ずっと前から、あなたのものだった
この物語は、「神に仕える少女」として定められた運命の中で生きる一人の少女と、彼女を取り巻く不可視の存在、そして“護ること”を選んだ一人の男の記録である。
そこにあるのは、救いか、束縛か、それともただの執着か——。
答えは最初から用意されていない。 ただ、選ばれた運命の中で、それぞれが“何を信じるか”だけが残されている。
これは、正しさを語る物語ではない。 見えないものと共に生きることを選んだ、ひとつの記憶である。
神に仕える。それが私に課せられた運命だった。
物心ついた頃から、そう言い聞かされてきた。
顔も知らない神に、いつか嫁ぐのだと。
——どうして私なのか。
そう思わなかったわけじゃない。
けれど、答えを与えられることは一度もなかった。
十二月の終わり。私は徳島で生まれた。
「鈴嶋 碧」
透き通るように、自分の色で咲いてほしい——
そんな願いを込めて名付けられたらしい。
けれど、その名前に込められた願いとは裏腹に、私の人生は、最初から決められていた。
神に仕え、神に捧げられる人生。
親は寺の住職だった。
だからこそ、自分の娘が“狙われている”ことも知っていた。
そして、その神を嫌っていた。
「強情な奴だ」
そう吐き捨てるように言った父の声を、今でも覚えている。
だからだろうか。
私はその神を知らないまま、
ただ強い嫌悪感だけを抱いていた。
あの日、私は妹と二人で、あの屋敷に足を踏み入れた。
大きく、静まり返った木造の屋敷。
人の気配はないのに、どこか“見られている”ような気がしていた。
「ねえ、帰ろうよ」
妹が小さく袖を引いた。その瞬間だった。
——ギシッ。
床が、軋んだ。
次の瞬間、屋敷全体が大きく揺れた。
「地震……⁉」
思わず妹の手を強く握る。
けれど、その揺れはどこかおかしかった。
地面の奥から突き上げるようなものではなく、
まるで“内側から暴れている”ような——
揺れが、止まる。静寂が落ちた、その直後。
——バコォン‼
鼓膜を叩き潰すような爆音が、屋敷に響き渡った。
「っ……!」
息が詰まる。恐怖で、声が出ない。
コツ……コツ……
ゆっくりと、何かが近づいてくる音がした。
それは、ヒールのようでもあり、
乾いた下駄の音のようでもあった。
ササ……ッ
何かが擦れる、不気味な音。視界の奥。
白い“何か”が、揺れた。
霧のようなものが立ち込めていて、はっきりとは見えない。
けれど確かに、そこに“いる”。
その白い影の傍らに、もう一つ。
今度は、黒い影。人の形をしている。
一歩、また一歩と近づいてくる。
距離が縮まるにつれ、霧の向こうの輪郭が、少しずつ露わになっていく。
そして——
それが、姿を現した。
白い“それ”は、生き物だった。
長い蔓のようなものが、無数にうねり、
手足のように蠢いている。
理解が追いつかない。
「……っ」
声も出せず、ただ立ち尽くす私たちの前で、
黒い影——一人の男が、口を開いた。
「碧、迎えに来てやったぞ」
——どうして、名前を。
思考が止まる。次の瞬間。
白い蔓が、弾けるように伸びた。
「っ、やめ——!」
逃げる間もなかった。
腕に、足に、身体に。
冷たい蔓が絡みつく。
強く締め付けられ、息が詰まる。
「お姉ちゃん……!」
妹の声。
振り向いた瞬間、妹の身体がぐらりと崩れた。
「え……?」
蔓の先が、わずかに濡れている。
——薬。
そう気づいた時には、もう遅かった。
妹はそのまま、意識を失った。
「やめて……!」
叫んだ私を見下ろしながら、男は淡々と言った。
「お前が来なければ、このまま妹を殺す」
心臓が、凍りつく。
「嫌なら、俺について来い」
選択肢なんて、最初からなかった。
妹が運ばれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
抵抗しようにも、身体は蔓に縛られたまま動かない。
目の前に立つ男を、睨みつける。
「……最低」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
男は、何も言わなかった。
ただ一度だけ、私を見下ろした。
感情の読めない目だった。
怒っているのか、呆れているのか、それとも何も思っていないのか。
それすら分からない。
やがて、蔓がほどける。
力が抜けた身体がぐらりと傾いた瞬間、
支えられた。
「……っ」
反射的に腕を振り払おうとする。
けれど、その手は強く掴まれていた。
逃がさない、というより——
落とさないために。
「歩けるか」
低い声。
短く、それだけ。
命令のようでいて、どこか確認するようでもあった。
答えない私に、彼は小さく息を吐いた。
そして、そのまま私の手を引いた。
乱暴ではなかった。
むしろ、拍子抜けするほど、一定の力で。
「……なんで」
思わず漏れた言葉に、彼は足を止める。
「何がだ」
「……さっき、あんなことしたのに」
妹を人質に取って、脅して。
