龍の嫁取りの物語
私には名前がない。
同じ顔をした姉には、綾子という名があるけれど、忌み子である私は『存在しない者』なので、名を与えられていなかった。
そんな私に名前をくれたひとがいた。
七歳のとき。一度だけ出会ったお兄さんが、私に名前をくれた。
銀色に輝く美しい髪を持ったそのひとは、濡れた長襦袢を着た小さな私を抱き寄せ、ぬくもりを与えてくれた。
たくさん話をした。
こんなにも他者と言葉を交わしたのもはじめてで、私はひどく浮かれていたのだろう。
もうおうちに帰りたくない。
お兄さんといっしょにいたい。
泣き言を呟いた私に、お兄さんは困ったような顔をした。
僕にはまだ力がない。
この地に眠る精霊の力はまだ弱い。
なれど、君がいてくれるのならきっと頑張れよう。
どうか信じて待っていてくれ。
お兄さんは私の額にくちづけた。
そのあとのことは憶えていない。
気づけば朝で、雨は止んでいた。
私は、ひとりだった。
*
「縫っておいてちょうだい」
「承知しました」
「天沢様にお渡しするのだから、丁寧にね。ほんのすこしでも縫い目が歪んでいたら、わかっているでしょうね」
「はい、綾子さま」
反物を投げつけて命じた双子の姉に、頭を下げた。彼女が立ち去るまで床に伏して待ち、足音が遠ざかったのを耳で感じ取って、顔を上げる。
女学校の課題である縫い物に浴衣を選択した理由は、さっき言ったとおり天沢様のためだろう。
天沢家といえば、この地を代々治めてきた名士。その一人息子と綾子は幼いころに決められた許嫁だった。
我が水上家は天沢に並び立つ一族だったが、数代前に当主の怒りを買い遠ざけられていた。
時を重ね、ようやく縁を結び直すことで、水上家もかつての栄華を取り戻すことができるかもしれない。かけられた期待は大きく、相手の機嫌を損ねぬよう、両親も常々綾子に言い聞かせていた。
しかし家を救うお姫さまとして持ち上げられて育った彼女は、それが例え親であったとしても、誰かに命じられることを厭う性質があった。
自尊心が高く、己をよく見せようとする心根だけは人一倍。他者の前で失敗することを恐れた姉は、同じ顔をした私を自分の身代わりとして使うことを覚えた。
本来であれば、忌み子として奥座敷に隠されて育つであろう私が、名家の子女が習う一通りのことをこなせるのは、そのおかげだ。
なにかの折に『綾子』として振る舞うことができるように教育を施された。着るものはともかくとして、食事も使用人と同じものをいただくことができた。
それはいざというとき、痩せ衰え、姉との差異が明確にならないよう注意を払ったゆえのことであったとしても、ただ虐げられるよりは幸いといえるのだろう。
*
縫い終えた浴衣を持って、綾子は女学校へ向かった。学校へ通うのは姉だが、彼女の気が向かないときは私が代理をこなすこともある。
たまにしか通学しない学校生活を把握することは難しく、学友や教師との会話には難儀する。しかし綾子の気質は知れ渡っているため、私が多少ずれた発言をしたところで「いつもの我儘だ」と流してくれるので大きな問題にはなっていない。
女学校へ通うのは、隠された存在である私が唯一外の世界を見ることができる機会なので、大変だけど楽しくもあった。
天沢のご子息に会うのも、私と綾子、半々といったところか。
町で話題の洋食屋へ誘われるときには相手から贈られた洋装で出かけ、どんな建物であったのか、どんな料理であったのかを自慢げに語る。
しかし、天沢邸で客人を招いての会食となれば、女中たちとともに給仕の手伝いをしなければならず、気位の高い綾子にしてみれば、台所に立つなどもってのほか。そういった集まりに駆り出されるのは私だった。
天沢様は、十七となった私たちとは年が離れている。今年で三十歳だったか。彼もまた綾子と同様、天沢の若様として育っていることもあり、自分以外の者を下に見るきらいがあった。
水上家は天沢家に仕える一族であったこともあり、彼は綾子――私に対しても居丈高に振る舞うことが多い。
似た者同士。
私はそんな言葉を胸のうちで呟く。
天沢様がご自身の家で雇っている若い下女に手をつけているのと同様に、綾子は見目のよい下男を夜ごと部屋へ誘っている。
