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ずっと前から、あなたのものだった

作者: 伊澄
掲載日:2026/04/29

この物語は、「神に仕える少女」として定められた運命の中で生きる一人の少女と、彼女を取り巻く不可視の存在、そして“護ること”を選んだ一人の男の記録である。

そこにあるのは、救いか、束縛か、それともただの執着か——。

答えは最初から用意されていない。 ただ、選ばれた運命の中で、それぞれが“何を信じるか”だけが残されている。

これは、正しさを語る物語ではない。 見えないものと共に生きることを選んだ、ひとつの記憶である。

神に仕える。それが私に課せられた運命だった。

物心ついた頃から、そう言い聞かされてきた。

顔も知らない神に、いつか嫁ぐのだと。

——どうして私なのか。

そう思わなかったわけじゃない。

けれど、答えを与えられることは一度もなかった。

十二月の終わり。私は徳島で生まれた。

鈴嶋 碧(すずしま みどり)

透き通るように、自分の色で咲いてほしい——

そんな願いを込めて名付けられたらしい。

けれど、その名前に込められた願いとは裏腹に、私の人生は、最初から決められていた。

神に仕え、神に捧げられる人生。

親は寺の住職だった。

だからこそ、自分の娘が“狙われている”ことも知っていた。

そして、その神を嫌っていた。

「強情な奴だ」

そう吐き捨てるように言った父の声を、今でも覚えている。

だからだろうか。

私はその神を知らないまま、

ただ強い嫌悪感だけを抱いていた。

 あの日、私は妹と二人で、あの屋敷に足を踏み入れた。

大きく、静まり返った木造の屋敷。

人の気配はないのに、どこか“見られている”ような気がしていた。

「ねえ、帰ろうよ」

妹が小さく袖を引いた。その瞬間だった。

——ギシッ。

床が、軋んだ。

次の瞬間、屋敷全体が大きく揺れた。

「地震……⁉」

思わず妹の手を強く握る。

けれど、その揺れはどこかおかしかった。

地面の奥から突き上げるようなものではなく、

まるで“内側から暴れている”ような——

揺れが、止まる。静寂が落ちた、その直後。

——バコォン‼

鼓膜を叩き潰すような爆音が、屋敷に響き渡った。

「っ……!」

息が詰まる。恐怖で、声が出ない。

コツ……コツ……

ゆっくりと、何かが近づいてくる音がした。

それは、ヒールのようでもあり、

乾いた下駄の音のようでもあった。

ササ……ッ

何かが擦れる、不気味な音。視界の奥。

白い“何か”が、揺れた。

霧のようなものが立ち込めていて、はっきりとは見えない。

けれど確かに、そこに“いる”。

その白い影の傍らに、もう一つ。

今度は、黒い影。人の形をしている。

一歩、また一歩と近づいてくる。

距離が縮まるにつれ、霧の向こうの輪郭が、少しずつ露わになっていく。

そして——

それが、姿を現した。

白い“それ”は、生き物だった。

長い(つる)のようなものが、無数にうねり、

手足のように(うごめ)いている。

理解が追いつかない。

「……っ」

声も出せず、ただ立ち尽くす私たちの前で、

黒い影——一人の男が、口を開いた。

(みどり)、迎えに来てやったぞ」

——どうして、名前を。

思考が止まる。次の瞬間。

白い蔓が、弾けるように伸びた。

「っ、やめ——!」

逃げる間もなかった。

腕に、足に、身体に。

冷たい蔓が絡みつく。

強く締め付けられ、息が詰まる。

「お姉ちゃん……!」

妹の声。

振り向いた瞬間、妹の身体がぐらりと崩れた。

「え……?」

蔓の先が、わずかに濡れている。

——薬。

そう気づいた時には、もう遅かった。

妹はそのまま、意識を失った。

「やめて……!」

叫んだ私を見下ろしながら、男は淡々と言った。

「お前が来なければ、このまま妹を殺す」

心臓が、凍りつく。

「嫌なら、俺について来い」

選択肢なんて、最初からなかった。

妹が運ばれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。

抵抗しようにも、身体は蔓に縛られたまま動かない。

目の前に立つ男を、睨みつける。

「……最低」

絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

男は、何も言わなかった。

ただ一度だけ、私を見下ろした。

感情の読めない目だった。

怒っているのか、呆れているのか、それとも何も思っていないのか。

それすら分からない。

やがて、蔓がほどける。

力が抜けた身体がぐらりと傾いた瞬間、

支えられた。

「……っ」

反射的に腕を振り払おうとする。

けれど、その手は強く掴まれていた。

逃がさない、というより——

落とさないために。

「歩けるか」

低い声。

短く、それだけ。

