459話
「もう忘れたと思ってた」
「忘れられるわけないだろ?」
カチッ、ライターの音と共に青い火が明滅する。窓際に寄りかかってタバコを吸う虎をじっと見つめながら、ジオは言った。
「あの日からでしょ」
「……」
「銀獅子の虎から『キョン・ジオ』の虎になったのは」
「……」
昔の話だ。
虎は黙ってタバコの煙を吐き出した。
15歳。
同い年のランカー兄妹が中学生の頃だった。
キョン・ジオ、中学校3年生。
キョン・ジロク、中学校2年生の冬。
覚醒を終えてデビューしたバンビは破竹の勢いで昇り調子だったが、本人の口癖のように完全無欠な存在ではないため、落ちる日もあった。
その日もまた、そんな日だった。
まだ何もかも不慣れなバンビがまた怪我をして帰ってきた日。
S級ランカーだとは言え未成年だ。
センターはすぐに保護者に連絡を取り、知らせは兄妹の後援者として一般人である母親の代理をしていた銀獅子に伝えられた。
負傷の知らせを聞くや否や、虎は仕事を全て放り出してセンターに駆けつけた。
「ふ、副代表様?」
「キョン・ジロクはどこにいますか?」
「どうしてこんなに早く?ソウルにいらっしゃらないと聞いて時間がかかると思ってたんですが」
「どこにいるか聞いているんですが」
「あ、医務室に……ギルド員たちが来て、多分一緒にいるはず……あっ!それで、電話をすぐに切られたので全部お伝えできなかったんですが。措置は現場で既に終わっていて、今は大丈夫なのでコンディションの回復を見守るだけなんです」
「それは保護者である俺が直接判断します」
きっぱりと言った虎はそのまま地下へ直行した。
センターの医務室は地下5階。
入院治療までは無理だが、並の上級病院に準ずる施設が設けられた場所だった。
先導する職員たちについて長い廊下を歩いていた虎が、突然立ち止まった。
「ちょっと待て。あの後ろ姿は……」
パジャマ姿でぼんやりと立っているおかっぱの女の子。
あの子がこんな時間にここにいるのはなぜだ?
「保護者はこちらではありませんか?子供に連絡してどうするつもりですか。午前2時に」
「私たちが先に連絡したのではなく、鐘の音を聞いたのか、なぜ来ないのかとこちらに電話をくださって……」
もういい。
これ以上聞くまでもない。
センター全体がキョン・ジオに甘いのは今に始まったことではない。
舌打ちをした虎は、もじもじしている職員たちを退けてジオの方へ近づいて行った。
何をそんなに熱心に見ているのか、気配に気づいているはずなのに反応がない。
虎は近づいて行き、眉をひそめた。
「震えてる?」
なぜ?
寒いように震える肩と……裸足。
しばらく目をやった後、虎は静かにジオの視線を追った。
遠くに離れた厚いガラス壁の向こう、ギルド員たちの中で笑うキョン・ジロクが見える。
負傷の程度は聞いていたほど深刻ではないようだが、頭と腕に包帯をぐるぐる巻いた姿がひどく気に障った。
「怪我をしたなら休ませておけばいいのに。相変わらず騒がしいな……」
「大嫌い」
「何?」
「キョン・ジロク、本当に大嫌い」
いきなり何を言い出すんだ。
「……馬鹿なこと言ってないで入りなさい。なぜ入らずにここにいるの」
「どうして入れるの」
「なぜ入れないんだ。ここでお前を止める人がいるとでも?」
「意味が分からないの?言葉が通じないの?そんなことを言うんじゃない!」
「なぜ怒るんだ」
「今、イライラさせるな……!」
とん、鼻先を軽く触れる指先。
おかげで言葉が途切れたジオがびくりとした。
見上げる視線をじっと見つめていた虎が、再び鼻先をゆっくりと撫でた。
さっきよりもずっと優しい手つきだった。
「……やめて。子供扱いしないで」
「子供を子供扱いして何が悪い」
ジオは答えずに視線を落とす。
虎はその様子をじっくりと観察した。
寝ているところを飛び出してきたのか、乱れた髪、パジャマ姿に汚れた裸足まで。
真冬に正気かと思うような格好だった。
バンビが怪我をするたびに平然としているので意外だとは思っていたが……やっぱりな。
やっぱりそうだった。
全然平気ではなかったようだ。
「ここまで露骨な不安は本当に久しぶりだな」
虎はとりあえずジャケットを脱いでジオの肩にかけた。
体格差のせいで頭まですっぽりと覆われる。
黙ってそれを受け入れていたジオが、ぶつぶつと呟いた。
「私のものだって言ったのに……」
「……」
「私のそばだけにいるって言ったのに……なのに何?本当に嫌。塔をなぜ登るの?いや、登るのはいいとしても。なのにどうして怪我をするの?それで何が偉いと、何が楽しいと他の人たちと笑って騒いでるの?良心はあるの?」
「行って直接言いなさい。馬鹿みたいにこうしていないで。なぜいざキョン・ジロクの前では何も言えずに隠すんだ」
「できない」
「なぜ」
「言ってはいけない。そんなこと」
「だからなぜ」
ジオは口を噤んだ。
それは彼らが幼い頃、弟が自分にした誓いだった。
他人に軽々しく共有することはできない。
キョン・テソンに対する記憶は辛くて、覆い隠してしまったけれど、キョン・ジロクの誓いだけは鮮明に刻まれ、キョン・ジオの中で消えずにいた。
「……そういうことなの。とにかく邪魔しちゃダメなの。ムカつく……」
「ジオ。こっちを見て」
「嫌だ」
「キョン・ジオ」
虎は答えようとしないジオをじっと見つめた。