女にばかり貞操観念をもっている天沢様は、そんなことは露知らず。綾子が己に操を立てていると信じているようで、なにかにつけて床入りについて説いてくる。
愉悦にまみれた笑みを乗せ、私の腰を抱き、着物の上から背中を撫でるのだ。
そのたびに背筋が凍る心地がする。
おそらく初夜は、私が寝所に入ることになるのだろう。綾子はすでに男を知っているのだから。
女学校の卒業まであともうわずか。
残された時間はひどく少ない。
*
天沢家が龍神の血を引く一族と語られているように、水上家はそれに仕える巫女の家系とされる。
水害に強く、日照りにも縁がない。水が豊富なこの地は、龍神様のご加護によって飢えることなく続いている歴史があった。
もっとも近代の世、そういった御伽噺めいた伝承は廃れつつあるが、長く地に根付く慣習は未だ健在だ。
古くからの住民にとって、巫女姫の祭事は五穀豊穣の要である。天候をひとの力で操れるものではないが、何事にも恰好をつけることは必要なのだった。
姉はこういった格式ばった行事を嫌う。綺麗な着物は好きだけれど、錫杖を携え、定められた型で舞う神楽は面倒がった。ゆえにそれは、私の役目である。
おそらく、この神事には禊が必要であることも、これらを嫌う理由だろう。
一週間から肉や魚を絶ち、具のない汁物と白米だけで過ごす。前日の晩は絶食し、何度も体を清める必要があるのだ。
屋敷の裏から続く沢へ降り、北へずっと歩いたところにある洞窟。
長いあいだ、流れ込む水で削られてできた自然の洞窟には龍神が眠っていると伝えられており、小さな祠がある。
恐ろしく冷たい湧き水が溜まった泉の傍で水をかぶるのは、冬場でなくとも凍える行為。ほの暗いそこで一晩を明かすのは、幼いころは怖かったけれど、いまとなってはむしろ心が鎮まる時間となっている。
だってここでなら、私は本当の意味で独りになれる。
邪魔をされることもなく、夢の中へ思いを馳せることができる。
――どうか僕を信じて待っていて
会ったのは一度きり。
はじめて禊のために洞窟へ連れてこられた七歳のとき、どうしていいかわからず泣いてうずくまっていた私に声をかけてきたのが、そのひとだった。
当時の私は、当たり前だけど今よりもずっと未熟で。どうして同じ顔をした女の子がいるのか、わからなかった。
まして、その子がおこなった意地悪に対して、女中たちに八つ当たりされるのかが理解できなかった。服で隠れる部分だけを叩かれ、つねられ、たくさんの痣を作って、痛みで泣いても誰にも声をかけられない。自分は幽霊なのかもしれないと半信半疑だった。
七歳を境に、水上の娘は巫女としての振る舞いを覚えることになるらしい。
ようやく己の立場をきちんと説明され、私は禁忌とされる双子の片割れであり、有事の際の代理なのだと告げられた。
ひとの子は弱く、七つまで生きられるかわからない。
そんな昔ながらの教えにより、私は七歳までは生存を許されたが、それを超えるときになって、生死を選択することになったのだ。
我儘姫の片鱗を見せていた綾子。
実の親ですら時折持て余した娘が、この先きちんと巫女として振る舞うことができるのか。
やっと繋ぎを得た天沢家との縁を切られないためにも、私は万が一のための予備として生きることとなり、手始めの仕事として『七つの巫女はじめ』に駆り出された。
それは、巫女として認められるか否か龍神へ問う、ひとつの神事らしい。
姉は泣きわめいて拒否し、「そんなのアレにさせればいいじゃない」と私を指さしたことを覚えている。
その日は厚い雲に覆われて、星が見えない夜だった。
付近にガス灯はなく、頼りの月明かりも届かない暗闇のなか、引きずられるように洞窟へ行った私は、先代の巫女である母に手順を説明され、冷たい水を何度も何度もかけられた。ガタガタと震える私に対してなんの感慨もないのか、手桶を押しつけ、自分でやるように強要される。
逃亡を阻止するためなのか、重りのついた鎖を両の足にそれぞれつけられ、私はたった独りで残されたのだった。
すすり泣く私の耳に届くのは、天井から滴り落ちる水の音と、降り始めた雨の音。
やがてそこに足音が近づいてきて、私は母が戻ってきたのかと思い顔をあげる。しかし立っていたのは、銀色に輝く長い髪の男のひとであったのだ。