命令のようでいて、どこか確認するようでもあった。

答えない私に、彼は小さく息を吐いた。

そして、そのまま私の手を引いた。

乱暴ではなかった。

むしろ、拍子抜けするほど、一定の力で。

「……なんで」

思わず漏れた言葉に、彼は足を止める。

「何がだ」

「……さっき、あんなことしたのに」

妹を人質に取って、脅して。

そんなことをした相手が、どうしてこんな風に触れるのか。理解が追いつかない。

しばらくの沈黙の後、彼は言った。

「お前を傷つけるつもりはない」

即答だった。迷いも、濁りもない。

だからこそ、逆に怖い。

「信用できると思ってるんですか」

「思ってない」

あっさりと返された。思わず言葉に詰まる。

「それでいい」

そう言って、また歩き出す。

その横顔は相変わらず無表情で、

何を考えているのか分からない。

けれど——

握られた手だけは、離されなかった。

強くもなく、弱くもなく。

ただ、確かにそこにある温もりだけが、

妙に現実感を持っていた。

連れてこられたのは、妙な場所だった。

地面にはいくつもの穴が空いている。

けれど、そのすべてに蓋がされていた。

白——というより、どこかくすんだ、クリーム色。

静まり返っているのに、

その下に“何か”がある気がして、落ち着かない。

「……ここは」

思わず呟くと、男は何も答えなかった。

代わりに、一つの蓋の前で足を止める。

そして——

何の躊躇いもなく、その中へと足を踏み入れた。

「……は?」

理解が追いつかない。消えた。そう見えた。

「何してる」

すぐ下から、声がした。

「お前も来い」

「え⁉」

思わず後ずさる。無理に決まっている。

何があるのかも分からない場所に、いきなり入れと言われて。

「怖いのか」

淡々とした声。

けれど、どこか試すような響きがあった。

「……違います」

反射的に否定する。本当は、怖かった。

足の先がすくんで動かない。

沈黙。

次の瞬間——

ぬっと、手が差し出された。

「ほら」

見上げると、穴の中から彼がこちらを見ていた。

「手、貸せ」

短い言葉。

命令のようでいて、無理強いはしてこない。

少しだけ、迷う。

さっきまで、妹を人質に取っていた相手だ。

信用なんて、できるはずがない。それでも。

その手を、見てしまった。

——離さない、と言っているような手だった。

「……ほんとに、大丈夫なんですか」

小さく聞くと、彼は一瞬だけ目を細めた。

「落とさない」

それだけだった。

でも、不思議と——

その言葉は、嘘じゃないと思った。

恐る恐る、手を伸ばす。指先が触れた瞬間、

ぐっと強く引き寄せられた。

「きゃっ——」

視界が反転する。一瞬の浮遊感。

そして——光。

眩しさに思わず目を閉じる。

まるで、車のヘッドライトを真正面から浴びたみたいに、強い光だった。

「しっかり掴まってろ」

耳元で声がした。

気づけば、しっかりと手を握られている。

振りほどこうと思えばできたはずなのに、

なぜか、そのままでいた。

「離すなよ。危ないからな」

さっきより少しだけ、柔らかい声。

「……はい」

小さく頷く。

その瞬間、また光が強くなる。足元の感覚が曖昧になって、世界が一瞬、揺らいだ。

怖いはずなのに。

どうしてか、さっきほどではなかった。

——この人がいるから。

そんな考えがよぎった自分に、少しだけ戸惑った。

 通された部屋は、拍子抜けするほど静かだった。広いわけでも、豪華なわけでもない。

ただ椅子が、一つだけ置かれている。

窓は開け放たれていて、

潮の匂いが、ゆるやかに流れ込んでいた。

「……ここ」

足を踏み入れた瞬間、胸の奥がざわつく。

理由は分からない。

けれど、知っている気がした。

見たことがある。

立っていたことがある。

ここに——

「どうした」

背後から声がする。

振り返らずに、呟いた。

「……前に、来たことがあります」

自分でも、確信はなかった。

ただ、そう“思ってしまった”。

少しの沈黙のあと、男が小さく息を吐く。

「覚えてるのか」

その声は、ほんのわずかに揺れていた。

ゆっくりと、部屋の中を見渡す。

椅子。

開いた窓。

潮の匂い。

——風。

頬を撫でたその感触で、

何かが、引っかかった。

頭の奥が、じん、と熱を持つ。

断片が、浮かぶ。

幼い自分。

ここに立って、外を見ている。

隣に、誰かがいる。

でも、顔が見えない。

「……だれ」

思わず口に出る。

思い出したいのに、思い出せない。

もどかしさに眉を寄せた時——

「ここは変えていない」

魁士の声が、静かに落ちてきた。

「お前が望んだからだ」

ゆっくりと、振り返る。

「……私が?」

「ああ」

彼は、まっすぐこちらを見ていた。

「また来るから、その時思い出せるように。何も変えないでくれってな」

その言葉を聞いた瞬間。

胸の奥が、強く脈打つ。

——“また来るから”

