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十三話

 冬の寒さも和らぎ、世の中は春の空気に包まれた。蝶が舞い、鶯も鳴いている。もう火鉢はいらない。太陽光だけで充分暖かい。

 縁側に座ってひなたぼっこをしているやちよの元に、桜の花びらが舞い落ちた。やちよは薄紅色の柔らかいそれを拾い上げる。

「この辺りに桜の木があるんですか?」

 振り返って、部屋の中にいるキヨノに訊く。周囲を竹に覆われている百目鬼家。塀の外は緑一色。近くに桜がある気配などない。

「裏の竹林を北東に進んで、抜けた先に、一本だけあるんです。子どもの頃、父上に連れていってもらいました。大木にびっしりと咲く桜は、とても美しかったです」

 それはどれほど美しいのか。やちよは想像してみる。小さな薄紅色の花に彩られた美しい大木の姿を。

「見てみたいですけど、私はこの家の敷地から出られないんですよね……」

 やちよは桜の花びらを見てため息をついた。祝言の前日、進を見たあとにキヨノから言われたことを覚えていた。もう外に出ることはない。実際に、嫁いできてから百目鬼家の敷地内から一歩も出ていない。

「裏の桜くらいなら、父上も見に行っていい、と言うと思いますけど……」

 キヨノは縁側に出てきて、やちよの隣に正座をした。

「父上が厠に行くためにここを通ったときに訊いてみましょう」

「はい」

 と、やちよが言うと、キヨノは部屋に引っ込んだ。やちよも柔らかい桜の花びらを手放し、キヨノのあとに続いた。

 障子を開けっ放しにし、青午が縁側を通るのを待つ。

 やちよが縁側から引っ込んで、約一時間が経った。一歩一歩、重い足音が近づいてくるのが聞こえた。

「この歩き方は、父上でしょうね」

 キヨノの推測は当たり、青午が縁側を通った。

「帰るときに訊いてみましょう」

 五分ほどすると、厠があるほうから足音が聞こえた。キヨノは立ち上がり、縁側に出た。

「父上、ちょっといいですか?」

 と、厠から帰る青午を止めた。やちよも部屋から出て、キヨノの隣に立つ。

「やちよ様が裏にある桜を見てみたいと」

 経緯をキヨノが全部話してくれた。

「明日、青慈と見に行ってくるといい」

 青午は即答した。

「いいんですか?」

 すんなりと了承されたことに驚き、やちよの声はひっくり返った。

「ああ、いいとも。是非、見に行ってきなさい」

「ありがとうございます」

 やちよが頭を下げると、青午はその場を離れた。やちよとキヨノは、青午が十歩ほど進んでから部屋に引っ込んだ。

「やちよ様、よかったですね」

「はい」

 やちよは満面の笑みで頷いた。桜を見に行ける。しかも、青慈と行ってくればいいと言われた。それが何よりも嬉しかった。

 明日が楽しみ。そう思ったのは嫁いできて、初めてだった。


 翌日やちよは、薄紅色の着物を着た。

「桜とお揃いの色ですね」

 微笑ましかったのか、寝床に来たキヨノが、ふふっと笑った。

 桜は昼餉後、漢字を教えてもらっている時間に見に行くことにした。やちよはキヨノの部屋で、青慈が迎えにくるのを待つ。

 早く来ないかな、と思っていると、青慈が顔を覗かせた。

「では参ろうか」

「はい」

 やちよは立ち上がる。けれどキヨノは座ったままで、立ち上がる気配がない。

「キヨノさんは行かないんですか?」

「せっかくの機会ですから、二人で行かれたらどうですか?」

「キヨノさんにとっても、せっかくの機会なのに……」

「父上も私とではなく、青慈と見に行け、と言っていましたので。どうぞ二人で行ってきてください」

 キヨノは頑なに立ち上がろうとしない。

「姉上もこう言っているし、二人で行こうではないか」

「ええ。是非、二人で」

 と、キヨノはどうしても二人で行ってほしいようだ。

「じゃあ、いってきます」

「はい。いってらっしゃいませ」

 やちよと青慈は部屋をあとにし、玄関に向かった。

 三和土には大きめの草履が二足と、小さめの草履が四足並んでいた。やちよが実家から履いてきた、土で汚れたぼろぼろの草履がない。

「私の草履は……」

「これではないのか?」

 青慈は小さめの草履を手に取ると、やちよの前に置いた。それは誰も履いてなさそうな、真新しい草履だった。

「これじゃなくて、土で汚れていたぼろぼろのものなんですけど」

「そなた用に新しいものを準備したから、処分したのではないか?」

 ここに来たときに着ていた藍色の着物は、雑巾にしたと言われた。草履のことは何も言われなかったけれど、薪風呂の燃料にでもされたのだろう。やちよはそう思った。

「きっとこれがそなたのものだ。履いてみよ」

 やちよは、目の前に置かれた草履を履いてみる。い草製の天は履き心地がよく、大きさもちょうどよかった。これならどれだけ歩いても足が痛くならなそうだ。

 青慈も草履を履き、二人は玄関を出た。

 青空が広がっている。ぽかぽかと暖かく、桜を見に行くには絶好の日和だ。

「青慈とやちよ様が外に出るなんて珍しいね」

 今日の門番は青麻だった。家人の前では浮薄な彼も今は凛と佇み、門を守っている。

「裏の桜を見に行くのだ」

「あー。一本だけ大きいのがあったね」

 青麻は屋敷のほうに顔を向けた。

「キヨノちゃんは行かないの?」

