第一話 終と始
お久しぶりです。
今作は前作よりもさらに作り込んだ構成で、物語も倍以上の長さとなっています。
より深みを増した物語を、ぜひ楽しんでいただければ幸いです。
それでは――芸ノ譚の世界へ、いってらっしゃい
( ´ ▽ ` )
私は弦、十八歳。
とある国に生を受けた。
この国では、子が生まれると、その身に一文字の才が刻まれる。
人々はそれを「芸」と呼ぶ。
それは単なる技量ではなく、運命そのものを形づくる天賦の証。
国の礎であり、ときに人智を超える力をもたらす。
四芸――芸の中でも至高の地位を示す称号。
選ばれし者は宮廷に仕え、国を導く。
いまの四芸は、琴・棋・書・画。
帝の側近として寵愛を受けるが、その座は栄光と同時に、陰謀と犠牲の象徴でもあった。
一年に一度、都の華京で「競演」が開かれる。
凡庸な者たちが夢に見る、名誉と富を手にする唯一の舞台だ。
競演で選ばれた者は、すなわち権力の象徴となる。
だがそれは、ただの芸比べではない。
優れた者は王宮に召し抱えられ、次期四芸の候補となる。
すなわち、運命の盤上に上がることを意味していた。
宮廷の役職は、さらなる重責への登竜門。
その一手ひと手が、誰かの生と死を左右する。
ゆえに、五年に一度の競演は、華京に生きるすべての者にとって――審判の日なのだ。
けれど私は、駒になるつもりも、観戦者になるつもりもなかった。
あの盤の上の世界は、私にはずっと――無縁のものだと思っていた。
※※※
私は楽師の芸「琴」を持つ。
父は今の四芸の一人だ。
だがその栄光とは縁遠く、華京から遠く離れた南の村、葦沢村で育った。
葦沢村は、葦の生い茂る湖畔にひっそりと佇む集落だ。
苔むした木造の家々が点在し、朝は乳白色の霧に包まれ、夕べには蛙の合唱が響く。
俗世の喧噪を遮断する、幽境のような場所だった。
住人は年寄りばかりだった。
母は私が七歳の時に病で逝った。
肺病だった。
最後の一ヶ月、咳き込むたびに血を吐き、痩せ細っていった。
死の三日前、母は私の手を握り、「弦、私の自慢な娘」と言い残した。
その手の冷たさは、今も忘れられない。
私は一度も父に会ったことはない。
だが、毎年金子は送られてくる。
父は母の葬儀にも現れなかった。
私は初めて父に手紙を書いた。
「父、母はお亡くなりました。一度お墓参りにでも来ませんか。母はきっと父に会いたがっています。私も会いたいです」
返事は来なかった。金子だけは送られ続けた。
私は期待するのをやめた。
人に期待しなければ、傷つくこともない。
そして、父には別の女ができたのだろう、と私は考えた。
琴は母の形見。
深い艶のある漆塗りの胴、細やかに彫られた鯉の意匠、白木の指板。
彼女が病に伏せる前、よく湖畔で琴を奏でてくれた。
その音色は優しく、悲しかった。
今でもあの旋律を覚えている。
父は、私が芸の世界に足を踏み入れることで自らの立場が危うくなることを恐れたのだろうか。
琴を手にする私を、望んではいなかったらしい。
夜の闇に紛れ、湖畔で琴を爪弾く時だけ、心は静まった。
母を亡くした直後、三日間、私は食事もとらず湖畔で琴を弾き続けた。
灰爺が見つけ、連れ戻してくれた時、こう言われた。
「現実逃避をするな。好きなもののために生きるのは悪くない」
それ以来、琴は私の生きる目的となった。
かつて華京で商いをしていた灰爺の原名は、衣太郎。
若い頃、華京で絹織物を扱う豪商だった。
宮廷の者たちとも取引し、金色の宮殿で開かれる宴に招かれることもあった。
「華京はまさに別世界じゃ。一番安全で危険な場所じゃ」と灰爺は語った。
だが続けて言った。
「だがよ、病むにやまぬ理由がなければ、宮廷に行くんじゃねえ。
あの地は底知れぬ奈落のようなもの。
お前のような性根じゃ、きっと災いを呼び込む」
二十年前、灰爺はある事件に巻き込まれたらしい。
逃げる途中、火事に遭い、灰まみれで南の辺境に辿り着いた。
それ以来、自嘲的に「灰爺」と名乗り、葦沢村に隠棲した。
「お前は強い。だが、強さを隠せ。世は灰のように儚い」
灰爺は「灰」から蘇った男だった。
過去の栄華を捨て、村の守り手となったのだ。
私は首をかしげた。
誰とも争わず、静かに生きたい――それだけが願いだった。
七歳の時、村の子供たちから捨て子と嘲笑われても、私は反論しなかった。
反論しても何も変わらない。
この世は所詮、強い者、多い者が勝つ。
ならば最初から望まなければいい。
私の心は、琴の音と湖畔の囁きで満ちていた。
十五歳の春、三日三晩琴を奏で続け、指先から血が滲むまで練習した。
その結果、湖の魚が音に誘われて岸辺に集まった。
灰爺は「さすがじゃ」と驚いていた。
だが、私はただ孤独を紛らわせたかっただけだ。
十八歳の秋の夕暮れ、湖畔で琴に没頭していると、遠くでざわめく音がした。
だが私は弦の震えと旋律に夢中だった。
この時ばかりは、母の懐に抱かれているような温もりを感じられる。
琴の音が止み、我に返ると――異変に気づいた。
葦沢村が不気味な静寂に包まれている。
いつもの老人たちの笑い声も、鍋の音も聞こえない。
家々を巡ると、そこには――血の海が広がっていた。
灰爺も、隣家の老女も、村の皆、無残な姿で倒れている。
灰爺は死の間際、私の名を呼びながら、懐から錆びた短刀を握りしめていた。
中央の井戸辺りでは、輪になって倒れた老人たち。
背中や腹を斬られ、血が井戸の縁を伝って滴る。
空気は鉄の匂いに満ち、蝿が集まり始めていた。
倒れた椅子、折れた鍬――力なく、しかし必死に抵抗した痕跡がそこかしこにあった。
涙が止まらず、頬を伝う冷たい水が指先まで染み込んだ。
親しい者たちが全員いなくなった。
犯人は隣村から逃げてきた飢えた民たちだ。
三年続いた凶作で、やむを得ず手を染めたのだろう。
一人取り残された私は、助けられなかった無力さと、なぜか生き延びた奇跡に心が軋んだ。
あの時、ただ凍りついたように立ち尽くした自分を、今でも許せない。
けれど、いつまでも過去に縛られてはいられない。
私は決めた。華京へ行く。
父に会いたいわけではない。
そこで稼ぎ、新しい土地で、静かな暮らしをもう一度――それが唯一の願いだ。
村の皆を埋葬し、手を合わせた。
母の琴とわずかな荷物を抱え、葦沢村を後にした。
冷たい風が背中を刺し、葦の穂がさよならを囁く。
振り返れば、村はもう遠く、まるで過去そのものが霞に溶けていくようだった。
この世界がどうなろうと、私には関係ない。
何もできないなら、何もしないほうがいい。
小心者だと思われるかもしれないが、生き延びるためには、何事にも関わらない方がいい。
ただ、静かに琴を奏でられる場所があれば――それでいい。
第一話いかがでしたでしょうか。
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