十一話
二月上旬の冷気は槍のように肌を刺してくる。やちよは寒さで目を覚ました。布団の中でぶるりと震える。
ふと、隣で眠っている青慈を見た。なんと、青慈の面が外れていた。
初めて見る夫の素顔。額に角が生えていなかった。目の前で眠っているのは、美しい人間の青年だった。やちよの胸は高鳴った。
目を開けた姿も見たい。眠っている青慈を見つめていると、青慈の瞼がぴくりと動いた。
ゆっくりと開いた瞼の奥から現れたのは、夜明け前の空のように深い紺碧の瞳だった。
やちよは息を呑む。紺碧の瞳は神秘的で美しかった。けれど同時に、得体の知れない恐怖も感じた。
青慈の瞳から目を離せないでいると、しっかり目が合った。
「やちよ、どうした?」
紐で喉を絞められたみたいに苦しくて、声が出なかった。
青慈はおもむろに体を起こす。そして、布団の上に落ちている鬼の面に気がついた。
「見てしまったのか。この醜い瞳を」
青慈は秘部を見られても慌てることなく冷静だった。慣れた手つきで顔に面を装着する。
「この醜い瞳こそ、俺たちが鬼である理由だ」
「み、皆さん、青慈さんと同じ瞳なのですか?」
やちよが絞り出した声はか細く震えていた。
「俺と姉上だけ深い青だ。父上たちは碧空のような色をしておる」
空の色を思い浮かべ、人の瞳に塗ってみる。目の部分だけ靄がかかったみたいになって、はっきりと想像できない。
「この瞳のことは忘れてくれ」
青慈は静かに言うと、寝床から出ていった。一人になったからか、空気がいっそう冷たく感じた。
やちよが布団の上で動けないでいると、障子に人影が映った。
「やちよ様、おはようございます」
寝床の外からキヨノの声がした。
「お、おはようございます」
「今日はもう起きていらっしゃるのですね。着替えはお済みですか?」
「まだです」
やちよは急いで寝間着から着替える。だが寒さと青慈の瞳の衝撃で手が震える。それでも頑張って手を動かし、着替えを終えた。
「着替え終わりました」
「失礼いたします」
障子が開き、キヨノが入ってきた。やちよと青慈の布団を畳み、押し入れに片づける。
やちよはキヨノの面の目の部分を凝視する。面の中は影で黒くて、瞳はよく見えない。
「いかがしました?」
「あっ、いえ、何でもありません」
「朝餉にいきましょう」
朝餉の場、やちよは青午たちの素顔を考える。碧空のような色。やちよ、政吉、そよ、それに青野村の人々の瞳は黒。だから碧空のような色をした瞳を想像できない。考えることに必死で、箸を動かす手も止まってしまう。
「やちよさん、食が進んでいないようだけど、体調でも悪いのかい?」
青午の声にはっとする。
「あっ……」
と、やちよは返す言葉がとっさに出なかった。すると、
「寒いので調子が悪いのでしょう。今朝も寒さで早く起きてしまったようです」
青慈が言った。
「そうか。キヨノ、やちよさんに掛け布団をもう一枚、準備してあげなさい」
「はい」
朝餉後、キヨノの部屋に移動した。ぱちぱちと音がする火鉢に手をかざす。白い灰の上で太陽のように赤く燃えている炭が、じんわりと指先を温めてくれる。
「今日は一段と寒いですからね」
キヨノが肩に毛布を掛けてくれた。背中にずっしりとした重みを感じる。
「掛け布団も寝床に持っていきました」
「ありがとうございます」
「恐縮です」
キヨノも膝をつき、火鉢に手をかざした。毎日、針仕事で動かしている指はほっそりとしていて、傷もなく綺麗だった。