そんなことをした相手が、どうしてこんな風に触れるのか。理解が追いつかない。
しばらくの沈黙の後、彼は言った。
「お前を傷つけるつもりはない」
即答だった。迷いも、濁りもない。
だからこそ、逆に怖い。
「信用できると思ってるんですか」
「思ってない」
あっさりと返された。思わず言葉に詰まる。
「それでいい」
そう言って、また歩き出す。
その横顔は相変わらず無表情で、
何を考えているのか分からない。
けれど——
握られた手だけは、離されなかった。
強くもなく、弱くもなく。
ただ、確かにそこにある温もりだけが、
妙に現実感を持っていた。
連れてこられたのは、妙な場所だった。
地面にはいくつもの穴が空いている。
けれど、そのすべてに蓋がされていた。
白——というより、どこかくすんだ、クリーム色。
静まり返っているのに、
その下に“何か”がある気がして、落ち着かない。
「……ここは」
思わず呟くと、男は何も答えなかった。
代わりに、一つの蓋の前で足を止める。
そして——
何の躊躇いもなく、その中へと足を踏み入れた。
「……は?」
理解が追いつかない。消えた。そう見えた。
「何してる」
すぐ下から、声がした。
「お前も来い」
「え⁉」
思わず後ずさる。無理に決まっている。
何があるのかも分からない場所に、いきなり入れと言われて。
「怖いのか」
淡々とした声。
けれど、どこか試すような響きがあった。
「……違います」
反射的に否定する。本当は、怖かった。
足の先がすくんで動かない。
沈黙。
次の瞬間——
ぬっと、手が差し出された。
「ほら」
見上げると、穴の中から彼がこちらを見ていた。
「手、貸せ」
短い言葉。
命令のようでいて、無理強いはしてこない。
少しだけ、迷う。
さっきまで、妹を人質に取っていた相手だ。
信用なんて、できるはずがない。それでも。
その手を、見てしまった。
——離さない、と言っているような手だった。
「……ほんとに、大丈夫なんですか」
小さく聞くと、彼は一瞬だけ目を細めた。
「落とさない」
それだけだった。
でも、不思議と——
その言葉は、嘘じゃないと思った。
恐る恐る、手を伸ばす。指先が触れた瞬間、
ぐっと強く引き寄せられた。
「きゃっ——」
視界が反転する。一瞬の浮遊感。
そして——光。
眩しさに思わず目を閉じる。
まるで、車のヘッドライトを真正面から浴びたみたいに、強い光だった。
「しっかり掴まってろ」
耳元で声がした。
気づけば、しっかりと手を握られている。
振りほどこうと思えばできたはずなのに、
なぜか、そのままでいた。
「離すなよ。危ないからな」
さっきより少しだけ、柔らかい声。
「……はい」
小さく頷く。
その瞬間、また光が強くなる。足元の感覚が曖昧になって、世界が一瞬、揺らいだ。
怖いはずなのに。
どうしてか、さっきほどではなかった。
——この人がいるから。
そんな考えがよぎった自分に、少しだけ戸惑った。
通された部屋は、拍子抜けするほど静かだった。広いわけでも、豪華なわけでもない。
ただ椅子が、一つだけ置かれている。
窓は開け放たれていて、
潮の匂いが、ゆるやかに流れ込んでいた。
「……ここ」
足を踏み入れた瞬間、胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
けれど、知っている気がした。
見たことがある。
立っていたことがある。
ここに——
「どうした」
背後から声がする。
振り返らずに、呟いた。
「……前に、来たことがあります」
自分でも、確信はなかった。
ただ、そう“思ってしまった”。
少しの沈黙のあと、男が小さく息を吐く。
「覚えてるのか」
その声は、ほんのわずかに揺れていた。
ゆっくりと、部屋の中を見渡す。
椅子。
開いた窓。
潮の匂い。
——風。
頬を撫でたその感触で、
何かが、引っかかった。
頭の奥が、じん、と熱を持つ。
断片が、浮かぶ。
幼い自分。
ここに立って、外を見ている。
隣に、誰かがいる。
でも、顔が見えない。
「……だれ」
思わず口に出る。
思い出したいのに、思い出せない。
もどかしさに眉を寄せた時——
「ここは変えていない」
魁士の声が、静かに落ちてきた。
「お前が望んだからだ」
ゆっくりと、振り返る。
「……私が?」
「ああ」
彼は、まっすぐこちらを見ていた。
「また来るから、その時思い出せるように。何も変えないでくれってな」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、強く脈打つ。
——“また来るから”
その響きに、覚えがあった。
さっきまで曖昧だった記憶が、
少しだけ、形を持つ。
「……私、ここで」
声が震える。
「誰かと……約束、しました」
男の目が、わずかに見開かれる。
けれど、それ以上は何も言わない。
ただ、待っている。
思い出すのを。
私はもう一度、窓の外に目を向けた。
沈みかけた夕陽が、海を赤く染めている。
その光景を見た瞬間——