その響きに、覚えがあった。

さっきまで曖昧だった記憶が、

少しだけ、形を持つ。

「……私、ここで」

声が震える。

「誰かと……約束、しました」

男の目が、わずかに見開かれる。

けれど、それ以上は何も言わない。

ただ、待っている。

思い出すのを。

私はもう一度、窓の外に目を向けた。

沈みかけた夕陽が、海を赤く染めている。

その光景を見た瞬間——

胸の奥に、はっきりとした感情が蘇った。

「……かわいそう」

ぽつりと零れる。

自分でも、どうしてそう思ったのか分からない。

けれど、確かにそう感じた。

沈んでいく夕陽が、

海に呑み込まれてしまうように見えて。

その時。

低い声が、重なる。

「夕陽は沈んでるんじゃない」

はっとして振り返る。

彼が、すぐそばにいた。

「休んでるだけだ」

その言葉。

その声。

その言い方。

——知ってる。

頭の奥で、何かが弾けた。

「……あ」

視界が、揺れる。

「俺が守ってやるって、言っただろ」

その一言で、すべてが繋がった。

幼い日の景色。

隣にいた“誰か”。

交わした言葉。

全部——

「……あなた、だったんだ」

かすれた声でそう言うと、

彼は、初めて表情を崩した。

泣きそうな顔で、笑っていた。

しばらくの間、何も言えなかった。

思い出した記憶の余韻が、まだ胸の奥に残っている。

目の前にいるのが、その“誰か”だと分かっても、

どうしていいか分からない。

沈黙が落ちる。

その空気に耐えきれず、私は小さく口を開いた。

「……あの」

男が、こちらを見る。

相変わらず、感情の読みづらい目。

けれどさっきより、少しだけ柔らかい気がした。

「一つ、いいですか」

「ああ」

短い返事。

それだけなのに、なぜか少し安心する。

「……あなたの名前、教えてください」

自分でも、少しおかしなことを言っていると思った。

さっき、思い出したばかりなのに。

それでも——

ちゃんと、自分の意思で知りたかった。

彼は一瞬、目を見開いた。

予想していなかったのかもしれない。

やがて、ゆっくりと息を吐く。

「……覚えてないのか」

責めるような声ではなかった。

どこか、確かめるような響き。

「すみません」

視線を落とす。

「さっき、思い出したのは……ほんの一部で」

「顔も、名前も……ちゃんとは」

言い切る前に、言葉が止まる。

少しだけ、怖かった。

もしここで失望されたら、と思うと。

しばらくの沈黙。

そのあと——

「……魁士」

静かな声が落ちてきた。

顔を上げる。

海神魁士(うみがみ かいし)

