1
僕はその時、
病気と余命の宣告をされて、まだ日が浅かった。
……時々見かけるその少年に、
僕のことを、少しでも覚えていてほしいと、思ってしまった……。
うんざりしたような、ため息が聞こえた。
習い事の帰りなのか、週一度、バス停で見かける少年が、僕の隣でため息をついていた。
時刻表と腕時計を見てイラついている。
僕は……
「バスが遅れているみたいですね。」
つい、そう話しかけていた。
聡明そうな、美しい顔立ちの彼は、人目を引いた。
深みのある金髪は、襟足も前髪も長めで、そのせいか、中性的な色香がある。
プロのモデルなのかもしれない。
彼は、僕の声に気づいて、こちらを見ている様子。
僕は、携帯端末の手帳を見ながら言う。
「渋滞で、二十分の遅延みたいですよ。」
視線を感じて、手帳の画面から顔をあげると、彼はまだ僕を見ていた。
嫌がる様子もなく、僕を見上げている。
僕は会釈する。
「どうも、話しかけてすみません。」
彼はにこっとして、変声前の高い声で言う。
「いいえ!」
そして、友人と会っているみたいに、微笑んで僕をじっと見ている。
何かを期待しているようなまなざし……。
僕は言う。
「……時々同じバスに乗りますね。」
会話を続けるしかない……。
彼は嬉しそうに話す。
「ピアノを習ってるんです。このバスは、その帰りに利用してます。」
彼は、自分が美しいことを十分わかっている。
おそらく、僕が時々、彼を見ていたことも……。
「ピアノ。僕も昔、習ってました。どんな曲を習ってるんですか?」
「楽譜見ます?音源もありますよ。」
と、端末を学生カバンから出そうとする。けれど、
「ああ、ここは聞こえづらいですね。」
と、残念そうに微笑む。
車も人も、多い通り。僕は提案する。
「もし良ければ、バスが来るまでの間、静かなカフェにでも行って、お話ししませんか。」
彼は楽しそうな笑顔でうなずく。
「ぜひ!」
席に着き、注文してから彼に言う。
「……ついてきて大丈夫なんですか?」
誘っておいてなんだけれど、こんなきれいな子が不用心だ。
少年は前髪をかき上げてほほ笑んで、
「いやな奴か、そうでないかくらいわかるから。
それに、うちの親は少しぐらい遅くなったって気にしないし。
ほかに予定もないし。趣味を深めるのは、また明日にすればいいし。」
と、楽しそうに笑う。人懐っこい子だな。
彼は、僕の左手を見る。
「あなたこそ、その人が待ってるんじゃないですか?」
薬指の指輪。
「ああ、これ。」
僕は声を落として言う。
「伊達指輪だよ。」
「あなた、モテそうだもんね!」
と彼は笑う。
僕は名刺を手渡した。彼は受け取って読む。
「アドルフさん。」
僕は微笑む。
「アドルフでいいよ。敬語もいらない。」
彼は嬉しそうに笑う。
「僕はルイス!ルイス・ラドフ、十五歳。高校一年!」
僕たちは、たわいのない会話をした。
それだけで、彼は、僕が思っていた通りの良い人間だとわかった。
芯が強く、社交的で、大人と会話するのに慣れている。
頭がよく、ナルシスト過ぎず、優しくて、明るい性格……。
バス停へ行くと、渋滞は緩和されたらしく、さほど待たずにバスが来た。
車内で、ルイスは僕に笑顔を向ける。
「アドルフさん、どうもごちそうさまでした。」
さっきまでタメ口だったけど、それなりに人のいる場所では、敬語を使いたいらしい。僕に配慮してくれているのかも。
僕も合わせる。
「こちらこそ引き留めてしまって……。よかったら、またお誘いしてもいいかな。
趣味の音楽の話ができて、楽しかったです。」
微笑むと、
「いいですよ!」
彼は嬉しそうにバスを降りて帰っていった。
僕は……余命わずかと宣告され……
真っ暗闇ではないけれど、孤独だった。
ルイスは……そんな僕からすると、完璧で、輝いて見えた。
彼が、そこにいることが、
彼の、エネルギーと向きあって、会話をすることが、
僕にとっては、本当に特別なことだ……。
彼の輝く笑顔は、僕を照らし、幸福にした。
……ルイスは希少で特別で、とても大切な人……。
二十も年下だけれど、心から尊敬しているし、いとおしいと感じている。
僕は、毎週末、ルイスを食事に誘った。
ルイスと一緒にいると、とても楽しくて、病を忘れられた。
ルイスも、とても生き生きと、楽しそうに話しをした。
少年らしく、彼からは、大人の僕に対する思慕が感じられた。
憧れや、理想の大人を期待する雰囲気も。
冴えない僕に、そういう気持ちを向けてくれて、光栄だ……。
ただ……
僕は、そういった期待に答え続ける事ができない人間だ……。
憧れ通りの人間は、いないのだと思う……。
けれど……
僕にとってルイスは、それにとても近い存在だ……。
ルイスは僕に、僕はルイスに、永遠を夢見ている……。
あともう一度、ルイスに会いたい……。
そう思ってしまう……。
四回目に会って、ディナーを御馳走した帰り道。
ルイスは言った。
「あなたの部屋を、見てみたいな……。」
「……。」
僕は彼を見た。
少し寂しげな表情。今日はいつもより口数が少なかった……。
彼はこちらを見ずに、少しうつむいて言う。
「今度、遊びに行ってもいいかな。
……もう少し、あなたのことが、知りたい。」
「……。」
「食事に誘ってくれるのも、もちろん、とてもうれしいけど……
……手をつなぐことも……できないからさ……。」
……寂しそうな声……。
今まで二度、手をつないでと言われた。
僕は、首を横に振った。
「外で……手をつなぎたくないなら、アドルフの部屋へ連れてってよ。」
彼は綺麗な大粒の瞳で、僕を見上げ、じっと見つめる……。
「お願い……。アドルフ……。」
僕は、一人で……
彼も、一人……。
ルイスは、恋の切なさに心を震わせて、僕を見つめている。
繊細なまつ毛で瞬きして、不安げに、可愛らしい口を、少し引き結ぶ。
夜の湿度と暗さが、
より美しく、
彼を浮き立たせる……。
夜風が
空や、街灯や
僕たちの周りを
ゆるやかに
流れていく……。
彼の手が
僕の袖を
そっとつかむ。
