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婚約破棄されたら、悪魔公爵と結婚することになりました

作者: 鬱沢色素

「婚約を……解消なさると?」


 貴族の屋敷にふさわしい、重厚な家具に囲まれた応接間。

 その中央で少女──子爵令嬢セレナ・エルフェリアは静かに立ち尽くしていた。


「ああ」


 短く答えるのは、ジュリオ・ヴァンアデル。


 彼は王都でも将来を嘱望される伯爵令息だ。

 セレナの婚約者でもあり、いつも優しい微笑みで彼女の不安を払い続けてくれた。


 だが現在、彼はまるで他人を見るような目をして彼女を見ている。


「つい先日、大聖堂から神託が下ったんだ」


 ジュリオは、冷たい表情で言葉を続ける。


「聖女が目覚めた。君の妹、イリナこそがその存在だとね」


 その瞬間、セレナの胸の内でなにかが崩れた。


 妹のイリナ。

 美しく凛としたセレナとは対照的に、イリナは可愛く愛嬌のある少女だった。

 貴族としては少々はしたない行動も目立ったが、世の男性というのはいつも表情を崩さないセレナより、イリナのような女性を好きになるのだろう。


(確かに最近、大聖堂が眩い光に包まれたと話題になっていた。まさか、それがイリナのことだったなんて……)


 姉だというのに妹のことを知らなかった事実に、セレナは愕然とするばかりである。


「僕は聖女であるイリナと婚約する」


 続けて、ジュリオはとんでもないことを言い放つ。


「妹と……? イリナと親交があったのですか?」

「ああ。半年ほど前、王宮でパーティーが開かれただろ? その時にイリナと知り合い、文通を続けていた」


 セレナは開いた口が塞がらない。


(婚約者の私に黙って、イリナと文通を……? 聖女の神託が下らなくとも、ジュリオはイリナのことが好きだったんじゃ──)


 セレナはそこで考えるのをやめた。これ以上は、自分が惨めになるだけだからだ。


「では、ジュリオ様は私を捨てて、イリナと一緒になるつもりだと」

「そういうことになる。社交界でもいつも澄ました顔で女性らしくない君より、僕の婚約者はイリナのような女性がふさわしいしな。すまないが、僕はこれ以上、君と婚約を続けるつもりはない」


 セレナは俯いたまま、なにも言えなくなった。


 言葉が見つからないのではない。

 ただ、心の奥で燻っていた不安が、こうして現実となって目の前に立ち現れたことに、まだ理解が追いつけていなかったのだ。


(この半年、ジュリオ様は私に対してやけにそっけなかったしね……もしかしたら、ずっと前から考えていたのかも)


「君には、感謝している。女性としての魅力を君に感じたことはないが、職務面では申し分のない婚約者だった」


 そう言いながら、ジュリオはもう次の道を見ているようだった。


「でもこれから僕は……聖女イリナと共に、人生を歩む」


 その言葉に続くように、扉の向こうから小さな足音が響く。

 応接間に現れたのはセレナの妹、イリナだった。


「あ……お姉様、いらっしゃったのね」


 しらじらしいことを言ってのけるイリナ。


「ごめんなさい、わたし、こんな形で……でも、神様が選んだことだから……許してくれますよね?」


 申し訳なさそうな表情を浮かべながら、イリナの声音にはどこか得意げな声音が混じっている。


(ああ……最初から、こうなる運命だったのかもしれない)


