第19話
その日、空には雲一つなく月の独壇場となっていた。
静かに注ぐ月光の下、一人の青年がふらりふらりと体を揺らしながら校舎北側を歩いていた。
「ったたた……死にこそしなかったものの、こりゃ緑のハーブとか絆創膏とかじゃ治らねぇ傷だなぁ……」
歩くたび抑えたわき腹からぽたぽたと真っ赤な血が滴り落ちていく。重傷ではあるが骨にまでは達していなかったのは幸いだった。お陰でこうして歩いて逃げれるのだから彼の甘さには感謝感激雨あられである。歩きながら青年――圷統也は独りごちる。
「なぁんで俺、倒れた朝日奈君のカード奪わなかったんだか……」
力尽きた彼からカードを抜き取れば、それで目的の半分は終了だった。それなのにカードには手を出さず、トドメすら差さずにこうして逃げようとしてるのは――とても単純な思考。
「俺が死にそうだから……かね」
自分の身体は自分が一番よく分かる、というのは紛れもない事実。傷が骨まで達してないとは言ったが実際問題歩く度に激痛を伴うほどの大ダメージは負わされている。
一刻も早い治療が必要だ。圷は自分の命を最優先とし、与えられた命令は少し先延ばしにしようとしていた。北校舎の建物沿いに歩き続けているとやがて小さな裏門が見えてきた。教職員の駐車場であるその場所に駐車されている車両は一台もなく、今はだだっ広いコンクリートの地面が広がっているだけだった。
「……?」
いや、違う。裏門の前に誰かが立っている。月の光に反射して銀色に煌めく白髪。宝石のように澄んだ群青色の瞳。この桜宮高等学校指定の制服に身を包んだ彼女は、圷の姿を見つけるとスカートの裾をつまみ優雅に会釈してみせた。
「お待ちしておりました……なんて」
「つくづく綺麗なお嬢さんだこと。オバケじゃなけりゃ口説いてるトコなんだけども」
「悪いけど、私は既に心に決めた人がいるから」
「朝日奈君かい?」
眉根をぴくりとも動かさず、萩月真優はくすりと小さく笑った。
「えぇ、彼はとても優秀な騎士だよ。私という存在を信じ戦ってくれる『正義』の騎士。自分の信じる善を守り、悪を打ち倒すことの出来る存在だよ」
「……それって正義じゃねえよな? 自分が善と認めた奴は善であり続けて、悪と見なした奴は悪であり続けるってのはそりゃ――偏見と暴力だ」
「偏見……その通りだね。そして『正 義』というカードの逆位置はそれを示してくれている。彼はその適正にピッタリというわけだよ」
自分が信ずるものを正義とすれば、自分が信じないものは全てその範疇から消えてしまう。
正義とは――道徳や道理にかなっていて正しいこと、正しい道義。ではその“正しい”とは誰が決めるのか、何が基準なのか。それを決めるのは他ならぬ正義を振りかざす“自分自身”だ。人間の思想は千差万別。殺人を良しとしないものもいれば、良しとするものだっている。一見すると極端過ぎるこの思考こそ正義の骨頂。“正義の反対は悪”と思っている人がいるかもしれないが、それはあくまで“正義側の人間”から見た話であって、本来正義と対を成すのはまた別の正義である。
「恐い恐い。だからこそ始末を命じられたってわけか」
「残念ながら任務は失敗。君はここで死んでしまったというわけさ」
「死んでしまったって、何で過去形? 俺はまだ生きてるし死ぬつもりなんてこれっぽっちもないぞ?」
「それはさておいて……だ」
「人の話を無視するなよな」
唇を尖らせるが、圷自身軽口叩く余裕も無くなってきている。無駄な時間が長引けば長引くほど状態は悪化しともすれば死に至る。こんな無駄な時間を浪費している暇はないのだが……と、圷はあることを失念していたことに気付く。
「お嬢さん……もしかしなくても、今一人?」
「ご覧の通りだけど。他に誰かいるように見える?」
乗用車のボンネットの上に腰掛けていた彼女は大仰に腕を広げてみせた。人どころか虫やネコの一匹だって見当たらない全く無人の駐車場。ここにいるのは圷自身と標的のみだった。
失念していたのは――今の彼女に戦力が無いということだった。先ほどは彼女を守る護衛がいたため手が出せなかったが、よくよく考えてみれば護衛の無いこの状況は絶好のチャンスである。
「いや……ははは。俺ってば最後の最後で逆転サヨナラホームランじゃないの」
よくもまぁ血だらけで笑っていられる。呆れる萩月を他所に圷は『愚者』をトンファーに顕現させ意気揚々とファイティングポーズを取る。
「お姫様はカードを顕現出来ないって話は聞いてたからな。この状況なら手負いの俺でも倒せるし、お仕事も果たせて一石二鳥!」
「……」
彼女はそんな彼の言葉を聞き内心でクスリと嘲笑っていた。表情には、億尾も見せず。
「なるほど。正に『愚者』の持ち主らしい展開だ。……これはとても困ったわね」
