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十話

 年末の百目鬼家は慌ただしい空気に包まれていた。叔父の三人は、施しのために毎日村に出向いていて屋敷にいない。ヤス、シズ、キヨノはここ数日、自分の仕事に加え、屋敷の中を掃除してまわっている。

 忙しそうにしている彼らを横目に、一人だけ何もしていないやちよは決まりが悪かった。

「私も掃除します」

 雑巾で畳を拭いているキヨノに言うと、

「やちよ様は、汚れることをしなくていいのです」

 と、返ってきた。だがキヨノはそう言った直後、手を止めて顔を上げた。

「夫婦の寝床は、さすがに私が掃除するのも……」

「私がやります」

 やちよは声高らかに答えた。

「では、お願いします」

 キヨノは自分が使っていたほうきと、予備の雑巾を貸してくれた。やちよはそれを持って寝床に向かった。

 日があるうちにこの部屋に立ち入るのは、初めてだった。今のところ、眠るためにしかこの部屋を使用していない。

 やちよは部屋の中に何があるのか知らない。月明かりでは部屋の隅まで見ることはできない。朝はキヨノの声で目覚めて、着替えて、すぐに部屋を出るため、室内を観察する暇がない。

 日没後に見ないところをじっくりと見る。部屋の隅には、綿実のような灰色のほこりの塊があった。背の低い茶色の棚の上も、薄らとちりを被っていて白かった。誰もこの部屋の掃除をしていない証拠だ。やちよは早速、寝床の掃除を始めた。

 部屋の中を掃き、十枚の畳を拭いただけで疲れてしまった。座って棚にもたれかかる。結婚前は農作業で一日中動き回っていた。嫁いできて家の中でじっとしていたら、農作業で鍛えた体力はすっかりなくなってしまった。その代わり、文字の知識と体の脂肪は増えた。

 しばし休憩し、やちよは立ち上がる。そのときに、背中で棚の引き戸を開けてしまった。

 何が入っているんだろう。戸を開けて、棚の中を見る。

 夫婦の寝床になる前は、青慈の部屋だったのだろう。棚の中には書物が入っていた。もちろん、漢字を教えてもらうときに青慈が使っている和歌集もあった。

 シミがある古びた書物が多い中、新しめのものが一冊あった。やちよは気になって、引っ張り出す。緑色の表紙には何も書かれていなかった。めくってみると、それは青慈の字で書かれていた。

 日記だったら勝手に読んではいけない。やちよは思ったが、目が文字を追っていた。


父上とヤス叔母上には嫌気がさす。善行を行って徳を積み、人間と交わっても生まれるのは鬼。俺の瞳が人間に近づいていても俺の子は鬼。親が鬼なのだから当たり前だ。子孫が人間に戻る日など永遠にくるわけがない。父上たちも、聡明であったという祖父も、なぜそれが分からないのだろうか。父上は鬼を産んで錯乱し、自ら命を絶った二人の妻の成れの果てを見ているはずなのに。俺は妻をとっても、絶対に子などもうけない。


 知らない漢字が多く、文章の意味が分からない。名字に入っている『鬼』という字は『き』と読むことは知っている。だが、意味は教えてもらっていないため、何を示す漢字なのか分からない。ひらがなと、少し分かる漢字だけでは、青慈の文章を解読できなかった。