……少しずつ……その手が……下りてきて…………………僕の手に、触れた……。
僕は言う。
「……ルイス。……また誘ってもいいかな。」
ゆっくりと、引きはがすように。
寂しさと、期待のにじんだ表情で、
僕をじっと見つめる彼の瞳は、
吸い込まれそうなくらい、
深く、美しい……、
夜空色……。
僕が微笑むと、
彼も微笑んだ。
「うん。待ってるよ。アドルフ。」
……彼と会うのは、次で最後にしよう……。
……彼が……そんなにも……
僕を好きになってくれるなんて……
……思いもしなかった…………。
五度目のデートは、今までで一番いい店を選んだ……。
ディナーの帰り道。
人気のない運河沿いを、駅に向かって歩く。
今日は会話が少なかった。
ルイスはずっと、不安を押しとどめたような、悩んでいるような、憂いのある目をしている。
歩きながらルイスが言う。
「アドルフはさ……僕のこと、どう思ってる……?」
寂しそうな澄んだ瞳で、僕を見上げる。
僕は言う。
「……君は、僕にとって、とても大切な、特別な人だよ。」
彼は立ち止まる。僕も。
「それって、恋人ってことでいい?僕はそう思ってる。」
じっと僕の眼を見る。
辛い……。
何も答えられない……。
ルイスが近づいてきて、僕の腕に触れた。
「ねえ、理由を聞いてもいい……?
僕を大切に、特別に思っているのに、付き合えない理由……。」
彼の眼を、見れない。
余命が短いからなんて、とても言えない。
「社会的な立ち場を気にしてるのはわかってるよ。
僕が未成年だから、それは仕方ない。
でも……アドルフは、それだけの理由じゃない気がする……。
本当の理由を教えて。
……それとも、僕が何か……ダメなのかな……」
「ルイスは何も悪くないよ。これは僕の問題なんだ。
……ルイス。
君と一緒に過ごせて、本当に幸せだった。
ありがとう。」
彼の眼を見て言った。
今日で、終わりにする予定だった。
彼と出会えて、とても幸せだ。
ルイスは別れの予感に、思わず僕の両腕をつかむ。
「アドルフ……!いなくならないで……!
嫌だよ……!また約束して……!
あんな豪華なレストランじゃなくていい……!
時々お茶するだけでもいいから、僕と会って……!
アドルフが家へ招けないんなら、こうやって外で会話するだけでいい……!
お願い!アドルフ……!
甥っ子でも、友達でも、何でもいいんだ……!
別れを言わないで……!
僕は
アドルフが好きなんだ……!」
次々と涙をこぼして、僕に哀願するルイス……。
僕は……
「……僕は、外国に行くんだ。
行ったらもう、戻ってこない。
向こうに恋人がいて、結婚するんだ。
だから……ルイスとは、付き合えない。」
嘘をついた。
ルイスは、傷ついたはずなのに、
僕の眼を見てほほ笑む。
「そうだったんだ……。
アドルフの恋人は、その人は、素敵な人……?
良い人……?」
「うん。素敵な人だよ……。」
と、僕も微笑む。
「そっか……。よかった。
それなら仕方ないね……。
アドルフ。今までありがとう。
幸せになって……!」
僕の幸せを喜んで、笑顔を作っている。
ルイスがけなげで……どこまでも透明で……
僕は、涙ぐんで微笑む。
「うん。ありがとう。」
「アドルフ……。ひとつだけ、お願いがあるんだけど……。」
「何?」
「僕に、キスして……。」
僕はもう、肩の荷が下りて、少し楽になっていた。
ルイスに微笑んでうなずいた。
「……うん。
ルイス。本当に、ありがとう。」
最後に、感謝を込めて、
彼の良い思い出になるよう、祈って……
僕の心が伝わるよう、願って……
……彼に、口づけをした……。
……ほのかに……
……彼の飲んでいた……
……柑橘ジュースの……香り……。
彼の両手が……僕の襟もとに…………。
それから……首の後ろに…………。
彼の……柔らかな息…………。
僕の手は……彼の華奢な背中と……深く輝く髪に…………。
彼の涙はまつげを濡らし……
綺麗な目元から……いくつも溢れてこぼれ…………頬を伝い…………
かすかに音を立てて……滴り落ちていく…………。
彼は……悲しみと喜びの雨を降らせ………
僕は……毛布のように
翼のように、彼を包む…………。
そうしているうちに……
不思議と辛さが薄らいでいき……
……幸せで……
……このままどこかへ…………
……彼と……手をつなぎ……
……幸福な……
……明るい明日へ……
……二人で行けるような……。
暗い夜道。
僕はルイスに別れを言う。
「元気で。」
「また会いたい!」
……そうしよう。
僕は小さくうなずいて、立ち去った。
人生の最後に、
ルイスと出会えて本当に良かった……。
変声期前の少年ばかりを好きになってしまう、孤独な僕にとって、
ルイスは、神様のように美しい……。
その時、
僕はまだ、
二カ月前の失恋を、引きずっていた。
彼への思いが、心を占めていた。
彼は、同じ男子校の上級生で、
僕を盗撮したせいで、退学させられた。
両思いだと思っていたのに、
その一件で、彼の気持ちがわからなくなってしまった……。
それでも僕は彼が好きで、会いたくて……。
ピアノを弾いても、気持ちが乗らない……。
ピアノ教室の帰り道。
僕はバス停にならんだ。
腕時計を見たけれど、到着時間を過ぎているのに、なかなかバスが来ない。
今日もひどい演奏をしてしまったし、イラついてしまう。
恋愛も
趣味も
親との関係も
何も、思い通りにならない……。
今日はバスも……。
嫌になる……。
「はあ……。」
ため息をついた。すると、
「バスが遅れているみたいですね。」
顔をあげると、サラリーマンの男性が隣に立っていた。
時々同じバスに乗る人。
背の高い、あごの細い、整った顔立ちの、やさしそうな人、
骨格がきれいな人だなと、よく車内でこっそり見ていた。
彼は、左手の薬指に指輪をしている。
きっと素敵なパートナーなんだろうな。
彼は手帳を見たまま言う。
「渋滞で、二十分の遅延みたいですよ。」
彼の向こうに並んでいる人は、数人でしゃべっている。
だから、彼が話しかけているのは、僕。
彼が、話しかけてくれるなんて……!
