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五話

 やちよが百目鬼家に嫁いで一週間が経った。新妻なのにやることがなくて、毎日暇を持て余している。炊事、洗濯、掃除はヤスとシズが担当していて、やちよの出る幕はない。一週間前は農作業をしたり、川に水を汲みに行ったりと、やることがたくさんだった。何か作業をして気を紛らわそうと思ったが、「やちよ様は何もしなくていいんです」と、キヨノから止められてしまった。

 暇なだけでも苦痛なのに、気が休まるときがない。日中はキヨノの部屋で過ごすため、ずっと側にキヨノがいるし、夜、寝床に入っても青慈がいる。完全に一人になれるのは、厠に行ったときと入浴のときだけだ。だが、少しでも厠と風呂に長居すると、「腹痛ですか? 大丈夫ですか?」「のぼせていませんか?」と、キヨノが様子をうかがいに来る。だからやちよが完全に一人になれる時間は、一日一時間もない。

 今日も神経を尖らせたまま縁側に座って風に流れる雲を観察していると、青慈が通りかかった。

「毎日、暇であろう?」

「あっ、……はい」

「書物でも読んだらどうだ?」

「……私は学校に行っていないので、文字がほとんど読めません。分かるのは、自分の旧姓と名前の文字だけです」

「姉上」

 青慈が言うと、針仕事をしていたキヨノが顔を上げた。

「何だ?」

 と、針を動かしていた手を止める。

「暇なときでいい。やちよに文字を教えてやってくれ」

「分かった」

「かたじけない、姉上」

 青慈はキヨノに一礼すると、この場から離れていった。

「文字を教えるのは、昼餉のあとでよろしいですか?」

「あっ、はい」

 別に教えてもらわなくてもいいんだけどな。やちよは思いながら、視線を青空に戻す。さっき見ていた薄雲は、もうどこかに流されていた。

 昼餉のあと、キヨノが部屋に文机、紙、筆、硯、墨を持ってきた。

「準備いたしますので、少々お待ちください」

キヨノは手際よく、準備を進める。墨と硯が擦れ合う音が、妙に心地よかった。

「まずは、ひらがなから覚えましょう」

 キヨノは筆を滑らせ、さらさらと流れるようにひらがなを書いていく。紙はあっという間に、達筆なひらがなで埋め尽くされた。

「やちよ様、旧姓とお名前の仮名を指さしてみてください」

 言われたやちよは、「た」、「む」、「ら」、「や」、「ち」、「よ」、と指さしてみる。

「そうです。合っています。では、『どうめき』は分かりますか?」

「分かりません」

「『どうめき』は、この文字を使います」

 と、キヨノは仮名を指さしていく。

「そうなんですね」

「試しに書いてみましょう」

 キヨノから紙と筆を手渡された。仕方なしに、書きたくもない『どうめきやちよ』と書いてみる。

 やちよは旧姓と名前以外の字を書いたことがない。お手本を見ながら書いた字は、お世辞にも上手いとはいえない出来だったが、

「お上手ですよ」

 と、キヨノは褒めてくれた。

「『どうめき』にはもちろん漢字がありますが、それは後日。まずは仮名文字からです」

 あいうえお、とキヨノは一字ずつ文字を教えてくれた。文字なんか教えてくれないでいい、と思っていたやちよだが、キヨノがあまりにも懇切丁寧だったので、覚えることにした。

 時間をかけ、一通り五十音を教わった。

「書けば早く覚えられますよ」

 キヨノは言うと筆を置き、午後の針仕事を始めた。

 空を眺めるのも飽きたしなあ。やちよは筆を執り、「あ」から文字の練習してみる。書いてみると気も紛れ、ちょうどいい暇つぶしになった。


 日が昇っているうちに飽きるほど文字の練習をしたやちよは、一週間でひらがなを覚えた。後日、教えてもらったカタカナも、あっという間に覚えてしまった。下手だった字も、人に見せても恥ずかしくないほどに上達した。やちよの成長にはキヨノも感心していた。

