十二話
翌朝、やちよは青慈よりも早く目が覚めた。隣で眠っている青慈を見る。鬼の面をつけていない素顔の彼は新鮮だった。
整った顔を凝視していると、青慈が目を開けた。紺碧の瞳と目が合った。昨日の朝、彼の瞳を見たときは、得体の知れない恐怖があった。けれど、今は違う。愛しい夫の夜明け前の空のような瞳をとても美しく思えた。
「青慈さん、おはようございます」
「おはよう」
青慈は目を擦りながら体を起こし、頬を触った。
「やはり、そなたの前で素顔は恥ずかしいな」
青慈は照れ笑いを浮べると、もう面を装着した。素顔が完全に隠れてしまう。やちよはわずかに頬を膨らませる。もう少し彼の顔を見ていたかった。
青慈が出ていくと、入れ替わりでキヨノがやって来た。
「やちよ様、おはようございます」
「おはようございます。もう着替えています」
「左様でございますか。失礼いたします」
キヨノは無駄な動きをせず、布団を片づけた。
朝餉を食べたあと、キヨノの部屋に移動した。
昨日のこともあり、キヨノは何となく素っ気ない。午前中、キヨノから話しかけてくることはなかった。
昼餉後は、漢字指導の時間だ。キヨノの部屋に青慈がやって来る。
「それは……」
どういう風の吹き回しだろうか。青慈が持ってきたのは、青慈の字で書かれた緑色の表紙の書物だった。
「俺の雑記だ」
青慈はやちよの隣に腰を下ろすと、雑記をぱらぱらとめくった。
「そなた、年末に寝床を掃除したとき、これを見たのであろう? ほこりと、水に濡れた指で触ったような跡がついておった」
やちよは雑記に視線をやる。見落としそうなほど小さな水濡れ跡が、雑記についていた。
「見てないって言いましたけど、本当は見ました。すみません」
「謝らずともよい。寝床に置いていた俺も悪いのだから」
青慈は頁をめくる手を止めた。見たことないと言っていた『瞳』の字を指さした。やはり『瞳』で正しかった。
「そなたはなぜ、この字に興味を持った?」
「その字が、私に見せるわけにはいかない、って書いていた文の中にあったので」
「……あの文だな」
青慈はつぶやくと手を動かし、頁をめくった。
「これであろう?」
やちよは雑記を覗き込む。
やちよは俺の素顔に興味を持っているようだ。困ったものだ。やちよにはこの醜い瞳を見せるわけにはいかない。見てしまえば衝撃を受け、正気を失うに違いない。
大掃除をしていたときに見た文章で間違いなかった。
「はい。これです」
青慈は再び『瞳』の字を指さした。
「そなたが興味を持ったこれは、『ひとみ』と読むのだ」
「その字は教えないのではなかったのか?」
後ろからキヨノの声が飛んできた。その声には怒りがにじんでいた。
青慈は首だけを回し、キヨノを見た。
「姉上、もういいのだ。姉上は知らぬかもしれぬが、やちよは俺たちの秘部を知ってしまった」
「昨日、やちよ様がお前の瞳を見たことくらい、私も知っている。お前が私も同じ色をしている、と言ったこともな」
「知られたからこそ、教えていいと思ったのだ」
青慈は、体ごとキヨノのほうを向いた。やちよも後ろを向いてキヨノを見る。
「やちよは昨晩、この瞳を見た上で、俺たちのことを鬼ではないと言ってくれた」
青慈は面を外した。紺碧の瞳は、真っ直ぐにキヨノを見つめている。
「青い瞳をしていても、俺たちは人間であると」
しばしの沈黙の後、キヨノは言った。
「……やちよ様は、強くて優しいのですね」
泣いているのだろうか。面のせいで常にこもっている声が、さらにこもった。
「私の母上も青慈の母上も、何らかの拍子にこの瞳を見て、自分が産んだのが鬼だと知り、恐怖を抱いたから自ら命を絶ったというのに。それなのに、やちよ様は恐怖を抱くことなく、私たちのことを人間だと言ってくださるのですね……」
キヨノは下を向いて、面をずらした。面と顔の隙間に手をもっていき、中で動かした。涙をふいたのだろうか。キヨノは隙間から出した手を太ももにこすりつけ、面をつけ直すと、顔を上げた。
「瞳の字に関して、嘘をついて申し訳ございませんでした」
キヨノは、深々と頭を下げた。
嘘をついた経緯も教えてくれた。キヨノは雑記を見ておらず、直接、青慈に『瞳』の字について尋ねたという。実はキヨノも、やちよから「見せるわけにはいかない何か」と聞いたときに、瞳に関係する字ではないかと思ったらしい。どうしても瞳に関することは教えたくなくて、嘘をついた、と。
「いつか、キヨノさんの素顔も見てみたいです」