胸の奥に、はっきりとした感情が蘇った。
「……かわいそう」
ぽつりと零れる。
自分でも、どうしてそう思ったのか分からない。
けれど、確かにそう感じた。
沈んでいく夕陽が、
海に呑み込まれてしまうように見えて。
その時。
低い声が、重なる。
「夕陽は沈んでるんじゃない」
はっとして振り返る。
彼が、すぐそばにいた。
「休んでるだけだ」
その言葉。
その声。
その言い方。
——知ってる。
頭の奥で、何かが弾けた。
「……あ」
視界が、揺れる。
「俺が守ってやるって、言っただろ」
その一言で、すべてが繋がった。
幼い日の景色。
隣にいた“誰か”。
交わした言葉。
全部——
「……あなた、だったんだ」
かすれた声でそう言うと、
彼は、初めて表情を崩した。
泣きそうな顔で、笑っていた。
しばらくの間、何も言えなかった。
思い出した記憶の余韻が、まだ胸の奥に残っている。
目の前にいるのが、その“誰か”だと分かっても、
どうしていいか分からない。
沈黙が落ちる。
その空気に耐えきれず、私は小さく口を開いた。
「……あの」
男が、こちらを見る。
相変わらず、感情の読みづらい目。
けれどさっきより、少しだけ柔らかい気がした。
「一つ、いいですか」
「ああ」
短い返事。
それだけなのに、なぜか少し安心する。
「……あなたの名前、教えてください」
自分でも、少しおかしなことを言っていると思った。
さっき、思い出したばかりなのに。
それでも——
ちゃんと、自分の意思で知りたかった。
彼は一瞬、目を見開いた。
予想していなかったのかもしれない。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……覚えてないのか」
責めるような声ではなかった。
どこか、確かめるような響き。
「すみません」
視線を落とす。
「さっき、思い出したのは……ほんの一部で」
「顔も、名前も……ちゃんとは」
言い切る前に、言葉が止まる。
少しだけ、怖かった。
もしここで失望されたら、と思うと。
しばらくの沈黙。
そのあと——
「……魁士」
静かな声が落ちてきた。
顔を上げる。
「海神魁士」
ゆっくりと、噛みしめるように告げられる名前。
その響きが、胸の奥にすとんと落ちた。
「……魁士さん」
確かめるように呼ぶ。
その瞬間、彼の表情がわずかに揺れた。
驚いたような、
それでいて——
どこか、嬉しそうな。
「もう一度、聞けてよかった」
ぽつりと、そう言った。
その意味を考える前に、
彼はいつもの表情に戻っていた。
「好きに呼べ」
ぶっきらぼうな言い方。
でも、さっきより少しだけ優しい。
「……じゃあ、魁士さんって呼びます」
そう言うと、彼は小さく息を漏らした。
「前と同じだな」
「え?」
「いや、なんでもない」
それ以上は何も言わなかった。
けれど——
ほんのわずかに口元が緩んだのを、私は見逃さなかった。
屋敷での生活は、思っていたよりも穏やかだった。
用意される食事は温かく、
部屋は常に整えられている。
不自由は、何一つなかった。
——それでも。
夜になると、落ち着かなくなる。
灯りを落とした途端、
部屋の空気が変わる気がするのだ。
静かすぎる。
息遣い一つが、やけに大きく聞こえる。
布団に入って、目を閉じる。
けれど、眠れない。
理由は分かっている。
——視線。
どこからか、見られている気がする。
天井か。
壁の向こうか。
それとも——
考えたところで、分かるはずもない。
「……気のせい、だよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
返事は、ない。
当たり前なのに、その“当たり前”が妙に怖かった。
その夜。
うとうとと、意識が落ちかけた時だった。
ふわり、と。
頭に、何かが触れた。
「……っ」
一瞬で目が覚める。
ゆっくりと、身体を起こす。
部屋の中は、暗いまま。
誰も、いない。
襖も閉まっている。
風も、入っていない。
それなのに——
確かに、撫でられた感触だけが残っていた。
夢、だったのか。
そう思おうとする。
けれど、妙に生々しい。
恐る恐る、部屋を見渡す。
何もない。
何も、変わっていない。
「……誰か、いるんですか」
声が、わずかに震えた。
当然、返事はない。
沈黙だけが、重く落ちる。
そのまま、朝まで眠ることはできなかった。
翌日。
給仕の眞栄田に、それとなく聞いてみた。
「……この部屋って、夜、誰か入ったりしますか」
一瞬だけ、間があった。
ほんの、わずかに。
「いいえ」
すぐに返ってきた答え。
穏やかな笑顔。
けれど——
どこか、引っかかる。
「護衛の方は、部屋の前におりますが」
「中に入ることはありません」
言葉は自然なのに、
なぜかそれ以上聞けなかった。
「……そう、ですか」
小さく頷く。
その様子を見ていた夜高が、くすりと笑った。
「怖い夢でも見ましたか?」
軽い調子。
冗談のように。
「……そんなところです」
