296話
漢江封鎖の数分前。
「それで、確認したいことがある。まず君の能力。それを人前で使えない原因は何だ?」
ギイ、ギイ。
足漕ぎボートのペダルが再び回る。ジオは注意深く夕焼けを見つめた。
他のギルドとは異なり、〈黎明〉の構造は独特だ。
ファン・ホン一人でギルド戦力の大部分を担う形。
数多くの餓鬼や修羅を操る契約術師なので、ほぼ1人軍団と見なせる。
言い換えれば、ファン・ホンがどう出るかによって〈黎明〉の戦力が決まるという意味。
「……何のこと?誤解です。俺はそんなことありません。」
「言い訳する時はソウル弁を使うのが癖か?お前、人が多いと能力を使えないだろ。だからゲート討伐もほとんどしないし。」
今回の件は大勢の人が行き交う戦争だ。ファン・ホンが持つ弱点は致命的だった。
「トラウマか何かか?」
そういえば、こいつはかなり辛い幼少期を過ごしたと言っていたな。
ふとモロッコの夜の記憶が蘇ったジオは、鼻筋をこすった。
「はあ。まるで子守りだな。」
チェ・ダビデもそうだし、正直な気持ちではこっちではなくオ・ウニョン博士のところに行ってほしいけど、仕方ないか?とりあえず宥めてみるしかない。
ジオは優しくファン・ホンの背中を叩いた。
トントン。
「男がしっかりしないと。トロル行為をしたら、その場で宇宙人たちと一緒に抱き合って死んでもらうぞ。望むか?」
「……いいえ!」
ロマンチックとスリラーを行き来する相棒の慰め。こっそり涙を拭ったファン・ホンは、気まずそうに後ろ首をさすった。
「原因は俺もよく分からない。たぶん星痕の初開門の時、その時の経験が俺にとって引っかかる記憶になっているからだと思う。」
「トラウマ?」
「恥ずかしいけど、トラウマなんて男らしくない。そうじゃなくて、俺の心の中に転がっている小さな石ころみたいなものだ。」
「それがトラウマじゃないか、馬鹿……」
言うのをやめよう。ジオはしぶしぶ尋ねた。
「初開門がどうした?」
「お前、ブードゥー術師を覚えてるか?」
川岸に着く足漕ぎボート。船着場に飛び降りながらジオは頷いた。
中学校2年生だったか?年明け頃に起きた仁川1級災厄から間もない時期だった。
「覚えてるよ。バベルが中二病セレモニーでもしてくれるのかと思った。」
「中2?確かにお前はその頃だったな。俺はその時高校生だった。」
ファン・ホンは川風に乱れた前髪をかき上げた。誰にも言えなかった話が、なぜかキョン・ジオにはすらすら出てくるのだろうかと思いながら。
「俗説みたいなものがあるんだ。証明されたわけじゃないけど。亀裂が起きた時、覚醒する子供がいればその近くに……」
「モンスターが群がってくるんだろ。知ってるよ。」
そして、それもただの俗説ではないだろうとジオは思う。
ファン・ホンがしばらくこちらを見つめたが、淡々とした顔には特別な様子は見られなかった。
「それで?人が怪我をしたのか?」
「ちょっとたくさん。知ってるだろ、俺の能力。」
人間は本来誰でも霊眼を持って生まれるが、母体から出て最初の息を吐く瞬間に閉じる。
しかし、ごく稀にその目が閉じない子供たちがいた。
ファン・ホンもその一人だった。
ホン家の双子のように特別な場合も、キム・ダンテのように上手くいく場合もあるが、ほとんどは不幸な人生を送って早く死ぬ。
ファン・ホンもそうだった。
生死線を何度も行き来した。
だから覚醒の瞬間、死に満ちた彼の生を覗き見た星が、欲界の試練に引き寄せたのは宿命的だと言えるだろう。
試練でファン・ホンは6道を開く6つの門のうち、2つとの契約に成功した。そして。
「目を開けたらあたりは真っ暗で、前後からは怪物たちがわらわらとこぼれ落ちて出てくるんだ。」
一つはゲート、もう一つは……。
「人々は両側から死ぬと叫び、俺はもしかしてまだ地獄にいるのかと思った。」
「まあ、そうだった。何が怪物なのか俺も区別がつかなかった。お前が現れてくれたからすぐに終わったけど。」
血の海の中で高校生は空を見上げた。
彼の地獄を終わらせ、希望のように絶対的救世主。生まれて初めて強くなければならないと思った。
それがきっかけだった。
「それなりに人生のターニングポイントにはなったけど、その時の記憶がちょっと強烈なんだ。ちゃんとコントロールしている今でも、人が多いとちょっとあれなんだ。」
気まずそうな顔で掻きむしるファン・ホン。
ジオは何でもないことのように受け止めた。
「傷つけた分だけもっと救えばいいじゃないか。」
「人を数字で計算するわけじゃないけど、贖罪はそういうふうに計算されることもある。」
その時だった。
「星浪、強制開門。」