やちよは、視線をキヨノの手から顔に滑らせ、闇夜のように真っ黒な二つの穴を凝視する。月が顔を出さない夜も、暗闇に目が慣れれば少しは周りが見える。けれど面の影に隠れている彼女の瞳は、いくら目を凝らしても見える気配がない。
キヨノがこちらを向いた。
「やちよ様、何かご要望がおありですか?」
「いえ、何でもないです。すみません」
キヨノから目をそらし、火鉢を見る。燃えさかる炭がぱきりと割れた。
昼餉も喉を通らず、半分以上残した。やはり体調が悪いのではないか、と青午から心配されたが、寒いだけと言って、誤魔化した。
昼餉後の青慈の漢字指導中も、彼らの瞳について考えた。
「やちよ、聞いておるのか。やちよ」
名を呼ばれ、青慈の顔を見る。面の奥の紺碧の瞳をとらえようとしても、これっぽっちも見えない。見えるのは影だけだ。
「はい。聞いています」
「ではこの字の読み方は何だ?」
青慈が一字、指さした。
「……」
答えられなかった。青慈の声は聞いていた。けれど内容は覚えていない。やちよの頭は彼らの瞳のことでいっぱいで、青慈の言ったことを処理していなかった。
「集中力がないな。そんなことでは覚えられぬぞ」
「……すみません」
「今日教えても無駄そうだ。明日にしよう」
青慈は書物を閉じて立ち上がると、部屋から出ていった。キヨノがすぐさま、やちよの隣にやって来る。
「まだ寒いですか?」
「……」
「炭を追加いたしますね」
キヨノは、部屋の隅に置いている炭とり箱をこちらに持ってきた。火箸を使い、慣れた手つきで炭を追加する。
やちよはまた、面の奥を見つめる。やはり何も見えない。
「あの、キヨノさん」
キヨノは火鉢に炭を入れる手をぴたりと止め、顔を上げた。
「いかがなされました?」
「素顔を見せてください」
「やちよ様のご要望でも、それだけはできません」
キヨノは俯いた。丸いつむじがこちらを向く。
「……瞳を見られたくないからですか?」
やちよが問うと、キヨノは伏せて間もない顔を上げた。
「なぜそう思うのですか?」
「今朝、青慈さんの素顔を見たんです。キヨノさんも同じ色の瞳をしている、と青慈さんから聞きました」
「……今日様子がおかしいのは、それが原因なのですね」
キヨノはふっ、と短く笑った。それは実に自嘲的だった。
「醜い瞳でしたでしょう?」
「醜いだなんてそんな……」
得体の知れない恐怖は感じた。けれど、醜いとまでは思わなかった。
「醜いですよ。深く青い瞳なんて。まあこんな色なのは、私は鬼だからなんですけど」
キヨノはぽつりと言って、顔を下に向けた。止めていた手を動かし、火鉢の中をいじる。火箸が灰色の炭に当たった。かろうじて保っていた形が、ぽろりと崩れた。
やちよは火鉢の中を見ながら、鬼とは何かを考える。
角と牙があり、邪悪で悪行を働く醜い存在。やちよはそう思っていた。けれど青慈には角も牙もない。他の皆も角と牙は生えていないだろう。彼らの生き方は素晴らしいと思う。彼らは悪行を働くどころか、施しといって、村民を助けているではないか。叔父たちは家屋の修繕などの重労働。キヨノと叔母二人は、衣類関係などの細かい雑用。家のこともしながら、村民のことを助けている。百目鬼家は、村で一番真面目で誠実な一族なのではないか。やっぱり彼らは鬼なんかじゃない。人間だ。
やちよは首を後ろに回し、こちらに背を向けて作業をしているキヨノを見つめる。
キヨノさん、あなたたちは鬼なんかじゃないです。声には出さず、心の中で言った。
夕餉は完食できた。青午から「食欲が戻ってよかった」と言われた。
日が暮れ、夜になった。