 キヨノは文字を覚えたやちよに、

「私と青慈が幼少の頃に読んでいた物語があります。それには漢字が使われていなかったはずです。やちよ様、読んでみますか?」

 提案してきた。

 物語を読んでいれば気も紛れるだろうな。

「読んでみたいです」

 と、やちよは言った。

「分かりました。お持ちいたします」

 キヨノは部屋から出て、どこかに行ってしまった。

 一人になったやちよは、自分が書いた文字を眺めた。まさか、鬼から文字を教わるなんて思わなかった。

 しばらくすると、両手に書物を抱えたキヨノが戻ってきた。

「こちらになります」

 と、書物の山をやちよの前に置いた。蔵の中にでも入っていたのだろう。書物から、咳込んでしまいそうなほこりの臭いがした。

「どうぞ、お好きなものを読んでください」

 やちよは書物の山に手を伸ばした。日が差して明るい縁側に出て、表紙のほこりを払い、書物を開いた。

 竹から生まれた女の子が美しく成長し、貴族や帝に求婚されるが、誰とも夫婦にならず月から迎えが来て、月に帰る話だった。

 私も帰りたいと願ったら迎えが来て、おっとさんたちのところに帰れればいいのに。やちよは物語の姫を羨みながら、一冊読み終えた。

 読書はいい暇つぶしになった。物語の世界に入っていれば時間が経つのも早いし、気が張っていることも忘れられる。

「それ、子ども用の書物だろ?」

 集中して書物を読んでいたやちよは、青宗が間近に来ているのに気がつかなかった。背後から書物を覗き込む鬼の面に、心臓が飛び出しそうになる。

「子どもの読み物を読んで面白いか?」

「えっ、その……」

 驚きで言葉が出てこないやちよが、しどろもどろになっていると、キヨノが縁側に出てきた。

「やちよ様にはまだ、漢字を教えていませんので、読めそうな子ども用の書物を渡したんです」

「漢字か。キヨノ嬢、漢字、教えられるのか?」

「……自信はないです」

「なら青慈に教えさせればいいだろう。青慈は家の中で、一番漢字に明るい」

「そうですね。漢字は青慈のほうが適任かもしれないです」

「そうそう。適材適所ってやつだ」

 青宗は言うと、縁側から去っていった。

「やちよ様、申し訳ございませんが、漢字は青慈から教えてもらってください」

「……はい」

 と、小声で言って、書物に視線を落とした。

 やちよと青慈が夫婦になって約三週間が経った。だがやちよは、ほぼ会話を交わさない鬼の夫のことが怖いし苦手だ。鬼にしては親切なキヨノから教えてもらう方がましだ。

 青宗の乱入で途切れてしまった集中力が戻ってきた頃、

「昼餉の準備ができました」

 と、ヤスが来た。やちよは書物を閉じ、大広間に移動した。

 九人で食べる昼餉。百目鬼家の者は、面を気にしながら食べるからか、食事中の会話がほぼない。だが今日は、

「やちよさんは、もう仮名文字を覚えたそうですな」

 青午が話しかけてきた。

 やちよは咀嚼していた白米を急いで飲み込み、青午をちらりと見る。喋るからだろう。面をきちんと装着していた。

「あっ、はい」

「素晴らしい。読み書きができて損はないですからな」

 会話が終わると、青午の手は面に伸びた。だが、

「父上。相談があるのですが」

 キヨノが言うと、青午は面から手を遠ざけた。

「どうした、キヨノ?」

「やちよ様に仮名文字はもう十分なので、次は漢字を、と思っています。しかし、私は漢字が堪能ではありません。そこで、やちよ様に漢字を教えるのは、青慈が適任だと思うのですが」

