94話
日が暮れた雪山。
襲いかかる怪獣は、人間のような姿をしていた。顔の造形は確かに人なのだが、首と手足が異様に長かった。
「ずいぶんと長い間、悪霊に取り憑かれて苦しんだ人のようだ」
四つん這いで走る彼らと目が合った瞬間、ペク・ドヒョンはそう思った。そして、おそらくその考えは当たっているのだろう。
「光よ!」
その呪文を知っている。ハンターなら誰でも、またバベルの時代を生きる人なら誰でも。
陳腐極まりない台詞だが、真に闇の中から「光」をもたらす約束の言葉。
聖力特化系列、基本駆魔呪文。
「光の呼び声」
ひひーん。
遠くから聞こえてくる馬のいななき。
短いが、凛々しい号令。白馬に乗り、雪山を横切る光の灯火を持つ女。
赤褐色の長い髪が北風になびいた。
キーエエエク!
怪獣たちがもがく。近づく光が闇を照らすほど、彼らも円の外へ急速に押し出されていた。
ペク・ドヒョンも聞いたことがある。
たとえ回帰前の同じ戦場に立ったことはなくても、韓国の「静かな夜」は、ただ一言で悪を追い払ったと。
歴史のすべての「偉大なヒーラー」がそうであったように。
「大丈夫ですか!」
大韓民国唯一のAA級ヒーラー。
1回目の異名「静かな夜」、そして異名よりもさらに有名なもう一つの別名は……。
「あら、ドヒョンさん?」
狂信徒、ナ・ジョヨン。
劇的に登場したナ・ジョヨンが手綱を引いた。ブルルン。馬が荒々しく鼻を鳴らす。
「ドヒョンさんがここにどうして……?」
「それが、あっ!」
あまりにも一瞬だったので、数秒も経っていないだろう。それでもペク・ドヒョンはびっくりして後ろを振り返った。うっかり忘れていた……!
それにナ・ジョヨンも事故現場を目撃する。
白い雪の丘に逆さまに突き刺さっている何かの二本の足……。信徒の細胞が急速に回転した。
唐突なペク・ドヒョンの乱入から、狂おしいほど見慣れたプチパティサイズの二本の足、あの運動靴……。」
「ジ……!」
「ジョ、ジョジョ様ぁぁぁ!?」
本能が理性よりもはるかに早かった。走って行ったペク・ドヒョンを肩で押し退けたナ・ジョヨンが、我先にと飛び出した。
「……。」
「大変!いったいこれは!ご無事ですか!ちょ、私に捕まってください。あ、あるいは抱きしめても……あ、あ、どうしましょう!とても寒いでしょう。大変だ。」
連続で放つ聖力呪文の数々。絶え間なく炸裂する光が、ほとんど花火大会レベルだった。
「まるで最前線救護所だな……?」
目に涙を浮かべ震えるヒューマン猫と、抱きしめて私欲を満たすのに忙しいヒーラー。
妙に見慣れた光景だ……。
数歩離れて見ていたペク・ドヒョンがため息をついた。そしてジャケットを脱ぎながら、彼らのほうへ近づいて行った。
* * *
【だから基礎から学べと言っただろう。聞く耳も持たず、結局自発的ナーフとは、呆れてものが言えん。】
「うるさい」
雪だるまジオが鼻をすすった。
肩にはペク・ドヒョンのジャケットと、ナ・ジョヨンが慌ててかけてくれた毛布二重まで。
ほとんど綿の塊のような姿だったが、それでもぞくぞくした。
「テディベア野郎……」
覚えてろよ。次に会ったら血の祭りを開催してやる。頭からつま先まで、すべて冷凍クマの干し肉にしてやる。
「あの、ジョジョ様。これでも召し上がってください。急いで作ったものなので、お口に合うかわかりませんが……」
「ちょっと待ってください、ジョヨンさん。ジョジョは、熱いものは苦手なんです。私にください。」
「……何言ってんだ、いや、どうして、どうしてですか? まさかドヒョンさんが食べるんですか? これ貴重なものですよ。」
「え? あ、いえ、まさか。当然私が冷まして差し上げようと……」
「な、何よ! この男、気が狂ったか! どこで私のイベントを横取りする! その良心は犬にでもくれてやったのか!」
「乱暴な性格は相変わらずですね。こういうのは当然長く見てきた、気楽な仲の親しい 人がすることです。 いったい、こんな基本まで説明しないといけないとは……。」
「あんた、その優越感と同情心が混ざった目つきをしまえ! 首を振るな!」
「うるさい……」
第40回チュートリアル組合。
(誰のおかげで)並んで首席と次席だった。火星訓練所で一緒に合宿したせいか、以前より親しげに見える。
ジオはナ・ジョヨンをじっと見た。改めてそう感じた。その後もずっと見てきた回帰者とは違い、こちらは本当に久しぶりだったから。