 他には何を書いているのだろう。頁をめくれどめくれど漢字に阻まれ、文章が理解できない。自分の名前を見つけても、書かれているのが称賛か悪口すらも判別できない。


やちよは俺の素顔に興味を持っているようだ。困ったものだ。やちよにはこの醜い瞳を見せるわけにはいかない。見てしまえば衝撃を受け、正気を失うに違いない。


 『見』は読めるし、意味も分かる。私に何を見せるわけにはいかないの? 『醜』と、よく出てくる『瞳』が読めなくてもどかしい。

「やちよ様、掃除は終わりましたか?」

 背後から声がし、振り返る。読むのに夢中でキヨノが真後ろに来ているのに気がつかなかった。

 やちよは慌てて書物を元あった場所に戻し、棚の戸を閉める。

「あとは棚の上を拭くだけです」

「左様でございますか」

 やちよは急いで棚の上のちりを拭く。角に拭き残しがあったが、

「終わりました」

 と、キヨノのほうを向く。

「お疲れ様でございます」

 キヨノは頭を下げた。顔を上げると、やちよの前に手を出した。

「ほうきと雑巾をお預かりします」

 やちよは二つを手渡す。

「手が汚れになったでしょう? 洗いに行きましょう」

 やちよあの書物を読みたかったが、手の汚れも気になっていた。

「はい」

 と、頷き、寝床を出た。

 縁側に水が入った桶があった。キヨノが水を杓ですくい、かけてくれた。水は掌が赤くなるほど冷たかった。


『やちよにはこの醜い瞳を見せるわけにはいかない』

 やちよは暗闇に慣れた目で棚を見つめながら、青慈が書いていた一文を思い出す。『醜』と『瞳』とはどう読み、どんな意味なんだろう。初めて見た漢字に一人で頭をひねっても、皆目見当もつかない。

 青慈に訊けば、答えはすぐに分かる。けれど、青慈から教えてもらっていない字を問うことはできない。もしかしたら、あれを見たことを感付かれるかもしれない、とやちよは思った。キヨノに訊く手もあったが、キヨノが漢字に明るくないことを覚えていた。だから、訊かなかった。

 棚を見ながら思考を巡らせていると青慈が入ってきた。

「棚など見つめてどうした?」

「今日、この部屋の掃除をしたときに、棚の中を見たんです。あの中の書物は、どんな内容なんだろう、と思って。書物をめくってみたんですけど、知らない漢字ばかりでさっぱり分かりませんでした」

「そうであろう。そなたに教えた漢字は、まだほんの一部だからな」

 青慈は手燭の明かりを消し、布団に入った。やちよも横になり、首から下に掛け布団を掛ける。

「年が明けて暇が増えたら、また新しい漢字を教えよう」

「はい。ありがとうございます」

 と、眠りについた。


 翌朝、物音でやちよは目を覚ました。上半身を起こす。起きたばかりで歪んでいる視界に、棚の前にいる青慈の姿が映った。

「すまぬ、起こしてしまったか」

「いえ」

 やちよは目を擦り、瞬きをする。すると、視界が大分ましになった。

「あっ、それ……」

 青慈の手には、昨日見たあの書物があった。

「もしかして、昨日見たという書物はこれか?」

 青慈の声がわずかに固くなったのを、やちよは聞き逃さなかった。見られたくないものなんだ、と察し、

「違います」

 と、首を振る。

「それならよい」

 青慈は棚の戸を閉めると、それを小脇に抱えて寝床から出ていった。

 もっと漢字を覚えたあと、こっそり読もうと思っていたのに。やちよの計画は、実行に移す前に頓挫してしまった。


  *


 年が明け、昼餉後の漢字指導が再開した。「棚の中の書物が自分で読めるように」、と青慈は書物を用いて漢字を教えてくれるようになった。

 今は一日、四文字教えてもらっている。読み方と意味を聞いたあとに、書く練習をする。下手な字でも、青慈は必ず褒めてくれた。

 青慈が青午の元に戻ると、やちよは青慈のお手本を見ながら一人で書く練習をしている。

 やちよは今日教えてもらった四文字で、障子紙の切れ端一枚を埋め尽くした。これで今日の練習は終わりだ。

 だが墨を片づける前に、

 『瞳』

 読み方も意味も分からないけれど覚えている字を切れ端に書いた。この紙は元々、薪に火をつけるために燃やされるものだった。燃やす前にやちよが字の練習用紙として、使わせてもらっている。青慈のお手本だけを取っておいて、自分で書いたものは燃やす。だから青慈に見られる心配はない。

漢字を教えてもらえど、『瞳』の字は一向に出てこない。

 青慈が持っていった書物には、たくさんの文章があった。もちろん、「やちよ」と書かれた文章も。けれど、あの一文しか覚えていない。あの一文でも、『瞳』の上に書かれていた漢字は忘れてしまった。