「……はい。いつか、お見せいたします」
面のせいでこもっている声が、今ははっきりと聞こえた気がした。
日が沈み、寒く暗い夜がやってきた。今日は布団にくるまって青慈を待つ。
今宵は曇っていて月明かりがなく、光が一切ない。寝床の中は、墨で塗られたみたいに真っ暗だ。
障子にぽうっと人影が映った。障子が開くと、手燭を持った青慈が寝床に入ってきた。
室内にほのかな明かりが生まれたが、それはほんの一瞬だった。青慈は面を外し、素顔をあらわにすると、すぐにろうそくの火を消した。やちよの視界はまた真っ暗になる。
「ろうそくの火、消すの早いですね」
「火事になると困るゆえ、火は早く消せと言われておるのだ」
「もう少し、青慈さんの素顔を見たかったんですけど」
「そう言われても、そなたに素顔をさらすのは、慣れぬので恥ずかしい」
布団をめくる音が聞こえた。青慈は布団に入ったようだ。やちよは布団の端に移動し、青慈に近づく。
「青慈さん」
「どうした?」
「以前、子をもうけるつもりはない、と言っていましたけど、今でも考えは変わってないのですか?」
彼が鬼であるのなら、子は産みたくなかった。けれど彼は人間だった。やちよ自身が、愛する夫の子がほしいと思ったのだ。
「子か……」
青慈の反応は芳しくなかったし、質問にも答えてくれない。
「そなたは、黒い瞳の子が生まれると思うか?」
ようやく口を開いたかと思えば、逆に質問が飛んできた。
「それは分かりません」
やちよはそこまで考えていなかった。
「父上とヤス叔母上はな、俺の子は黒い瞳で生まれてくるのではないか、と期待しておるのだ」
「青慈さんの瞳が、深い青をしているからですか?」
「ああ、そうだ」
ごそりと布団が擦れる音がした。青慈は寝返りを打って、こちらを向いたようだ。上に向かっていた声が、真横から聞こえるようになった。
「そなたは、俺たちの一族が鬼になった理由を知っているか?」
「昔は人間だったけど鬼になった、という話を村で聞いたことがあります」
「そうか。今から言うことは言い伝えゆえ、本当のことはわからぬ」
と、青慈は話を始めた。
俺たち一族も、大昔は黒い瞳をした人間だったというのだ。ある日、碧色の瞳をした子が産まれた。畏怖の念を抱いた俺たちの先祖は、その妻子を殺めたという。そして新しい妻を娶った。だが、次に産まれた子の瞳も碧色だったゆえ、その妻子も殺めた。三人目の妻を娶ったが、産まれるのは碧色の瞳をした子ばかり。
先祖は、なぜそんな子が産まれるのかと考えたとき、自分が子どものとき、悪さばかりしていたことを思い出したという。他所の畑の作物を勝手に取ったり、気にくわない子を川に突き落としたりな。昔、罪を犯したから、子の瞳が碧色になってしまったのだ、と。そして、妻子六人を殺めて、また罪を重ねた。四人目の妻が産んだ子も、やはり碧色の瞳だった。だがその妻子は殺めなかった。その生かされた子から面をつけ、鬼と称するようになり、俺たちまで続いているのだ。
先祖が村民に施しを始めたのは、善行を行って徳を積み、人間と交われば、いつか人間に戻れるのではないか、と考えたそうだ。
やちよが村聞いたことがあったのは、『彼らは元々人間で、いつの日か鬼になった』ということ。鬼と称するようになった理由、施しをするようになった理由は誰も言っていなかった。彼らが自らを鬼と称するようになった頃は、村民も言い伝えの全てを知っていたのかもしれない。けれど、村民間で口伝えする中、『人間が鬼になった』ということだけが残った。鬼と称する理由も知らずに気味悪がっている。村民への施しを始めた経緯も知らずに、屋根の修繕などのきつい重労働ばかりさせている。今、百目鬼の人々は、村民に都合のいいように使われているな、とやちよは思った。
「たまたま、俺と姉上のような深く青い瞳の者が産まれた。だから、もうすぐ黒い瞳の子が産まれ、人間に戻れる、と父上たちは思っておる。父上とヤス叔母上は特に、思いが強い。でも俺は、自分と同じような色をした子が産まれてくると思う」
「瞳が青い子が生まれたって、私はその子を愛します。だって鬼じゃなくて、人間なんですから」
「もし、その子が誰かに瞳を見られ、鬼と言われたらどうする?」
「鬼なんかじゃない、って言い返してやります」
「そなたは、本当に強く優しい心を持っているのだな」
暗闇に慣れたやちよの目が、青慈の顔をとらえた。鮮明には見えない。けれど、目を細めて笑っているように見えた。