「あのドラマオタクの下に入ったって話は聞いたけど……」
ここにいるとは。
じゃあ、バンビを救出しに来なかったら、こいつも帰って来られなかったってことか?ふむ。
「惜しい人を失うところだった」
ジオは力を抜いて、後ろに寄りかかった。じっと見上げると、ナ・ジョヨンがにっこり微笑む。
劇的な妥協の末、スープをすくってくれるのはペク・ドヒョン、その間後ろから支える(バックハグ)のは、ナ・ジョヨンと合意した状態だった。
「どうしましたか?」
「いや、別に。きれいになったなと思って」
「え、本当ですが、ジョジョ様」
「ジョヨンさん、じっとしていてください。こぼしますよ」
21世紀のスルタンが別々にいるとお星様が笑う。ジオは聞こえないふりをした。
パチパチ。
暖炉から火の粉が散る。空になった器がテーブルに置かれ、遅い夕食の会話は静かに続いた。
「では、ジョヨンさんはここに一週間ほどいらっしゃるんですか? まだ誰にも会っていないと?」
「そうです。 私が数えた日付ではそうです。お二人はどうしてここにいらっしゃるんですか?」
「……途中入場しました」
「え、 フリーパスですか? どうして、大事に取って、他の場所で使えばいいのに、どうして……?」
目を丸くしたナ・ジョヨン。言い値で、誰もが熱望するジョーカーカードをなぜここで使ったのか、心底戸惑っている様子だった。
ペク・ドヒョンはマグカップをじっと握った。再び呼びかける声は、低かった。
「ジョヨンさん、塔の外は今、4月になってから久しいです」
「……え、」
「ほぼ一ヶ月が経ちました」
「なぜ……?」
「ジョヨンさんは運良く一週間ほどですが、一緒に入ってきた人たちは、もしかしたら……その何倍もの時間をここで過ごしたかもしれません」
私が見る限り、非常に高い可能性で、ジョヨンさんが『最後』の立場だと思います。
静寂が訪れる。
そろそろ状況を理解したのか、ナ・ジョヨンはだんだん青ざめていった。ペク・ドヒョンが終止符を打つ。
「私たちは救出隊です」
バ!
勢いよく立ち上がったナ・ジョヨンの動きに、食器同士がぶつかる音がした。
ジオは悟った。あれは、単に時間が経ちすぎて驚いているのではない。
「 それなら明日からでもすぐに動かないと……!」
「それでだ」
その緊張感を打ち破るのんびりとした声。二人の視線が向かう。寝台に斜めに寄りかかったジオが、ドアの方を顎で示した。
「一体お前の後ろのそいつらは何だ?」
魔法使いの合図で、ドアの隙間が開く。その間から現れたのは……七人の子供たち。
全部「同じ顔」をした子供たちだった。
「……ここは死んだ土地です。ずっと昔に」
連合攻略隊総人員二十名。
ギルド〈D.I.〉所属AA級ハンター、ナ・ジョヨン。目覚めた時刻は一週間前。
目を覚ましてみると、どこからも生命力が感じられなかったと、ヒーラーは語り始めた。
「さっき山で怪獣を見ましたよね? あいつらをこの子たちは『人間カマキリ』と呼んでいます」
「……人間?」
「ええ。元々は全部この雪国の住人だったそうです」
雪山でナ・ジョヨンがジオとペク・ドヒョンを救助して連れてきた場所は、一つの村だった。
大きくはないが必要なものはすべて揃っているようだったが、ただ一つ、人の痕跡だけはなかった空っぽの部落。
「詳しい事情は私もよくわかりません。でも日が暮れると、あの『カマキリ』と似たようなものが目を覚まして村に押し寄せてくるんです。そして襲われた人も、あいつらと同じ姿に変わってしまうんです」
「まるでゾンビウイルスみたいだな」
「似ています。だからか、免疫法もあるんです……。この雪山に流れ込む『塩の川』。そこの川の水を飲んだ人には、呪いが訪れないそうです」
「その川は今どこにあるんだ?」
「その川が一番怖いものなんです」
川の水を飲んだ人は、例外なくあんな風に変わってしまうんです。幼くなって、同じ顔になって……まるで誰かに似ていくように。
だんだん自分ではない他の誰かになっていくんです。
その過程で自分の名前も、しまいには自分が誰なのかさえ忘れて、一人の姿に変わってずっと、ずっと幼くなっていくんです。
「人がずっと幼くなっていったら……最後はどうなると思いますか?」
川の水に口をつけた者は皆死んだ。
続く退化の末、一握りの塵と化した。そうして残った者が、わずか七人。ナ・ジョヨンがここで出会った子供たちだった。