 彼女の瞳の奥にある勝者の色を見た瞬間、ようやくセレナは微笑むことが出来た。


「そう……では、お二人の幸せを、お祈りしていますわ」


 頭を下げる。

 それは形式的で、どこか人形のような笑顔であった。





「お前はもう用済みだ、セレナ」


 ジュリオの屋敷から戻って間もなく、自宅の執務室に呼び出されたセレナは、父に厳しく叱咤された。


 エルフェリア子爵家の主、レオナルド・エルフェリア。

 王都においても一定の地位を誇る男だが、娘のセレナに向ける視線は冷ややかなものである。


「聖女である妹イリナを、ジュリオ伯爵令息に嫁がせるのは当然の選択だ。だが、そのせいで行き遅れの娘が家に残ることになってしまった」


 行き遅れ……というのは、もちろん自分のことだろう。そうセレナは思った。

 妹のイリナは男性からモテるし、今回の縁談がなくとも、いつかは誰かと結婚していたに違いない。


 一方、地味なセレナは社交界でも評判が悪い。

 ジュリオとの婚約ですら、奇跡的だったのだ。セレナの父、レオナルドが娘が行き遅れになることを危惧するのも仕方がない。


「はあ……せめて、十分の一でもイリナの愛嬌があんたにあったらねえ……」


 隣に立つセレナの母も、深く溜め息を吐く。

 言っていることは間違っていないので、セレナはただ小さく唇を噛み締めることしか出来なかった。


「行き遅れの姉が家に残るなど、体面が悪い。お前のせいでこの家の格も信頼も地に堕ちる」


 父はゆっくりと机に肘をつき、苦々しげに言った。


「……だが、それを避ける方法が一つだけある」


 セレナが顔を上げると、父は淡々と告げた。


「悪魔公爵……という名は聞いたことがあるな?」

「はい。この国で暮らしていれば、当然です」


 カイン・ノクターナ公爵。


 彼は辺境の地に城を構え、人間離れした容姿と魔力を持つと聞いたことがある。

 カインが仕切っている領地は、別名『呪われた地』。瘴気に追われ魔物も多い地であることから、好んで足を運ぶ者はほとんどいない。

 カイン自身も滅多に人前に姿を見せないことから、とんでもなく醜男なのだろうという噂も流れていた。


 そのような経緯から、カインは悪魔公爵と呼ばれ、周囲から恐れられている。

 この国では有名な話だ。


「悪魔公爵カイン・ノクターナとの縁談が、まだ宙に浮いていたのだ。お前にふさわしい相手だろう」


 一瞬、時が止まったように感じた。


「私はカイン・ノクターナ公爵と……結婚しろと?」

「そうだ。いい年だが、カイン公爵はその恐ろしさから、今まで誰とも婚約すらしなかった変わり者だ。だが、相手は腐っても公爵。貴族としての格式は申し分ない。ヤツの領地と繋がりを持てば、お前でも少しは私たちの役に立てる」


 そんな……。

 まるで、私をまるで物のように……。


 セレナはさすがに反論しようとするが、父の決意は揺るぎそうにない。


「お前が、家の役に立てる最後の機会だ。断るなど許さん」


 その言葉が決定的だった。

 セレナは気付く。もう、この家に自分の居場所はないのだと。


(反抗して、ここにいても息苦しいだけ。なら、いっそのこと……)


 セレナは静かに頭を下げた。


「承知しました」


 そう言って、セレナは部屋を出る。

 その際、誰一人、彼女に目を向ける者はいなかった。


 その夜、荷造りが淡々と進められた。馬車の手配も結婚の書類も、全てが事務的なものだった。


(まるで、いらなくなった品を誰かに送りつけるみたい)


 夜空を見上げながら、そっと胸に問いかける。


 ──私の人生は、これで終わってしまうのかしら。


 その問いに答える者は、まだいない。





 揺れる馬車の中で、セレナはじっと窓の外を見つめていた。


 カイン・ノクターナ公爵領に近付くにつれ、真昼間だというのに、空が黒ずんでくる。

 大地に生える草木も枯れているところが多く、まるで誰にも望まれずに忘れられた土地のよう。

 王都の華やかさとは、あらゆる意味で真逆だ。


(ここが……呪われた地)


 外部からなかなか人が入ってこないのも、この領地全体に漂う不気味さが一因しているのだろう。


 馬車は何日も揺れ続けていた。

 次第に街道はなくなり、馬車の車輪はぬかるみに何度も足を取られた。


 それでも、とうとうセレナは辿り着いた。

 セレナが目を向けた先、霧に包まれた岩山の中に、それはそびえ立っている。


 黒曜石のように漆黒な外壁。

 城門の上部に組まれた鉄の意匠は、まるで異形の牙のようだった。


 底知れぬ不安が、セレナの胸の奥に広がる。


 セレナを送り届けた後、逃げるように馬車はその場から離れていってしまった。


(御者の方も大変ね。お父様に言われなければ、こんなところに来たくなかっただろうに)


 小さくなっていく馬車を見送りながら、セレナは思った。


 やがて城門が開かれ、一人の女性がセレナに歩み寄ってくる。


「セレナ・エルフェリア様。お出迎えに上がりました」


 すらりと背が高く、灰がかった銀髪をすっきりとまとめている女性だった。

 どこか人形めいた容姿をしており、その無表情さが初対面の人間には冷たく感じるのかもしれない。


「ご案内いたします」


 だが、冷たい印象とは裏腹に、彼女の声には不思議と刺々しさはなかった。

 丁寧に一礼し、セレナに手を差し出すその姿は、控えめながらも礼節に満ちていた。


 セレナは無言で頷き、彼女の後に続く。


 城門を潜ると、途端に空気が変わった。

 静寂。湿った風。

 けれどどこか、懐かしさすら感じさせる香りが鼻先をかすめる。

 廊下には深紅の絨毯が敷かれ、建物全体が暗い色調でまとめられていた。


(思っていたより……整っている)