ゆっくりと、噛みしめるように告げられる名前。

その響きが、胸の奥にすとんと落ちた。

「……魁士さん」

確かめるように呼ぶ。

その瞬間、彼の表情がわずかに揺れた。

驚いたような、

それでいて——

どこか、嬉しそうな。

「もう一度、聞けてよかった」

ぽつりと、そう言った。

その意味を考える前に、

彼はいつもの表情に戻っていた。

「好きに呼べ」

ぶっきらぼうな言い方。

でも、さっきより少しだけ優しい。

「……じゃあ、魁士さんって呼びます」

そう言うと、彼は小さく息を漏らした。

「前と同じだな」

「え?」

「いや、なんでもない」

それ以上は何も言わなかった。

けれど——

ほんのわずかに口元が緩んだのを、私は見逃さなかった。

屋敷での生活は、思っていたよりも穏やかだった。

用意される食事は温かく、

部屋は常に整えられている。

不自由は、何一つなかった。

——それでも。

夜になると、落ち着かなくなる。

灯りを落とした途端、

部屋の空気が変わる気がするのだ。

静かすぎる。

息遣い一つが、やけに大きく聞こえる。

布団に入って、目を閉じる。

けれど、眠れない。

理由は分かっている。

——視線。

どこからか、見られている気がする。

天井か。

壁の向こうか。

それとも——

考えたところで、分かるはずもない。

「……気のせい、だよね」

自分に言い聞かせるように呟く。

返事は、ない。

当たり前なのに、その“当たり前”が妙に怖かった。

その夜。

うとうとと、意識が落ちかけた時だった。

ふわり、と。

頭に、何かが触れた。

「……っ」

一瞬で目が覚める。

ゆっくりと、身体を起こす。

部屋の中は、暗いまま。

誰も、いない。

襖も閉まっている。

風も、入っていない。

それなのに——

確かに、撫でられた感触だけが残っていた。

夢、だったのか。

そう思おうとする。

けれど、妙に生々しい。

恐る恐る、部屋を見渡す。

何もない。

何も、変わっていない。

「……誰か、いるんですか」

声が、わずかに震えた。

当然、返事はない。

沈黙だけが、重く落ちる。

そのまま、朝まで眠ることはできなかった。

翌日。

給仕の眞栄田(まえだ)に、それとなく聞いてみた。

「……この部屋って、夜、誰か入ったりしますか」

一瞬だけ、間があった。

ほんの、わずかに。

「いいえ」

すぐに返ってきた答え。

穏やかな笑顔。

けれど——

どこか、引っかかる。

「護衛の方は、部屋の前におりますが」

「中に入ることはありません」

言葉は自然なのに、

なぜかそれ以上聞けなかった。

「……そう、ですか」

小さく頷く。

その様子を見ていた夜高が、くすりと笑った。

「怖い夢でも見ましたか?」

軽い調子。

冗談のように。

「……そんなところです」

曖昧に答えると、

それ以上は何も聞いてこなかった。

——けれど。

その日の夜も。

やはり、同じだった。

眠りに落ちかけた、その時。

また、触れる。

今度は、少しだけはっきりと。

優しく、撫でるように。

まるで——大切なものを扱うみたいに。

「……魁士さん?」

思わず名前を呼ぶ。

返事はない。

けれど。

なぜか、少しだけ安心してしまった自分がいた。

頭を撫でるその感触は、やはり優しかった。

けれど——

どこか、違う。

魁士の手とは、違う気がした。

温度が、少し低い。

人のものより、わずかに静かで、

まるで水に触れているような感覚。

「……だれ」

声に出した瞬間、

ぴたりと、その感触が止まった。

空気が、張り詰める。

次の瞬間——

すっと、何かが離れた気配。

慌てて周囲を見渡す。

やはり、誰もいない。

けれど。

さっきまで確かに“いた”ものの気配だけが、

部屋の隅に、わずかに残っている気がした。

まるで——

こちらを、見ているように。

魁士と顔を合わせた時、ふと聞いてみた。

「……この屋敷って、私たち以外にも誰かいるんですか」

一瞬。

本当に一瞬だけ、彼の動きが止まった。

「どうしてそう思う」

「……なんとなく、です」

視線を逸らすと、彼は少しだけ黙った。

そして。

「気にするな」

それだけ言った。

否定しなかった。

また今夜もそれは来た——

頭を撫でるその感触は、やはり優しかった。

けれど——

やはりどこか、違う。

人の手とは思えない。

温度が、わずかに低い。

それに、気配が薄い。

すぐそこにいるはずなのに、

“存在している感じ”がしない。

「……だれ」

小さく声を出した瞬間、

ぴたり、と動きが止まった。

空気が、張り詰める。

まるで“見つかった”みたいに。

そのあと、

すっと何かが離れていく気配。

慌てて身体を起こす。

「待って……!」

伸ばした手は、空を切った。

部屋の中には、やはり誰もいない。

けれど。

襖の向こう——廊下側。

ほんの一瞬だけ、気配がした。

“立っている”ような。

見張るように。

翌日。

意を決して、尋ねた。

「……私の部屋の前って、夜、護衛の方以外誰かいるんですか」

眞栄田は、いつものように微笑んだまま頷く。

「いいえ。以前もお答えした通り護衛の者だけです」

「中に入ることは?」

「ありません」

即答だった。

迷いのない声。

けれど——

「絶対に?」

思わず、重ねて聞いてしまう。

その瞬間。

ほんのわずかに、空気が止まった。

「……原則としては」

言い直された言葉。

胸が、ざわつく。

「状況によっては、例外もございます」

「例外……?」

問い返すと、眞栄田はそれ以上答えなかった。

ただ、穏やかに微笑むだけ。

まるで——

“それ以上は聞くな”と言うように。