曖昧に答えると、
それ以上は何も聞いてこなかった。
——けれど。
その日の夜も。
やはり、同じだった。
眠りに落ちかけた、その時。
また、触れる。
今度は、少しだけはっきりと。
優しく、撫でるように。
まるで——大切なものを扱うみたいに。
「……魁士さん?」
思わず名前を呼ぶ。
返事はない。
けれど。
なぜか、少しだけ安心してしまった自分がいた。
頭を撫でるその感触は、やはり優しかった。
けれど——
どこか、違う。
魁士の手とは、違う気がした。
温度が、少し低い。
人のものより、わずかに静かで、
まるで水に触れているような感覚。
「……だれ」
声に出した瞬間、
ぴたりと、その感触が止まった。
空気が、張り詰める。
次の瞬間——
すっと、何かが離れた気配。
慌てて周囲を見渡す。
やはり、誰もいない。
けれど。
さっきまで確かに“いた”ものの気配だけが、
部屋の隅に、わずかに残っている気がした。
まるで——
こちらを、見ているように。
魁士と顔を合わせた時、ふと聞いてみた。
「……この屋敷って、私たち以外にも誰かいるんですか」
一瞬。
本当に一瞬だけ、彼の動きが止まった。
「どうしてそう思う」
「……なんとなく、です」
視線を逸らすと、彼は少しだけ黙った。
そして。
「気にするな」
それだけ言った。
否定しなかった。
また今夜もそれは来た——
頭を撫でるその感触は、やはり優しかった。
けれど——
やはりどこか、違う。
人の手とは思えない。
温度が、わずかに低い。
それに、気配が薄い。
すぐそこにいるはずなのに、
“存在している感じ”がしない。
「……だれ」
小さく声を出した瞬間、
ぴたり、と動きが止まった。
空気が、張り詰める。
まるで“見つかった”みたいに。
そのあと、
すっと何かが離れていく気配。
慌てて身体を起こす。
「待って……!」
伸ばした手は、空を切った。
部屋の中には、やはり誰もいない。
けれど。
襖の向こう——廊下側。
ほんの一瞬だけ、気配がした。
“立っている”ような。
見張るように。
翌日。
意を決して、尋ねた。
「……私の部屋の前って、夜、護衛の方以外誰かいるんですか」
眞栄田は、いつものように微笑んだまま頷く。
「いいえ。以前もお答えした通り護衛の者だけです」
「中に入ることは?」
「ありません」
即答だった。
迷いのない声。
けれど——
「絶対に?」
思わず、重ねて聞いてしまう。
その瞬間。
ほんのわずかに、空気が止まった。
「……原則としては」
言い直された言葉。
胸が、ざわつく。
「状況によっては、例外もございます」
「例外……?」
問い返すと、眞栄田はそれ以上答えなかった。
ただ、穏やかに微笑むだけ。
まるで——
“それ以上は聞くな”と言うように。
「……護衛って、何人いるんですか」
そう聞いた時、魁士は少しだけ間を置いた。
「数えるものじゃない」
「え?」
「気にするな」
それだけだった。
その夜も、同じだった。
眠りに落ちかけた、その時。
また——触れる。
今度は、はっきりと。
指先が、髪を梳くようにゆっくりと動く。
驚くほど優しい。
まるで壊れ物を扱うみたいに。
「……また」
小さく呟く。
怖いはずなのに。
なぜか、前よりも拒絶できなかった。
その手が、少しだけ止まる。
まるで、言葉を理解しているみたいに。
「……あなた、護衛なんですか」
返事はない。
けれど。
一瞬だけ、触れ方が変わった。
ほんのわずかに——近づく。
距離を詰めるように。
息を呑む。
怖い。
でも、逃げようとは思わなかった。
「……私のこと、見てるんですか」
その問いに。
今度は、はっきりと反応があった。
指先が、ぴたりと止まる。
そして——
ゆっくりと、もう一度だけ髪に触れた。
肯定するみたいに。
「……最近、眠れてるか」
唐突に聞かれる。
「え?」
「顔色が悪い」
視線を逸らしながら言う魁士に、少し戸惑う。
「……大丈夫です」
そう答えると、彼はしばらく黙った。
「……何かあれば言え」
それだけ言って、視線を外す。
けれど——
ほんの一瞬だけ。
周囲を警戒するように目を細めたのを、私は見逃さなかった。
白無垢の裾が、畳を擦る。
そのかすかな音だけが、やけに耳に残った。
「……お綺麗ですよ、碧様」
眞栄田の言葉に、小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
鏡の中の自分は、まるで別人だった。
紅を引かれ、整えられた髪。
白に包まれた姿は、どこか現実感がない。
——本当に、これが私なのだろうか。
そんな違和感が、胸の奥に残る。
「緊張されていますか?」
使いの夜高さんが柔らかく問いかけてくる。
「……少しだけ」
正直に答えると、二人は小さく微笑んだ。
「無理もありません」
「お相手の方も、きっと同じですよ」
その言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
