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芸ノ譚  ―弦は盤上に堕ちて―  作者: 宮山悠
第一章 定めの盤上へ

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第二話 華京への道

葦沢村を後にした私は、母の琴を背に負い、灰爺の金子を握りしめて歩き出した。

朝霧が乳白色に湖畔を包み、葦の穂が冷たい風に揺れる。細い獣道を進む。

目指すは華京。


灰爺が囁いた「一番安全で危険な場所」。

父に会いたいわけではない。

ただ、灰爺が語った華京をこの目で見てみたかった。

そこで琴を奏でて金を稼ぎ、新しい静かな土地を探して暮らす――それが私の願いだ。


空は鉛色に沈み、道端には朽ちた枝が散らばる。

遠くでカラスの鳴き声が響き、村を襲った盗賊たちの影が脳裏をよぎる。

振り返るたび、胸が締め付けられる。だが立ち止まることはできない。

琴の重さが、私を前へと押し出す。


三日歩き続け、食料は干し芋の欠片だけになった。

井戸水で喉を潤し、夜は木の根元で縮こまる。

母の琴を抱きしめると、湖畔で響いたあの悲しい旋律が蘇る。

凍える身体を繋ぎ止め、闇の中で私を支えるのだ。


四日目の昼、森を抜けた先で小さな集落に辿り着いた。

煤けた屋根の家々がまばらに並び、痩せた畑が風に震える。


村の入り口で、荷車を引く男とすれ違った。

浅黒い肌、鋭い目つき。腰には短刀。

私の琴を見ると、眉を上げた。


「こんな辺境で琴を抱えて、何のつもりだ?」


「いや、ただ華京へ向かうだけです」


「着く前に死ぬなよ」


男は鼻で笑い、荷車を押して去った。

その背中に、妙な違和感があった。まるで、私の琴に何かを感じ取ったかのようだ。




集落の広場で休んでいると、老婆が近づいてきた。

皺だらけの手で小さな包みを差し出す。


「娘、腹が減ってるだろう。干し魚だが、食べておくれ」


驚いて顔を上げると、老婆は穏やかに笑った。

葦沢村の老人たちと同じ温かさが、その瞳に宿る。

魚を頬張りながら、涙がこぼれそうになる。こんな優しさ、忘れていた。


「ありがとうございます…おばあさん、華京まであと何日ですか?」


「まだ三日はかかるよ。気をつけな、都は魔窟だからな」


灰爺の警告が頭をよぎる。私は黙って頷き、魚を噛み締めた。




その夜、集落の宿に身を寄せた。

粗末な藁葺き屋根の家に、板の間があるだけの宿。

旅人たちが囲炉裏を囲み、酒を酌み交わす。話題は華京の競演のことばかり。


五年に一度、芸を持つ者たちが名誉と富を求めて集まる祭典。

皆は私の琴に気づき、一曲弾いてくれと頼んできた。断る理由はない。

私は琴を手に取った。


弦を爪弾くと、母の旋律が流れ出す。

湖畔の風、葦の囁き、母の温もりが宿る音色。

宿のざわめきが消え、誰もが息を呑む。

弾き終わった瞬間、場は大いに沸いた。


「競演は楽勝だろ! 宮廷に入れば一生安泰だ!」


一人の旅人が大声で笑った。

私は首を振る。


「興味ありません。競演はただの争い。私は静かに暮らしたいだけです」


「分かってない娘だな!」


別の旅人が呆れたように肩をすくめた。

だが、競演の華やかさも、宮廷の栄光も、私には無縁だ。

華京で琴を奏で、静かな土地を探すための金を稼ぐ。それだけでいい。




宿の部屋に戻ろうとすると、笠をかぶった旅人が声をかけてきた。

年は私とそう変わらないようだ。ぼろぼろの外套だが、姿勢はしっかりしている。

目だけが鋭く光り、強い才の気配が漂う。本当に旅人なのか、ふと疑うほどだった。


「競演のためじゃなければ、なぜ華京へ?」