驚いて、じっと見上げる。すると彼はこちらを見て、
「どうも、話しかけてすみません。」
「いいえ!」
うれしい。初めて目が合った。
やっぱり優しい目をしている。声も。
素敵だな……!
「もし良ければ、バスが来るまでの間、静かなカフェにでも行って、話しませんか。」
そんな申し出をしてくれるなんて……!
人生わからないな……!
カフェで会話をして、とてもうれしかったし、楽しかった。
彼の指輪は、伊達だった。
「あなた、モテそうだもんね!」
彼は目を伏せて、少し口元をあげた。
「僕は、女性とお付き合いできない人間で……。」
「じゃあ、男性の恋人がいるの?」
「……いや。一人だよ。」
彼、アドルフは、一人身のゲイだった。
確かにいつも、寂しげな表情だと思っていた……。
ちなみに僕は、パンセクシャルだ。好きになった人が、好きな人。で、年上が好み。
アドルフは毎週末、僕をデートに誘ってくれた。
会話と食事を楽しんで、
少し歩いてから、帰る。
手をつなぎたい。
キスしたい。
彼に触れたい。
触れられたい……。
僕の気持ちは伝わっていると思うけれど、手に触れることさえ、やんわりと拒まれた。
僕がまだ、十五才だからだろう……。
四回も会って、会話と食事だけなんて、
彼は僕に隠し事があるんじゃないか……。
そう思えても、問うことなんてできない。
きっと、近づきすぎると、彼は離れて行ってしまう……。
そんな繊細さを感じられて、一歩を踏み出せずにいた……。
でも、もうとっくに僕は、彼に恋をしていた……。
「あなたの部屋を、見てみたいな……。」
「……。」
「お願い……。アドルフ……。」
僕は、初めて彼の手に触れた……。
彼は、悲しそうな表情をしていた……。
彼も、そんなにまで僕のことが好きなのに、僕とは付き合えない……。
彼は優しく微笑んで言った。
「……ルイス。……また誘ってもいいかな。」
彼の表情から、一瞬、別れを伝えられるのかと不安になったから、うれしかった。
ただ会えるだけでいい……。
「うん。待ってるよ。アドルフ。」
彼は、必ず約束を守る人。
次の週も、デートに誘ってくれた。
けれど……
高級な店の入り口に立った瞬間、僕は気づいた。
これが最後だ……。
もう、どうしようもない……。
三十五歳の大人と、十五歳の子供が結ばれるなんて、最初っから不可能だったんだ……。
彼が、もう、遠くに感じられて……
料理の味なんてわからなかった……。
大人って、わからない……。
大人と付き合うのは初めてだったから、
甘えたり、期待したり、あこがれたり、理想の大人だと思ったりして、夢を見たけど……
結局こうして一方的に、別れる方向に向かうのか……。
別れたくない……。
駄々をこねて、いやだと言いたい。
でも、もし、彼にとって幸せな理由があるのなら、僕は引こう……。
僕は今まで、何度も考えた。
僕が二十歳だったら、
アドルフは付き合ってくれただろうか……。
いとおしんで僕を見る、ブラウンの優しい瞳。
ルイスと呼ぶ温かな声。
彼は物静かで、どことなく、はかなげな魅力がある。
夜道を歩きながら僕は言った。
「アドルフはさ……僕のこと、どう思ってる……?」
「……君は、僕にとって、とても大切な、特別な人だよ。」
本心だと思う。
「ねえ、理由を聞いてもいい……?
僕を大切に、特別に思っているのに、付き合えない理由……。」
でも、彼は答えない。
やっぱり、僕が未成年という理由なんだろう。
でも……アドルフは他にも理由がある気がする……。
「……ルイス。
君と一緒に過ごせて、本当に幸せだった。
ありがとう。」
なんとなく、
アドルフには、本当の恋人がいるのかもしれない……。そう思えた。
僕みたいな子供じゃなく、ちゃんと大人で、アドルフをよく知っている人……。
今、そばにはいないみたいだけど……。
指輪も、本当は伊達じゃないかもしれない。
なら僕は、友達でも何でもいい。
僕はすがる。
「アドルフ……!いなくならないで……!
嫌だよ……!また約束して……!
あんな豪華なレストランじゃなくていい……!
時々お茶するだけでもいいから、僕と会って……!
アドルフが家へ招けないんなら、こうやって外で会話するだけでいい……!
お願い!アドルフ……!
甥っ子でも、友達でも、何でもいいんだ……!
別れを言わないで……!