彼らさえ「記憶」しているのはこれだけで、呪いの始まりが何だったのかも忘れてしまったという。
ずっと静かに聞いていたペク・ドヒョンが尋ねた。暗い表情で。
「誰も覚えていないなら、攻略は……一体クエストは誰がくれるんだ?」
「私はFです。一番たくさんのことを覚えています」
名前はすべて忘れてしまったので、ただアルファベット。FからLまで。
他のアルファベットは全部死んだ。
また、同じ顔なので互いを区別するためだと、Fが「F」と彫られたペンダントを持ち上げた。
エフは、彼ら全員が同じ村の出身ではないと説明した。
「塩の川」が流れる川筋に沿って、自然とここに集まってきたのだと。
「塩の川は浅いので、たくさんの場所に流れていないんです。ちょっと曖昧ですが……ずっと辿っていくと『塩の橋』という大きな橋が出てくるはずです」
一番大きな川筋が位置する場所。おそらくその近くに行けば、もっとたくさんの人がいるだろうと、エフが目を輝かせた。
黒い縮れ毛とそばかす、つり上がった目つき。
一番年上に見えるFは、十四歳くらい。残りは皆その下に見えた。皆とても幼かった。
夜が更けた。
明日の目的地は決まった。
ある程度会話が終わると、子供たちは寝床へ。
ペク・ドヒョンはしばらく村を散策すると言って出て行った。
「ここが一番大きな部屋です。部屋はたくさんあるので、一人で使っていただければ」
「ふむ、よかった。ぎゅうぎゅう詰めで寝ると言われたら、みんな強制的に野外就寝させるところだった」
毛布を被ったジオが、ぶっきらぼうに呟いた。暖炉の前。視線はその上の剥製にされた鹿の頭の方だ。
「中世コンセプトすごいな。バベルのやつ、マジかよ」
でも、なんでわざわざ鹿なんだ?喧嘩売ってんのか?
冗談に小さく笑ったナ・ジョヨンが、身を起こした。片付けられた寝具はきちんと整えられていた。
「終わりました。それではお休みください」
「ドビー」
「はい?」
火の粉が散る。
ジオは、じっと揺らめく炎を見つめた。
「どうしてずっとここにいたんだ?『塩の橋』って、誰が見てもそこがメインだろ?」
バベルの塔39階、メインシナリオ〈第3章 塩の橋の恋人たち〉。
バベルが指し示す方向は、誰が見てもわかるほど明確だった。
しかしナ・ジョヨンは、ここを離れなかった。彼らが来るまで。
静寂はほんの一瞬だった。
静かな声でナ・ジョヨンが答えた。
「夜になると、怪物たちが来るんです。眠れない子供たちを悪夢から守ってあげるのが……大人の役目じゃないですか」
「……」
「ハンターにしては、未練がましいですよね?」
「ああ」
「はは、早くお休みください。明日の朝早く出発しないといけないので、疲れるでしょうから」
「ナ・ジョヨンさん」
「……はい?」
「私が誰なのかは、気にならないのか?」
なぜここに来たのか、どうやって来たのか、また誰なのか。
40回チュートリアルが終わるとすぐに、ランキングが更新された。ワールドランキングアップデート、惑星代表交代だった。
単なる偶然と片付けるには、あまりにも出来すぎたタイミング。
その場の関係者だったナ・ジョヨンは、疑っても、疑問に思っても当然だ。しかし、今この瞬間まで、投げかけられた質問はなかった。
ジオが振り返った。
暖炉の光が、そのままその瞳の中に映っていた。ナ・ジョヨンは、うっとりとしたように答えた。はい……。
「気にならないんです」
「……」
「いつか、答えてくださるのではなく……教えてくださるのを待っているからです」
最も信心深い信徒が笑った。儚い笑顔だった。
ナ・ジョヨンがドアを閉めて出て行った部屋。
ジオは再び暖炉の上の鹿の頭を見つめる。体の感覚が妙にだるかった。
二人だけになると約束したかのように、彼が近づいてきた。額に落ちてくる手つき。
【ジオ。】
【お前、具合が悪いな】
「……そんなこと、ありえる?ドビーが聖力でほとんど浴びせてくれたのに」
【セーフゾーンへ行くか?道はこちらで開いてやるから】
「力は全部塞がれてるって言ってたのに、そんなことできるのか?」
【調子を合わせているだけだ】
【お前の許可さえあれば、俺に不可能なことなどあるだろうか?】
「運命を読む者」が囁いた。
【許可してみろ、俺の化身】
【お前の聖約星がどこまで行けるのか、喜んで見せてやろう】
すべてを見下ろし、ひたすらただ一つだけを見上げながら。
極めて傲慢で、優しく。