どう考えても不審である。
しかし当時の私は隔離されて育っており、『普通』を知らなかった。食事を運んでくる老婆と似た髪の者だとしか思わず、さしたる抵抗もなく受け入れたのだ。
「どうしてこのような場所におるのか」
「ななつのみこはじめ」
「ではおまえはミズカミの子なのか」
「お兄さんは、どうしてここにいるの? お兄さんもミソギなの?」
問うた瞬間、私は盛大なくしゃみをした。そうすることで、お兄さんは私が濡れ鼠であることに気づいたようで、さらには足枷がなされていることにも驚き、憤っていた。
鎖を外そうと手をかけ、やがて諦める。
当然だ。ひとの手で千切れるようなものであるわけがない。そのかわり、私を抱えて膝に乗せ、腕のなかに囲った。
背からじんわりと伝わってくるぬくもり。私のちいさな両手をお兄さんの手が握り、熱を与えるように撫でさすった。
「なんと愚かなことを」
「おろか?」
「禊とは、このようなものではあるまいよ。幼子をこのように苦しめては、さらに不浄を溜めるばかりではないか」
「ふじょう?」
当時の私はとことんまで物知らずだった。
問いかけに対して、お兄さんはひとつひとつ答えてくれた。私が天沢と水上についてはじめて学んだのは、両親からではなく、お兄さんからだった。
この地に眠る龍神。
その血統である天沢家は、雨を降らせる異能を持つ一族であった。
ひとには過ぎた力は、だからこそ制御するための精神が大切だ。驕らず、真摯に生きなければならないのに、天沢はやがて自分たちこそが神であるかのように振る舞い始めた。
龍神に仕える巫女がいた。水上一族の女は天沢に進言する。
巫女でありながら、主である龍神、その化身たる天沢に逆らうとは何事か。
天沢と水上は決別。
龍と巫女姫は袂を分かち、交わりのないまま時は流れ、今に至っている。
「神の力は弱まってしまった。従来あった龍と巫女の関係が乱れ、正しい循環がおこなわれていないせいで、この地は穢れに満ちている。水上もまた衰退しているのだろうな。穢れが浄化されぬまま時が経ち、神が顕現することも叶わない」
「お兄さんは、天沢さまなの?」
私の問いに、お兄さんは曖昧に微笑んで明言を避けた。
天沢家に息子がいることはおぼろげに知っていた。私より十ほど年上の後継ぎ息子。天沢と水上で、年まわりのよい男女の子が産まれたのは久しぶりのことで、水上は天沢へ縁談を持ち掛けたと、使用人たちが囁く噂話を聞いていたのだ。
「僕はタツオミだよ」
「タツオミさま」
「君の名前は?」
「わたしは――」
綾子。
姿を見られ、名を問われたらそう名乗るように言いつけられていた。
しかし、こうして私自身を認識し、労わり、優しくしてくれたこのひとに、偽りの名を告げることに抵抗を感じてしまった。
「わたしは居ない子どもだから、名前はないの」
恥ずかしくなって顔を伏せる。
するとタツオミさまはこう言った。
「では、僕が名を与えよう、龍の巫女よ」
そして私の顔を見る。
タツオミさまの綺麗な瞳に自分の顔が見えた。みすぼらしく痩せ細った子だ。
私はもっと恥ずかしくなったけれど、何故だか目を逸らせなかった。
「サヤ。清らかな者、そして鋭く尖った刃でさえ包んで護る強き者」
「さや……」
綾子の代わりでしかなかった私は、その日、『私』を手に入れたのだ。
*
天沢康臣というのが、綾子の許嫁の名だ。
私が七つのときに出会ったタツオミさまが、天沢家の御曹司そのひとではないのだということを知ったのは、巫女はじめの儀を終えて家に戻ったあとのこと。
儀式を終えた水上の巫女として顔を合わせた許嫁は、昨晩のひとではなく黒髪の少年。声も姿も振る舞いもまったく異なり、ひどく不遜で我儘な、まるで姉を男にしたかのような気質の少年だった。
天沢の男児には『臣』の字を充てる習慣があるという。神の臣下としてこの地におりた龍の子の名を賜り、引き継いでいると伝えられている。
それはすなわち、私が出会ったタツオミさまもまた、天沢の男であるということではないだろうか。けれど彼の姿は天沢家のどこにもない。
やがて私は推測するに至る。
つまり彼もまた、私と同様に『隠された者』なのではないかと。