僕は
アドルフが好きなんだ……!」
とうとう、アドルフは理由を話してくれた。
「……僕は、外国に行くんだ。
行ったらもう、戻ってこない。
本当は、僕には恋人がいて、向こうで僕を待ってる。
だから……ルイスとは、付き合えない。」
やっぱり……。
ああ、幸せな理由でよかった……。
それが本当の理由かもわからないのに、嘘かもしれないのに、僕は彼から離れることにした。
彼が……とても辛そうだったから……。
この先、僕と一緒にいればいるほど、彼はつらくなるんだと、わかってしまったから……。
僕を思う、彼の気持ちを抱きしめて生きていこう……。
僕は、泣けてしょうがない……。
涙を手で拭い、顔をあげて言う。
「アドルフ……。ひとつだけ、お願いがあるんだけど……。」
「何?」
「僕に、キスして……。」
僕が身を引くことにして、アドルフはほっとしたらしい。
彼は、やさしく嬉しそうに微笑んで、うなずいた。
「……うん。
ルイス。本当に、ありがとう。」
だから僕は、これでいいんだと思えた。
最後に、アドルフは、
僕の頼みを聞いて、
キスしてくれた……。
……温かくて……
……柔らかで……
……やさしい……。
……さっき、彼が食べていた
……デザートの香りがした。
……彼の、形のきれいな、温もりのある手が、
……僕の背中と髪に。
……僕の手は、彼の襟と髪に。
……時折、彼の
……暖かなため息を浴びて
……何度も交互に
……喜んで、悲しんで
……泣いている僕を
……彼は、やさしい愛で包んでくれた……
……不思議と悲しみが薄まっていき……、
……幸福感だけが残った……。
……明るくて……
……ずっと、そうしていたかった……。
「元気で。」
夜の、だれもいない運河沿いの道。
彼は微笑んで、僕の髪をなでて、自分のカバンを拾った。
「また会いたい!」
僕は、どうしてもそう言いたかった。
彼は口元をあげて、
うなずきのような会釈をして……、
去っていった……。
そのやさしさが、
とても悲しくて……
僕は、座り込んで泣いた……。
もう、二度と会えないかもしれない……。
あのバス停でも……。
でも、これでいいんだ。
だって、アドルフは、ほっとしてた……。
アドルフは、キスしながら、
僕の上着の胸ポケットに、何か入れていた。
何を入れたんだろう。
取り出してみた。
彼が……
いつもはめていた、伊達指輪だった……。
細い銀色の指輪の内側には、
彼のイニシャルだけが彫ってある。
本当に伊達だったんだ……。
……なぜか、
彼の話が嘘に思えた。
アドルフには、
本当は、恋人なんかいないのかもしれない……。
一人なのかもしれない……。
この指輪は、もういらないんじゃなくて……
彼から僕への、本当の気持ちなのかもしれない……。
とたん、
強く響く声が聞こえた。
『後悔する……!』
そうだ……!
別れたくない……!
アドルフと、もっと、ずっと一緒にいたい……!
これで終わりなんて
このままなんて、
「絶対いやだ!!」
僕は、勢いよく走り出した。
指輪を握りしめ
彼を、追いかける。
なんて言う?
決まってる。
全力で、彼を……。
僕は、僕だ。
彼に恋人が、
いようがいまいが、関係ない。
僕のすべてを、彼への思いを、
全部、彼に開いて
差し出す。
そして、
彼をつかんで、引き寄せる。
そうしないと、絶対後悔する!
彼が、いた。
僕は、叫ぶ。
「アドルフ!」
歩くのが早い彼は、もう大通りの手前のところまで来ていた。
彼は、僕の声に立ち止まる。
それから、ゆっくりと振り向いた。
やさしくて、つらそうな目。
「……ルイス。」
僕は大きく息を吸い、
両足を踏ん張って
彼に言う。
「アドルフ!
僕と、結婚して!」
彼の目が、見開かれる。
僕は続けて言う。
「アドルフが、大好きだ!
だから、絶対に、後悔させない!
どんな辛いことも、耐えて見せる!
苦手も、全部克服する!
一日だって飽きさせない!
アドルフの幸せのためなら、笑顔のためなら、
僕はどんなことでもする!
アドルフが抱えてる辛さを全部
僕も一緒に持つ!
絶対に、最高に、幸せにして見せるから!
だから!
僕と、結婚して!
僕と、家族になって!
一緒に生きよう!」
肩で息をし
じっと彼の眼を見ている僕の両目からは、ぼろぼろと涙が落ちていく。
……断られる……。
彼には、そういう理由がある……。
僕をふる理由が……。
でも、僕は伝えずにはいられなかった。
全力で、彼の心をつかんで、僕に引き寄せたかった。
彼の……
両眼からも、涙があふれている。
「アドルフ……」
無理なんだきっと。
彼の心を、引き裂いてしまった……。
こんなわがまま、言わないほうがよかったんだ……。
「アドルフ……ごめん……傷つけて……」
彼が手に持っているカバンが、落ちた。
彼は、辛そうに下を向き、
嗚咽して、
再び僕を見る。
「アドルフ……?」
一歩、近づいてくる。
「……ルイス……」
彼は……
微笑んだ……。
そして……
僕に近づき……
しっかりと両腕で……
抱きしめられる……。
「ありがとう……!」
「……」
僕は、驚いた……。
「ア……アドルフ……!!」
震えて泣いている彼を……
僕も……
抱きしめた……。
彼のコートに顔を押し付けて……
僕も泣いた……。
……理想も
……あこがれも
……優しい嘘も
もうとっくに
僕らを解放する音を立てて
散らばって消え去っていて……
しっかりと心がつながった……
僕たちだけが、残った……。
「元気で。」
ルイスと別れて……
これから僕は……
体力が許す限り、旅でもしよう……。
僕は、歩調を速める。
早く、立ち去らねば。
……まだ、残っている……。
抱きしめていた……
ルイスの、息遣いが……。
彼の、感触が……。
彼の、心が……。
ずっと残っていてほしい。
最後まで、忘れたくない。
これだけを抱いて、
僕は……
……終末へ向かう……。
この思い出を抱いて、
僕は
死出の旅へ……。
ルイス……。
僕を、覚えていて……。
時々でいいから、思い出して……。
これから背が伸びて……
大人になって……
どんな君も……
一生愛してる……。
きっと素晴らしいパートナーと出会って……
君は輝き続けるだろう……。
ああ……僕はようやく、
ルイスのおかげで、
人を愛せるようになった……。
君の一生を……。
夜風が吹く。
僕は、
ついさっき抱きしめた
彼の感触を
心を
守るように
抱きしめるように、コートの前を抑える……。
もうすぐ地下鉄の駅……。
ネオンの能天気な明かりは、遠く
冷たく硬いアスファルトの道を、僕は歩いて……。
後ろから、誰かが走ってくる音がする。
刺すように、締め付けるように、
心が痛くて
けれど、同時に
喜びに胸が高鳴ってしまう自分が嫌で、情けなくて。
人違いならいい。
足音が、ルイスじゃなければいい。
けれど。
「アドルフ!」
どんな命令も
その一声にはかなわない。
もう、僕は一歩も歩けない。
辛い。振り返ってはいけない。
でも、もう一度、彼を見て、そしてはっきりと
無理だと、別れを伝えなければ。
僕は、ゆっくりと、振り返った。
そこには、
まっすぐに僕を見て、
真剣な表情で
しっかりと両足で立っている、彼がいた。
ルイスは、まっすぐに、僕に言い放った。
「アドルフ!