「そうか」

 キヨノを見ていた青午は、青慈を見た。

「青慈、今日から昼餉のあと、一時間やる。その時間で、やちよさんに漢字を教えてあげなさい」

「承知しました」

 と、青慈は父親の命令をあっさりと承諾した。

 一時間も一緒にいなくちゃいけないのか。やちよは昼餉後のことを考えると憂鬱で、食事が喉を通らなくなってしまった。

 青慈の漢字指導は、キヨノの部屋で行われた。

「漢字は全く分からないのか?」

「旧姓の田村以外は分かりません」

「それなら我らの名字から。『どうめき』とはこのように書く」

 百目鬼。青慈はさらりと書いてみせた。

 こんな字、初めて見た。やちよは青慈が書いた文字をまじまじと見つめた。

「まずは名字を練習してみよ」

「は、はい」

 やちよは『百目鬼』と書いてみる。だが、青慈から見られていると思うと、緊張で手が震えてしまう。 初めて書いた自分の新姓は、震えで線がゆがみ、一文字の大きさが不均一の下手くそな出来だった。

「初めて書いたにしてはよかろう。今日はここまでだ」

 青慈は腰を上げると、部屋から出て行った。

 指導時間、十分未満。やちよは、青慈と一緒にいないでいいことに正直ほっとした。

 畳が擦れる音が聞こえたあと、視界の端にキヨノの姿が入った。視線をキヨノに向ける。

「身勝手な弟で申し訳ございません」

 と、キヨノは額を畳にくっつけた。

 土下座をされると思っておらず、

「キ、キヨノさんが謝らなくても……」

 やちよは、手を胸の前で右往左往させる。キヨノが顔を上げた。

「本来は一時間の約束です。青慈を連れ戻しましょうか?」

「いいです。たくさん教えてもらっても、一度に覚えられそうにないので」

「左様でございますか」

 キヨノは立ち上がった。針仕事に戻るのかと思ったが、再びやちよの前に膝をついた。

「……もしかしてですが、私が仮名文字をいっぺんに教えたとき、たいへんと思われましたか?」

 声を不安そうに揺らし、訊いてくる。

「そんなことないです!」

 やちよは再び胸の前で手を大きく動かす。

「それならよいのですが……。今後、私のことで何か不満がありましたら、遠慮なくお申し付けください。やちよ様のお気に召すように動きますので」

 キヨノは言うと、ようやく自身の仕事に戻った。

 鬼も漢字も難しいなあ。やちよはキヨノに聞こえないようにため息をつきながら、『百目鬼』の文字を見つめた。


 *


 漢字指導は、梅雨時期に入っても続いていた。青慈の漢字指導など嫌だと思っていたやちよだが、その思いは薄まった。思いの外、面白かったのだ。

 青慈は、ただ漢字だけを教えるのではなく、好んで読んでいたという昔の和歌集を用いて教えてくれる。四季の歌に恋の歌。やちよには、遙か昔を生きた人の感性は新鮮で、興味深かった。

 普段、冬の寒さのように凛としている青慈も、和歌を教えてくれるときは声色が明るい。この時間だけは、春が顔を見せているようだった。

 青慈は漢字の知識はもちろんのこと、何百年も前の古の文だって読めてしまう。青野村の村民で、読み書き、博識がある人を知らない。それに比べると百目鬼家の者たちは、皆、村民以上の知識が備わっている。

