第四話 動き出す盤
「どうぞ、お入りください」
宿の主人の声が廊下を響く。
私は部屋の扉を開けた。
白いカーテンが揺れ、向こう側の景色は見えない。
薄暗い部屋に、男が座っていた。
二十代半ばか。絹の袍を優雅に纏い、黒髪を結い上げ、端正な顔立ちに風流な笑み。
目元には遊び心が宿る、まるで絵巻の貴公子。だが、その瞳の奥に鋭い光が潜む。
「皇妃に気に入られてよかったね」
声は柔らかく、風のように軽やかだ。だが、言葉には棘があった。
「どなたですか?」
「現四芸、棋の子、斎と申す。棋士の芸『考』を持つ。はじめまして」
斎は立ち上がり、優雅に頭を下げる。その仕草は、宮廷の華を思わせる。
「はじめまして、弦です」
言葉が自然に出た。
斎はパッとカーテンを開け、部屋に陽が差し込む。顔が明るく浮かんだ。
「知っている。現四芸、琴の子、弦。葦沢村から上京。父が四芸なのに田舎育ちなんて信じられない。でも、僕を怖がっていないということは、やはり親子は似ているね」
「なぜ知っている?」
「監明司は何でも知っているよ」
斎は軽やかに笑った。
「まあまあ、座ってくよ」
彼は手を差し出し、私を椅子に導く。細い手だが力強い。
「監明司ってなに」
私は座り、警戒を隠せない。
「監明司は帝に仕える組織。人も事件も、すべて記録され、監視される。そして、僕もここに仕える。外交は僕の専門だよ」
風流な口調に軽さはあるが、言葉の重みが部屋に満ちる。
「なるほど…ずっと見られていたってことか」
灰爺の警告と旅人の声が頭をよぎる。
「それで、今日は帝の命令でここにいるのか」
斎は頷き、優雅に手を叩く。
「そういうことだ。
勅命により、楽師の芸『琴』である弦、明日から宮廷に入ることを命じる」
御詔文を差し出される。手が震え、私は受け取った。
「はい」
「明日は馬車が迎えに来る。準備はよろしく」
斎は立ち上がり、任務完了の笑みを浮かべる。
「ってことで、僕の任務は完了。じゃあね」
去り際に、ふと振り返る。
「待って…なぜ皇妃が来ている?」
「今日は出遊だからさ」
肩をすくめ、遊び心たっぷりに言う。
「あ、そうだ。今の宮廷には秘かに二つの派閥がある。皇太子か、皇妃か。分かるよね」
言葉を残し、斎は去った。
部屋に静寂が戻る。
封筒を開けた。中は空っぽ。だが、これ以上に重いものはなかった。
私はもう、自動的に王妃派に取り込まれた。
今日のことはすぐ広まるだろう。
すべての動線が、誰かによって設計されていた。
旅人の言葉が蘇る。
「逃げられない。この特別な盤のために、作られた特別な駒だ」
しかし、なぜ帝は私を宮廷に?
父が現四芸だからか。
斎は皇妃派か?
皇妃は――
頭が痛くなる。
平穏生活とは、永遠にさようならだ。
たった一日で、華京の安全さと危険さを知った。
斎の視線が、去り際に私を捉えていた。
「四芸の子どもと言っても、やはり田舎者か。服も髪も全然一流じゃない。その琴も、ずいぶん時間が経ったようで」
その言葉は口に出さないが、瞳がすべてを語っている。
宮廷に入れば、絶対にいいことはない。
笑われ、無駄な権力ごっこに巻き込まれる。
何より、会いたくないあの男もいる。
今ならまだ間に合う。
迎えが来るまでの時間がある――平穏を望むなら、逃げるしかない。
盤上に上がる前に、逃げ切れ、私――!