 それが、第一印象だった。

 重たそうな扉の前で、従者らしき女性が言う。


「こちらで、公爵様はお待ちしております」


 そして、扉が静かに開かれた。


 その部屋には、ただ一人の男がいた。


 窓際に立つその背中は広く、黒の礼装に身を包んでいる。

 月の光を反射する銀の髪。長身で、気品のある佇まい。


 ゆっくりと彼は振り返る。



 そして、その瞬間──セレナは、言葉を失った。



 金色の瞳。均整の取れた顔立ち。

 肌は白く、彫像のように滑らかであった。

 男から放たれる魔性から目を逸らすことが出来ず、セレナは頭がクラクラしてしまった。


「ようこそ、セレナ・エルフェリア嬢」


 柔らかな声が部屋に響いた。


「あなたが……」

「カイン・ノクターナだ。歓迎するよ」


 男は、静かに一礼した。


 その姿に、セレナは戸惑った。

 事前に聞いていた噂とは、まるでかけ離れていたからだ。


 社交界に顔を現さないから、とんだ醜男に違いない。

 人間離れした魔物の顔。

 周囲が語る、彼のそんな噂を信じていたのに……目の前に立つ男は、それらのどれにも当てはまらなかった。


「どうしたんだい?」

「……!」


 言葉を失っていると不審がられたのか、カインが首を傾げた。


「い、いえ……」

「言いたいことがあるなら、言うといい。僕たちは夫婦になるんだからね。夫婦の間に隠し事は不要だろ?」


 と茶目っけを含ませて、カインがウィンクをする。

 不思議と他者を安心させるような声音で、呪われた地に足を踏み入れてからずっと抱いていた緊張感が解きほぐされるかのようだった。


「……あの、失礼ですが」


 セレナは慎重に言葉を選びながら口を開く。


「私、もっと……あなたは恐ろしい方かと、思っておりました。あ、あの……あなたには、よからぬ噂があるものですから」

「悪魔公爵……って話かな?」


 恐る恐る発言したが、カインは不愉快に思っていなさそう。


「ご存じだったのですか?」

「まあ……自分がどのような名で呼ばれているのかくらいは知っているよ。僕も公爵の職務が忙しく、なかなか社交界に出られなかった。人々から好き勝手に言われるのも仕方がない」


 淡々とした口調だったが、どこか諦めているような雰囲気も同時に感じ取った。


「人は理解出来ないものを恐れる。それだけのことだ」


 カインは緩やかに微笑む。


「だが……これだけは信じてほしい。僕は君を傷つけるためにここにいるのではない。君を迎える準備は、整えてある。もし望まぬ結婚だというなら、すぐに実家に帰ってもいい。君を縛るつもりはない」


 言葉の調子に嘘はなかった。

 だが──いや、だからこそと言うべきだろうか、セレナは戸惑いを拭いきれない。


「な、何故……?」

「ん?」

「何故、そう言ってくださるのですか? 話に聞いていると思いますが、私は男性からの評判もよくなく、婚約破棄をされた身です」


 一生懸命、ジュリオにつくそうとしたが、彼は妹のイリナを選んで。

 家族から用済みだと、物同然のような扱いをされて。

 自分には生きる価値がないのだと悟った。


 それなのに、どうしてカインは捨てられた令嬢である自分に、そんなことを言ってくれるのだろうか?


「私に価値など……ありません」

「なにを言うんだ」


 カインはしっかりと首を横に振った。



「君には価値がある。君の人生はまだ終わりじゃない。君が幸せに暮らせるよう、僕は全力を尽くすと誓おう」



 彼の金の瞳が、まっすぐセレナを見ていた。


「君の事情は聞いている。辛かったね。だけど、君が誰かに望まれていないというなら、僕が望もう。それでは不足かな?」

「──っ!」


 セレナの胸の奥で、なにかが弾けた。

 声にならない音が喉で震え、セレナは目を伏せた。ぐらりと揺れるような感情が、足元をふわりと浮かせる。


(これまで……私は誰からも求められなかった。だけど……この人は、そんな私を『望む』と言ってくれている)


 自分はずっと、この言葉が欲しかったのかもしれない。

 仮にこれがカインの社交辞令でも、そう言ってくれるだけでも今は嬉しかった。





 その後は先ほどの従者が現れ、セレナは客間へ案内された。


 そこは広すぎず、質素で整った部屋だった。

 窓には厚手のカーテン。

 暖炉には既に火が入っており、湯気の立つハーブティーが用意されていた。


(誰にも……捨てられたと思っていたのに)