けれど——
やはり落ち着かない。
顔も知らない相手と、今日、夫婦になる。
それがどういうことなのか、まだ実感が湧かない。
「……どんな方なんでしょう」
思わず零れた言葉に、二人は一瞬だけ黙った。
ほんの、わずかな間。
「……お会いになれば、分かりますよ」
夜高がそう言って、にこりと笑う。
それ以上は、何も教えてくれなかった。
式の場へと案内される。
静まり返った空間。
すでに席に着かされ、ただ待つだけの時間。
やけに長く感じた。
手のひらに、じんわりと汗が滲む。
その時だった。
——視線。
背後から、何かに見られている気がした。
びくりと肩が揺れる。
ゆっくりと、振り返ろうとする。
けれど。
なぜか、途中で止まった。
振り返ってはいけない気がした。
理由は分からない。
ただそうしなければいけない気がした。
息を整え、前を向く。
その直後。
ふわり、と。
ほんの一瞬だけ、髪に触れる感覚。
「……っ」
反射的に目を見開く。
けれど、周囲には誰もいない。
気のせい。
そう思おうとするのに、
胸の奥がざわついたまま離れない。
——いる。
ここに。
ずっと、近くに。
やがて。
足音が、一つ。
静かに、近づいてくる。
思わず息を止めた。
その音が、自分の隣で止まる。
視線を、ゆっくりと横へ向ける。
そこに立っていたのは——
初めて見るはずの人だった。
けれど。
「……あ」
なぜか、胸が強く脈打つ。
知らないはずなのに。
どこかで、知っている気がした。
その人は、何も言わない。
ただ静かに座り、前を向いた。
その横顔は、感情が読み取れないほど静かで。
それでも——
ほんのわずかに、空気が柔らいだ気がした。
「……大丈夫だ」
小さな声が、隣から落ちてくる。
思わず、そちらを見る。
「ちゃんと、ここにいる」
その言葉は、初めて聞くはずなのに。
不思議と、怖さを和らげた。
「……はい」
自然と、頷いていた。
その瞬間。
また、視線を感じる。
今度は、はっきりと。
すぐ後ろ。
さっきよりも、近い。
まるで——
見守るように。
あるいは。
離れないように、確かめるように。
背筋に、ぞくりとしたものが走る。
けれど。
なぜか、ほんの少しだけ——
安心している自分もいた。
隣に座ったその人は、静かに前を向いたままだった。
距離は近いはずなのに、
なぜか不用意に見てはいけない気がする。
それでも——
気にならないわけがなかった。
「……あの」
小さく声をかける。
その人が、わずかにこちらを向いた。
その瞬間。
時間が、止まったような気がした。
見覚えのある顔。
いや、そんなはずはない。
でも——
「……え」
喉の奥で、声にならない音が漏れる。
「……どうした」
低い声。
聞き慣れた声。
頭の奥で、何かが繋がる。
「……魁士、さん?」
確かめるように名前を呼ぶ。
その人は、一瞬だけ目を細めた。
「やっと気づいたか」
わずかに、口元が緩む。
それで、確信した。
「え……え、なんで……」
思考が追いつかない。
言葉がうまく出てこない。
「私の、結婚相手って……」
「俺だ」
あまりにもあっさりと、言われる。
息を呑む。
「言ってなかったか」
「聞いてません!!」
思わず声が大きくなる。
すぐに口を押さえる。
場の空気を思い出して、慌てて小さく言い直す。
「……聞いてませんけど……!」
「そうか」
まるで他人事みたいな返事。
「悪かったな」
全然悪びれていない。
それが余計に腹立たしい。
「そういう問題じゃなくて……!」
言いかけて、止まる。
胸が、うるさい。
さっきまでの不安が、全部ひっくり返っていく。
怖かったはずなのに。
知らない人と結婚するのが嫌だったはずなのに。
——相手が魁士だと分かった瞬間、
それが、少しだけ和らいだ。
その事実に、自分で戸惑う。
「……なんで、言ってくれなかったんですか」
小さく呟くと、
魁士は少しだけ黙った。
「言えば、お前はどうした」
「え……」
答えに詰まる。
確かに。
最初に知らされていたら——
逃げていたかもしれない。
拒絶していたかもしれない。
「……だろ」
見透かしたように言われる。
悔しいのに、否定できない。
「でも……」
何か言い返そうとして、言葉が見つからない。
その時。
「安心したか」
不意に、そんなことを聞かれる。
顔を上げる。
真っ直ぐな視線。
逃げ場がない。
「……少しだけ」
観念して、そう答える。
ほんのわずかに、魁士の表情が緩んだ。
その瞬間。
——ぞくり。
背後から、強い気配。
さっきよりも、はっきりと。
思わず肩が揺れる。
「……どうした」
魁士が怪訝そうに見る。
「……いえ」
首を振る。
言えなかった。
“今も誰かに見られている”なんて。
けれど——
確かにそこに“いる”ものは、
先ほどよりも、はっきりと存在を主張していた。
まるで。
何かに、反応したみたいに。
夜は、思っていたよりも静かだった。
賑やかだったはずの屋敷が、嘘みたいに落ち着いている。
用意された部屋に通され、