思い返してみるにあの銀色の髪。
神がおわす洞窟という神秘の場所で見た幼い私の目にまばゆく映ったあの色は、ただ色の抜けた白髪であったのだろう。私と同様、彼の体は随分と痩せ細っていた。
外国の書物で読んだことがある、色を持たずに生まれてしまう子ども。
例えばそれが彼だったのだとしたら。私のように――いや、私以上に秘匿され、閉じ込められているとしても不思議ではない。
タツオミさまはいらっしゃるだろうか。生きておいでだろうか。
姉に代わって天沢家を訪れる私は、いつもそうして姿を探してきた。
天沢様の視線や態度がどんなに不快であろうと、タツオミさまとのつながりが絶たれるよりはましだから。
*
今年も神事の季節がやってきた。
この時期はいつも雨が降り、神楽前夜に禊をおこなうと、不思議と雨が上がる。
龍が長雨を呼び、巫女がそれを晴らすという。
この地域に伝わっている物語に『龍の嫁取り』というものがあるが、それはこの現象のもとになったのではないかといわれている。
不浄により力を失い、地へ落ちた龍は涙を流す。その涙は濁流となって田畑を押し流し、荒れ地となった。
龍の事情など知らず、天の怒りを買ったのだと恐れる民を代表し、ひとりの巫女が単身で龍のもとへ赴く。その身を差し出し怒りを鎮めていただこうと考えたのだが、龍の病を知り、献身的に看病した。穢れを祓った。
やがて力を取り戻した龍は娘に愛を乞い、結ばれたふたりはともに天へ戻る。
彼らの加護により、土地は豊かとなり、豊穣の地として栄えた。
そんな物語である。
禊をおこなう洞窟は、病に罹った龍がこもった場所。
流れこむ川は龍の流した涙のなごり。
天沢の土地であるそこは、すべてのはじまりの地であるらしい。
もちろん、ただの言い伝えだし、御伽噺などそんなものだろう。
その土地ならではの、ありがちな民間伝承であったとしても、当事者である天沢や水上にとっては都合よく自分たちを上に置けるものだから、利用できるに越したことはない。
良き上位者であればそれでよいのだろうが、私腹を肥やすことばかり考える者に従う民はいないだろう。天沢はすこしずつ衰退しており、かつての威光を失いつつある。
対して水上は、巫女の神事という目に見える祭事の要だ。
形骸化されつつあった神事も、綾子の代となってからより天候に恵まれ、農作物の収穫量もあがり、暮らしは以前よりももっと豊かになった。天沢よりも水上の名がもてはやされるようになっており、両親はほくそ笑んでいる。
綾子が天沢家に嫁入りすることで、次代の天沢家当主は水上の子となる。
事実上、水上の天下がやってくるのだ。
「では、今年の神楽舞は、綾子さま御本人がなさるのですね」
「おまえはなにを言っているの。これまでだって、舞ってきたのは『綾子』じゃないの」
「それは」
「なによ、なら言って御覧なさいな。おまえは誰。おまえの名はなに」
「私は――」
さや。
タツオミさまがくれた名。
決して誰にも知られてはならない、私が私であるための証。
唯一、他者から与えられた私を示すもの。
「おまえはなんだというの」
「綾子、です」
「わかっているでしょうけど、禊なんて面倒なこと、あたしはやらないから。それはおまえの役目よ」
「ですがそれでは不浄を神事に持ち込むことに」
「ばかばかしい。そんな古臭いことを律儀に守る必要などないでしょう」
「綾子さま」
「黙りなさい、影の分際で主人に意見するなんて」
私を平手で打った綾子は踵を返す。廊下の隅に控えていた下男を従え、自分の部屋へ消えた。
数日後、神事の前夜。慣れた夜道を辿って洞窟へ赴く。今宵も雨だ。
秋の収穫を祈願するための神楽は、私がはじめて挑んだ儀式。七つの巫女はじめ。
あれからちょうど十年。その間、タツオミさまの姿は見ていない。あの晩の出来事は、彼岸へ向かいそうになっていた私が見た幻かもしれない。
けれど、その幻にすがって生きてきた。
タツオミさまがどこかで見ておいでになると信じ、あのひとのために舞ってきた。私には、あのひとがすべてであったのだ。
それももう終いである。
十七での舞を以って、綾子は天沢へ嫁ぐ。女学校の卒業を待たずして祝言をあげることが先刻決まったから。
いったい私はどうなるのだろう。
