六話
季節は進み、蝉が大合唱を始めるようになった。やちよの着物も、シズが仕立ててくれた白地に流水柄が涼しげだ。
仮名文字のみの書物を読み尽くしたやちよは、また暇を持て余すようになった。暇つぶしのため、縁側に座って外を眺めても、夏の日差しが目に眩しくてつらい。だから、日に焼けなくなって白くなった自分の手か、キヨノの針仕事を観察していたが、それも飽きてしまった。
退屈だな。やちよが手の爪をいじっていると、青慈が約一ヶ月ぶりにキヨノの部屋にやって来た。
「何をしにここへ来た」
キヨノが不機嫌そうに言う。
「青麻叔父上から、ここに来るように言われたのだ」
と、青慈はやちよたちから離れた場所に座った。
元々、天と地ほどあったやちよと青慈の心の距離。あの雨の日以降は、さらに距離が開いてしまった。
三人が無言のまま部屋にいると、
「若者の皆さーん」
何やら上機嫌な青麻が部屋にやってきた。その後ろには、青宗とスイカを持ったシズもいた。スイカは赤が鮮やかで美味しそうだ。
「そのスイカ、どうしたのですか?」
キヨノが問うと、
「今日、施しに行った家で頂いた」
青宗が答えた。
「勝手に食べていいのですか?」
「謝礼品とは別物だから。気にしなーい、気にしなーい」
青麻は言うと、シズからスイカが載った皿を奪い、青慈の前に持っていった。
「はい。青慈」
「では、一つ」
と、青慈はスイカに手を伸ばした。
「ほら、やちよ様も」
青麻がこちらにスイカを持ってきた。
食べていいのかな? やちよがスイカに手を伸ばさないでいると、キヨノの手が伸びた。キヨノはスイカを二切れ確保すると、
「やちよ様、いただきましょう」
大きいほうをやちよに差し出した。
「あ、はい」
受け取ったスイカは、ひんやりと冷たかった。
「遠慮しねえでいいのに」
「そうですよ、やちよ様。私たちには遠慮なんて必要ありませんよ」
青宗とシズもスイカを取ると、その場に腰を下ろした。
部屋にいる全員がスイカを手にすると、青麻は面の前で人差し指を立てた。
「兄上たちには内密に。特に青午兄上とヤス姉上の耳に入ったら、やっかいだから」
「俺はどけものか?」
青麻は肩をビクリとさせ、振り返る。この場に呼ばれず、名も出されなかった青達が、縁側から部屋の中を覗いていた。
「青達兄上のところにも、あとで持っていこうと思ってたよ」
「嘘をつけ。皿に残っていないじゃないか」
「あれ。姉上、俺、七つに切って、って言わなかった?」
「いえ、しっかり六つと」
「ほら、嘘じゃないか!」
シズに裏切られた青麻は、はあー、とわざとらしいため息をついた。
「青達兄上は食い意地が張ってるなあ。ほら青宗、スイカあげなよ」
「いや、青麻兄上があげればいいだろう」
「嫌だよ。俺が施しに行って頂いたんだから」
「俺も行っただろう」
青麻と青宗は、自分たちがもらってきたスイカを、意地でも渡したくないようだ。
「兄上、私のをあげます」
「いらぬ!」
妹からスイカをもらいたくないのか、青達も意地を張る。
「ふふ」
大人の鬼の子どものような喧嘩がおかしくて、やちよは顔をほころばせた。
「そなたが笑ったところを初めて見た」
「えっ?」
青慈に言われ、はっとする。嫁いできて自分が笑っていなかったことに、気がつかなかった。
「確かに、やちよ様が笑ったところを見たことがありませんでした」
キヨノが言うと、叔父たちも皆一様に頷いた。
「笑った顔、実に可憐であったぞ」
青慈がさらりと言った。
やちよの顔は熱を帯びる。それが夏の暑さのせいではないことを、やちよは感じていた。