 ベッドに腰を下ろし、セレナはそっと自分の指先を見つめた。

 まだ手が、震えている。

 でも、恐ろしさからではない。カインの言葉に、まだ感動で胸が震えているのだ。


(……私にも、生きる価値があるのかな? だったら、ここで頑張ってみてもいいのかもしれない)


 それは、まだ希望というほどではない。

 けれど、ほんの僅かな意志の炎がセレナに宿ることになった。





 カインとの生活は、思っていたよりもずっと静かで、穏やかだった。

 初日は客間で一晩を過ごし、その翌朝からは、使用人の女性が朝食を運び、必要な衣類や日用品を整えてくれていた。


 屋敷の中では、セレナになにかを強要する者もいない。

 城主であるカイン自身が「この城で過ごすのは自由だ」と宣言してくれたからだ。

 誰も彼女に命令などしなかった。


 だが。


(自由すぎるっていうのは、これはこれで不安かも)


 求められないことにも、慣れていたはずだった。

 しかし、平和で穏やかな日々を通して、もっとカインのために働きたいと思い始めていた。


 セレナはふと、窓の外を見る。


 今日も城の外は薄曇りの空。

 遠くの山並みは霧に霞み、地面からはところどころ黒い瘴気が立ちのぼっている。


(この領地が呪われた地と呼ばれているのは、こういう空気が広がっているからなのね)


 だが、奇妙なことに城の中には、瘴気の匂いがほとんど漂ってこない。

 境界があるかのように、内と外とで空気が違っていた。


「奥様、なにをされているんですか?」


 ぼんやりと城の外を眺めていると、銀髪の従者に声をかけられる。


 彼女はリーネ。

 城の雑用の仕事をほとんど任されており、初日にセレナを初めて出迎えてくれた女性でもある。


「いえ、特になにもしていません。どうして、城の外側が瘴気で覆われているのに、この中はそうでもないのか……と考えていました」

「ああ、そのことでしたか」


 合点が付いたように、リーネは説明を始める。


「公爵様が、瘴気の侵入を防ぐ結界を張っておられるからです」

「公爵様が……?」

「はい。ノクターナ公爵は代々、優れた魔力を持つ一族です。だからこそ、公爵という地位を与えられる代わりに、この呪われた地を管理することを国王陛下から命じられたというわけです」


 それは、セレナにとって初耳だった。


「おかげで屋敷の中だけは、安全が保たれているんですよ」

「そうだったんですね。でも、外はどんな様子なのか、ちゃんと自分の目で見ておきたい気もします」

「もしよければ、敷地内の庭園をご案内しましょうか?」


 その言葉に、セレナはきょとんとする。


「庭園があるのですか?」


 ここに来てから、なんとなく申し訳なくなって、セレナは城の外に出たことがなかった。

 窓の外から眺める風景には、庭園らしい庭園もない。


「はい。荒れてはいますが、少し前までは、公爵様が手入れされていた場所です」


 公爵様自らが……。

 見た目麗しいカインが、一生懸命に庭園のお世話をしている光景を思い浮かべると、胸が温かくなった。


「ぜひ、案内をお願いしたいです」

「分かりました。短時間なら、瘴気による害もほとんどありません。ですが、念のためにあまり私から離れないようにしてくださいませ」


 セレナは頷き、ここに来てから初めて城の外へと足を踏み出した。


 城の裏手に回ると、小さな鉄の門があり、その先には苔むした石畳が伸びている。

 木々の葉はまばらで、地面にはところどころ瘴気が溜まっている。

 空気は重たく、肌にまとわりつくような気配があった。


(こんな場所にあったのね)


「元は、薬草園だったと聞いています。ですが、数年前から瘴気の影響で、植物が育たなくなってしまって」


 リーネの声が少しだけ沈んだ。

 セレナは膝を折り、地面にそっと手を触れてみる。


(冷たい……でも、微かになにかが眠っている気配があるような……この下に、なにかが……?)