大きなジャケットに隠れて、彼女がどんな表情をしているのか見えなかった。
しかし、だからといって全く読めないわけではない。
自分を救うために死んだ父親、その喪失で精神を病んだ母親。
そして続いた家族の崩壊。
おかげで、掴んで耐えるものが互いしか残っていない兄妹の関係が並大抵ではないことくらいは、彼もまた認識していた。
喪失を目の前で直接経験したこちらが特にそうだ。
大切なものに対するキョン・ジオの歪んで奇妙で肥大した所有欲は、トラウマから生じた防衛機制に他ならない。
良くなるように多くの人が努力したが、時にあまりにも幼い頃に受けた傷は、傷跡として残るのではなく、何にも変えられない根となるものだった。
虎は抵抗するジオを無視してジャケットを引っ張って脱がせた。
赤く火照った顔が現れる。
目元が憤慨に満ちた涙で潤んでいた。
そんな顔をして泣かないと言うように、目を大きく見開いて意地っ張りな目で彼を睨みつける。
「意地っ張り」
虎はため息を飲み込んだ。
制服を着るようになってから力は安定し、制御力も素晴らしくなったが、実際は依然として彼が初めて病院で会った姿そのままのキョン・ジオ。
成長しない子供。
最初から壊れていた危うい核爆弾。
危なっかしくて、どうしても目を離すことができなかった。
初めて目をやった時からずっと。
「……情をかけるべきではなかった」
虎は心の中で苦く笑った。
「ジオ」
「何」
「キョン・ジオも、もう一人のハンターじゃないか。いつまでも子供ではいられない。お前たちもそれを分かって屋敷を出て行ったんじゃないのか?」
「……」
「何よりも」
「……」
「人は所有できない」
「知らない。聞いてないし」
とげとげしく言い放ちながらも、顔には失望感が滲んでいる。
しかし、まだ早い。
彼の言葉はまだ終わっていないのだから。
「しかし、俺は人ではない」
「……?」
午前2時半。
奇しくも鬼の時間だ。
万鬼が見守っているので、今から吐く彼の言葉は決して軽くはないだろう。
「安心しろ。いつも変わらなければならない人間とは違うじゃないか。成長もしないし。ただこうして毎日、ずっとこのままで」
「……」
「最初と寸分変わらずこの姿のまま、いつでもお前のそばだけにいることができるということだ」
ぼんやりと彼を見つめる目。
瞬きをすると、溜まっていた涙が落ちる。
虎はどうしようもない気持ちになり、片手でジオの頬を包み込んだ。低く囁いた。
「だから泣くな、ジオ。お前がこうして泣くと、俺は本当にどうすればいいか分からなくなるんだ」
「……泣いてない」
「分かったから。もういい。欲しいものを言ってみろ。何でもお前の言う通りにするから」
「じゃあ……」
ジオはためらいながら尋ねた。
「……本当に、どこにも行かないで、何もせずにただ私のそばに、私のものとしてだけ、いてもいいの?」
「いいよ」
「約束できる?だから、[約束]よ」
虎はジオを見つめた。
いつの間にかキョン・ジオの目が黄金色に染まっていた。
魔法使いが魔力を動かした。世界の魔力が刃先を彼の喉仏に突きつけるのを感じた。
いや、鎖か?
魑魅の万鬼と世界の魔力。その全てが証人となる瞬間だ。幾重にも重なったプレッシャーの中で、虎は笑った。
失笑と共に身を屈めながら、彼はさっきからずっと気になっていた小さな裸足を両手で包み込んだ。
ジオがびくりとする。虎は答えた。
「ああ。[約束]する。俺で解消して」
揺れる目。
不安に震える子供の癇癪で、未熟な子供じみた行為に過ぎないことをなぜ分からないだろうか。
しかし、付き合ってあげたかった。彼自身不思議なことに、喜んでそうしたいと思った。
だから壊れたものには軽々しく目を向けてはいけないのだ。
ああ、もどかしくて不憫に思って一つ一つ与えているうちに、全てを与えてしまうことになるから。
「何してるんだ。笑って。キョン・ジオ」
「……!」
「これからはお前のものだ」
ロサ戦の老怪たちがこれを知ったら、大笑いするだろう。
たった一度情をかけて覗き込んだ人間に、こんなにもあっけなく縛られることになるとは、虎も知らなかった。
しかし、そもそもこういうものが宿命ではないか?
たかが百年ほどしか生きられない人間たちで溢れた娑婆世界とは、かくも変化に富み、難解な場所なのだ。
ずっと張り詰めていた緊張が、ようやく解けたようだった。よろめくジオを虎は躊躇なく抱き上げた。
「気分が晴れた?」
「……うん。行かないで。約束がまた破られるのは本当に本当に嫌だ」
「心配するな。これは[約束]じゃないか」
「うん……」
絶対不変なものを手に握らせてあげたから、少しは不安が和らぐだろう。そうだ。それでいい。
「バンビに会いに行くか?」
「……ちょっと待って。ゴホン。私、泣いたのバレる?」
「泣いてないって言ったじゃないか」
「この、私に聞いてるの!」
「バレないよ。全然。お前泣いたことないじゃないか。世界で一番強いのがキョン・ジオなのに」
「当然でしょ。行こう」
本当に気分が晴れたのか、急かし始めたジオの背中を撫でながら、虎は歩き出した。
そしてその日以来。
銀獅子の息子が塔に登ることはなかった。
外出しない日が長くなると、多くの人が不思議に思い理由を尋ねたが、彼はいつものように重々しい沈黙で答えを代わりにするだけだった。
事実上の、現役引退だった。