僕と、結婚して!」
透明な炎のような風に
僕の張りぼての決心が、吹き飛ばされた。
「アドルフが、大好きだ!
だから、絶対に、後悔させない!
どんな辛いことも、耐えて見せる!
苦手も、全部克服する!
一日だって飽きさせない!
アドルフの幸せのためなら、笑顔のためなら、
僕はどんなことでもする!
アドルフが抱えてる辛さを全部
僕も一緒に持つ!
絶対に、最高に幸せにして見せるから!
だから!
僕と、結婚して!
僕と、家族になって!
一緒に生きよう!」
何を言われても、断るつもりだった……。
彼の一言一言が、
僕の孤独を引きはがし、
取りさって消していき……
今では、
すべてを僕に差し出している彼と同じに
何の嘘も、言い訳も、装飾も持たない
僕自身だけが、
残っている……。
「ルイス……」
大人への、あこがれや、興味や期待といった、霞のような色層がなくなり
ルイスは僕を、僕自身をくっきりと見ている。
さっき僕が話した、架空の恋人なんて、ものともせず
涙をこぼしながら、まっすぐに……
自分をさらけ出して……。
彼の発した全ての言葉が、僕に響いている。
堂々と、求婚する
彼の強さに、まぶしさに
隠しようも、
否定しようもない
喜びが、
涙となって、あふれ出す。
辛かった過去が、
全部、遠くに消えていく。
嬉しさが
次々とこみあげてきて
もう、
声も出ない。
僕は、彼に近づいて……
抱きしめた……。
ようやく、一言だけ。
「……ありがとう……!」
彼のために、
僕に残されている時間を
全て使おう。
僕たちは、
マンションの廊下を歩いて、ドアの前に立ち止まる。
アドルフは、
ドアの鍵を開け、ドアノブを引くと、玄関の明かりがついた。
「どうぞ入って。」
「お邪魔します!」
アドルフの家だ……!
僕はうれしくて、舞い上がっている。
「もうすぐ引き払うつもりだから、片づけ途中で散らかってるけど。」
散らかってはいない。物が少ない。
リビングへ入るとアドルフが、
「着替えてくるね。そこに座ってて。」
と、微笑んで、一つしかない椅子を示した。
彼は別の部屋へ行く。
部屋はすでに空調が効いていて、温かい。
僕は上着を脱ぐ。
手帳を鏡にして髪を整える。
まだ目もとが赤い……。
リップクリームを塗り
手帳をしまい、
手指にささくれがないか確かめ、
やすりで爪を磨く。
……さっき叫んだし、泣いたから喉が渇いた。
カバンからボトルを出し、水を飲む。
ベルトも取っておこう。
金具が鳴らないようにベルトを外し、カバンにしまう。
あ、手を洗おうかな。
そばのキッチンで手を洗った。顔も洗った。
再び椅子に腰かけ、丁寧にハンカチで顔と手をふいていると、
アドルフが戻ってきた。
普段着だ!
コンビニくらいは行けるような恰好。
綿のシャツに、ジーパン。
スーツ姿もすごくカッコよくて好きだけど、普段着も良い!
彼は微笑む。
僕も微笑んで立ち上がる。
彼はかがみ、僕は彼の首に抱き着いて
キスする……。
彼は、僕の額に額をつけて言う。
「ルイス……。つらい話をしなきゃならない。」
僕は、まっすぐに彼の眼を見る。
「どんなことでも受け止める。」
受け止めなければ。
大丈夫。
アドルフのためなら、僕は無敵だ!
「何を持ってるの?」
アドルフは、手に紙を持っている。
「僕の……病気の診断書だ……。」
「……病気……。」
しっかりしろ!と、僕は僕に言う。
彼のほうがつらいんだ!
それを僕は、一緒に引き受けるんだ!
「何の病気……?」
彼は病名を言った。
知らない病気だった。
アドルフは、紙を僕に手渡しながら、続けて言う。
「対処療法しかない。余命は……あと三か月だって……。」
余命……三か月……
たったそれだけ……
……白くなりかけた頭に浮かんだ。
……できることは、たくさんある。
明日じゃない!
まだ、三か月もある!
しっかりしろ!
今を、生きるんだ!
一人で病を抱えている彼を、
僕は、支えたい!
涙のたまっている彼の眼を見て、
僕は微笑む。
「アドルフ……!
三か月、楽しもう!