 今まで抱いたことがない、不思議な感覚だった。


 その時であった。


『誰か……我を……』


 微かな声が、足元から聞こえた。


「え……なにが?」

「奥様?」


 従者のリーネには聞こえなかったようだ。


 茂みに隠れてよく見えなかったが──少し先で、小さな獣が倒れていた。

 白い毛並みの小動物だ。うさぎのような姿をしているが、尾の先が透き通っている不思議な存在感がある獣である。


「この子……!」


 セレナは思わず駆け寄り、その身体を抱き上げた。

 体温はとても低く、今にも消えてしまいそうに弱々しい。

 瘴気に触れていたせいか、毛並みは黒く染まりかけていた。


「どこからか迷い込んできた獣でしょうか」


 後ろから、リーネが痛々しい声を発する。


「おそらく、瘴気に長時間触れていたせいで、体力を奪われているんでしょう。このままでは……」

「た、助けなきゃ……!」


 とはいえ、自分ではなにも出来そうにない。

 それでも──セレナはまるで本能に導かれるように、その獣の小さな身体を胸元に抱きしめた。


 次の瞬間だった。


 セレナの身体が、ふわりと淡い光に包まれたのだ。

 光はやがて、彼女の腕から小動物へと流れ込む。

 しばらくすると、その毛並みにかかった黒い染みが、少しずつ薄れていった。


「……え?」


 セレナ自身も、何が起きたのか理解できなかった。

 しかし、腕の中の小さな命が、ほんのわずかにぴくりと動いた。


「しょ、瘴気が払われた? どうして? 奥様、一体なにが──」

「わ、私にも分かりません!」


 リーネが問いかけてくるが、セレナには答えるべき言葉がない。


『まさか……元に戻ったのか?』


 戸惑っていると、不意にかすれたような声が空気を震わせた。


 セレナははっとして、腕の中の小さな動物を見下ろす。 

 白いうさぎのような姿のその小さな存在が、瞼を薄く開き、セレナを見上げていた。


「え……? 今……」

『我の声が聞こえるのか? 聞こえているのなら、答えてほしい。汝が我を助けてくれたのか?』


 今度は、はっきりと聞こえた。

 直接頭の中に語りかけられているような不思議な感覚だ。


「しゃ、喋ったーーーー!?」


 驚き腰を抜かして、セレナは大声を上げてしまう。


「リ、リーネさん! 今、この動物が喋って……」

「喋る? なんのことですか?」


 リーネは分からないのか、小首を傾げる。


(え……彼女には聞こえてない? おかしい。彼女にもはっきりと聞こえるはずなのに……)


 それなのに、どうしてそんな反応をするのだろうか。


『喋ってはいない。お前にだけ、届いているのだ。選ばれし者だけに伝えられる、我ら古き守り手の声』


 唖然とするセレナに、胸の内から再び声が聞こえてきた。


「選ばれし者? 古き守り手の声? あなたは何者なんですか?」

『我は、この地に封じられし《聖獣》の一柱。瘴気に侵され、もうすぐで魂が霧散するはずだった』

「せ、聖獣……!?」


 思わぬ返答に、セレナは再び驚く。


『だが……汝の力に触れたことで、汝が癒された。これは──聖女が持つ、浄化と再生の力……間違いない。やっと……現れたのだな、真なる光が……』


 聖獣の言葉が意味するものの重大さに、セレナは思わず息を呑んだ。


「私が……聖女……? でも……神託では、妹が。し、神晶石が反応したんです」

『神晶石?』

「神晶石っていうのは……大聖堂にある特別な石です。聖女の目覚めを判別する儀式に使われていて、触れると光るとか……そういう」

『なるほど。人の作った儀式か……。それなら納得だ』


 聖獣から鼻で笑った音が聞こえる。


『人が作った神具に神の意思など宿らぬ。その神晶石とやらも、どうせ出鱈目なものだろうよ』

「そんな……」

『これは推測だが……神晶石が反応したのは、おそらく魔力の量だ。その妹とやらは、魔力だけは多かったのだろう』


 だが──と聖獣は続ける。


『だが、聖女の力に魔力量はさほど関係がない。ただ強いだけの光ではない。汝のような選ばれた存在でしか、扱うことが出来ぬ』


 聖獣からの説明を聞いても、セレナはいまいちピンとこなかった。


「……信じられない」

『汝が信じずとも、これが真実だ。我は感じた。何時の中に流れる清浄な力、そして、この瘴気に覆われた地を癒す可能性を』


 聖獣は少しだけ目を細めた。


『ならば、我はここに誓おう。我が命、再び歩める限り、そなたに仕えようと』

「ま、待って……そんな、私には……」

『汝はすでに、誰かを救った。今さら否定しようとも、光は宿ってしまった。あとは受け入れるだけだ』


 そう言って、聖獣はセレナの手の甲に、そっと鼻先を触れた。

 その瞬間、彼女の手が一瞬だけ光を帯びた。


 戸惑うことは多い。

 だが。


(私が……誰かの、役に立てた……)