「いえ、そんなこと……」
やちよは語尾をすぼませながら、スイカを口に運ぶ。気温と体温でぬるくなったスイカでは、ほてりは取れなかった。
スイカを食べ終えた叔父たちは、一足先に出ていき、部屋は若者三人だけになった。
「俺もおいとましよう」
「あの、青慈さん」
やちよは腰を上げた青慈を呼び止めた。
「どうした?」
「その……、仮名文字の書物を読み終えて暇になってしまったので、また漢字を教えてもらえませんか?」
「よかろう」
「『よかろう』じゃないだろ!」
キヨノが青慈のすねに蹴りを入れた。
「痛っ」
強烈な一発だったのだろう。青慈はよろけた。
「職務放棄のくせに、上からものを言うな」
「……確かに職務放棄であるな。すまぬ。明日からは職務を全うしよう」
足、大丈夫なのかな? やちよは、足をさすりながら部屋を出ていく青慈を見つめた。
日が傾いた夕餉の場。
「兄上、姉上、今日、青麻のやつが――」
スイカをもらえなかった恨みだろうか、青達が告げ口をした。
「何ですって?」
ヤスは顔を動かし、青麻をとらえた。
「何、姉上も食べたかった?」
「そんなわけないでしょう!」
ヤスは甲高い声を響かせると、青宗の方を向いた。
「青宗、あなたも一緒に施しに行ったでしょう? なぜ頂けないと言わなかったの?」
「言った。でも、あちらがどうしても持って帰ってほしいと」
「謝礼品以外に物を受け取るなんて、百目鬼の名に傷がつくと思わないの?」
ヤスががみがみと文句を垂らしていると、青午が割って入った。
「ヤス、もういいではないか」
「ですが、兄上」
「終わったことを責めても仕方がない。それにあちらの善意だろう。善意を無下にするほうが、名に傷が入ると思わないか?」
「……」
「そうそう、善意だよ。姉上」
ヤスが黙ったのをいいことに、青麻は横から口を挟む。
「青麻」
「はい」
青午の低い声で呼ばれた青麻は、天井から糸で引っ張られたように姿勢をピンと正す。
「これからは、礼の品を頂いたらきちんと報告するように。青宗もだ」
「はい」
青宗が言った。
「この話は終わりにしよう」
青午が締め、スイカの話は終わりと思いきや。
「ところで青慈、スイカの味はどうだった?」
「美味でした」
「そうか」
そう言った青午の声が、やちよには柔和に聞こえた。
夏の太陽が地平線に姿を消し、夜になった。うんざりするほどうるさかった蝉の声も聞こえなくなり、外も静かになった。
「やちよ。あの雨の日はすまなかった」
普段、会話が交わされない寝床で青慈が口を開いた。
「そなたの気持ちも考えずに余計なことを訊いてしまって。こんなところに嫁ぎたくなかったことなど、訊かなくても当たり前なのにな」
布団が擦れる音がし、青慈の声が近づいた。仰向けに寝ているやちよは、顔だけを青慈に向ける。
「でも今日、いつも張り詰めた顔をしているそなたが笑ってくれて、安心した」
唐突に言った青慈の声は、和歌集の歌を教えてくれるときと同じだった。やちよの胸の奥が温かくなる。
「この家は居心地が悪いであろうが、またいつか、笑った顔を見せておくれ」
「……はい」
今日が新月でよかった、とやちよはつくづく思った。だって、夕日のように赤く染まっているであろう顔を、見られなくてすんだのだから。
翌日の昼餉のあと、青慈は約束通り、キヨノの部屋にやって来た。
「姉上の部屋でこうやって並んで座るのも、久しぶりであるな」
「そ、そうですね」
やちよの鼓動は速くなる。緊張ではないことは確かだった。心の声を聞いてみる。
『恋慕だ』
そうはっきりと聞こえた。