綾子ではなくなる私を養ってくれるほど、水上の者は優しくないと、痛いほど知っている。
心の靄を晴らすため、私は舞った。
法具もなく、身を飾る物もない。あるのは水に濡れそぼった長襦袢だけ。濡れ髪を張りつかせ、冷えた体と白い肌。まるで幽霊のようだと笑えてくる。
そうだ。幼いあのころ、私は己を幽霊だと思っていた。
私が私という人間になったのは、タツオミさまに出会ったからだ。
あのひとが私を生かし、私を作った。
「僕を生かしたのは君のほうだよ、さや」
洞窟に反響したのは男の声。
振り返った私の視線の先にいたのは、銀髪の青年。
記憶にある姿より背が伸び、体の厚みも増した、眩いばかりに美しい青年が立っている。
「タツオミ様?」
「憶えていてくれたんだね、さや」
「忘れるわけがありません。私はまがいものの巫女ですが、あなたの――龍神様の巫女として、今日までずっと生きてきたのですから」
龍臣。
その名を最初に見たのは、祭事をおこなう神社だった。
過去の伝承を記した書物に記載があった『龍の嫁取り』のもとになったとされる龍、その子ども。天沢龍臣。
「いつからだろうか。天沢も水上も世俗に溺れ、地を穢した。澱みはさらなる穢れを呼び、この地はもはや不浄のものに成り果て、龍の子である僕の体を蝕んだ。だけど君がそれを癒してくれた」
「私こそ不浄そのものでしょう。存在を偽り、巫女でもないのにそう振る舞った疎まれる者。まして、私が祈りを捧げたのは豊穣の地ではありません。土地神である龍臣様なのです」
「ならばこそ。僕のための祈りが、僕を癒し、救ってくれた。君こそが本当の水神の巫女であったのに、ずっとつらい目にあわせてしまった」
僕の力が足りないあまり、すまなかった。
龍臣様の瞳から一粒の涙がこぼれる。
雨が強くなった音がした。洞窟の前を流れる沢がドウドウと音を立てる。
「龍臣様、泣かないでくださいませ。私を想ってくださるというのであれば、私はあなたに笑っていただきたいのです。私に名をくださったあなたを、心よりお慕いしております」
「さや」
「私はもう『綾子』ではなくなりました。私はあなたの鞘となりたい。どうか、今度こそお連れくださいませ」
「人の世には戻れぬぞ」
「もとよりそのつもりです。私に居場所なぞありませんもの」
「……そなたは本当に強いな」
そう言って龍臣様は笑みを浮かべた。
誓いのくちづけを額ではなく、今度はくちびるで受け止める。
あの晩と同じように、そして違ったかたちで、私は彼の温もりを受け止めた。
*
神楽の前夜には雨が降り、そして雨が上がる。
夜が明けて、洞窟のようすを見にきた水上の下男は、女の姿がどこにもないことに気づく。
もとより女の命は明朝までだった。
綾子は、すべてを知る妹の存在を消すべく、下男へ命じて処分するつもりであったのだ。
しかし娘の姿はなく。
綾子の怒りを恐れた下男は、誰にも知られぬ場所へ女を埋めたと報告をした。
その日。綾子がどんなに舞っても、ついぞ水の恵みは訪れなかった。
当代の巫女による神楽が成立しなかったのは、はじめてのことである。
その年はいつになく不作で、暮らしは困窮を極めた。
守護龍と巫女が去った地に水の加護は遠ざかり、やがて地は干上がった。川も枯れた。
どこからともなく、水上の所業は知れ渡る。
じつは双子であったこと。
これまで巫女として舞っていたのは、隠されて育った妹のほうであったこと。
その妹がついに夜逃げし、綾子にとって、あれが生まれてはじめての祭事であったこと。
信頼を失った天沢と水上は地位を追われ、知らぬ間に家人らは行方知れずとなる。
彼らがどうなったのかは、伝えられていない。
二家が去ったあと、宮司は洞窟の祠を訪れて詫び、祈願する。
翌年。洞窟から水が湧き、川の水嵩は高くなり、祭事の前夜には雨が降り、夜明けとともに雨は上がった。
見上げた空に走る雲は、龍の形をしていたという。
これは、小さな集落に伝え残る「龍の嫁取りの物語」である。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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