九話
夏が過ぎ去って秋が深まると、日の出ている時間が短くなった。吹く風も涼ではなく、寒を感じるようになった。
昼食後、やちよがキヨノの部屋で青慈を待っていると、ヤスがやって来た。
「やちよ様」
ヤスはやちよの正面に正座をした。百目鬼家の炊事洗濯を仕切るヤスの指先は、ひび割れていて痛々しい。ヤスとは食事以外、ほとんど顔を合わせない。関わることの少ない彼女がどんな用だろうか? やちよ喉をごくりと鳴らし、ヤスの言葉を待つ。
「ご懐妊はまだでしょうか?」
「えっ、その……」
ヤスの問いに全身から冷や汗が出る。
青慈と夫婦になって半年が経とうとしている。だが、いまだに夫婦の契りを交わしていない。だから子どもなどできるわけがない。そのことを百目鬼家の者たちは知らないのだ。
「今、やちよ様に必要なのは、読み書きではなく閨房術なのではないでしょうか?」
「け、けいぼう……?」
初めて聞く言葉に首を傾げる。
「まさか知らないのですか? 寝床での心得のことです」
冷や汗は引き、血がたぎったように体の中が熱くなる。やちよは耳まで真っ赤になった。
「恥ずかしがっている場合ではありません。一刻も早く、やちよ様には子を産んでもらわなければ困るのです」
「ヤス叔母上。夫婦の寝床のことに口出しなど、いかがなものかと」
ヤスの顔がキヨノのほうを向いた。
「あなたこそ私に口出しする立場にないでしょ? 黙っておきなさい」
ヤスはキヨノの助け船を沈めた。そして再びやちよと向き合う。
「とにかく、今は読み書きよりも……」
ヤスの尖り声の後ろから、足音が聞こえた。
「ヤス叔母上。騒がしいぞ」
青慈が言いながら、部屋の中に入ってきた。
「青慈様」
と、ヤスは一瞬で尖り声を改めた。
「やちよ様のことなのですが……」
「言わずともよい。大方聞こえておった」
青慈は立ったまま、ヤスを見下ろした。
「俺の母上も、俺を身ごもるまで二年かかったというではないか。子は授かりものというゆえ、いつかできよう。やちよを困らせるようなことを言うでない」
「失礼いたしました」
ヤスは百目鬼家次期当主の青慈には、強く出られないようだ。あっさりと引き下がり、部屋から出ていった。
はあ、と青慈はため息をつきながら、やちよの隣に腰を下ろした。
「叔母上がすまぬな」
「いえ……」
ヤスから解放され、やちよがほっとしたのも束の間。
「今夜、少しいいか?」
青慈が和歌集をめくりながら言った。
やちよにはその声が妙に色っぽく聞こえ、
「えっ、あ、はい……」
と、どぎまぎしてしまう。
心を乱されたやちよは、今日教えてもらった漢字が全く頭に入らなかった。
女性の悲鳴のような鹿の鳴き声が、闇夜にこだました。
寝床に入ったやちよは布団の上に正座し、青慈が来るのを待っていた。
今夜、ついに契りを交わすのだろうか。心は人間か鬼か定かではない青慈を慕っている。けれど、体は契りを恐れて震えてしまう。
障子が開き、青慈が入ってきた。
震えるやちよの姿を、ろうそくの火と月明かりが青慈にしっかりと見せた。
「何、震えておる」
「その……、契りを……」
「ヤス叔母上のことなど気にするな」
青慈は言いながら、布団の上に胡座をかいた。
「俺は子をもうけるつもりはない。それに、そなたも鬼の子など産みたくなかろう?」
やちよは何も言えなかった。鬼の子なら、もちろん産みたくはない。けれど、青慈が人間であるのなら産みたい、という気持ちはある。
「……青慈さんは本当に鬼なのですか?」
やちよの問いに、青慈は大きなため息をついた。
「何度も言わせるでない。俺は鬼だ」
答えはあの日と同じだった。
「鬼である理由は、教えてくれないんですか?」
どうしても理由を知りたいやちよも、負けじと食い下がる。
「そなたが何百回、何千回と尋ねてきたとて、理由は教えぬ」
青慈は鋼の意思を持っていた。どれだけ尋ねても、本心をあらわにしないであろう鋼の意思を。理由を知ることは不可能なの? やちよは太ももの上の拳をぎゅっと握り、悲しみを堪える。
「私は、夫が鬼と称する理由を知ることも、素顔を見ることもできないまま、一生を終えるのでしょうか?」
「ああそうだ。それがそなたのためでもあるのだ」
「私のためって、何ですか?」
「……」
