第9話
頬が、冷たい。
まるで氷の塊を頬っぺたに押し当てられているようなひんやりとした感触に気づき、僕は重い瞼をゆっくりと開いた。そこで待っていたものは漆黒の布に宝石を散りばめたかのような星空と、僕を見つめる真ん丸い群青色の瞳だった。
「気が、ついた?」
喉奥から絞り出したかのような、この至近距離でないと聴き取れないような声量で彼女がつぶやく。冷たい感触は、彼女の手の平だと今になって気づいた。
「萩月さ……うッ、く」
何か言葉を返そうと上体を起こしかけたが、全身に走った鈍い痛みと突如襲いかかった眩暈に再び身体を再び下ろす。不思議なことに、僕の首から下は固いベンチの感触なのに、何故か首から上だけはふにゃりと柔らかい感触に包まれていた。通販でよく宣伝してる安眠まくらのような、それでいてほんのり漂う甘い香り。香水とは違う、何ていうか……そう、石鹸みたいに清潔な女の子の香りだ。
ぽふ、と優しく僕の額に萩月さんの手が触れる。愛猫でも愛でるかのように静かに、傷つけないようにとおっかなびっくりな手つき。
……あれ、なんかおかしい。
さっきからこの枕、少しもぞもぞ動いているような気が……?
「まだ無理しない方がいい。傷……まだ完全に癒えたわけじゃないから」
「傷……? い、いやあの、それより……萩月さん」
「なんだ? 何処か、まだ痛むか?」
「す、すみませんッ。すぐに退きますからあのいっつつ!」
この状況から脱するために無理やり身体を起こそうとしたのだが、真上から萩月さんの手で押さえられてしまった。彼女のちょっとした腕力にも抗えないほど、僕の身体のダメージはまだ完全に回復しきっていないようだ。
「馬鹿。無理して動く奴があるか」
「い、いやでもこの体勢はあの――!」
見上げた先には萩月さんの顔。衣擦れの音をたてながら動く柔らかな枕。これらの状況から察する……までもなく、今の僕は彼女の膝枕に頭を埋めているということである。思わず頬に熱を帯びる。女の子の膝枕なんて人生初の経験で、それこそ自分が瀕死状態であるのを忘れてしまうほどの衝撃だった。
「いいから、このままじっとしてなさい。……せっかく塞がった傷口が、また開いてしまうわ」
「傷口が塞がった……? え、いや、そんなはずは」
袈裟切りを受けた右肩にハッと手を伸ばしてみる。引き裂かれた衣服の合間にあったはずの深い傷は、いつの間に塞がったのか大きな瘡蓋が出来上がっていた。だが、未だ鈍い痛みがジンジンと芯から響いている。
自然治癒、そんなわけはない。いくらなんでも速すぎる。しかし僕の身体に何が起こったのだろうか。答えは程なくして萩月さんが教えてくれた。
「動いては駄目よ。この時間、この場でないと治せないから」
「治せない……って?」
つまり現在進行形で僕の怪我を治療してくれているということだが、しかし萩月さんは特にこれといった行動を取っていないのが不思議だった。例えば魔法でも使っていると言うのであれば、カードを僕にかざしていたりするのかと思ってたのだけど、彼女は何もせず僕を膝枕に乗せているだけ。……この膝枕が治療と関係しているのだろうか?
