第4話
特訓は翌日の早朝まで延々と続き、そして先刻の朝に至るというわけである。阿鼻叫喚、地獄絵図な特訓風景は……今は思い出したくない。
おかげで今日の授業内容が一切頭に入っていない。期末試験は来週だというのにこんな調子で大丈夫なのだろうか。
「……だから、ここに来たんだけどさ」
二日連続の第二図書室。引き戸を開けると古めかしい匂いと空気が僕を出迎えてくれた。利用者は相変わらず誰もいない。しかし、逆に言えばほぼ無音の状態で勉強に集中出来るということだ。そう前向きに考えを改めると、僕は昨日使っていた席に腰を下ろし教科書とノートとを展開した。シャープペンシルがノートの上を走る音、書き終えたノートのページをめくる音、間違えた文章を消す音、教科書をめくる音、自分の息遣い……それ以外の音は一切何も聞こえない。何もしないでいれば、逆に耳が痛くなりそうなほどの静寂。
何だか急に心細くなってきた。まさか音の無い世界がこんなにも寂しいものだとは思わなかった。寂しさに集中力を欠き始めた僕は、不意に自分の手で消しゴムを床に落としてしまった。ぽんぽんと小さな音を立てながら跳ねる消しゴムを追いかけると、何故かその先に生徒のものと思しきローファーが見えた。
「……?」
今ここには、僕一人しかいないはずなのに誰だろう?
消しゴムの存在を忘れ僕が視線を上げると、鋭い目つきの女生徒と目が合った。長い黒髪を凛となびかせ、切れ長の瞳はまっすぐこちらを見降ろしている。……見下してるとも映りそうな冷徹な視線に僕の息が一瞬止まりかけた。
「く……! く、黒羽里先輩!?」
「図書室では、静かにしてほしいのだけれど」
「す、すみません……!」
これ以上声を荒げまいと口元を抑えつつ、僕は慌てて立ち上がると急いで席に戻った。ヤバい。心臓がヤバい。平時の三倍以上の速度で脈打ちいつ破裂してもおかしくない勢いだ。ほんの数瞬言葉を交わしただけだというのに、先輩の柔らかな芳香が未だ感じられる。シャンプー? 香水? いやいやそんなことを考えてる場合じゃなくて、今はまず遅れを取り戻すべく勉強を再開しなければならない。
落ち着こう僕。まずは教科書のページを捲って、それから先輩のなめらかな手の平が教科書の端に――!?
「うわ、わわわ……!?」
「消しゴム落としたの、忘れたの?」
「え……ぁ!」
すっかり忘れていた。僕は消しゴムを拾うために席を立ったのに。そしてよく見ると、先輩の手の平には僕の落とした消しゴムがちょこんと乗っている。先輩が僕の消しゴムを拾ってくれたという事実に気づくまで、きっちり十秒かかってしまった。
「あ、ありがとうございます。ここ、光栄の極み……ですッ!」
「消しゴムくらいで大袈裟ね。えと、朝日奈君……でよかったかな」
「は、はい。……あれ? 何で僕の名前を?」
「数少ない第二図書室の常連だから覚えてるよ。今日はお友達は一緒じゃないんだね」
高広と鈴宮は用事があるからとか言って先に帰ってしまっている。高広はたぶんお店の手伝いだろうけど、鈴宮はちょっとわからない。
「ふぅん……それで一人か」
「先輩こそどうして? 今日は当番の日じゃないですよね?」
僕の記憶が正しければ先輩が当番の日は火曜日と木曜日のはずなのに、今日は何の関係もない金曜日である。すると先輩は誰もいないカウンターを指差しながら肩をすくめた。
「ご覧の通り、今日の当番はオヤスミ。だから代わりに私が来たというわけ」
「あ……そ、そうなんですか」
でも、そういえば先輩以外の人が第二図書室の当番をやっているところは見たことが無い気がする。僕が来る時は先輩か司書の先生だけだ。先輩は僕の隣の椅子に腰を掛けると、やれやれと言った様子で小さく溜息をついた。
「当たり前だけど、流行りの本のある第一図書室の当番の方が人気でね。こっちの当番を買って出る人は少ないんだよ」
「向こうなら、ラノベも雑誌も読み放題ですしね」