静寂に包まれた。青慈が無言なのは意思通り、理由を教えないためか。それとも何か言葉を探しているためか。やちよはこの無に等しい時間が歯がゆく感じられた。
再び鹿が鳴いた。青慈は静寂が破られたことを機に、
「夜も深まり、獣たちの時間だ。眠ろう」
と、布団に入った。
眠るときは無防備な青慈。今なら簡単に面を剥ぎ取って、素顔を確認できる。だがやちよには、青慈の面を剥ぎ取って、素顔を見る勇気を持ち合わせていない。自分自身にもどかしさを感じながら瞼を閉じた。
朝餉後、やちよは懐から手鏡を取り出した。そこに映った自分の顔は、青白くて病人のようだった。酷い顔、とやちよはため息をつき、鏡を懐に仕舞った。
昨晩のこともあり、熟睡できなかった。その上、今朝から月の障りもきてしまい、腹も少し痛い。心身共に本調子ではないやちよが、背中を丸めて座っていると、
「やちよ様、お元気がありませんね」
キヨノから声をかけられた。キヨノはやちよの正面にまわり、顔を覗き込む。
「お顔が青白いですよ。寒いのではないですか? 体にかけるものをお持ちいたします」
なぜ、こんなに親切にしてくれる彼らが、自らを鬼と称するのだろう。心は人間よりも優しいのに。親切にされればされるほど、やちよは彼らの素顔を見て、真相を知りたいと思うばかりだった。
*
『子をもうけるつもりはない』
青慈はやちよに宣言した。だが、百目鬼家の者は、青慈の本心を知らないのだろう。懐妊を心待ちにしているのが、どことなく伝わってくる。
最近は精力がつくといわれるものが、食卓に並ぶようになった。やちよと青慈の膳には、多めに盛られている。
青午とシズも、遠回しに子について尋ねてくる。百目鬼家次期当主の妻なのだから、子を期待されるのは当然なのだ。やちよは尋ねられるたびに、笑ってごまかしている。
あと何年、こんなやり取りをするのだろう。作り笑いをするたびに、心にひびが入る。
今月も月の障りが始まった。流れ出た血で赤く染まった綿を見ても、苦しくなる。やちよが厠から出ようとしていると、
「やちよ様はご懐妊の兆しがないそうだな。先ほど、姉上がぶつぶつと文句を垂らしておった」
外から青達の声が聞こえた。また子の話か。やちよはため息をつく。
「いつかはできるでしょ」
そう言ったのは青麻だった。
「あの二人、青午兄上とは違って案外仲よさそうだし」
「早くご懐妊なさるとよいのだが」
青達の声に、やちよの心はまたひび割れた。とうとう出血した。血が、体の中にじわじわと広がる。
「きっと青慈なり……」
声は遠のき、聞こえなくなった。
叔父の三人は、面と向かって子のことを尋ねてこない。表では興味がなさそうな振る舞いをしているが、やちよがいないところでは、子について話しているようだ。
上の世代は、子の誕生を望んでいる。彼らの考えを知り、体の内側から締め付けられるように、腹が痛んだ。
厠の中で足が止まっていると、
「やちよ様、大丈夫ですか?」
扉の向こうからキヨノの声がした。キヨノが迎えに来るほど、長居をしていたようだ。やちよは急いで厠から出て、
「大丈夫です」
と、作り笑いも見せておく。
「安心しました」
不安そうだったキヨノの声が、柔らかになった。
「間もなく夕餉ですので、大広間に行きましょう」
やちよはキヨノの後ろを歩き、大広間に向かった。
大広間には誰もおらず、やちよたちが一番乗りだった。いつもなら、叔父の誰かが座って待っている。 やちよは自分が一番に座って待つことが憚られた。立ったままでいると、
「お座りください」
キヨノから言われた。促されるまま、定位置に腰を下ろす。やちよが座ると、キヨノは大広間から出て行った。
一人ぼっちの大広間。この部屋は田村家の家屋よりも広い。初めて入ったとき、荘厳だと思ったこの部屋も、今は何も感じない。やちよは百目鬼家での生活に慣れてしまった。
叔父たちが来るのを待っていると、開けっ放しの襖から、ほのかに醤油の香ばしい匂いがした。畳と足袋が擦れる音が聞こえると、匂いはさらに強くなった。
膳を持ったキヨノとシズが入ってきた。キヨノは青午の定位置、シズは青慈の定位置に膳を置くと、早足で出ていった。
やちよは首を伸ばし、青午の膳を覗く。今日の夕餉は、白米、里芋の煮物、けんちん汁、漬け物だった。
また足音が聞こえた。畳の上を滑るように歩く軽やかな足音。大広間に姿を見せたのは、ヤスだった。
