第五話 入宮
もう逃げるしかない。
静かな生活を、取り戻したい。
窓の外は、深い闇に沈む。華京の霧が漂い、街灯の輪郭をぼんやりと滲ませる。
私は琴を抱え、窓枠に手をかけた。
宿の二階。下は石畳の裏路地。荷物用の縄を腰に巻き、琴をしっかりと縛る。
重い。だが、これだけはどうしても離せない。
窓枠をまたぐ。心臓が跳ねる。
霧が冷たく頬を撫でる。縄を握り、震える足でゆっくりと降りる。
石畳にそっと着いた瞬間、なぜか自由を感じた。
次の瞬間、背後から手が伸びてきた。黒い服の男。目が鋭く光る。
「弦様、夜更けにどこへお出かけですか?」
低い声。監明司の匂いだ。
琴を抱えて後ずさるが、背後にはもう一つ影がいた。逃げ道はない。
「お戻りください」
腕を掴まれた。なぜか抵抗する気になれなかった。
琴を抱えたまま、階段を上がる。足音が心を重く締め付ける。
華京を、あまりにも侮っていた。
私の初めての逃亡は、一瞬で終わった。
朝が来た。霧が晴れ、石畳に陽光が映る。
宿の前に馬車が待っていた。
昨夜の男たちがじっと私を見つめる。
「馬車にお上がりください」
私は頷き、琴を抱えて乗り込む。
車輪が軋み、華京の街を進む。
窓の外、人々がざわめく。
金の馬車が、私の前を走る。
絹の幕が揺れ、翡翠の装飾が陽に輝く。あまりにも華やかだ。
「佳恋様だああああ!」
「姫、最後の姿を見せてくれえ!」
「決して忘れない!」
男たちは叫び、花を投げる。女たちは囁き合う。
「花街の姫が宮廷に上がるなんて」
「さすがに穢れた者はないわ」
佳恋――競演の勝者。
どんな人なのだろう。少し、見てみたい。
馬車の幕は彼女の姿を隠していても、華京は熱に浮かされていた。
佳恋の馬車が歓声とともに遠ざかる。
宮廷の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
高い石の柱、金と玉で飾られた回廊。絹の幕が風に揺れ、香炉から甘い煙が漂う。
あまりにも豪華だ。だが、冷たく抑圧的な空気が私を飲み込む。
初めての感覚だ。心が震える――恐ろしい。
私が駒である事実は、もう覆せない。
一番弱い駒として、これからどう動かされるのか。不安が胸を締め付ける。