「……護衛って、何人いるんですか」

そう聞いた時、魁士は少しだけ間を置いた。

「数えるものじゃない」

「え?」

「気にするな」

それだけだった。

その夜も、同じだった。

眠りに落ちかけた、その時。

また——触れる。

今度は、はっきりと。

指先が、髪を梳くようにゆっくりと動く。

驚くほど優しい。

まるで壊れ物を扱うみたいに。

「……また」

小さく呟く。

怖いはずなのに。

なぜか、前よりも拒絶できなかった。

その手が、少しだけ止まる。

まるで、言葉を理解しているみたいに。

「……あなた、護衛なんですか」

返事はない。

けれど。

一瞬だけ、触れ方が変わった。

ほんのわずかに——近づく。

距離を詰めるように。

息を呑む。

怖い。

でも、逃げようとは思わなかった。

「……私のこと、見てるんですか」

その問いに。

今度は、はっきりと反応があった。

指先が、ぴたりと止まる。

そして——

ゆっくりと、もう一度だけ髪に触れた。

肯定するみたいに。

「……最近、眠れてるか」

唐突に聞かれる。

「え?」

「顔色が悪い」

視線を逸らしながら言う魁士に、少し戸惑う。

「……大丈夫です」

そう答えると、彼はしばらく黙った。

「……何かあれば言え」

それだけ言って、視線を外す。

けれど——

ほんの一瞬だけ。

周囲を警戒するように目を細めたのを、私は見逃さなかった。

白無垢の裾が、畳を擦る。

そのかすかな音だけが、やけに耳に残った。

「……お綺麗ですよ、碧様」

眞栄田の言葉に、小さく頭を下げる。

「ありがとうございます」

鏡の中の自分は、まるで別人だった。

紅を引かれ、整えられた髪。

白に包まれた姿は、どこか現実感がない。

——本当に、これが私なのだろうか。

そんな違和感が、胸の奥に残る。

「緊張されていますか?」

使いの夜高(よだか)さんが柔らかく問いかけてくる。

「……少しだけ」

正直に答えると、二人は小さく微笑んだ。

「無理もありません」

「お相手の方も、きっと同じですよ」

その言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。

けれど——

やはり落ち着かない。

顔も知らない相手と、今日、夫婦になる。

それがどういうことなのか、まだ実感が湧かない。

「……どんな方なんでしょう」

思わず零れた言葉に、二人は一瞬だけ黙った。

ほんの、わずかな間。

「……お会いになれば、分かりますよ」

夜高がそう言って、にこりと笑う。

それ以上は、何も教えてくれなかった。

式の場へと案内される。

静まり返った空間。

すでに席に着かされ、ただ待つだけの時間。

やけに長く感じた。

手のひらに、じんわりと汗が滲む。

その時だった。

——視線。

背後から、何かに見られている気がした。

びくりと肩が揺れる。

ゆっくりと、振り返ろうとする。

けれど。

なぜか、途中で止まった。

振り返ってはいけない気がした。

理由は分からない。

ただそうしなければいけない気がした。

息を整え、前を向く。

その直後。

ふわり、と。

ほんの一瞬だけ、髪に触れる感覚。

「……っ」

反射的に目を見開く。

けれど、周囲には誰もいない。

気のせい。

そう思おうとするのに、

胸の奥がざわついたまま離れない。

——いる。

ここに。

ずっと、近くに。

やがて。

足音が、一つ。

静かに、近づいてくる。

思わず息を止めた。

その音が、自分の隣で止まる。

視線を、ゆっくりと横へ向ける。

そこに立っていたのは——

初めて見るはずの人だった。

けれど。

「……あ」

なぜか、胸が強く脈打つ。

知らないはずなのに。

どこかで、知っている気がした。

その人は、何も言わない。

ただ静かに座り、前を向いた。

その横顔は、感情が読み取れないほど静かで。

それでも——

ほんのわずかに、空気が柔らいだ気がした。

「……大丈夫だ」

小さな声が、隣から落ちてくる。

思わず、そちらを見る。

「ちゃんと、ここにいる」

その言葉は、初めて聞くはずなのに。

不思議と、怖さを和らげた。

「……はい」

自然と、頷いていた。

その瞬間。

また、視線を感じる。

今度は、はっきりと。

すぐ後ろ。

さっきよりも、近い。

まるで——

見守るように。

あるいは。

離れないように、確かめるように。

背筋に、ぞくりとしたものが走る。

けれど。

なぜか、ほんの少しだけ——

安心している自分もいた。

隣に座ったその人は、静かに前を向いたままだった。

距離は近いはずなのに、

なぜか不用意に見てはいけない気がする。

それでも——

気にならないわけがなかった。

「……あの」

小さく声をかける。

その人が、わずかにこちらを向いた。

その瞬間。

時間が、止まったような気がした。

見覚えのある顔。

いや、そんなはずはない。

でも——

「……え」

喉の奥で、声にならない音が漏れる。

「……どうした」

低い声。

聞き慣れた声。

頭の奥で、何かが繋がる。

「……魁士、さん?」

確かめるように名前を呼ぶ。

その人は、一瞬だけ目を細めた。

「やっと気づいたか」

わずかに、口元が緩む。

それで、確信した。

「え……え、なんで……」

思考が追いつかない。

言葉がうまく出てこない。

「私の、結婚相手って……」

「俺だ」

あまりにもあっさりと、言われる。

息を呑む。

「言ってなかったか」

「聞いてません!!」

思わず声が大きくなる。

すぐに口を押さえる。

場の空気を思い出して、慌てて小さく言い直す。

「……聞いてませんけど……!」