「あの、この家の皆様は博識ですけど、学校に通っていたのですか?」

 勇気を出して訊いてみる。青野村には学校がある。やちよは両親と一緒に畑仕事をしていたから通っていないが、彼らは通っていたのかもしれない。

「鬼が学校に通うわけなかろう」

 変なこと訊くんじゃなかった。一瞬で冬の姿に戻ってしまった青慈に、やちよは肩をすくめる。

 パチン。

「痛っ」

 雨音に、軽い音と青慈の声が混じった。

 青慈は後頭部を押さえながら振り返った。やちよも振り返ってみる。青慈の頭を叩いたのはキヨノだった。

「姉上、痛いではないか」

「もっと優しい言い方はできないのか?」

 キヨノが低い声で言った。やちよにはなぜか、普段と変わらない鬼の面が怒っているように見えた。

「やちよ」

 名を呼ばれたやちよは、視線をキヨノから青慈に向けた。

「すまぬ。文字は家の中で覚えた」

 と、青慈は頭を下げた。

「理由も言わぬか」

 キヨノは、青午、叔父叔母の前では青慈に対して下手に出ている。だが、親族が見ていないところでは、姉のキヨノのほうが上手のようだ。

「教わったのは父上からだ。だが、発案は父上ではなく祖父である」

「お祖父様……」

 ああ、と青慈は頷いた。

「亡き祖父は聡明な人であったという。読み書き、古文の知識は、家の中で誰よりも優れていたと。それに百目鬼家が妻を選ぶ際に行っていた蛮行も改めた、と父上は自慢げに言っていた」

「蛮行……?」

 やちよは独り言のつもりだったが、青慈に拾われた。

「曾祖父の代までは、次期当主が村に出向いて、好みの娘を妻に選んでいたというのだ。鬼に娘をやりたくない村民たちは、娘が年頃になると、即、嫁入りさせる。ゆえに、曾祖父が妻を選ぶときには、年頃の未婚の娘がいなかったそうだ。困った曾祖父は、他家に嫁にいったばかりだったという曾祖母を選び、村民から奪い取ったそうだ。自身の母親のことで心を痛めたという祖父が考え出したのが、施しの謝礼品の出来による妻選定というのだ」

 青慈は、曾祖父と先祖が行っていたという蛮行を淡々と語った。だが、今の妻選定方法もやちよからすれば十分蛮行だ。百目鬼家が妻候補を勝手に選び、施しの謝礼品に優劣をつける。そして、謝礼品の出来が悪かった家の娘を、強制的に嫁入りさせるのだから。

 青慈はふっー、と息を吐きながら肩を落とした。

「祖父も、曾祖母のことで心を痛めたのなら、妻をもらうことなど考えなければよかったものを。人間は鬼と夫婦になどなりたくなかろうに。そなたも、俺と夫婦になどなりたくなかったであろう?」

 やちよは顔を伏せ、下唇を口の中に巻き込んだ。「はい」と答えて夫婦関係が解消できるのなら、即答する。けれど、言ったところでどうにもならない。だからやちよは何も言わない。

「思っていても、『はい』、などと言えぬか」

 バチン。雨音に勝る音が部屋に響いた。キヨノがまた青慈の頭を叩いたのだ。

「すまぬ。余計なことも言ってしまったな。今日はもう終わりにしよう」

 青慈は和歌集を閉じると、部屋から出て行った。

「やちよ様、誠に申し訳ございません。私も青慈に余計なことを言わせてしまいました」

 本当、鬼なんかと夫婦になりたくなかった……。やちよは心の中でため息をつく。

 降りしきる雨が、強さを増した。


 翌日、青慈は昼餉後にキヨノの部屋に来なかった。

「青慈のやつ、やちよ様を傷つけた上に職務放棄とは! 父上に言いつけ、ここに連れて参ります!」

 キヨノは畳を踏みつけながら、部屋から出ようとする。怒りがこもった一踏みは、畳に穴を開けそうだ。

「キ、キヨノさん、いいです!」

 やちよが声を張ると、キヨノは足を止め、振り返った。

「しかし、やちよ様……」

「しばらくは仮名文字の書物を読みますので」

「……やちよ様がそうおっしゃるのなら」

 と、キヨノは部屋に留まった。

 日も沈み、就寝の刻限。

『今日はすまぬ』の一言もなく、青慈は床に就いた。やちよも、何も言わない青慈に背を向けて、床に就いた。

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