 今はそう思うだけで、胸が熱くなった。

 庭園から戻る頃には、瘴気の風は少しだけ和らいでいた気がした。





 セレナが城内に戻ると、そこには既にカインが立っていた。

 窓辺に寄りかかりながら、ゆっくりとこちらを振り向く。


「庭でなにかあったのかい?」


 どこか心配しているような、カインの声。


 セレナは小さく頷き、胸元に抱いた白い小動物──聖獣をそっと見せた。

 聖獣は今、安らかに眠っている。

 瘴気が払われても、体力はすぐに戻らないようだ。セレナに説明を終えたのち、今みたいに目を閉じてしまった。


「この子を見つけたんです。瘴気にやられて、もう動けなくなっていて……。気が付いたら、私の中から光が出て、その子を癒していて……」


 まだ混乱しているが、セレナは必死に言葉を紡ぐ。


「それは、君の意思で?」

「はい。でも、助けたいって思っただけなんです。あの子が苦しそうだったから、気付いたら体が勝手に……」


 セレナは、自分でも信じられないという顔で言った。


「それで、この子が言ったんです。私が聖女だって。妹が神託を受けたのは、間違いだって」


 言いながら、胸の奥に小さな不安が生まれる。


(公爵様は私の言うことを、信じてくれるかしら? 頭がおかしくなったと思われるんじゃ……)


 けれどセレナのそんな予想とは裏腹に、カインはゆっくりと口元を綻ばせた。


「……ああ。なるほど。納得したよ」

「え?」

「君がこの城に来た日から、ずっと感じていたんだ。言葉では表せない、なにか清らかなものが君から溢れているって」


 彼の声は、誇らしげですらあった。


「で、ですが、こんな力を使うのは初めてなんです。どうして、王都にいる頃は使えなかったんでしょうか?」

「使えなかったんじゃない。きっと、今までは使う必要がなかったんだ。だから、君の力に誰も気が付かなかった」


 カインの言葉に思う。

 こことは違い、王都は華やかな場所だ。瘴気に覆われているはずもない。中にはそういう土地もあるが、立ち入りを禁じられている。


(私は……あの場所で、自分の本当の力を発揮出来なかったってこと?)


 突然気付いた真相に、セレナは唖然とするばかりだ。


「セレナ、僕が保証するよ。君の妹じゃない。君こそが真の聖女だ」

「……!」


 カインの言葉に、セレナは胸が熱くなった。

 この人はいつも、私を嬉しい気持ちにさせてくれる──と。


「そうおっしゃっていただいて、ありがとうございます。公爵様」

「公爵様……か」


 何故か。

 カインは不服そうな表情になる。


「なにか?」

「いや……せっかく、夫婦なんだ。こんなことを言うのもなんだけど、君にはカインと呼び捨てで呼んでほしい。ダメかな?」


 子どもがおねだりするような声。

 公爵者にもこういう可愛いところがあるんだ、とセレナはくすりと笑ってしまった。


「はい……カイン」


 セレナはそう言うと、カインは再び頬を緩めるのであった。





 ◆ ◆



「何故だ。あの女が、何故……!」


 セレナのかつての婚約者。

 ジュリオは唸るように声を漏らし、グラスを床に叩きつけた。


 セレナとの婚約を破棄し、彼女の妹のイリナと婚約してから一ヶ月が経とうとしている。


 ある日、貴族たちが集う王都の社交場で、ジュリオはセレナの噂を耳にした。


 悪魔公爵の花嫁───セレナ・エルフェリアが、呪われた地で『聖女めいた力』を発揮したらしいと。

 瘴気に覆われた土地が浄化され。

 毎日のようにあった魔物の襲撃がぱたりと止み。

 川には再び魚が戻り、作物も以前より豊かになったと。


「妹ではなく、姉の方が本物だった……? そんな馬鹿な……!」


 セレナとの婚約は、不満ばかりが残るものだった。

 優れた教養と立ち居振る舞いはあるが、控えめで地味でパッとしない婚約者。

 そんなセレナとの婚約関係は窮屈で、ジュリオはいつも息の詰まる思いを強いられていた。


「だというのに……!」


 今やジュリオの傍にいるのは妹のイリナだ。


 イリナはセレナと違い愛嬌のある子で、彼女の傍にいると心が弾む自分がいた。


 だが最近、彼女の明るさは次第に我儘さへと変わっていった。

 感情的で思い通りにならないと不機嫌になるイリナに、ジュリオは少しずつ疲れを感じ始めていた。


 神託によって聖女に選ばれたが、何故だかその力は凡庸で、王都内でも彼女の能力を疑問視する声は多い。

 その責任を問われ、彼女の実家であるエルフェリア家も没落しようとしている。


 対して、セレナはどうだ?