「そうか」

まるで他人事みたいな返事。

「悪かったな」

全然悪びれていない。

それが余計に腹立たしい。

「そういう問題じゃなくて……!」

言いかけて、止まる。

胸が、うるさい。

さっきまでの不安が、全部ひっくり返っていく。

怖かったはずなのに。

知らない人と結婚するのが嫌だったはずなのに。

——相手が魁士だと分かった瞬間、

それが、少しだけ和らいだ。

その事実に、自分で戸惑う。

「……なんで、言ってくれなかったんですか」

小さく呟くと、

魁士は少しだけ黙った。

「言えば、お前はどうした」

「え……」

答えに詰まる。

確かに。

最初に知らされていたら——

逃げていたかもしれない。

拒絶していたかもしれない。

「……だろ」

見透かしたように言われる。

悔しいのに、否定できない。

「でも……」

何か言い返そうとして、言葉が見つからない。

その時。

「安心したか」

不意に、そんなことを聞かれる。

顔を上げる。

真っ直ぐな視線。

逃げ場がない。

「……少しだけ」

観念して、そう答える。

ほんのわずかに、魁士の表情が緩んだ。

その瞬間。

——ぞくり。

背後から、強い気配。

さっきよりも、はっきりと。

思わず肩が揺れる。

「……どうした」

魁士が怪訝(けげん)そうに見る。

「……いえ」

首を振る。

言えなかった。

“今も誰かに見られている”なんて。

けれど——

確かにそこに“いる”ものは、

先ほどよりも、はっきりと存在を主張していた。

まるで。

何かに、反応したみたいに。

夜は、思っていたよりも静かだった。

賑やかだったはずの屋敷が、嘘みたいに落ち着いている。

用意された部屋に通され、

私はただ、座って待っていた。

指先が、落ち着かない。

畳の縁をなぞっては、離す。

その繰り返し。

——魁士と、二人きり。

そう考えるだけで、妙に意識してしまう。

やがて、襖が静かに開いた。

「……待たせたな」

聞き慣れた声。

それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。

「いえ……」

顔を上げると、魁士が入ってきていた。

昼間と同じはずなのに、

どこか違って見える。

距離が近いせいかもしれない。

「……その」

何か言おうとして、言葉に詰まる。

こんな状況で、何を話せばいいのか分からない。

沈黙。

けれど、不思議と居心地は悪くなかった。

魁士が、ゆっくりとこちらに歩み寄る。

その動きに、少しだけ息を呑む。

「そんなに緊張するな」

低い声が落ちる。

「何もしない」

「え」

思わず顔を上げる。

「……そう、なんですか」

拍子抜けしたような、

それでいて少しだけ安心したような。

複雑な気持ちになる。

魁士は小さく息を吐いた。

「無理に進めるつもりはない」

「お前が嫌なら、それでいい」

その言葉は、思っていたよりずっと優しかった。

胸の奥が、少しだけ温かくなる。

「……ありがとうございます」

小さくそう言うと、

彼はほんの一瞬だけ、目を細めた。

その時。

——ぞくり。

背筋に、冷たいものが走る。

空気が、変わった。

さっきまでとは違う。

重い。

「……?」

思わず、視線が揺れる。

部屋の隅。

暗がり。

誰もいないはずの場所。

それでも——

“いる”。

はっきりと、分かる。

「どうした」

魁士の声で、我に返る。

「……いえ」

首を振る。

言えなかった。

この場に、もう一つ“何か”がいるなんて。

その瞬間。

ふわり、と。

また、触れられた。

今度は——肩。

びくりと身体が跳ねる。

「碧?」

魁士が眉を寄せる。

「……な、なんでもないです」

咄嗟に取り繕う。

けれど、誤魔化せていないのは自分でも分かった。

触れているそれは、動かない。

ただ、そこにある。

まるで——

“離さない”みたいに。

呼吸が浅くなる。

怖い。

それなのに。

完全に拒絶できない自分がいる。

「……顔色が悪い」

魁士が、手を伸ばす。

頬に触れられる。

温かい。

確かな、人の温度。

その瞬間。

肩にあった“何か”が、すっと離れた。

はっきりと分かるほどに。

まるで——

奪われたみたいに。

息が止まる。

「……やっぱり、今日は休め」

魁士の声が、少し低くなる。

「無理するな」

その言葉に、小さく頷く。

けれど。

視線だけは、どうしても動かせなかった。

さっきまで“いた”場所から。

目を離すことが、できなかった。

あれからしばらくは、穏やかな日々が続いた。

夜に感じていた“何か”も、

気づけばほとんど現れなくなっていた。

魁士と過ごす時間が増えたからかもしれない。

言葉は多くない。

それでも、隣にいるだけで落ち着く時間があった。

——あの違和感さえなければ。

そう思いかけて、やめる。

もう、気にしなくていいのかもしれない。

そう思い始めていた。

けれど。

その変化は、唐突だった。

「……今日は遅くなる」

ある日、魁士がそう言った。

「仕事が立て込んでいる」

「そう、ですか」

少しだけ、残念に思った自分に気づく。

「先に休め」

短い言葉。

それでも、いつも通りの声音に少し安心する。

「はい」

小さく頷いた。

その夜。

久しぶりに、一人で眠る。

部屋は、静かだった。

静かすぎるほどに。

布団に入り、目を閉じる。

——大丈夫。

もう、何も起きない。

そう思った、次の瞬間。

ふわり、と。

髪に触れる感触。

「……っ」

息が止まる。

忘れかけていた感覚。

いや。

違う。

前よりも、はっきりしている。

ゆっくりと、撫でる指先。

