだけのバンド。とにかく、僕の名前の由来など後から埋め合わせのために探してきたようなものでしかない。このように、僕は自分の欠陥を見つけるのにはあまり苦労しないタイプの人間なのだ。勉強だって数学以外はほとんどできないし、スポーツにしてもあまり得意な方じゃない。テレビを見ることも無いから、クラスメートの話題にだってあまりついていけない(友達が少ないというわけではないのだが)。
そう、まず第一に、僕には母親がいない。母は僕が9歳の時に突然姿を消した。母は有名なマスタリングエンジニアだった。だが彼女が消えても、僕は何も思わなかった。彼女は仕事に集中しすぎて、僕の事など構ってくれなかった。彼女から親としての愛を感じたこともないし、子供として愛されたいと思ったこともない。僕は、母の愛さえ持っていない人間なのだ。
僕の視線は16:9の画面を捉えたままだ。議決内容が流暢な英語で読み上げられる(thisとかbecomeとかimportantとか、聞いたことのある言葉がところどころあったから、多分英語だろう)。日本語の字幕が流れる。無機的眼差で僕は文字を追う。
「国連緊急特別総会での議決により、これから更なる全人類の繁栄を目指そうという中、その為の社会的な精神や向上心、効率的かつ建設的な努力を著しく妨げ、乱すものとして、歌唱、演奏、作詞、作曲、編曲等の一切の音楽的行為を、総会終了となるイギリス時間午前6時より禁ずる。又、音楽関係者の処分は各国に委ねる・・・」
下らない。元々音楽なんて下らないものなのに、それに対して必死で議論している大人達はもっと下らない。そんな事を議論してるくらいなら、もっと戦争をなくすとか、そういうことに尽力すべきじゃないの?、と僕は思った。そもそも世界から音楽が消えたって、僕にとってはそんなのどうでもい。音楽になんて興味ないんだ。ポップス?関心無い。ロック?聞かない。クラシック?訳が分からない。明日は始業式だ。きっとクラスメートたちはこのことでワーワー騒ぎ立てるだろうけど、僕にはそんな事関係ない。
ただ、僕にとってどうでもいい世界がひとつ消えただけのことだ。僕はテレビを消してスイカの種の乗っかった皿を台所に持っていった。
夜、突然目が覚めた。夢が終わったからでも、便意を催したからでもない。何故か目を覚まさなければいけない気がしたのだ。僕は辺りを見回した。カレンダー、ゴミ箱、ライトスタンド付きの机、おしいれ、中学生の部屋には不相応なほど立派な本棚、読みかけの『野口英世自伝』・・・。紛れもなく自分の部屋。不自然なものは何一つない。でも、何かが違う。漂っている空気だけが異質なものを含んでいる。そして、ドアが開いた。
ドアを開けて入ってきたのは、髪の長い若い女だった。音を立てずにゆっくりとドアを閉め、そして僕ににっこりと微笑みかけた。黒目がちなつぶらな瞳で、はっきりと僕を見ている。何故か僕は彼女に不信感を抱かなかった。おかしな話である。夜の1時半に知らない女が自分の部屋に入ってきても特に異常を感じないのだ。でも、とにかく僕は一目見ただけで彼女に好感を持った。部分が強調されていながら整った美しさを感じさせる顔、優しさを投げかけてくる微笑み、手を伸ばせば向こう側に届いてしまいそうな透明感。いや、これは夢か、幻想だ。高峰ヒロトの部屋という現実世界に存在するには、あまりに調和が取れない。僕は立ち上がって彼女の顔にそっと手を伸ばしてみた。僕の手は微かに彼女の頬をかすった。幻想じゃない。確かに触れたのだ。そして、僕と彼女の空間に初めて声がもたらされた。「君は幽霊?」
枯れて消えそうな声だった。そして静寂。再び声のない世界が僕らを包む。時計のカチカチという音がこの上なくクリアに聞こえる。六十進法の針が円の4分の1ほどを描き終えたあたりで、彼女はついに声を発した。
「私は幽霊なんかじゃない。あなたの幻覚でもない。私はここにいるのよ」鼻から抜けるような変わった声だ。
「じゃあ君は誰?」今度ははっきりした声で僕は尋ねた。
「私は樫野有香よ。ほら、『Perfume』って聞いたことない?Perfumeの樫野有香。『かしゆか』って呼ばれてたわ」
