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芸ノ譚  ―弦は盤上に堕ちて―  作者: 宮山悠
第一章 定めの盤上へ

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第八話 歓迎の宴ー上ー

祥吉殿しょうきちでん――その名を冠するこの殿は、

息を呑むほど完璧に整えられていた。


黒漆の柱に金糸の装飾。

絹幕はわずかな風にも計算されたように揺れ、

床には足音ひとつ響かぬよう、薄い絹が敷かれている。

音すらも秩序に組み込まれた世界。

一歩踏み入れるたび、胸の奥が静かに軋んだ。


「弦様、お支度を」

侍女の声に導かれ、私は衣を手に取った。

柔らかな絹の感触。胸元には金糸の刺繍。

鏡に映る自分が、まるで知らない誰かのように見えた。


「この生地は宮でしか織られぬものです。弦様に、とてもお似合いでございます」

そう言われ、思わず笑った。

――ありがとう。

けれど胸の奥は、冷たい手に締めつけられるようだった。


佳恋は鏡の向こうで唇に紅を引いていた。

艶やかに笑いながら、私を一瞥する。


「緊張してるの?」


「……少しだけ」


「ふふ、こういう場所じゃね、黙って微笑んでりゃ勝ちよ。

 顔は悪くないんだから、自信持ちなさいな」


その余裕のある声に、ほんの少しだけ救われた気がした。




門が開いた瞬間、胸の鼓動が跳ねた。


「舞の芸『へん』、佳恋! 楽師の芸『琴』、弦!」

宦官の声が殿に響く。


その瞬間、無数の視線が降り注いだ。

重い、湿った視線。

見られている――否、値踏みされている。

まるで、獣を囲む観客のように。


視線の先には、帝が座していた。

その佇まいは静謐で、しかし絶対だった。

ただ座しているだけで、空気が震える。

――武士の芸「武」を持つ方。とても稀だ。

噂に聞いていたその力の気配に、思わず背筋が伸びる。


その両脇には皇妃と皇太子。

そして、その傍らにひとりの女が静かに座していた。

優寧公主ゆうねいこうしゅ――陛下の娘にして、皇太子の姉。


さらに左右には、四芸――琴・棋・書・画の重鎮たち。

その背後には、かつてその座を逃した高官たちが並び、

嫉妬と未練を宿した眼でこちらを見ていた。


「はじめて参ります、陛下」

私の声は震えていたかもしれない。


帝はゆっくりと視線を落とし、薄く笑んだ。

「よろしい。……ようこそ」

声には威厳がありながら、温度はなかった。

「今日は二人のための宴。楽しむがいい」




席へ案内されるとき、心臓の音が耳の奥でこだました。

私の席は右側の後列。佳恋は反対側に座る。


そのとき、隣から声がした。


「お久しぶりだね」


――斎。

あの、面倒な男。


「お久しぶりです。今日の装い、とてもお似合いですね」

「ありがとう。弦ちゃんも綺麗だよ」


彼は微笑を崩さず、杯を軽く回した。


「でもさ、今日この場でみんなが見てるのは、佳恋ちゃんじゃない。弦ちゃんのほう」

「……そんなはずは」

「あるさ。君の血が、騒がせるんだよ」


その言葉に、心臓がひとつ跳ねた。


「時代は変わったんだ。今は――血筋がすべて」

彼の声が低く沈む。


指先で、対面の列を示した。

「佳恋ちゃんの左の二人、それに僕と弦ちゃん。

 全員、四芸の血を引いてる。外の人間は、もう入り込めない。

 陛下は僕たちの“遊び”を見たいんだよ」


遊び――。

その言葉の冷たさに、血が凍った。

私はこの場に「招かれた」のではない。

「配置された」のだ。


盤上の駒として。


視線を上げる。

帝がこちらを見ていた。

その瞳は深く、冷たい。

光の底に、何かを隠している。


……あのときまで、誰の顔もまともに見ていなかった。

緊張で、視界の端が霞んでいたのだ。


だが今――。


杯の向こう、帝の左手の列の中に、ひとりの男がいた。


息が止まる。

目を逸らそうとしても、逸らせない。


きっとあの人だ。

顔も知らぬまま、ずっと探していた、

私の――父。


喉が乾き、胸が焼ける。

けれど何も言えない。

ただ、その姿を直視したまま、

体の奥で、なにかがゆっくりと目を覚ますのを感じていた。


憎しみと、恐れと、微かな安堵がないまぜになる。

逃げられない。

ならば――立ち方を覚えるしかない。


帝の微笑が、灯の向こうで揺れた。

「さあ――始めようか」


香の煙が、静かに立ち上る。

その瞬間、殿の空気が凍りついた。

まるで、世界が音を止めたかのように。

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