迷いがない。

まるで——

“待っていた”みたいに。

「……来てたの」

思わず、口に出る。

返事はない。

けれど。

その手が、一瞬だけ止まった。

「……ずっと?」

今度は、はっきりと止まる。

そして——

ゆっくりと、もう一度触れてきた。

肯定するように。

喉が、ひくりと動く。

怖い。

それなのに。

完全に拒絶できない。

それどころか——

「……なんで」

少しだけ、寂しさに似た感情が混ざる。

その瞬間。

触れていた手が、強くなる。

今までで一番はっきりと。

まるで、何かに反応するみたいに。

「……っ」

息を呑む。

その感触は、優しいままなのに。

どこか——

“譲らない”意思を感じた。

翌日。

魁士は、まだ戻っていなかった。

その夜も、同じだった。

いや——

違う。

今までで、一番はっきりしていた。

髪に触れる指先。

肩に置かれる感触。

逃げ場がないほど、近い。

「……もう、やめて」

小さく声を出す。

震えていた。

怖いからじゃない。

分からないからだ。

「……あなた、誰なの」

初めて、はっきりと問う。

沈黙。

いつもなら、それで終わるはずだった。

けれど——

その夜は違った。

ぴたり、と動きが止まる。

空気が、張り詰める。

そして。

——すぐ、そばに。

“いる”と分かった。

見えないのに。

確かに、目の前に立っている。

息が、かかる距離で。

「……っ」

身体が強張る。

逃げられない。

逃げたくないわけじゃないのに。

足が、動かなかった。

その時。

ふ、と。

声がした。

直接、耳に届いたわけじゃない。

頭の奥に、落ちてくるような声。

『……守る』

息を呑む。

初めて聞いたはずなのに。

どこかで知っている気がした。

「……守るって、何を」

震える声で問い返す。

一拍の間。

そして――

『お前を』

はっきりとした意思。

迷いのない言葉。

「……どうして」

思わず聞く。

『……離れるな』

質問の答えにはなっていない。

けれど。

そこにあるのは、確かな執着だった。

その瞬間。

——ガラリ。

勢いよく襖が開いた。

「碧!」

魁士の声。

振り返る。

そこに立っていたのは、見慣れた姿。

けれど、表情は今まで見たことがないほど険しかった。

「下がれ」

低く、鋭い声。

それが、私に向けられたものではないとすぐに分かる。

空気が、変わる。

今まで感じていた“何か”が、わずかに揺れた。

「……まだ出てくるなと言ったはずだ」

魁士の視線は、まっすぐ“何もない場所”を捉えている。

見えている。

あれが。

「……これ、護衛じゃないんですか」

思わず問いかける。

魁士が、わずかに目を伏せた。

その沈黙が、答えだった。

「……護衛だ」

やがて、そう言う。

「だが——」

言葉が、途中で止まる。

その瞬間。

ぐっと、何かが近づいた。

私のすぐ後ろに。

「……っ」

息が詰まる。

魁士の表情が、さらに険しくなる。

「……碧から離れろ」

明確な拒絶。

その言葉に反応するように、

空気が、わずかに震えた。

そして。

『……拒むな』

頭の奥に、再び声。

さっきよりも、はっきりと。

「……拒んでるのは、お前だ」

魁士の声が低く落ちる。

「それは“守る”じゃない」

一歩、踏み出す。

「ただの執着だ」

その言葉で、空気が一変した。

今まで優しかった“何か”が、

ほんのわずかに歪む。

冷たい。

重い。

変わった。

「……やめて」

思わず声が出る。

どちらに向けたのか、自分でも分からない。

その一言ですべてが、止まった。

沈黙。

長い、長い沈黙。

やがて、すっと。

気配が、離れていく。ゆっくりと。

名残を残すように。

最後にもう一度だけ、そっと触れて——

消えた。消えた、はずだった。

けれど——魁士は動かなかった。

視線は、まだ“そこ”を捉えている。

「……逃がすと思うか」

低く、押し殺した声。

その瞬間。

空気が、歪んだ。

何もないはずの場所に、

“形”が生まれる。

揺らぐ影。

人のようで、人ではない。

「……っ」|

思わず息を呑む。

——初めて、見えた。

それは、私のすぐそばにいた。

ずっと。

「碧、下がれ」

魁士の声に、はっとする。

言われるままに、一歩下がる。

その動きに反応するように、

影がわずかに揺れた。

まるで、追おうとするみたいに。

「動くな」

鋭い一声。

同時に魁士が手をかざす。

床に、淡い光が走る。

見えなかった線が、浮かび上がる。

円を描くように。

その中に、“それ”が閉じ込められる。

『……邪魔をするな』

頭の奥に、低い声。

今までよりも、はっきりとした感情。

「邪魔をしているのはお前だ」

魁士の声がぶつかる。

一歩、踏み込む。

「それ以上、碧に触れるな」

空気が震える。

“それ”が、わずかに形を歪める。

『……離さない』

はっきりとした拒絶。

「……そうか」

魁士は短く答えた。

その表情が、静かに変わる。

決意の色。

「なら、縛る」

その言葉と同時に。

光が強くなる。

円の中の影が、揺れる。

歪む。暴れる。

けれど、出られない。

「これは護衛だ」

低く、言い切る。

「だが、主は俺だ」

空気が、ぴたりと止まる。

『……違う』

わずかな否定。

「違わない」

一歩、さらに踏み込む。

「命令する」

その声は、今までで一番強かった。

「碧に害をなすな」

「碧に触れるな」

「碧を——縛るな」

一つ一つ、刻むように言う。

そのたびに、光が強くなる。

“それ”の動きが、鈍くなる。

『……』

声が、消える。