「姉上は留守番するらしい」

「へ~」

 青麻は言うと、やちよに顔を向けた。

「青慈と二人だから、やちよ様はそんなに嬉しそうな顔をしてるんですね~」

「えっ」

 やちよは、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。恥ずかしさで頬がぽっと熱くなるのを感じた。

「ははっ。顔赤くなっちゃいましたね」

 分かっていることを指摘されると、余計に恥ずかしくなってしまう。

「早く行きましょう!」

 と、青慈の着物の袖を引っ張る。

「では、行って参る」

「いってらっしゃ~い」

 青麻に見送られた二人は村に繋がる道ではなく、家を囲う塀と竹の間にある小道を進んだ。百目鬼の人々が使っているのだろうか。人ひとり分の広さの小道には草が生えておらず、歩きやすかった。

 なだらかな坂を二十分ほど上った。桜の木が近いのだろう。地面に落ちている花びらの量が増えた。

「もうすぐのはずだ」

「はい」

 それから三分ほどで竹林を抜けた。太陽光を遮っていた笹がなくなり、周囲が一気に明るくなった。

 坂を上り終わると平地に出た。やちよは、何もない平地の奥に立つ桜に目を奪われた。

 やちよの足が止まっていると、

「近くで見よう」

 青慈から促され、桜に近づく。

 近づくと木の大きさがよく分かった。太く背が高い木は、天に向かって真っ直ぐ伸びていた。小さな薄紅色の花弁が隙間なく咲き乱れていて、地面に影を作っている。

「綺麗ですね……」

「ああ、実に見事だ」

 やちよはちらりと青慈を見る。青慈は面をつけたまま、顔を上に向けていた。

「外したほうがよく見えますよ」

 やちよは青慈の面を剥ぎ取った。面の中は暗く、光を求めて瞳孔が開いていたのだろう。青慈は太陽光に目を細めた。

「青慈さんは桜を見るのは、久しぶりですか?」

「十年ぶりくらいだろうか。そなたは毎年、見ていたのか?」

「はい。両親と見ていました」

 やちよは今まで見ていた桜を思い出す。毎年、家の近くにあった桜を、政吉とそよと見ていた。桜の中に二人の顔が浮かんだ。笑っている顔。喜んでいる顔。祝言中、百目鬼家に圧倒されて固まっていた顔も。

「おっとさんたちは元気なのでしょうか……」

 視線を落とし、ぽつりとつぶやく。家から出ることもないし、あっちから会いに来ることもない。田村家に施しに行った、という話も聞かないし、両親の現状を知るすべが全くない。

「そういえば、そなた実家は施しの依頼に来ていないな」

「元々うちは、施しを頼むことがめったにありませんでしたから」

「会いに行かせてやりたいが、きっと父上が許さないであろうな。すまぬな」

「青慈さんが謝らないでください」

「もし、そなたの両親が来たら、様子をそなたに伝えると約束しよう」

「お願いします」

 やちよは視線を上げた。どうか元気でありますように。桜の中に、両親の笑顔を思い浮かべた。

 しばし、無言のまま桜を見ていると、

「昔の人も、このように桜を見ていたのだろうな」

 青慈がふと言った。やちよは青慈の横顔を見る。桜を眺める顔は恍惚としていた。

「桜のことを詠んだ歌がありますもんね」

「よく覚えているではないか」

「青慈さんが楽しそうに教えてくれたので」

「楽しそうだったか?」

「ええ、とても」

 ははっ、と青慈は頬を触りながらはにかんだ。こんな風に笑うんだ。見たことがない青慈の姿に、やちよの心はときめいた。

 突風が吹いた。風に耐えられなかった花びらが宙を舞う。地面に落ちるそのときまで、美しさで魅了してくれる。

「青慈さん、髪に花びらがついてますよ」

「そなたにもついておるぞ」

 互いに手を伸ばし、髪についた花びらを取り合った。

「そろそろ帰ろうか」

「はい」

 やちよは、陽光に照らされて輝きを放っている桜を目に焼き付ける。

「来年も見にきましょうね」

「ああ」

 桜に背を向けるとき、青慈と手が触れた。体温を感じた瞬間、青慈から手を握られた。自分よりも大きな手をやちよは握り返す。日に当たって温まっている体が、さらに温まった。

 小道は狭く、並んで歩けないため、やちよは親から手を引かれる子どものように、青慈の後ろを歩いた。

 屋敷の屋根が見えると青慈は立ち止まり、やちよの手を離した。そして振り返った。

「そろそろ面を返してくれぬか?」

 青慈がすぐに面をつけないよう、やちよがずっと持っていた。

「どうぞ」

 青慈は面を受け取ると素顔を隠し、鬼の姿に戻ってしまった。

「誰も来ない、って分かっている場所でも、つけていないといけないんですか?」

「ああ。一族以外の者に素顔を見られたら困るゆえ、絶対に外すな、と言われておる。実は、そなたの前でも外してはならぬのだ」

「そうなんですね……。すみません……」

 家の規則を破らせていたなんて知らなかった。申し訳なく思ったやちよは肩をすくめる。

「謝らずともよい。二人だけの秘密にしておこうではないか」

「はい」

 やちよが頷くと青慈は前を向いた。二人は再び、屋敷に向かって歩き出した。

 帰宅した二人は玄関で別れ、青慈は青午の元、やちよはキヨノの元に戻った。

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