 いつになったら、この字を教えてもらえるのだろう。この字を教えてほしいとは、口が裂けても言えない。やちよはふっとため息をついた。

 意味がわからない『瞳』の字をじっと見ていても仕方がない。やちよは練習したものと、『瞳』と書いた紙を重ね、

「これいつものです」

 と、キヨノの側に置いた。

「はい。分かりました」

 キヨノは顔を紙の方に向けた。すると針仕事を止め、紙を持ち上げた。

「やちよ様はよくこの字を練習していらっしゃいますね。この字は何と読むのですか?」

「読みも意味も分かりません……」

「ではなぜこの字を書けるのですか?」

 やちよは青慈から習う以外に、漢字を知る機会がない。だからキヨノが、習っていない漢字を書けるやちよのことを不思議に思うのは当然だった。

「……絶対に青慈さんに言わないでくださいね」

「はい。言いません」

 やちよはキヨノの前に正座する。キヨノの言葉を信じ、口を開いた。

「年末、寝床の掃除をしたとき、青慈さんの字で書かれた書物を見たんです」

「そういえば、私が様子を見にいったとき、何か見ていましたね」

「そのとき見ていた書物に、その字が書かれていたんです。しかも、私について書かれた文章の中にその字があったんです」

「だから覚えていたのですね」

「はい。その字のものを私に見せるわけにはいかない、って書いました」

「……そうなのですね」

「教えてもらっていない漢字なので、青慈さんに訊けなくて……」

 視線を紙に向けた。薄い障子紙の裏に『瞳』の字が透けている。

「その……。キヨノさんからその漢字のことを、青慈さんに訊いてもらえませんか?」

 はい、分かりました。やちよはそう即答してくれると期待していたが、間があった。

「私も漢字はあまり知らないですし、知る機会もないので、訊いたら不自然です。だから訊かないほうがよいかと」

 キヨノさんなら訊いてくれると思っていたのに。思い通りにいかず、やちよは唇を尖らせる。

「気長に待てば、いつか教えてもらえるかもしれませんよ?」

「そうですね……。気長に待ってみます」

「それがよろしいですよ」

 キヨノは持っている紙を一瞥した。

「ではこれは、青慈に見られないように」

 と、紙を丸めた。そして丸めた紙をもう一枚の紙で包む。彼らがやちよや人間に素顔を隠すように、やちよも青慈には『瞳』の字を隠す。


 気長に待つと言って十日が経った。今日もあの字は教えてもらえなかった。またあの字を書いては眺めて、ため息をつく。

「気長にですよ。気長に」

 真横から声がし、ぴくりと肩をすくめる。キヨノが真横に来ていたのに、気配に全く気がつかなかった。

「ちょっとシズ叔母上のところに行って参ります」

「あっ、はい」

 キヨノが視界から消えた。文机に視線を戻す。字を見てまたため息をこぼす。

 今日はもうこの字のことを考えないようにしよう。やちよは紙を丸めてあの字を隠すと、ゆるりと立った。そして厠に向かった。

 用を足して部屋に戻る。障子を開けると、青午の元に戻ったはずの青慈がいた。

「青慈さん、どうしたんですか?」

 こちらを向いている背中に声をかける。彼は問いに答えず、反対に質問を投げてきた。

「この字は何だ? どこで見た?」

 穏やかではない声にどきりとする。もしかして……。やちよは青慈の横に回る。机上に置いていた紙は開かれ、青慈の手にあった。

「ね、寝床にある書物です」

 くしゃくしゃになった紙を見ながら言う。

「どの書物だ?」

「覚えていません」

 青慈がどこかに持っていた書物は、見ていないことになっている。だからやちよもこう言うしかない。

 青慈は顔を下に向け、黙視している。どんな顔をして『瞳』の字を見ているのか。鬼の面に阻まれ、表情が全く分からない。

「持っている書物でこのような字は見たことがない」

 やちよは呆気に取られた。彼自身があの書物に、あの字を書いていた。見たことないはずがないのに、どうして嘘をつくの?