完全な沈黙。

やがて。

すっと、形が崩れた。

光の中に、溶けるように。

消えていく。

最後に。

ほんの一瞬だけ。

こちらを見た気がした。

——何かを、伝えるみたいに。

そして、完全に消えた。

「……もう、大丈夫だ」

魁士がそう言う。

けれど。

私は、すぐに頷けなかった。

なぜなら——

さっき消えたはずの“気配”が、

ほんのわずかに、まだ残っている気がしたから。

静けさが、戻っていた。

さっきまでの気配が嘘みたいに、部屋は穏やかだった。

「……もう、大丈夫だ」

魁士の声。

その言葉に、ようやく現実に引き戻される。

「……はい」

小さく頷く。

けれど。

胸の奥のざわつきだけは、消えなかった。

完全に、いなくなったわけじゃない。

そう、分かってしまったから。

それからしばらくして。

屋敷は、また静かな日常を取り戻した。

魁士は相変わらず忙しく、

それでも時間を見つけては顔を出してくれる。

言葉は少ない。

けれど、その一つ一つが確かだった。

「無理はするな」

「困ったら呼べ」

短い言葉。

それだけで、十分だった。

「……はい」

自然と、そう返せるようになっていた。

夜。

一人で眠る時間。

あれ以来、はっきりと触れられることはなくなった。

けれど。

時々。

本当に、時々だけ。

ふとした瞬間に、思う。

——いる。

見えないだけで。

遠くなっただけで。

完全には、消えていない。

「……いるの?」

小さく、呟く。

返事はない。

当たり前だ。

そう思って、目を閉じる。

その時。

ほんの一瞬だけ。

風もないのに、髪が揺れた。

触れられたほどではない。

けれど。

確かに、そこに“何か”があった。

「……そっか」

小さく、息を吐く。

怖くはなかった。

もう、前みたいには。

「……ありがとう」

誰に向けたのか、自分でも分からない。

それでも、言葉にした。

そのまま、ゆっくりと目を閉じる。

翌朝。

襖を開けると、魁士が立っていた。

「……起きてたのか」

「今、起きたところです」

そう答えると、彼は小さく頷いた。

少しだけ、間が空く。

「……何かあったか」

ふと、そんなことを聞かれる。

驚いて顔を上げる。

「どうして、そう思うんですか?」

「……なんとなく、だ」

相変わらず、曖昧な答え。

けれど。

その“なんとなく”が、外れたことはない。

少しだけ、考える。

そして。

「……何もありません」

そう答えた。

嘘ではない。

本当に、何も起きていない。

ただ——

消えていないだけだ。

「そうか」

魁士はそれ以上、何も聞かなかった。

ただ、いつも通りの距離でそこにいる。

手を伸ばせば、触れられる距離。

確かな、存在。

その背後。

ふと、視線を感じた気がした。

振り返らない。

もう、確かめる必要はないから。

分かっている。

ここには、二つの“守り”がある。

一つは、言葉をくれるもの。

もう一つは、言葉を持たないもの。

どちらも違って。

どちらも、確かにそこにある。

「……行くぞ」

魁士の声に、頷く。

そのまま、一歩踏み出す。

もう、迷いはなかった。

それでも。

ほんのわずかにだけ。

背中に、視線のようなものを感じながら。

その夜。

久しぶりに、魁士が部屋にいた。

「……今日は、ここにいる」

短い一言。

それだけで、少しだけ空気が変わる。

「……そうですか」

隣に座る距離。

以前よりも、ずっと自然だった。

沈黙。

けれど、気まずさはない。

「……怖くないか」

不意に、そんなことを聞かれる。

「何がですか?」

「この屋敷も、俺も」

少しだけ、考える。

そして、小さく首を振った。

「前よりは、怖くないです」

正直な気持ちだった。

「……そうか」

魁士は、それ以上何も言わなかった。

けれど。

ほんの少しだけ、表情が緩んだ気がした。

しばらくして。

「……手、貸せ」

そう言われる。

少しだけ戸惑いながら、手を伸ばす。

触れられる。

温かい。

あの時と同じ、人の温度。

けれど。

今はもう、強張らなかった。

「……冷えてるな」

「そう、ですか?」

「無理するな」

短い言葉。

でも、その手は離れない。

握られたまま。

静かに、時間が流れる。

ふと、思い出す。

あの“もう一つの存在”。

言葉を持たない、守り。

それとは違う。

今、ここにあるのは——

選べる距離。

離れることも、できる距離。

それでも。

「……このままでいいです」

自分から、そう言った。

魁士が、わずかにこちらを見る。

「……あぁ」

それだけで、十分だった。

そのまま、静かに目を閉じる。

手の温度を感じながら。

ほんの一瞬だけ。

遠くで、気配が揺れた気がした。

けれど。

もう、振り返らなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

この物語は、「見えないもの」と「見えてしまったもの」の間で揺れる感情を軸に書きました。

誰かに守られることは、ときに安心で、ときに恐ろしい。 それがたとえ優しさから来ていたとしても、必ずしも“正しさ”とは限らない。

碧にとっての選択は、きっと簡単なものではありません。 そして魁士もまた、自分の立ち位置を完全に理解しているわけではありません。

それでも二人は、それぞれの形で「そこにいること」を選びました。

もしこの物語の中に、ほんの少しでも“静かな違和感”や“温度のある怖さ”を感じていただけたなら、とても嬉しく思います。

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