私はただ、座って待っていた。
指先が、落ち着かない。
畳の縁をなぞっては、離す。
その繰り返し。
——魁士と、二人きり。
そう考えるだけで、妙に意識してしまう。
やがて、襖が静かに開いた。
「……待たせたな」
聞き慣れた声。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
「いえ……」
顔を上げると、魁士が入ってきていた。
昼間と同じはずなのに、
どこか違って見える。
距離が近いせいかもしれない。
「……その」
何か言おうとして、言葉に詰まる。
こんな状況で、何を話せばいいのか分からない。
沈黙。
けれど、不思議と居心地は悪くなかった。
魁士が、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
その動きに、少しだけ息を呑む。
「そんなに緊張するな」
低い声が落ちる。
「何もしない」
「え」
思わず顔を上げる。
「……そう、なんですか」
拍子抜けしたような、
それでいて少しだけ安心したような。
複雑な気持ちになる。
魁士は小さく息を吐いた。
「無理に進めるつもりはない」
「お前が嫌なら、それでいい」
その言葉は、思っていたよりずっと優しかった。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「……ありがとうございます」
小さくそう言うと、
彼はほんの一瞬だけ、目を細めた。
その時。
——ぞくり。
背筋に、冷たいものが走る。
空気が、変わった。
さっきまでとは違う。
重い。
「……?」
思わず、視線が揺れる。
部屋の隅。
暗がり。
誰もいないはずの場所。
それでも——
“いる”。
はっきりと、分かる。
「どうした」
魁士の声で、我に返る。
「……いえ」
首を振る。
言えなかった。
この場に、もう一つ“何か”がいるなんて。
その瞬間。
ふわり、と。
また、触れられた。
今度は——肩。
びくりと身体が跳ねる。
「碧?」
魁士が眉を寄せる。
「……な、なんでもないです」
咄嗟に取り繕う。
けれど、誤魔化せていないのは自分でも分かった。
触れているそれは、動かない。
ただ、そこにある。
まるで——
“離さない”みたいに。
呼吸が浅くなる。
怖い。
それなのに。
完全に拒絶できない自分がいる。
「……顔色が悪い」
魁士が、手を伸ばす。
頬に触れられる。
温かい。
確かな、人の温度。
その瞬間。
肩にあった“何か”が、すっと離れた。
はっきりと分かるほどに。
まるで——
奪われたみたいに。
息が止まる。
「……やっぱり、今日は休め」
魁士の声が、少し低くなる。
「無理するな」
その言葉に、小さく頷く。
けれど。
視線だけは、どうしても動かせなかった。
さっきまで“いた”場所から。
目を離すことが、できなかった。
あれからしばらくは、穏やかな日々が続いた。
夜に感じていた“何か”も、
気づけばほとんど現れなくなっていた。
魁士と過ごす時間が増えたからかもしれない。
言葉は多くない。
それでも、隣にいるだけで落ち着く時間があった。
——あの違和感さえなければ。
そう思いかけて、やめる。
もう、気にしなくていいのかもしれない。
そう思い始めていた。
けれど。
その変化は、唐突だった。
「……今日は遅くなる」
ある日、魁士がそう言った。
「仕事が立て込んでいる」
「そう、ですか」
少しだけ、残念に思った自分に気づく。
「先に休め」
短い言葉。
それでも、いつも通りの声音に少し安心する。
「はい」
小さく頷いた。
その夜。
久しぶりに、一人で眠る。
部屋は、静かだった。
静かすぎるほどに。
布団に入り、目を閉じる。
——大丈夫。
もう、何も起きない。
そう思った、次の瞬間。
ふわり、と。
髪に触れる感触。
「……っ」
息が止まる。
忘れかけていた感覚。
いや。
違う。
前よりも、はっきりしている。
ゆっくりと、撫でる指先。
迷いがない。
まるで——
“待っていた”みたいに。
「……来てたの」
思わず、口に出る。
返事はない。
けれど。
その手が、一瞬だけ止まった。
「……ずっと?」
今度は、はっきりと止まる。
そして——
ゆっくりと、もう一度触れてきた。
肯定するように。
喉が、ひくりと動く。
怖い。
それなのに。
完全に拒絶できない。
それどころか——
「……なんで」
少しだけ、寂しさに似た感情が混ざる。
その瞬間。
触れていた手が、強くなる。
今までで一番はっきりと。
まるで、何かに反応するみたいに。
「……っ」
息を呑む。
その感触は、優しいままなのに。
どこか——
“譲らない”意思を感じた。
翌日。
魁士は、まだ戻っていなかった。
その夜も、同じだった。
いや——
違う。
今までで、一番はっきりしていた。
髪に触れる指先。
肩に置かれる感触。
逃げ場がないほど、近い。
「……もう、やめて」
小さく声を出す。
震えていた。
怖いからじゃない。