【キョン・ジオ。すぐに避けろ。】
「••••••何?」
「あ、あ!お前どうしたんだ!」
「権限行使不可。該当星位は現在、違法による特殊制裁(最高権限)を執行中です。干渉力が大幅に制限されます。」
【くそったれ。】
強制的に背中を押していた無形の力が再び散る。
困惑した、ファン・ホンが何か言おうとするが、周囲で大きくなる叫び声の方が早かった。
「何だ?は、空がどうしてあんなふうに?星が一つもないじゃないか!」
「携帯も繋がらない!誰か通話できる人いますか?」
その時、ジオも闇に染まった空を発見する。隣でファン・ホンが低い声で言った。
「……聖約星に応答がない。」
通知が続いた。
[Warning ’Warning! Warning!]
[外部要因により、近隣地域バベルネットワークが強制遮断■ ‘? ※廢♦廢]
ドキドキ。
キョン・ジオは目を瞬いた。
感覚が研ぎ澄まされる。
背筋が氷のように冷たくなった。
覚醒して以来初めて味わう感覚。
それはまさに動物が持つ最も原始的なもの、生死の危険に反応した生存本能だった。
「、、、、、ファン・ホン。」
「どうした?」
ファン・ホンは振り返ったまま固まった。
川風で前髪が乱れる。ジオの白い額に冷や汗が滲んでいた。緊張による。
「振り返らずに走れ。何とかして外に逃げて支援を要請しろ。私としては……」
ジオは乾いた唾を飲み込んだ。
「私一人では力不足だ。」
「何?そんなことあり得るのか……」
「早く!」
同時にファン・ホンも感じた。
是非を問う時ではなかった。巨大な流れがこちらに集まっていた。非常に速く。
まるで世界が動く感覚。
そしてそこにはこちらに向けられた敵意と殺気が満ち溢れていた。
ジイ。
床を強く擦る靴底が熱い。ファン・ホンは歯を食いしばった。
「……耐えろ。俺がまた来るまで必ず。」
「【そんな必要はない。どうせ逃げられないから。】」
ドーン。
ファン・ホンが立ち止まった。彼の目の前で音もなく崩れた街灯。何かに切られた跡だ。
「感じもしなかった。」
キョン・ジオは無表情な顔で正面を凝視していた。
コツコツコツ。
重い足音で歩いてくる二人の男。古い名画から抜け出してきたかのように現実感のない造形だ。
一人は天使、もう一人は悪魔のように見えた。
同じ空間にいるが、遊離したような奇妙な雰囲気を持つ者たち。こちらから推し量れない、根源不明の力。
キョン・ジオはこれが何なのか知っている。すでに何度も会っているから。
「……番人」
「東の普賢は中道。北の私は確かな味方……。だが南と西は常に貴様を警戒中だという事実、忘れるな」
「[お、紹介する必要がなくていいな。] ご機嫌よう、魔術師王? 相変わらず似合わない可愛い顔だな。殺すには惜しい」
黒豹に似た男が興味深そうな表情で立ち止まった。悪魔のように赤い舌が唇の隙間から覗いた。
「気分はどうだ、本人のものではない他人の『領域』に入ってみるのは? 何度経験しても気分が悪いだろう?」
「無駄話はよせ、ラムラタ。これ以上親しくなる必要はないだろう」
制止した白人の男が、ミルククリームのように柔らかな微笑みで見つめる。
「ああ。こんなことを言えばジオが不機嫌になるかな?」
ジオの眉間に皺が寄った。
「こいつらは初対面で知り合いぶるのがお家芸なのか?」
奴は確かに『領域』と言った。
それならば魔力が今、自分の意のままに動かないのも理解できる。領域支配権を敵に先取られたという意味だ。
開始前から最も強力な武器を奪われた。こちらについてよく知っている奴らだった。
キョン・ジオは神経質そうに笑い出した。
「貴様らか。『ジョー狩り』」
こちらを人類の主敵と見なしていると言ったか? しかし、ペク・ドヒョンの過去の言葉を反芻する余裕はなかった。
「キョン・ジオ!」
ドオオオン。
タッ。
急いで着地したせいで道路に擦りむいた膝がヒリヒリする。
ジオはパッと顔を上げた。
さっきまで立っていた場所に黒色の壁が突き刺さっている。
そのままだったら四肢の一つは、床に落ちていただろう。
鋭くなったキョン・ジオの眼差しに、ラムラタが残念そうに笑った。
「だからおとなしくしていればよかったのに」
「お前こそな。お互いおとなしく生きる顔つきではないようだが」
「ハ、ゴトシャ。こいつの言い草を聞けよ。惜しくてたまらない!」
ラムラタがニヤニヤ笑いながら目を輝かせた。陰険だった。
「まさに私の好み……! 兄貴がうちのジオにもう少し早く来ていればよかった。クロウリーの野郎がぐずぐず言わなければ」
「俺に兄貴面できる奴は一人だけだ。望むならお前も命を差し出して俺の足元に跪くか」
パアッ!