ヤスはやちよの前に膳を置いた。里芋の煮物は青午のものよりも大きく、けんちん汁も里芋以外の具が見えなかった。
「やちよ様、里芋をたくさん召し上がりください」
ヤスは「里芋」を強調して言った。里芋は親芋に子芋をたくさんつけることから、子宝を願う縁起物であることをやちよは知っていた。
早く懐妊してください。ヤスは、青慈から咎められたあの日以降、懐妊のことを口に出していない。だが、目の前の里芋たっぷりの夕餉が、ヤスの気持ちの代弁しているようだった。
九つの膳が揃うと、キヨノ、ヤス、シズが定位置に座った。叔父たちも匂いにつられたのか、大広間に姿を見せた。最後に青慈と青午が席につき、皆が集まった。手を合わせ、夕餉を食べる。
やちよは、里芋を口に運ぶ。醤油の匂いを漂わせ、味もよく染みていそうなのに、全く味がしない。ねっとりとした砂を噛んでいるようだった。
角の少ない丸い里芋をつかむ。ぬめりのせいで箸からぽろりと落ち、やちよの太ももに着地した。拾い上げ、膳の隅に置く。シズに仕立ててもらった紫の着物に、茶色の丸いシミがついてしまった。
無味なものでは食が進まず、やちよは夕餉を半分近く残してしまった。
十二月の太陽は顔を見せている時間が短い。やちよが風呂から出たときには、辺りは闇に隠され始めていた。
太陽の光がなくては何もできない。やちよはそうそうに寝床へ通された。
「火鉢のない寝床は寒いから、布団にくるまっておけばいい」
と、青慈から言われている。だがやちよは、布団の上に正座をして青慈を待った。
寒さと足の痺れを感じ始めた頃、障子が開き、青慈が入ってきた。手燭の火を扇いで消すと、布団の上に立った。
「青慈さん……」
やちよは、青慈が寝転がる前に彼の寝間着の袖を掴んだ。
「どうしたのだ?」
青慈は言いながら布団の上に腰を下ろし、胡座をかいてやちよと向かい合った。
「私……」
やちよは唇を震わせながら言葉を発する。
「子を産みたいです」
彼が鬼であるのなら産みたくない。その気持ちは変わっていない。だが、日々、積み重なる皆の期待。そして今日の夕餉。ひび割れた心は、崩壊寸前だった。次、誰かが子について話しているのを聞くか、食事でヤスから暗に示されれば、耐えられない自信があった。自分を壊さないためには、子を産むしかないと思った。たとえ、青慈が本当に鬼であっても。
「何を言うのかと思えば」
青慈の声は、呆れているのが丸わかりだった。見えない素顔も呆れているに違いない。
「子をもうけるつもりはない、と言ったはずだ」
「青慈さんがそう言っても、皆様が子を期待しているじゃないですか」
「皆のことなど気にするな」
「そんなことを言われても……」
気持ちを伝えても青慈の鋼の意思を壊すことができず、やるせない。やちよは太ももの上の拳をぎゅっと握る。
「人間は鬼の子を産むと、正気でいられなくなるのだ」
「どのように?」
やちよが尋ねると青慈は一息おき、声色を落とした。
「俺の母上は、自分の産んだ子が鬼だと分かって、軒下で首をつったというのだ。姉上の母上も、半夜に 家を飛び出し、翌朝、裏の竹林で変わり果てた姿で見つかったという」
それは青慈とキヨノの母親が、家にいない真相でもあった。しかも、二人の異母姉弟のようだ。
彼らの母親は子の素顔を見たのだろう。そして、腹を痛めて産んだ我が子に抱く愛おしさよりも、鬼を産んだという事実が勝り、死を選んだのだ。
「それでもそなたは産みたいというのか?」
やちよは口を閉ざしたまま、視線を落とす。子を産めば、彼らが鬼と称する理由だってきっと分かる。でも、自分の腹から鬼が生まれて正気が保てず、彼らの母親と同じ道を辿るかもしれない、と考えると、やちよは怖かった。握っている拳がぶるぶると震える。
「そなたには最期まで正気で生きてほしい。ヤス叔母上には、子孫繁栄の縁起物を出さぬように言っておく。だから、子のことなど考えないでおくれ」
青慈は言うと、横になった。
やちよも布団に入る。綿の敷布がひんやりと冷たい。口元まで掛け布団をかぶり、ダンゴムシのように丸くなる。
体温で布団が温もっても震えが止まらず、なかなか眠れなかった。
青慈はヤスに釘を刺したのだろう。精力がつくものも、縁起物も食事に出なくなった。