 イリナとは違い、呪われた地で能力をいかんなく発揮している。


「こんなはずじゃなかった。僕の婚約者はやっぱり、セレナの方がふさわしいのかもしれない」


 ジュリオの瞳に、ぎらりと光が宿った。


「取り戻す。今なら、まだ間に合うはずだ」


 セレナの結婚相手であるカイン・ノクターナは、化け物のような容姿していると聞く。

 彼女もそろそろ辺境に嫌気が差し、王都での華やかな生活を懐かしんでいる頃だろう。

 ゆえに自分の元に戻るべきだ。ジュリオはそう疑わなかった。


「色々、誤解があっただけだ。僕が頼めば、セレナだって婚約を結び直してくれるだろう」


 既に部下には準備を命じてある。

 公務を理由に、呪われた地へ出向く許可も得た。

 あとはあの悪魔公爵の城でセレナに会い、昔の情を思い出させてやればいい。


(かつて自分にすがるようにして微笑んでいた、あの瞳を──もう一度、僕の元に)


 その執着は、もはや愛とは異なる形だった。





 ◆ ◆



 それは、セレナが呪われた地にやってきて、一ヶ月が経とうとする頃だった。

 朝靄が晴れきれぬ頃、突如として城の門の前に来客が現れた。


「誰だ?」


 リーネから報告を聞き、カインが眉をひそめる。

 その様子を、セレナは彼の傍らで見守っていた。


「それが……ジュリオ・ヴァンアデル伯爵令息様です」

「ジュリオ──」


 その名を聞き、セレナは万感の思いが湧いてくる。


 かつて、セレナに婚約破棄を告げた男。


(もう私に用はないはずなのに、どうしてここに……?)


「突っ返してくれ。彼に用はない」


 ばっさりと言葉で斬り捨てるジュリオ。


 だが。


「待ってください」


 咄嗟に、セレナは彼の言葉を遮った。


「私がジュリオと会ってきます。出来れば、最初は私とジュリオを二人きりにさせてください」

「君がか? なんのつもりだい?」

「この地に来て……私は幸せでしたが、ずっと心に重くのしかかったものがありました」


 最初は無視していた。

 だが、その重りは日が経つにつれて存在感を増していく。


「彼とは完全に縁を切る必要があります。これは私の覚悟です。お願いします、カイン」


 すがるようにカインを見ると、彼は少し迷ってから、


「……分かった。でも、すぐになにかあったら、僕が出ていくからね」


 と首を縦に振った。


「ありがとうございます」


 そして彼女は、かつての婚約者と対峙するため、カインの元へと足を運んだ。





 城門に向かうと、そこには懐かしい顔があった。


 ジュリオ・ヴァンアデル子爵。

 整った顔立ちに洗練された身なりは相変わらずだ。


 彼は以前と変わらぬ微笑を浮かべて、セレナに向かって軽く手を上げた。


「やあ、セレナ。元気そうで、なによりだよ」

「お久しぶりです、ジュリオ様。わざわざ辺境までようこそいらっしゃいました」


 セレナは優雅に一礼し、対するジュリオも微かに頭を下げる。


 一瞬の沈黙が場を支配した。

 だが、その静寂を切り裂くかのように先に口を開いたのは、ジュリオだ。


「君の噂を聞いているよ。聖女のような奇跡を、この地で発現させている……と。すごいね」

「恐縮です。でも、私がしていることはほんの些細なことです。賞賛に値するものではありません」

「……君は、昔からそうだったな」


 少し苛立った表情を見せるジュリオに、セレナは微笑みで応えた。

 その表情には、かつての遠慮はなかった。


「……正直なところ、僕は、あの時、少し判断を誤ったかもしれないと思っている」


 ジュリオの声が僅かに低くなる。


「君は優しすぎた。おとなしくて、控えめで……けれどそれが、時に僕には窮屈だった。だけど!」


 ジュリオは突如、声を大きくし。


「イリナと過ごして、ようやく気付いたんだ。君のような女性こそが、僕の真にふさわしい伴侶だったのかもしれないと」


 セレナは僅かに目を細める。

 だがその視線は、どこまでも冷静だった。


「そうですか」

「今更だと分かっている。でも、もう一度やり直せないか? 僕と君で」


 ジュリオの目には、すがるような感情が宿っていた。


(こういう捨てられた子犬みたいな目に、昔の私は騙されてきた。けれど今の私は……)