寝床に青慈がやってきた。青慈は布団の上に長座すると、面紐を引っ張り、面が外れないように調節した。やちよはその側から青慈の面を剥ぎ取った。
「何をする!」
月明かりで青慈の瞳がよく見える。自分とは違う紺碧の瞳が。
「さあ、面を返すのだ」
青慈が手を伸ばしてきたが、やちよは面を返さない。ぎゅっと胸に抱く。
「青慈さんは、鬼なんかじゃないです」
「笑わせるでない」
青慈は鼻で笑った。鬼なんかじゃない、と言われたことが不愉快だったのだろう。口も歪んでいる。
「この国の人間の瞳は、そなたのような黒色であろう。ではなぜ我らの瞳は青いのだ? 人間ではなくて鬼だからであろう?」
「瞳が青くたって、青慈さんは人間です」
「つまらぬことを言うでない!」
怒声は、散髪のときに浴びせられたものより強かった。やちよの心臓はびくりと驚き、脈拍を増す。
「俺たちは鬼なのだ! そなたたちとは違う醜い瞳をした鬼だ!」
「鬼じゃないです!」
やちよは叫んだ。久しぶりの大声に声は裏返った。
「黙れ!」
「黙りません!」
やちよは首を振った。風呂上がりに、キヨノからといてもらった髪が乱れる。
「青慈さんには、鬼にあるはずの角も牙も生えていない。それに百目鬼の皆さんは悪行を働くどころか、村民を助けている。鬼ならば、人間のことを助けたりしないはずです。人のために身を粉にして動くような、優しい心を持っている皆さんのどこが鬼なんですか」
胸元の面をさらに強く抱く。木製の面から、ぱきりと音が鳴った。
「私は鬼の妻じゃない。人間の百目鬼青慈の妻です。だから、自分を鬼だなんて言わないでください! 私は青慈さん、百目鬼の皆さんが人間だと信じています!」
青慈の瞳が潤んだ。目頭に溢れんばかりの涙がたまる。
「……俺はそなたを何度も傷つけた。それなのに、なぜそなたは、そのように優しい?」
「……青慈さんのことが好きなんです」
青慈はゆっくりと瞬きをした。目頭にたまっていた涙が頬に流れる。月光が、涙の筋をはっきりとやちよに見せた。
「……そうか。ありがとう」
青慈から抱きしめられた。彼から体を触れられるのは初めてだった。伝わってきた体温は、火鉢の熱よりも温かい。冬の寒さなど忘れてしまえる。
「青慈さんは私のこと、どう思っていますか?」
「俺も、そなたのことは愛おしく思っておる」
「……嬉しいです」
やちよは青慈の首元に顔を埋めた。青慈はくすぐったかったのか、体をぴくりと動かした。
「やちよ」
艶やかな声で名を呼ばれ、顔を上げる。頬に青慈の手が添えられ、顔が迫ってきた。
「好きだ」
私も、と言う前に口が塞がれた。しっとりとしていて柔らかい感触。口づけをされたのだと、すぐに分かった。
青慈の顔が遠ざかる。瞳を潤わせている彼は微笑んだ。
「私もです」
今度はやちよから顔を近づけて、口づけをした。
二度目の口づけのあと、やちよはゆっくりと布団に押し倒された。寝間着の中に、青慈の手が入ってくる。やちよも拒まなかった。
夫婦になって九ヶ月。初めて交わした夫婦の契りは、ひどく優しかった。
やちよははだけた裾を直し、自分の布団に横になった。寝返りを打って、青慈の方を向く。
青慈はこちらを向いていた。手を伸ばし、やちよの乱れた前髪を整えてくれた。
「二人きりのときは、面なんてつけずに素顔を見せてください」
青慈は目を伏せ、困惑したような表情を見せたが、
「……分かった。約束しよう」
と、頷いた。
「絶対ですからね?」
「ああ」
青慈は言うと瞼を閉じた。やちよはしばらく青慈の横顔を眺めてから、眠りについた。