最高の三か月にしよう!」
不安だったのだろう。
「……ルイス……!」
彼は涙をこぼして
赤くなって、嬉しそうに、
僕を抱きしめた……。
「アドルフ!大丈夫だよ。僕がいるから!」
彼の髪をなでる。背中をさする。
彼は、何も言わずに泣いている。
僕は、幸せで笑う。
「ふふ!あったかい……!
アドルフ!好きだよ!大好き!
愛してる!」
ほおずりする。
何度でも言おう。
何度でも、彼の名を呼ぼう。
彼は離れて、僕の眼を見て、いとおしそうに微笑んで言う。
「僕も、ルイスを愛してる。」
言ってくれた……!
すごく幸せ……!
幸福のきらめきが僕らを満たして祝福いる……。
僕らは笑い、キスをする……。
「アドルフ、座って。今は体調どう?」
「良いよ。どこも何ともない。」
「何か飲み物入れるよ。座ってて。」
彼は椅子に座り、僕はキッチンへ行く。
とりあえず、電気ケトルでお湯を沸かす。
「引き出しに、ハーブティーがあるよ。」
と、彼が指差したところを開ける。
「あった。」
棚からカップを二つ取り、ティーバッグを入れる。
「冷蔵庫とか、中見ていい?」
「どうぞ。」
冷蔵庫を開く。あんまり入ってない。
戸棚も、あんまり物がない。
もうすぐここを引き払う。と、アドルフは言っていた。
それって……
……お湯が沸いたので、カップに注ぐ。
「あ、いい香り!」
僕は、深く香りを吸い込む。
「うん。好きなんだ。」
と、アドルフは幸せそうに微笑んでいる。
僕も幸せだ。
「ふふ!」
二人分を、彼のそばのテーブルに置く。
「ありがとう。」
彼は微笑んでカップを片方手に取る。そして、
「ルイスが座って。」
と、立とうとするから、
「僕はここでいい。」
テーブルに座った。
「ふふふ。」
彼が僕を見て言う。
「ご両親に、連絡した?」
うっ。
「うん。友達の家に泊まるってラインした。」
彼は僕をじっと見て言う。
「僕に、嘘は、つかないでね?」
「ばれた!」
僕は舌を見せて笑う。
一日ぐらい外泊しても、心配しない親だしと思ったけど、仕方ない。
僕はテーブルから降りて、カバンに手を伸ばし、親に連絡した。
僕は、テーブルに座って、アドルフを斜めから見下ろしている。
初めて見る角度。目を伏せて、ハーブティーを飲んでいる。
僕のそばに、診断書が置かれている。
僕は、もう内容を覚えた。
腹の底から、燃えるような、
何にも左右されない、度胸がわいている。
けれどそれは、
僕の心と頭を通って、
明るくて爽やかで、
雨上がりみたいな、愛になる……。
僕は、ハーブティーを吹いて冷ましながら、一口飲む。
「アドルフってさ。」
「なに?」
「だいぶロマンチストだよね!」
「……そうかもね。そうだね。」
と、微笑んでハーブティーを飲む。かわいい。
「ふふ!……このハーブティー、僕も好きだな!どこで売ってるの?」
彼の好きなもの、もっと知りたい。
幸せで……、
たわいない会話の後、彼は言った。
「ルイス。シャワー先にどうぞ。」
なので、今、僕は、シャワーを浴びている。
着替えなんて持ってないけど、アドルフが、
「タオルと、着替えと、歯ブラシ。」
と、さっき手渡してくれた。
彼は今、きっと僕の寝床の支度をしてくれている。
僕は、念入りに髪と体を洗う。
彼の持ち物を、少しでも汚さないようにしなきゃ。
……あとで、彼がシャワーを浴びている時に、彼の病気について、しっかり調べなくちゃ……。
お風呂から出て、リビングにいるアドルフに言う。
「ありがとう。次どうぞ。」
僕は歯を磨く。
「うん。」
彼はくすっと笑う。
「僕のパジャマは、君には大きすぎるね。」
袖も裾も、折って着ている。
彼は、くすくす笑いながら浴室へ向かった。
ぱんつも大きいよ。
でも、アドルフがウエストを絞ってホチキスで綺麗に止めておいてくれた。嬉しいな!
でも、新品じゃない方がよかったのに……。
僕は手帳で、病気について調べる。
……もうすぐここを引き払うって言ってた。
それって入院するってこと……。
だから……今ここにあるものは、そこで必要なもの以外、全部処分するってこと……。
気に入って買ったもの、思い出のあるもの、みんな……。
全部……欲しい……。僕が……。
でもきっと、彼はこっそり処分するだろう。
全部なんて、僕には、残してはくれないだろう……。
涙が落ちる。
彼の病気は珍しい難病らしく、あんまり情報がない……。
本当に、対処療法しかないらしい。
医学の発展したこの時代に……。
治らないだなんて……。
怖いし、悲しいし、いやだ……!
ダメだ!泣くな!また目もとが赤くなる!
彼には、今がすべてだ!
僕にとってもそうなんだ!
泣いてる場合じゃない!
僕は深呼吸して、涙を手で拭く。
「ちょっと探検しておこう。」
その辺の棚とか、寝室とか、少しだけ開けて覗いた。
お風呂場のドアの音がする。
アドルフがシャワーから上がったらしい。
僕は、常に気にしていなければ。
彼が、今どこにいるのか。
何をしているのか。
どんな体調なのか。
僕に、何ができるか。
後悔の無いようにするんだ!
手帳の待ち受け画面に、彼のかかりつけ病院と、救急の電話番号を張り付けた。
アドルフがリビングへやってくる。
パジャマ姿だ!
いつもスーツ姿だったから、こういうリラックスした格好ってすごい萌える……!