分からないからだ。
「……あなた、誰なの」
初めて、はっきりと問う。
沈黙。
いつもなら、それで終わるはずだった。
けれど——
その夜は違った。
ぴたり、と動きが止まる。
空気が、張り詰める。
そして。
——すぐ、そばに。
“いる”と分かった。
見えないのに。
確かに、目の前に立っている。
息が、かかる距離で。
「……っ」
身体が強張る。
逃げられない。
逃げたくないわけじゃないのに。
足が、動かなかった。
その時。
ふ、と。
声がした。
直接、耳に届いたわけじゃない。
頭の奥に、落ちてくるような声。
『……守る』
息を呑む。
初めて聞いたはずなのに。
どこかで知っている気がした。
「……守るって、何を」
震える声で問い返す。
一拍の間。
そして――
『お前を』
はっきりとした意思。
迷いのない言葉。
「……どうして」
思わず聞く。
『……離れるな』
質問の答えにはなっていない。
けれど。
そこにあるのは、確かな執着だった。
その瞬間。
——ガラリ。
勢いよく襖が開いた。
「碧!」
魁士の声。
振り返る。
そこに立っていたのは、見慣れた姿。
けれど、表情は今まで見たことがないほど険しかった。
「下がれ」
低く、鋭い声。
それが、私に向けられたものではないとすぐに分かる。
空気が、変わる。
今まで感じていた“何か”が、わずかに揺れた。
「……まだ出てくるなと言ったはずだ」
魁士の視線は、まっすぐ“何もない場所”を捉えている。
見えている。
あれが。
「……これ、護衛じゃないんですか」
思わず問いかける。
魁士が、わずかに目を伏せた。
その沈黙が、答えだった。
「……護衛だ」
やがて、そう言う。
「だが——」
言葉が、途中で止まる。
その瞬間。
ぐっと、何かが近づいた。
私のすぐ後ろに。
「……っ」
息が詰まる。
魁士の表情が、さらに険しくなる。
「……碧から離れろ」
明確な拒絶。
その言葉に反応するように、
空気が、わずかに震えた。
そして。
『……拒むな』
頭の奥に、再び声。
さっきよりも、はっきりと。
「……拒んでるのは、お前だ」
魁士の声が低く落ちる。
「それは“守る”じゃない」
一歩、踏み出す。
「ただの執着だ」
その言葉で、空気が一変した。
今まで優しかった“何か”が、
ほんのわずかに歪む。
冷たい。
重い。
変わった。
「……やめて」
思わず声が出る。
どちらに向けたのか、自分でも分からない。
その一言ですべてが、止まった。
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて、すっと。
気配が、離れていく。ゆっくりと。
名残を残すように。
最後にもう一度だけ、そっと触れて——
消えた。消えた、はずだった。
けれど——魁士は動かなかった。
視線は、まだ“そこ”を捉えている。
「……逃がすと思うか」
低く、押し殺した声。
その瞬間。
空気が、歪んだ。
何もないはずの場所に、
“形”が生まれる。
揺らぐ影。
人のようで、人ではない。
「……っ」|
思わず息を呑む。
——初めて、見えた。
それは、私のすぐそばにいた。
ずっと。
「碧、下がれ」
魁士の声に、はっとする。
言われるままに、一歩下がる。
その動きに反応するように、
影がわずかに揺れた。
まるで、追おうとするみたいに。
「動くな」
鋭い一声。
同時に魁士が手をかざす。
床に、淡い光が走る。
見えなかった線が、浮かび上がる。
円を描くように。
その中に、“それ”が閉じ込められる。
『……邪魔をするな』
頭の奥に、低い声。
今までよりも、はっきりとした感情。
「邪魔をしているのはお前だ」
魁士の声がぶつかる。
一歩、踏み込む。
「それ以上、碧に触れるな」
空気が震える。
“それ”が、わずかに形を歪める。
『……離さない』
はっきりとした拒絶。
「……そうか」
魁士は短く答えた。
その表情が、静かに変わる。
決意の色。
「なら、縛る」
その言葉と同時に。
光が強くなる。
円の中の影が、揺れる。
歪む。暴れる。
けれど、出られない。
「これは護衛だ」
低く、言い切る。
「だが、主は俺だ」
空気が、ぴたりと止まる。
『……違う』
わずかな否定。
「違わない」
一歩、さらに踏み込む。
「命令する」
その声は、今までで一番強かった。
「碧に害をなすな」
「碧に触れるな」
「碧を——縛るな」
一つ一つ、刻むように言う。
そのたびに、光が強くなる。
“それ”の動きが、鈍くなる。
『……』
声が、消える。
完全な沈黙。
やがて。
すっと、形が崩れた。
光の中に、溶けるように。
消えていく。
最後に。
ほんの一瞬だけ。
こちらを見た気がした。
——何かを、伝えるみたいに。
そして、完全に消えた。
「……もう、大丈夫だ」
魁士がそう言う。
けれど。
私は、すぐに頷けなかった。
なぜなら——
さっき消えたはずの“気配”が、
ほんのわずかに、まだ残っている気がしたから。
静けさが、戻っていた。