「……本来、図書室と言ったらこういう部屋を言うものだと思うけどね」
先輩の言いたいことはよく分かる。第一図書室は第二図書室と違って利用者がかなり多い。それに、最近の図書室というものは本を静かに読んだり勉強したりするものではなく、昼休みや放課後に友達と集まっておしゃべりする、ある種の談話室のように扱われているのだ。だから第一図書室はかなり煩い。僕がこの第二図書室を利用している理由の一つでもあった。
「私はああいう賑やかなのは好きじゃないな。それに、気軽に寄り添って語らうような友人もいないし」
「えぇ? いや、そんな馬鹿な」
「私が他の友達と親しげに語らうところを、見たことがあるか?」
「えっと……」
失礼ながら、あまり見たような覚えが無いような。先輩は専ら一人でいることが多い。クラスではどうかはわからないけど、僕が見ている先輩はいつも一人でいることが多いような気がする。当番の仕事だって一人でこなしている。
僕が何か言葉を返そうとすると先輩がそっと立ち上がってしまった。
「……と、悪いね。私のくだらない話で勉強の邪魔になってしまったかな」
「い、いえそんな!」
むしろ、先輩と話せたこの貴重な機会を僕が感謝したいぐらいだ。先輩は椅子を元あった場所に戻すと、そそくさとカウンターの方へと向かって行ってしまった。奥へ入ると、そのまま図書委員の仕事を始めてしまう。
「……」
思わぬハプニングだった。
まさか、誰もいないはずの第二図書室で偶然先輩と出くわし、さらには話までしてしまうとは。今まで遠くから見つめるか、或いはほんの一言程度言葉を交わす程度しか出来なかった僕が先輩の方から話しかけてくるとは夢にも思わなかった。どこぞの誰かが言っていた『一方的な恋』という言葉がまるで信じられないような展開。一応頬をつねってみたけど、痛いから当然夢ではない。
「……はッ! いけないいけない。今日はちゃんと勉強しないといけないんだ」
期末テストは来週の水曜日からだ。それまでに遅れを取り戻しつつ、復習を重ねてテストに備えなければならない。ちょうど明日明後日と土日で学校は休み。一日中勉強すれば今日の遅れぐらいは余裕で取り戻せるだろうから実は案外余裕かも? ほんの少し余裕を覚えつつ、しかしあることを思い出してペンを止めてしまった。
「……そういえば、萩月さんとの約束があるんだっけ」
昨晩の彼女との約束で、僕は毎晩十二時きっかりにこの第二図書室に訪れなければならない。何故そんな真夜中に、そもそもどうやって夜の学校に忍び込めと? 言いたいことは山ほどあったが、彼女の青い瞳に睨みをきかされたあの時の僕には頷く以外の選択肢が無かった。下手に逆らって、噂通り何処かへと攫われてしまったら僕の人生はそこで終了してしまう。あの目は間違いなくホンキだったから、やろうと思えば僕を次元の彼方に飛ばすことぐらい容易そうだ。
そして、僕が下校時刻ギリギリまで勉強を進め机の上の片づけを始めた時のこと。
「なぁ、朝日奈君」
「ふわ! あ、先輩? なんですか?」
またしても唐突に、先輩から声を掛けられた。本日二度目。もしかしたら、明日は雹か雪でも降るかもしれない。
鞄片手に僕が振り返ると、先輩は少し顔を反らしながら、ちょっと口に出しづらそうにもじもじと、身体を小さく揺らしながら立っている。一見すると、何か恥ずかしそうにしてるとも見えるけど、僕相手に何を恥じらうというのだろうか。というかこんな先輩の姿を見るの初めてで、またもや夢である可能性が浮上する。
「その……だな。朝日奈君が迷惑でなければの話だが」
「は、はい」
吸い込まれそうな漆黒の瞳と目が逢うその瞬間、先輩は薄桜色の唇を小さく動かしこう言った。
「よかったら明後日の日曜日、私とデートしないか?」
サブタイトルないと、何か味気ないですねぇ……;
しかし付けたら付けたでネタバレになりそうで恐い。
次話は早ければ今週中にでも。
では、待て次回。