彼は優しい目をして言う。
「ルイス。ひとつ頼みがあるんだ。」
「何?なんでも言って!」
「あんまり僕を心配しないでほしい。そのままでいてほしい。」
病気を心配されたくない気持ちは分かる。
心配されると、自分でも意識してしまって、ストレスだろう。
「うん。わかった。……じゃあ、アドルフも僕の頼みを聞いて。」
「なに?」
「僕の心配もしないで。」
僕の将来を憂う気持ちも分かるけど、考えないでほしい。
彼は困ったように笑う。僕は彼を見上げて言う。
「アドルフは、ロマンチストで心配性。」
「ルイスがだいぶチャレンジャーで、無茶をしそうだから。」
「僕は頭いいし器用だから、ひどい失敗はしないよ!信頼してよ!」
「ふふ。うん。そうだね。」
彼はかがみこんで、
優しく
僕を抱きしめた……。
僕は背伸びして、彼の首に
頬を寄せて言う……。
「……アドルフ。僕……初めてじゃないよ。」
彼の胸から背中をなでる。
「……。」
「全部じゃないけど、したことある。
好きな人から、触られたことある。
ごめん。がっかりした……?」
「いいや。
君が失恋中なのは気づいてたよ。
それで、何かが減ったりはしないよ。
僕も今まで、振られっぱなしだった……。
でも、」
彼は離れて、僕の肩に手を置いて、眼を見て言う。
「信じてほしい。君は、誰の代わりでもない。
かけがえのない、大切な恋人だよ。」
僕は微笑む。
「アドルフも、ユマの代わりじゃない。
アドルフは、アドルフだよ!僕の、唯一無二の恋人だよ!」
彼は嬉しそうに笑って、僕の手を引いて、寝室へ向かう……。
アドルフの家には、ベッドは一つしかない。
ソファーも、予備のマットレスもない。
僕も一緒に、彼のベッドで寝るしかない。
ということを、さっき寝室を覗いた時、知った。
アドルフに手を引かれ、寝室へ入り、僕らはベッドのそばで、キスをする……。
僕は、彼の体調を心配している。
「アドルフ……」
「僕の心配はしないで。」
手をつかまれ、指にキスされる。
「あ……」
彼が、僕の着ているパジャマのシャツのボタンを外していき、脱がせた。
彼に、頭と背中を抱えられる。
彼の手が、ほっそりした指が、僕の髪を、背中を、やさしくなでていく……。
「は……」
キスして……
彼の舌先が、
僕の舌をなでる……。
熱くて……
ぞくぞくして……
ぼおっとして……
足に力が入らなくなってくる……。
「あ……アドルフ……」
しがみつく。
彼は僕を抱え上げて、ベッドに乗せて座らせた。
僕はもう息が早い。
彼が、僕の着ているパジャマの下とインナーを、一緒に引き下ろして、そっと脱がせる。
僕は彼に合わせて、後ろ手をついて、腰を浮かせる。
「ああっ……」
彼は僕のそばに片膝をついて、僕を抱えて、ゆっくりと枕に横たえた。
彼もパジャマの上を脱ぎ
愛しそうに微笑んで
僕にかがみこんで
髪に
鼻筋に
唇に
頬に
耳に
次々キスして
「ん……アドルフ……」
首に
鎖骨に
胸に
心臓に
キスされて。
お腹と腰回りを
両手でなでられて。
「ああっアドルフ……!」
僕は身をよじる。
反対側へ横向きにされ
腸骨と
太ももを
手と口でなでられ
背中から肩へ
彼の息と体温が
やってくる。
「ルイス……。」
僕を呼ぶ優しい声。
キスの音。
首と
耳を食まれ
彼の美しい手が
繊細に
甘やかに
僕をなぞり
やさしく
なでていく……。
「は、はあ、あ!アドルフ……!」
僕はもう……
彼以外誰も……
何も……
いらない……。
僕たちは
不幸じゃない。
そんな言葉は、当てはまらない。
近い将来
死に別れることになるけれど
不幸なんかじゃない。
哀しんでいる暇があったら、
アドルフと楽しみたい。
僕たちは
僕たちだけの
幸福な世界にいる。
それは音楽のように
温かな光のように
生き生きと
美しくて
僕らを満たして
明るいまなざしにしてくれて
お互いを、もっと好きになるような
何か……。
朝……。
目が覚めると、ちょうど、パジャマを着たアドルフが部屋を出ていくところだった。
彼がキッチンへ行き、水を使う音がする。
僕も起きて、パジャマを着る。
髪に手櫛をかけ
手の甲で顔を拭いて、部屋を出る。
彼は、水を飲んでいた。
水と……薬を……。
テーブルに数種類の薬が置かれている。
彼が振り向く。
「おはよう。」
と、幸せそうに微笑んだ。
「おはよう。」
僕も微笑む。
彼の顔が少し白く見えるのは、気のせいなのか、それとも……。
僕は気にしないふりをして、テーブルの薬に触れる。
「何の薬?」
「いろいろ。詳しいことは忘れちゃったけど。手帳で見れるから。」
「僕は、詳しく知りたい。」
「うん……そうだね。」
彼は、一つしかない椅子に座る。
「ごめん、朝はいつも、少しだるいんだ。ルイスはシャワーを浴びておいで。着替えを用意しておくよ。」
彼が幸せそうな笑顔で言うので、僕はうなずいて風呂場へ行った。
シャワーを浴びていると、外からアドルフが声をかけた。
「着替え、ここに置いとくね。」
「ありがとう。……あのさ、」
僕はドアを半分開ける。
顔を出し、彼の眼を見て言う。
「昨日は……しんどくなかった……?」
心配だ。後悔はしてないけど、知っておきたい。
心配しないでと言われるかと思ったら、
「ありがとう。気遣ってくれて。まだ体力はあるから、何ともないよ。」
と微笑む。それでも僕は不安で、
「本当?僕を突き放してない?隠してない?」
彼は笑って、
「本当だよ。」
と、近づいてきて、ドアを全部開け、僕のあごに触れてキスする。
「ん……」
「証明したいけど、朝食を作らなきゃ。」
「ふふ!」
アドルフって、スーツ着てるときは、まじめでジェントルな会社員って感じだったけど、恋人になったとたん、セクシーに見える……。
「ルイスは、大丈夫だった?」
心配そうな目。
「うん!大丈夫!