「大人しく俺に始末されてちょうだいな。その後は、君が隠している“総符目録”を回収してミッションコンプリートだ」
そのキーワードを耳にしたその瞬間、彼女の取るべき行動が決定された。袖口に忍ばせていた『月』のカードを左手に掴み、ゆっくりと彼を見据える。彼は少々息が上がっていた。白いジャージの半分が血に染まっている。傷は深い。放っておけば死ぬ。だが、萩月には彼を放っておく理由が無くなっていた。
「最期に、一つだけ質問」
「おう、三秒以内で頼むぜ」
「“総符目録”のこと、朝日奈君に話したかしら?」
「……あ? 話すも何も……もうとっくに話してるだろ? だってソレが無いと願いが叶えられないんだからよ」
「そう……」
「うし、それがお嬢さんの辞世の句ってことでいいな。そいじゃ早速成仏してもらうぜッ――」
「成仏……か」
そんなことするつもりはないし、出来るわけもない。
トンファーを構え飛び掛かる圷に対し、彼女は左手をそっと斜め上に掲げ腕全体に光を纏わせていく。中空で、驚愕に目を見開く彼の姿が良く見える。
「な……はぁッ!? おま、それ……!」
彼女は黙って、トリガーを引く。弦から射出されたのは弾丸ではなく一本の矢。風を切りながら突き進む矢はやがて寸分違わず彼の左胸を貫く。彼女がトリガーを引きっぱなしにし続けていると、番えてもいないのに連続で矢が射出されていく。何度も、何度も、何度も――。
断末魔の声は無い。彼女が左手を下ろすと同時、彼の身体がどさりと音を立てコンクリートの地面に落下した。その身体には幾本もの黒い矢が突き刺さっており、その様は人間の胸を土台とした剣山とでも言えば想像しやすいだろうか。
「確かに、朝日奈君や黒羽里天音には顕現出来ないって言ったけど……別に貴方に言った覚えはないから」
疑う心を知らないというのは美徳ではなくただの愚行。情報とは自分の耳と目で見聞きし、そして自分の意志で真偽を判断するもの。他者から得た情報をそのまま鵜呑みにしてしまうのはあまりにも“軽率”だ。
そんな軽率な行為が招いた死。萩月真優は静かに嘆息した。
「さて、後はこれを処理してお終い……と、忘れちゃいけないわね」
彼の手からトンファーを奪うと同時、『愚者』は再びタロットカードへと姿を変えていく。カードには一人の青年と一匹の犬が描かれていた。青年はぼろぼろのローブを纏い、小さな荷物を吊るした棒きれを担いでいる。犬は主であろう彼に寄り添うようにしているが、何故か青年は進行方向とは逆の方向に視線を向けている。
アルカナNo0『愚 者』。
実は、このカードは非常にリーディングの難易度が高く、他のカードに比べ特別視されることが多い。それはこのカードが他の大アルカナと違い“数”を持たない『No0』というカードであるということと、そして『愚 者』という異端な名前から端を発している。
描かれている愚者とは、一般的には“若い旅人”を指しているのだとされている。しかし旅人であるとされているのにも関わらず、イラストには着の身着のままで飛び出したかのような軽装である。このことから、彼は何も後先考えず旅に出たと考えられ、そのまま『無計画さ』『節操無し』などを逆位置の象徴とされた。
傍らの犬は青年とは逆に前を向いている。これは旅のパートナーである犬が前進する様を象徴しているとされ、青年は本来の進行方向にも、またその逆方向にも進むことが出来るとも見られ、正位置では『自由』や『型にはまらない』を表すこととなった。『愚者』とは所謂、トリックスター(神話などで言うところの、神や秩序を破る悪戯者)的なカードであると読み取られている。今回、彼では役不足だったようだけど。
「これで一枚回収……か。まだまだ先は長そうね……」
大アルカナは全部で二十二枚。今手元にあるのは自分の『月』と『正義』と、それから未だ眠る『恋人たち』『節制』『星』に、そして目覚めかけの『力』。黒羽里天音の『隠者』も――程なくしてこちら側のものとなるだろう。
「それにしても、アンフィスバエナ……か」
その名を耳にした時、柄にもなくずいぶんと洒落ていると感心してしまった。アンフィスバエナというのは、身体の両端に竜の頭部、或いは毒蛇の頭部がついているという姿の伝説上の生物。メドゥーサの血から生まれたとされ、互いが互いの頭部を喰い合うことがあるとされている。ヨーロッパなどでは紋章として描かれることの多い生物。
「随分皮肉が効いてるじゃないか……なぁ、お父様」
空はうっすらと白み始めている。
昨日という夜は過ぎ去り、また新たな一日が始まろうとしていた。
これにて、第二章終了。
そして残すはエピローグのみとなっております。
次話は今週中。
今月中に完結できそうですね。
では、待て次回。




