一話
田村やちよは畑にいた。やちよの住む青野村は山奥にあるのどかな農村だ。
やちよは両親と作物を育て、生計を立てている。貧しくても、優しい両親との生活が楽しくて好きだ。
五月の日差しの下、泥にまみれながら人参を抜いていると、
「やちよも十八になったし、そろそろ、婿をもらわないとなぁ」
父親の政吉が言った。やちよ一人しか子どもがいない田村家。家を存続させるためには、婿入りが絶対だ。
「川辺さんのところの、進くんがいいんじゃない? 誠実で働き者だって聞くし。しかもあの子、三男だったはずだよ」
母親のそよが言う。
「進くんか。そりゃあいいや。やちよ、進くんはどうだ?」
政吉から問われ、やちよは進のことを思い浮かべる。
一つ上の進。幼少期は川でよく一緒に遊んでいた。石を投げて水切りをしたり、魚を捕ったり。思い出が昨日のことのように脳裏に甦る。
だが年頃になると、進と遊ぶことはなくなった。一旦、関わりはなくなったが、やちよが十五歳のとき、彼への意識が変わる出来事があった。川に水汲みに行ったやちよの草履が壊れて困っていたところ、進が家までおぶってくれた。川で遊んでいた頃は、同じくらいの広さだった背中も、女を軽々と背負えるほどたくましくなっていて、安心感があった。この瞬間、兄的存在だと思っていた彼に、恋慕の情を抱いた。
「……進さんなら、嬉しい」
やちよは頬をほんのりと赤め、ぼそりと言った。
「おおー、そりゃよかった。今日の夕方にでも、話に行ってみるよ」
「了承してくれれば、家も安心だね」
泥だらけの三人に笑みがこぼれた。
今日の農作業を終えると、政吉は早速、川辺家に向かった。
政吉の帰りを待つ間、やちよは土間の台所でそよと肩を並べて夕餉を作る。
「進くんのことが好きなんでしょ?」
そよが、味噌汁に入れる人参を切りながら訊いてきた。
「……うん」
やちよはたくあんを切りながら頷いた。頬がじわりと熱を帯びる。
「やっぱりそうだよね」
と、そよがクスクスと笑った。
「だって進くんがうちの近くを通る度に、顔を赤くしてたから」
そよは娘の恋心を知っていたようだ。だから政吉に進との縁談を提案したのだろう。
「やちよは働き者のいい子なんだから、好きな人と夫婦になって幸せになってほしい。それが、私たちの願いだからね」
両親の思いが、やちよの涙腺を優しく刺激する。目はたちまち感涙で潤んだ。
「おっかさん、ありがとう」
やちよはこぼれそうになる涙をおさえながら、包丁を動かし続けた。
人参とカブの味噌汁が出来上った。野菜の漬け物も小皿に盛って、夕餉の品は完成だ。やちよが麦飯をよそっていると、玄関の引き戸が開いた。
政吉が帰ってきた。彼はニコニコと満面の笑みだった。
「やちよ、よかったな。進くんもやちよだったら嬉しい、って了承してくれたぞ」
了承してくれた上に、嬉しいなんて。やちよは政吉の言ったことが、にわかに信じられなかった。
「おっとさん、それ本当……?」
「ああ、本当さ」
政吉は力強く頷いた。
疑念の雲が散る。やちよの顔は、太陽に照らされたようにパッと明るくなった。
「やちよ、よかったね!」
娘の幸せを願っていたそよは、子どものように飛び跳ね、喜びを爆発させた。
「うん!」
やちよが頷くと、両親の笑みも大きくなった。
オンボロの壁の隙間から夕日が差し込んだ。橙色の光がやちよに当たる。幸福でいっぱいのやちよがいっそう輝いた。
翌日。幸せいっぱいの田村家の三人が農作業をしていると、
「田村様」
どこかこもったような女の声に呼ばれた。三人は振り返る。畑の際に、白い鬼の面を被った着物姿の女が立っていた。
政吉は持っていた人参を地面に置くと、大急ぎで女の元に近づいた。
「これは百目鬼様、どうしましたか?」
やちよとそよも作業を取りやめ、政吉の側に寄る。
女は懐に手を突っ込んだ。
「青午様より、文を預かって参りました」
四つ折り巻きの文を懐から取り出すと、それを政吉に差し出した。
「すみません、うちは皆、自分の名前以外の字が読めねえので……」
政吉は言いながら、ぽりぽりと後頭部をかいた。
「では、文の内容を簡潔にお伝えします」
と、女は文を開いた。政吉がゴクリと唾を飲み込む。その音は、やちよの耳にも届いた。
「百目鬼家次期当主である、青慈が二十歳になりましたので、妻を迎えようと考えています。誠に勝手ながら、先月、我が家が施しを行った家の未婚の娘様から、妻の候補を選ばせていただきました。しかし、我ら鬼の元に大事な娘様を嫁がせたくないことと思います。そこで最終的な決定は、施しの謝礼として頂いている農作物の出来の良し悪しで決めたいと思います。五月十五日、正午、娘様と共に百目鬼家にお越しください」
女は言い終わると文を丁寧に折りたたみ、再び政吉に差し出した。ところが、政吉は呆然と立ち尽くしていて、文を受け取ろうとしない。やちよとそよも同じ反応だった。
誰も受け取ろうとしないため、女は政吉の泥だらけの手に文を握らせた。
「必ずお越しください。それでは失礼いたします」
女は一礼すると、踵を返して田村家の畑から離れていった。