さっきまでの気配が嘘みたいに、部屋は穏やかだった。
「……もう、大丈夫だ」
魁士の声。
その言葉に、ようやく現実に引き戻される。
「……はい」
小さく頷く。
けれど。
胸の奥のざわつきだけは、消えなかった。
完全に、いなくなったわけじゃない。
そう、分かってしまったから。
それからしばらくして。
屋敷は、また静かな日常を取り戻した。
魁士は相変わらず忙しく、
それでも時間を見つけては顔を出してくれる。
言葉は少ない。
けれど、その一つ一つが確かだった。
「無理はするな」
「困ったら呼べ」
短い言葉。
それだけで、十分だった。
「……はい」
自然と、そう返せるようになっていた。
夜。
一人で眠る時間。
あれ以来、はっきりと触れられることはなくなった。
けれど。
時々。
本当に、時々だけ。
ふとした瞬間に、思う。
——いる。
見えないだけで。
遠くなっただけで。
完全には、消えていない。
「……いるの?」
小さく、呟く。
返事はない。
当たり前だ。
そう思って、目を閉じる。
その時。
ほんの一瞬だけ。
風もないのに、髪が揺れた。
触れられたほどではない。
けれど。
確かに、そこに“何か”があった。
「……そっか」
小さく、息を吐く。
怖くはなかった。
もう、前みたいには。
「……ありがとう」
誰に向けたのか、自分でも分からない。
それでも、言葉にした。
そのまま、ゆっくりと目を閉じる。
翌朝。
襖を開けると、魁士が立っていた。
「……起きてたのか」
「今、起きたところです」
そう答えると、彼は小さく頷いた。
少しだけ、間が空く。
「……何かあったか」
ふと、そんなことを聞かれる。
驚いて顔を上げる。
「どうして、そう思うんですか?」
「……なんとなく、だ」
相変わらず、曖昧な答え。
けれど。
その“なんとなく”が、外れたことはない。
少しだけ、考える。
そして。
「……何もありません」
そう答えた。
嘘ではない。
本当に、何も起きていない。
ただ——
消えていないだけだ。
「そうか」
魁士はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、いつも通りの距離でそこにいる。
手を伸ばせば、触れられる距離。
確かな、存在。
その背後。
ふと、視線を感じた気がした。
振り返らない。
もう、確かめる必要はないから。
分かっている。
ここには、二つの“守り”がある。
一つは、言葉をくれるもの。
もう一つは、言葉を持たないもの。
どちらも違って。
どちらも、確かにそこにある。
「……行くぞ」
魁士の声に、頷く。
そのまま、一歩踏み出す。
もう、迷いはなかった。
それでも。
ほんのわずかにだけ。
背中に、視線のようなものを感じながら。
その夜。
久しぶりに、魁士が部屋にいた。
「……今日は、ここにいる」
短い一言。
それだけで、少しだけ空気が変わる。
「……そうですか」
隣に座る距離。
以前よりも、ずっと自然だった。
沈黙。
けれど、気まずさはない。
「……怖くないか」
不意に、そんなことを聞かれる。
「何がですか?」
「この屋敷も、俺も」
少しだけ、考える。
そして、小さく首を振った。
「前よりは、怖くないです」
正直な気持ちだった。
「……そうか」
魁士は、それ以上何も言わなかった。
けれど。
ほんの少しだけ、表情が緩んだ気がした。
しばらくして。
「……手、貸せ」
そう言われる。
少しだけ戸惑いながら、手を伸ばす。
触れられる。
温かい。
あの時と同じ、人の温度。
けれど。
今はもう、強張らなかった。
「……冷えてるな」
「そう、ですか?」
「無理するな」
短い言葉。
でも、その手は離れない。
握られたまま。
静かに、時間が流れる。
ふと、思い出す。
あの“もう一つの存在”。
言葉を持たない、守り。
それとは違う。
今、ここにあるのは——
選べる距離。
離れることも、できる距離。
それでも。
「……このままでいいです」
自分から、そう言った。
魁士が、わずかにこちらを見る。
「……あぁ」
それだけで、十分だった。
そのまま、静かに目を閉じる。
手の温度を感じながら。
ほんの一瞬だけ。
遠くで、気配が揺れた気がした。
けれど。
もう、振り返らなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、「見えないもの」と「見えてしまったもの」の間で揺れる感情を軸に書きました。
誰かに守られることは、ときに安心で、ときに恐ろしい。 それがたとえ優しさから来ていたとしても、必ずしも“正しさ”とは限らない。
碧にとっての選択は、きっと簡単なものではありません。 そして魁士もまた、自分の立ち位置を完全に理解しているわけではありません。
それでも二人は、それぞれの形で「そこにいること」を選びました。
もしこの物語の中に、ほんの少しでも“静かな違和感”や“温度のある怖さ”を感じていただけたなら、とても嬉しく思います。