 青慈は紙を文机に置くと墨をすり、筆を執った。

『憧』

 青慈が書いた漢字は、あれに似ていた。

「そなたが見た字はこれではないか?」

 あの字は目に焼き付けた。違う、と断言できる。でも断言して、「この字を見た書物を探して見せてくれ」なんて言われたら困る。だから、違うなんて言えない。

「……そうかもしれないです」

「そうであろう。これは送り仮名に『れ』を添え、『あこがれ』と読む。意味も同じだ。他にも『ショウ』とも読む」

「……そうなんですね」

「間違って覚えてしまったのだろう。漢字に興味を持つのはよいことだが、正しく覚えねば意味がないぞ」

「……そうですね。わざわざありがとうございます」

 青慈は筆を置くと、立ち上がった。

「それはそうとして、俺は姉上を探しにきたのだ。どこに行ったか知らぬか?」

「キヨノさんなら、シズさんのところに行きました」

「おお、そうか」

 と、青慈は部屋から出ていった。

 やちよは文机の前に正座をする。『憧』の字を見つめながら、たった今教えてもらった読みと意味を、覚えているあの文章に当てはめる。

『ショウを見せるわけにはいかない』

 意味が分からなかった。文章としてもおかしい。それに憧れなど目に見えるものではない。人に見せないものであっても、青慈が意味不明のおかしな文章を書くとは考えられなかった。

 やちよは『瞳』と『憧』を並べる。絶対にこっちの字だ。くしゃくしゃの紙を睨みつけた。

 十分ほどして、キヨノが帰ってきた。やちよはまだ二つの字を眺めていた。

 キヨノが文机を覗き込んでくる。

「これは、いつも書いていらっしゃるあの字と違いますね」

「青慈さんが教えてくれました」

「また、突然ですね」

「丸めておいたこの紙を見られたんです。そうしたら『このような字は見たことがない』って言って、この字を書きました」

 やちよは『憧』と書かれた紙を指す。

 キヨノは文机の側面に座ると、二枚の紙を手に取った。

「青慈がこの字を書いたのですから、こちらが正しいのではないですか?」

 と、キヨノが『憧』のほうの紙を揺らす。

「絶対に違います!」

 やちよは、頭が飛んでいきそうなほど激しく首を振った。

「私が見た字はそれじゃないです」

 太もも部分の布をぎゅっと握る。青慈には嘘をつかれたし、キヨノにも信じてもらえない。共感されなくて悔しい。

「確認したいんですけど、青慈さんが書物をどこかに持っていってしまって……」

「私がその書物を探し出して、確認いたしましょうか?」

 思いがけない言葉にやちよは顔を上げる。

「いいんですか?」

「はい」

 キヨノは紙を置き、深く頷いた。

「確認したほうが、やちよ様もすっきりするでしょうから」

「お願いします」

「承知いたしました。書物の特徴は覚えていますか?」

「表紙が緑色でした」

「緑色ですね」

「でも探すのは大変じゃないですか? この屋敷は広いですから……」

「予想はついています」

 弟の行動など、容易に想像できるのだろう。キヨノの言い方は自信ありげだった。

「おそらく昼間にいる部屋にあると思います。あそこなら青慈以外はほとんど入りませんから、恰好の隠し場のはずです。今夜、青慈が風呂に入っている間にでも忍び込んで探してみます」

 キヨノは言うと、再び二枚の紙を手にした。

「これは確認するときに見るので、お借りします」

 と、紙を四つ折りにして、懐に仕舞った。

 私が見たのは絶対に『瞳』。答え合わせはキヨノに託された。


 翌日の朝餉後。

「あの、キヨノさん……」

 やちよが全てを言う前に、

「昨日、頼まれた件ですよね」

 キヨノは言った。

「あの部屋にありました。昨日、青慈がやちよ様に教えた字が、しっかりと書いてありましたよ」

「えっ……?」

 絶対的自信があったやちよは、目を瞬かせて固まる。

「青慈はしっかりこちらの字を書いていましたよ」

 確認のために、と昨日持っていった『憧』が書かれた紙を見せてくる。なぜか、キヨノも嘘をついているように感じて仕方なかった。

 どうしても自分の目で確かめたい。そう思っても、キヨノと青慈の目を盗んで部屋に忍び込み字を確認するなど、できそうにない。諦めるしかなかった。

「これで解決ですね」

 キヨノが『瞳』の紙を丸め、懐に入れた。

 『憧』が正しい字。『瞳』という字は存在しない。この日以降、やちよは『瞳』の字は書けなくなってしまった。

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