百目鬼家。青野村の竹林の奥に住み、自らを鬼と称する一族だ。鬼の面を常に被っていて、素顔を絶対に見せない。言い伝えによれば、元々は人間だったそうだが、いつの日か鬼になってしまったという。そんな彼らだが、村民に危害を与えることは一切ない。その逆で、彼らは村民が困っていると、「施し」、といって助けてくれる。施しの内容は、家の修繕や畑の手伝いなど様々だ。田村家も先月、茅葺き屋根を修繕してもらった。
女の姿が見えなくなると、血の気が引いて青白くなってしまったやちよが、政吉にすがる。
「おっとさん……。私、百目鬼のところになんていきたくない」
「そうだよ。やちよは進くんと夫婦になるんだから。鬼のところになんてやるわけにはいかないよ」
そよも涙を流しながら、政吉の腕を揺すった。
「今年の作物の出来は去年よりもいい。だから絶対に大丈夫だ。やちよを鬼の元にやるものか」
一家の大黒柱が、二人を慰める。日に焼けても色白で体の線が細い政吉。弱々しく見えるが、心は強くて優しいのだ。
「俺は、他の家に百目鬼が来たか訊きに行ってくる。そよとやちよは、もう家の中で休んでろ」
政吉は二人に背を向けると、泥だらけのまま、村の中心に向かって駆けていった。
二人は言われた通り、家の中に入る。
中に入るやいなや、
「ああ……」
と、そよは板が弛んでいる上がり場に膝をついた。妻候補に選ばれたやちよよりも、そよのほうが気落ちしているようだ。
「おっかさん……」
やちよはそよの背中に手を回す。子どもに返ったように泣きじゃくる母の背中を、やちよはなで続けた。
夕間暮れに帰ってきた政吉が、村中を回って得た情報を教えてくれた。
娘を妻候補に選ばれた家が、田村家を入れて五軒。誰が選ばれても恨みっこはなし、と約束してきたという。
「野原さんの家は作物の出来が悪いと言っていてな。実際に畑を見にいったら、全く育っていなかった。だから大丈夫だ」
「本当かい?」
瞼を赤く腫らしたそよが顔を上げる。
「ああ、だから安心しろ」
力強い父親の声をやちよは信じる。
私は進さんと夫婦になるんだ。絶対に百目鬼のところになんか、行かないんだから。
五月十四日。
畑に出た田村一家は言葉を失った。収穫間近だった人参やかぶが、根こそぎ引っこ抜かれ、そこら中に捨てられていた。
「いったい何が……」
政吉は血相を変え、畑の中に飛び込んだ。やちよとそよもあとに続く。
見わたす限り、土の上は引っこ抜かれた作物で覆われていた。昨日まで繁っていた鮮緑の葉も踏みつけられ、土色に染まっている。
「無事なものを探すんだ!」
三人は地面に這いつくばり、全身を土で汚しながら傷ついていない作物を探した。
山から猪でも来て、荒らしてしまったのかな。やちよは、土の上に転がっているかぶを一つ拾い上げる。見ても、獣が食いついたような痕跡は見当たらなかった。人参も同様だった。
これはよさそう。人参を持ち上げたとき、やちよは大きな人間の足跡に気がついた。それは自分たちではない人間の足跡だった。
まさか……。握っていたかぶが手から離れ、地面に吸い寄せられるように落ちた。
「おっとさん、おっかさん!」
やちよはとっさに大声を出し、二人を呼び寄せた。
「無事なものがあったのか?」
やちよは両親の頼みの綱を断ち切るように、無言で誰かの足跡を指し示す。
両親はやちよの指先に視線を滑らせた。政吉は目を見開き、そよは手で顔を覆った。
「何てことだ……」
「ああ……」
犯人が獣ではないと察したのだろう。両親は人間の足跡の上に、膝から崩れ落ちた。
「いったい、誰がこんなことを……」
政吉は近くに落ちていた人参を拾い上げた。傷が深い人参は、握ると真っ二つに割れてしまった。政吉は割れた人参を畑に還すと、よろりと立ち上がった。
「この中から、謝礼として出せそうなものを探すしかない」
と、膝の土を払う。
「そんなもの、この畑にはないじゃない。誰かに分けてもらうことはできないの?」
「そんなことをして、百目鬼にばれたらどうする⁉」
政吉の剣幕にそよはビクリとし、首をすくめた。
「でも……」
そよは消えそうな涙声で言い、顔を覆う。覆いきれていない顎先から、土を含んだ茶色の涙が滴り落ちた。
「一つくらい、謝礼に持っていっても恥ずかしくないものがあるはずだ」
震えるそよの肩に、政吉はそっと手を置いた。
そよは顔を覆っていた手をのけた。鼻をズズッとすすり、指先で涙を拭う。その顔は、必ず見つけてやる、という決意が現れているようだった。
そよの顔つきが変わると、政吉はやちよを見た。
「やちよも頑張って探すんだ」
やちよはこくりと頷いた。そして、再び地面に這いつくばる。
絶対に百目鬼のところにはいきたくない。目を皿のようにして、謝礼として渡せそうな作物を探す。
昼餉も取らず、日が暮れるまで綺麗な作物を探したが、謝礼にふさわしいものは見つからなかった。傷物の中でましな物を寄せ集め、カゴに盛った。不良品を大量に盛っても誤魔化すことはできない。ただ貧相な謝礼品ができただけだった。
「野原さんところの作物が、うちのより出来が悪いことを祈ろう」
「……うん」
やちよは貧相な謝礼品を見つめながら、沈んだ声で答えた。




