第十話 歓迎の宴ー下ー
正直、ぞっとした。
――何のつもりなのか、さっぱりわからなかった。
帝の口が、ゆっくりと開く。
「……そうだな。そなたらの演奏、なかなか見事であった。
この宴に相応しい褒美を与えねばなるまい」
ざわ、と衣の裾が揺れる音。
帝の隣――皇太子が身を乗り出した。
「父上。愚かに思われるかもしれませぬが……
私は、舞の佳恋を妃に迎えたいと存じます」
その声は若く、熱を帯びていた。
殿がざわめいた。
杯が置かれる音、息を呑む音、そして抑えきれぬ囁き。
佳恋は一瞬、驚いたように瞳を見開いたが、
次の瞬間には唇の端をわずかに上げた。
――ああ、この人は、こうなることをどこかで望んでいたのか。
帝は少しだけ笑い、重い声で言った。
「ほう。よかろう」
その言葉が下された瞬間、
殿の空気が、一気に熱を孕んだ。
「ありがとうございます、陛下」
「ありがとうございます……!」
佳恋は深く頭を下げ、
その声音はいつになく張りのあるものだった。
「式も挙げねばならぬな。華やかなものに」
帝の声は楽しげだった。
「そうだ、そなたの今後は……考えておらなんだな」
帝の視線が、唐突に私へ向けられる。
「斎」
「はい、陛下」
「これから、弦を監明司へ配属せよ。
色々と面倒を見てやれ」
「はい。承知いたしました」
私は一瞬、息を詰め、
けれどそれを悟られぬように、微笑を作った。
「ありがとうございます」
声は自分でも驚くほど小さかったらしい。
奏和宮かと思ったがまさか……
この先の道のりは厳しそうだ。
その時、四芸のひとりが立ち上がる。
「陛下。私と、私の息子にも、贈り物をさせてください」
佳恋の席の横の青年が立ち上がった。
帝は眉を上げた。
「そなたもか。……よかろう。申してみよ」
「初めて宮廷に上がられた方々には、
礼儀作法において失礼のないよう、
宮の礼法をまとめた書を、献上いたします」
帝は頷いた。
「とても役に立ちそうだ」
おそらく四芸の文人の「書」だ。
彼女の声は一字一字を空に書き記すようだった。
母は息子に視線を送り、彼は足元に置かれていた書物を両手で抱え、
私たちの方へと歩いてきた。
青い衣の裾がすっと揺れ、
歩くたびに、文机の墨香のような空気を纏っていた。
切れ長の瞳に灯が映り、
その奥には、知の熱がある。
「律也と申します。これから、どうぞよろしく」
その声は穏やかで、どこか聡明な響きを持っていた。
彼が差し出した巻物を受け取ろうとした――その瞬間。
――からん。
杯の落ちる音が、殿に響いた。
そして次の瞬間、
床を打つような、重い音。
「……っ!」
誰かが倒れた。
ざわ、と人の波が動く。
優寧公主が、席の前で崩れ落ちていた。
「公主! 医官を呼べ!」
「早く、公主を宮に戻せ!」
「皇族を守れ!」
声が飛び交い、足音が重なる。
殿中の香炉が倒れ、
香の煙が白く揺れる。
帝はわずかに立ち上がり、
静かに命じた。
「……皆、下がれ。宴は終いだ」
人々が一斉に門へと向かって走り出す。
律也が「公主!」と叫び、
絹の裾を翻して彼女のもとへ駆け寄る。
――私は、立ち尽くしていた。
胸が重く、足が動かない。
その時。
「弦」
腕を掴まれた。
振り向くと、斎がいた。
その目にはいつもの軽さがなく、焦りが宿っていた。
「出るよ。早く」
彼は強く私の手を引いた。
外へと続く回廊へ走り出す。
背後で、今まで聞いたことのなかった音が響く。
――この音から、すべてが動き始めた。