「私のカードの話……覚えているか?」
「えっと……『月』ですよね?」
流石にナンバーまでは覚えていなかった。僕の頭を膝に乗せたまま彼女は頷くと、空で煌々と輝く蒼白い満月を見上げた。
「……実を言うと、私はこのカードの詳しい能力や姿を知らない」
「え? 知らないって……?」
自嘲するかのような弱々しい笑みを浮かべると彼女は言葉を継いでいく。
「『隠者』の持ち主が言っていただろう。私は彼女の言うとおり“戦力外”なのさ。君に偉そうにカードのことを説明していたが、本当は自分のカードを未だに顕現させたことが無いんだ」
「それは……」
「ただ、一つだけ確かなことがあってね」
萩月さんは制服のポケットから徐に取り出した『月』のカードを夜空に、満月にカードを透かすようにして掲げると、月の蒼白い輝きがカードに宿り薄く発光し始めた。それはまるで月光を吸収して光っているように見える。
「このカードはね、月の光を吸い込んで魔力にするんだ。満月には不思議な力が宿るということを聞いたことがあるかい? どうやら『月』のカードは、その不思議な力を蓄える能力を備えているらしい」
「じゃあ、その力を使えば戦えるんじゃ?」
「……申し訳ないが、私はこれを戦闘に生かす術を知らないんだ。戦力外だと言ったろう? 私が名を呼んでもカードは何も変化を見せない」
「じゃあ……何で、僕の傷が?」
「厳密に言えば、幸 運 の 総 符同士の相乗効果だろう。『正義』と『月』のカードが共鳴し合って、持ち主の治癒能力を強化していると思う」
「そっ……か」
正面に見える萩月さんの透き通った肌が気になって僅かに目を反らす。しかし、膝枕を堪能している場合なのだろうか。今すぐにこの場を離れなくてはいけないというのに。
遠く聞こえていたサイレンの音は、いつしか校門付近に集結している。じきに図書館に向かって大所帯でやってくるに違いない。見つかってしまえば事情を説明しなければならないし、最悪僕が犯人と疑われることだろう。むしろ、他に残っている人物がいないのだから当たり前だ。
「あの」
「巻き込んでしまって、申し訳ない」
彼女の言葉に遮られ、出かけた言葉が喉の手前で引っこんでしまう。見上げた先の萩月さんの表情は、今にも泣きそうなほどくしゃくしゃに歪んでいた。
「これは私の、私のミスだ。やはり君を巻き込むべきではなかった。こんな、ズタボロにさせてしまって……」
「それは……」
震える唇。漏れる嗚咽。頬を伝う雫が、僕に一粒降り注ぐ。
「やはり私は、噂に違わぬ不吉な存在だな。関わった人を、皆不幸にしてしまう。朝日奈君も、私……も」
「…………」
何か言葉をかけようかと思って逡巡するも、僕は小さく唇を結んでしまった。何を言っても、意味が無いような気がしたからだ。巻き込まれたことは確かな事実で、僕は彼女の事情も詳しく知らない。そんな人間が軽々しく何か言葉を掛けられるだろうか。傍から見ればそれは酷くドライに映るかもしれない。けれど、実際の僕と彼女の距離感はそんな希薄なものだ。
だけど……
「朝日奈君」
「なん……ですか?」
どうにか動けるようになった身体を起こし、萩月さんと向かい合うようにして距離を取る。群青の瞳に月の光と、光に煌めく涙が映る。一度キュッと噤んだ口を、意を決したのかゆっくりと、静かに開く。
「今ならまだ、引き返せる。だから……」
夜風が僕と彼女の間を吹き抜ける。
刹那、彼女の銀色の髪が月光を浴びて、さながらシルクのカーテンのように幻想的にはためく。
風で零れたのか涙は消え失せ、彼女の群青色の瞳は真っ直ぐに僕を見据えていた。
差し出される右掌。揺るがない視線。
「朝日奈君の『正義』のカード……私に、返してほしい」
「……」
僕は逡巡する。
ここで『正義』のカードを渡せば、先輩の言っていた『汚くて血生臭い世界』から抜け出せる。
自分が傷ついたりしない、平穏な日常へと引き返すことができる。
ポケットの中に手を伸ばし、カードの縁を掴んだ瞬間、僕は――
巻き込まれた。
その事実に変わりなく、朝日奈は彼女の要求に応えるべくポケットの中の『正義』のカードに手を伸ばす。
彼の下した決意は……
これにて、第一章『少年、接触す』は終了。
区切りとしては悪くないんじゃないかと思っております。
……たぶん。
第二章は早ければ今週末にでも。
何気に別の新作ファンタジーを考えちょります。
お気に入り登録10件!
いつも読んでくれている方々、登録してくださった方々、ありがとうございます。
何かコメントとか感想とかいただけたら幸いです。
では、待て次回。