「ごめん、テレビも見ないし、ラジオも聞かないもんだから」自分の無知を改めて思い知らされた。
「そうか。じゃあ知らないのね」
「ところで、なんで君はこの部屋に入ってきたの?」本来なら一番初めに聞くべき質問をした。
「そうそう、それを話してなかったわ。いい?これは本当に大事な話よ」
「判ってる」だってそうじゃなきゃ、函館に住む普通の中学生の夜の部屋に、何も言わずに入ってくる訳ないじゃないか。
「あなた、今日の昼あの中継見たでしょう?」
「うん」あの馬鹿げた国連総会の中継のことだ。
「そこでさ、音楽関係者の処分がどうこうって言ってなかった?」
「音楽関係者の処分は各国に委ねる」なぜか議決内容を全て覚えていた。
「そうそう、各国に委ねるって。あなた記憶力がいいのね」
「別に記憶力なんていいほうじゃない」自己の否定。認められることへの拒絶反応。自分は欠陥だらけの人種なんだ。
「それで、あの後、私真っ先に殺されちゃったわけ」
「殺された?」思考がうまく繋がらない。何を言っているんだ。君はここにいるじゃないか。
「そう、殺されたの。あの会議の後すぐ、日本政府は音楽関係者の処刑を合法化したのよ。それで、ラジオ番組が終わって局から出てきた私は、待ち伏せしてた奴らに連れてかれて。即刻死刑よ。だからもう
Perfumeは生きてないし、樫野有香は死んだの」
「じゃあここにいる君は何なの?やっぱり幽霊?」まだ状況が理解できない。彼女が一体何者なのか、僕の疑問はその一点に集中した。
「いいえ。私は樫野有香であって樫野有香じゃない。私は生きてないし、死んでもいない。伝わらないかな。私は私の意志であなたに会いに来たわけじゃない。もっと言えば、私は私の意思でここに存在しているわけじゃない。私は意志というものを持たないのよ」
「じゃあ一体君は誰の意思で動いてるの?誰のものとして存在してるの?」僕は尋ねる。気付けば僕は何一つ彼女の話を知ろうとしていない。僕は彼女の存在自体に強く惹かれているのだ。無意識のうちに。
「それは言ってはいけないことになってるの」彼女は微笑んだ。優しさを凝縮した微笑み。「さ、ここからがあなたに伝えたいことなの。ちゃんと聞いてね」
僕は頷く。
「あなたに音楽の世界を救って欲しいの。あと3日もすれば、アーティストたちは全員捕まって殺されるわ。もう私たちは何も救い出すことはできない。だから、あなたのような若い世代の人に何とかして欲しいの」
「そんなこといわれても・・・」率直な気持。
「だからあなたに音楽の力を与えるわ。私はあなたにこの力を与えるための、いわば使者なのよ。そのためにここに存在しているの。ちょっとおでこを出して」
言われるがまま、僕は左手で前髪を押さえ、額を出した。
「いい?いくわよ」
彼女は右手の人差し指を僕の額に突き刺した。不思議と痛みはなかった。ただ、僕の中に何か強大なものが侵入してきたのは分かった。10秒ほどして、彼女は指を外した。
「痛くはなかったでしょ」
「うん」額を触ってみても傷はないようだった。
「あなたに渡したのはテクノポップの力よ。私達はこのジャンルの音楽を取り入れたアイドルだったの。世界を救う方法はただ一つ。簡単よ。東の風が吹く夜に音をかき鳴らすのよ。あなたはただシンセサイザーで、あなただけの音色を奏でればいいの。そうすれば、世界は元に戻るわ」
「ちょっと待ってよ。僕が世界を救うって?そんなこと・・・」
「いいのよ。言いたいことは分かるわ。でも、自信を持って」
違う、そんなことじゃない。僕は音楽なんか・・・
「私ももうここにはいられないわ。ところで、あなたの名前なんていうの?」
「高峰ヒロト。片仮名でヒロト」
「ヒロト、かっこいい名前だわね。それじゃあ、私はもう消えるわ。困ったり悩んだりしたときは強く願うのよ。そうすればいつでも問題は解決されるはずだわ。『シンセで世界を救う』のよ。ヒロト君、お願いね」
「ちょっと、何だよこれ!なんでよりによって僕が!・・・」
もう彼女は消えていた。黒光りするシンセサイザーだけを残して。