 セレナの答えは明快だった。


「申し訳ありません。私は今や、カイン公爵様の妻。あなたと一緒になることは出来ません」

「な、何故だ!?」


 断られると思っていなかったのか、ジュリオの目が見開く。


(当たり前のことを言っているだけなのに……どうして、この男はそんな目をするのかしら)


 ほとほと呆れ果て、セレナはこう続ける。


「ジュリオ様。あの時の婚約破棄は、あなたが一方的に告げたものですよね?」

「それはそうだが……」

「物のように、私を扱うのは止めてください。私は、もうあなたの所有物ではありません。私には今、素敵な旦那様がいらっしゃるのですから。わざわざ身勝手なあなたを選ぶ理由はありません」


 セレナがきっぱりとそう告げると、ジュリオの顔にみるみるうちに怒りの色が浮かんだ。


「僕が……悪魔公爵に劣ると? あの醜男に!? これは屈辱だ! いくら君であろうと、即刻訂正を命じる!」


 ジュリオが、怒りに任せて口にした瞬間。

 後ろから男が音もなく現れた。



「──誰が、醜男だって?」



 その場の空気が一変する。

 セレナたちの元にやってきたのは……悪魔公爵カイン・ノクターナであった。

 ジュリオは、セレナの背後から現れた男に、ぎょっとして後ずさる。


「だ、誰だ……!」

「君がさっきから悪魔公爵だとか醜男だとバカにしている、カイン・ノクターナだけど?」

「な、なにい!? 君があの悪魔公爵だとお!?」


 ジュリオが声を荒らげる。


 彼の反応も頷ける。

 彼はずっと、他人の噂を信じ込んで、カインのことを醜男だと思っていたのだろう。


 しかし、なんということだろうか。

 今、ジュリオの前に姿を表したカインは、噂とは程遠い人物だ。


「う、嘘だ。悪魔公爵がこんな……」

「人は自分にとって都合のいい真実だけを信じる。セレナはそんなことがなかったけどね? 最初は僕の容姿に驚いたけど、嘘だと疑うことはなかった」


 そう言って、カインはセレナに視線を移す。

 その眼差しからは温かさと、セレナに対する絶幅の信頼が感じ取れた。


「君は、自分がセレナにふさわしい男だと思っているんだよね?」

「そ、そうだが……」

「だったら、その証明をしてもらおうか。この地で、生き延びることができるかどうか、をね」


 カインが指を鳴らすと同時に、空気が震える。

 地鳴りのような音が城の周囲に響き渡り、濃紫色の霧が地を這うように立ち込める。


「な、なんだ……?」


 その異常に、ジュリオもすぐに気が付く。


 霧の中から、無数の影が現れた。

 骨ばった腕。粘つくような触手。光のない瞳。

 城を取り囲むように現れた影は──すぐに、瘴気に覆われた魔物だと判明した。


「ひっ……ひいいいっ!!」


 ジュリオは腰を抜かし、地面に尻もちをついた。

 恐怖に顔を引きつらせ、足をばたつかせながら、這うようにして後退する。

 その姿は、貴族としての誇りや威厳は微塵もなく、惨めなものだった。


「や、やめろ、近寄るな! だ、誰か! 助けてくれぇぇぇ!!」


 ついには喉を枯らすほどに叫びながら、ジュリオは城門から転がるように逃げ去っていった。

 その一部始終を、セレナは静かに見つめていた。


「……この魔物たちは、本物ですか?」


 彼女がぽつりと尋ねると、カインはすっとその瘴気を払うように指を鳴らす。

 すると、魔物たちの姿は霧と共に消えてしまった。


「いや、魔法で作った幻影だよ。あんなヤツ、殺す価値もない。それに……君の前では、あまり醜い光景は見せたくないからね」


 その優しい声音に、セレナの頬がふっと緩む。


「……優しいんですね、カインは」


 彼女はそっとカインの隣へ歩み寄り、肩を並べる。


「気は済んだかい?」

「はい。おかげで、胸がすっきりしました。そして……一つだけ、はっきりと分かったことがあります」

「それはなんだい?」

「私は誰に言われても、絶対に戻りません」


 そう言って、彼女は城の中を見つめる。

 その目は、もう王都にもジュリオにも向けられていない。


「ここが、私の居場所ですから。あなたと共に歩める、この地こそが」


 そう続けた彼女の声は穏やかで、迷いがなかった。


「だったら、僕も強く誓うよ。これからも君が安らかに暮らせる場所を、僕は作り続けると」


 カインが嬉しそうに目を細め、そっと彼女の肩に手を添える。

 その仕草に、セレナは微笑んだ。


 こうして婚約破棄された令嬢は、悪魔公爵と呼ばれた男と、末長く幸せに暮らしていくのであった。

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