「クソッ」
人が話しているのに、あの無作法な野郎め!
隙を突いてきた白色の強気がジオの手首を締め付けた。
周囲が糸取りでもしたかのように、白色の線でいっぱいになった。
近づいてくるゴトシャの背後に、いつの間にか黒い遮断幕に閉じ込められたファン・ホンが幕を下ろすのが見えた。
「『運命を読む者』か」
「……!」
微笑みを浮かべたゴトシャの検事がジオの顎を持ち上げた。
象牙色の髪が間近で揺れる。優しい囁きが続いた。
「その名前はここで口にしない方がいい。嫌悪が貴様にまで移って最後の挨拶もできなくなったら、貴様は泣くだろう?」
「狂った野郎が……」
そうだ。すでに番人は星との連結を強制的に断った前科がある。
炯々(けいけい)とした金色の光が閃いた。
タッ!
遠くに飛び退いたゴトシャが自分の頬を抓る。血で濡れて湿っていた。
ラムラタが嘲笑った。
「馬鹿な奴。その隙にやられるとは?」
「真魔力だった。怒ったみたいだな」
「はあ。残念ながら無駄話はこれで終わりみたいだね、それじゃ」
縛られていた手首を解きながら、彼らを凝視する魔法使い。
落ち着いて祈りを整えるその目には人間的な感情が一つも見えない。
「そうだ。こうでなくちゃ魔術師王じゃない。」
キョン・ジオの両手から凶暴な真魔力が爆発的に沸き上がった。
ハンター対番人。
空気が張り詰める。
ラムラタが真っ黒で長いワンドを取り出した。古い呪術文字と古代数式が呼びかけに応えて予熱する。
「[世界の南の番人、ラムラタ・ヌマ。]」
「[西。ゴトシャ。]」
その隣、トライデントの形をしたゴトシャの灰白色のスタッフがキョン・ジオの方を向く。
西、『深海の妖獣』。
南、『荒野の預言者』。
二人以上の番人が集まった。
星系はともかく、今日のこの[世界]は彼らの味方だ。引き裂かれて自分の足でバベルに縛られた敵は絶対に地上に現れることはできない。
「[処刑式を挙行する。対象は化身キョン・ジオ。誓約の聖位は。]」
クググググ。
真っ黒な空が泣いた。
天地が恐怖に震えているのが感じられた。どうせ『本当の』名前は声に出して呼ぶことができない。ゴトシャは意に介さず、奴の破片化された真名を呼名した。
「【全知の悪魔。】」
虚空録の主人。
アカシックレコードの権利者。
思惟と観念以前から存在してきたが、どうしても呼ぶことができず、人間が破片で縫い合わせた名前、
ラプラスの悪魔。
究極に位置する星。
虚無な寒気と飢えた空虚がむさぼるように吹き荒れた。
狂風の中で世界律が軋んだ。ただ真名の一部を呼ぶだけでもそうだった。
「悪ふざけはここまでだ。別れの挨拶がまだなら今しろ。」
雷に似た閃光が走る。魔法使いの目に鮮明な敵意が満ちた。
別れの挨拶だと?
「よくも。」
キョン・ジオは荒々しく笑った。
「私の名前を勝手に呼ぶな。クソ野郎。」