「華京で琴を弾いて稼ぐためです。新しい静かな土地で暮らしたいんです」


「この才なら稼げるな。だが、華京は富と権力に飲まれた都だ。お前を利用しようとする輩が続々出てくるぞ」


「……そうかもしれません。逃げればいいですよね」


「羊は虎の口から逃げられると思うか? 虎が生きている限り、絶体絶命だ」


「なら、虎を避ければいい。巻き込まれなければいいんです」


「ははは、面白い。気に入った。この先、巻き込まれるぞ」


「…故人にも似たことを言われました。どうしてそう思うんですか?」


「いつかわかる。華京に長くいるなら、また会える。達者でな」


男は手を振って闇に消えた。変な人だった。




その夜、集落の外れで野宿していると、闇の中から足音が近づいてきた。

複数の影。

月明かりに、抜き身の刀が光る。昼間の荷車の男だ。

後ろには二人、粗末な鎧を着た盗賊らしき者たち。


「お前の琴、渡せ。いい値で売れる」


「これだけは…渡せません」


「力ずくで奪うまでだ!」


男が襲いかかってきた瞬間、闇の中から別の影が飛び出した。笠をかぶった旅人だ。


細い剣が月光に光り、男の刀を弾き飛ばす。

素早い動きで二人目の盗賊の腕を切りつけ、三人目が怯んだ隙に、私の手を掴んだ。


「走れ!」


旅人の声に促され、私は琴を掴んで森へ駆け込んだ。

背後で金属音と怒号が響く。旅人の足音がすぐ後ろで聞こえる。


木々の間を縫い、息を切らしながら走る。

月光が木漏れ日に揺れ、足元は不安定だ。

だが、琴の重さと旅人の存在が、私を支える。


母の声が頭の中で響く。「弦、私の自慢な娘」。

この瞬間、母、灰爺、村の人たちに会いたくなった。


どれだけ走ったか、足音は遠ざかり、森は静寂に包まれた。

私は木の根元に座り込み、琴を抱きしめた。冷たい汗と涙が混じる。


旅人が息を整えながら近づいてきた。


「無事か?」


その声は落ち着いていたが、剣の鞘には血が滴る。


「ありがとうございます…助けてくれて。どうしてここに?」


「お守り。忘れて取りに来た」


旅人は小さな布袋を出した。とても高級な翡翠がついていた。


「それはよかったですね」


「こんな早々に巻き込まれるとは。やっぱり巻き込まれやすいね」


私は苦笑した。


「私も思わなかった…この先、もっと危険ですか?」


「始まりが危険でも、終わりが危険とは限らん。お前次第だ、弦」


「どうして私の名前を……? あなたの名前は?」


「名乗るほどの者じゃない。次に会うとき、教えてやる。今度こそ、じゃあな」


ふっと目覚めると、朝だった。

疲れ果て、眠ってしまったらしい。

でもあの会話は夢なのか現実なのか、さっぱり覚えていない。




そこから三日歩いた。

森を抜けると、遠くに華京の城壁が見えた。

朝日に輝き、まるで別世界。


灰爺の言う「一番安全で危険な場所」がそこにある。

琴を背負い直し、歩みを進める。


三日前の襲撃では傷一つなく、旅人のおかげで無事だった。

だが心はまだ震えている。


華京で何が待つのかわからない。

私は父に会う気はない。

ただ、琴を奏でて稼ぎ、静かな土地を探す。それだけだ。


城門に近づくにつれ、人々のざわめきが聞こえてくる。


競演の季節だ。芸を持つ者たちが、名誉と富を求めて集まる。

私はただ、静かに生きる場所を求める。

だが、運命の盤は、すでに私を駒として動かし始めていたのかもしれない。


大きな門の前に立ち、琴を握りしめる。

ここから私は、新しい一歩を踏み出す。


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