なんともない。安心して!嘘じゃないって証明しようか?」
と、僕が笑うと、
彼はほっとしたように微笑んで僕の頭をなで、キッチンへ向かった。
アドルフは優しくて、僕がしんどくなるようなことはしなかった。だから、僕の方から……。
昨夜、僕は、
僕を撫でている彼の手をつかんで言った。
「はあ……ア……ド……ルフ……ちょっと待って……!」
「ルイス……?」
不安そうな彼の顔を見て尋ねた。
「はあ……ア……アドルフは……どっちかっていうと、ネコでしょ……?」
「……ル……イス……でも……っ!」
ビクッとした。
身体は正直だ。僕は彼の膝に手を置いて、
「ねえ、どうしたい?どうしてほしい?」
「……」
真っ赤な顔のアドルフは……、
僕の手をつかんで……、
口で愛撫した……。
「……、……は、」
僕にメロメロのアドルフは、
すごく綺麗で可愛いかった……!
それから、甘く酔った目で僕を見て囁いた。
「…………てほしい……。」
「うん。分かった!」
そうだろうと思った!
僕は、横たわっている彼を……
背中から抱えて撫でて……、
うなじを吸って……
それから……
…………
「……ん……」
…………
アドルフは泣いていた。
嬉し泣きだ。
それほど……
彼は今まで、孤独だったんだ……。
「……イス……ルイス……」
呼び掛けられて気が付くと、
アドルフはほっとした顔をした。
「アドルフ……」
僕は毛布を除けて片手を伸ばし、彼の頬に触れた。
もう、泣いてない……。
「アドルフって、ほんと綺麗で可愛いよね……。
もう一回、させてよ。」
彼はくすくす笑った……。
綺麗で可愛い僕に言われるのはおかしいし、嬉しいんだろう。
「酷いな。そんなに笑わないでよ。僕だって男だよ?」
ちょっと可愛くすねて見せる。
「ごめん。」
アドルフの可愛い笑顔。
「……どうもありがとう。ルイス。」
「僕の方こそ。うふふ。」
僕らは抱き合って眠った……。
シャワーから出て、
アドルフの部屋着を着て、リビングへ行く。
テーブルには、
ベーコンエッグと、インスタントスープと、冷凍庫にあったパンがトーストされて、並べてあった。
簡素だけど、最高の朝食!
彼は言う。
「今日は土曜日だけど、普段、学校は何時から?」
僕は脚立に座っているから、彼と同じ目線の高さ。
「ああ、学校は休学することにした。」
彼はカトラリーを止める。
「ルイス……」
僕はふっと笑う。
「ほら、また心配してる!減点だよ!
僕はこれでも成績トップクラスなんだよ?
飛び級も勧められてるくらい、頭いいんだよ?
僕が勉強しないのが嫌なら、アドルフが教えてよ!
教えるの上手いじゃん!
今日は何を教えてくれるんですか、アドルフ先生!」
流し目で彼を見る。
昨晩、彼にキスされたところを、順番に指さす。
彼は、少し血色がよくなる。
「大人をからかって遊ばないで。」
「あははは!アドルフのほうこそ、会社は何時から?」
「昨日、辞めてきた。」
「……ああ……そうだったんだ……。」
その足で、僕と会って食事して、別れを告げようと……
僕は、彼を抱きしめたくなって、
脚立から降りて、彼のところへ行き、
抱きしめた。
「……ルイス……。ありがとう……。」
「アドルフ……!愛してる……!何度でも言うよ!愛してる!」
「僕もだよ。愛してるよ。ルイス。」
彼は、食後にも薬を飲んでいた……。
「アドルフ。今日からここに、一緒に住んでいい?」
彼は嬉しそうに、幸せそうにうなずく。
「うん。僕から親御さんに話しをしよう。」
「僕からしておくよ。二人とも僕に興味無い人達だから、そんな折り目正しくしなくて平気だよ。」
僕の両親は、恋人をとっかえひっかえしてる貴族だ。
息子に恋人が出来ようと、同棲しようと、気にしないだろう。
「親が、アドルフと話したいって言ったら、紹介するよ。多分言わないけど。
じゃあ、一旦帰って荷物取ってくる!」
「行ってらっしゃい。」
僕らはキスする……。
自宅に帰ると、珍しく父がいた。僕は父に言う。
「恋人ができた。しばらくあっちに泊まるから。」
すると父は、僕の眼をじっと見て、
「ルイス……。よかったじゃないか!」
嬉しそうに肩をたたかれた。
「で、しばらく学校休みたいんだけど。」
「父さんに任せなさい。」
担任に嘘ついてくれるらしい。
「恋人がいるのは豊かな事だよ。お相手はどんな方?」
嫌だけど、アドルフの写真を見せた。
「……良い人に見初められたな。頑張りなさい!」
こういうことには理解のある親でよかった。
父も母も、昔から恋人が途切れたことがないらしい……。
僕は、ほったらかしにされて育ち、小さい頃は寂しくてつらかったけど、今はどうでもいいと思っている。
思うようにしている。
そこを考えだすと、悲しく惨めな気持ちになるから、考えないようにしている。
僕はキャリーバッグに荷物を詰め込み、パソコンでアドルフの病について、さらに調べた。
やはり、治療法や、治療できる病院についての、有力な情報はなかった……。
ただ、知識は増えた。僕にできることも、たくさんある……。
僕は、準備万端で、家を出た。
ラインで話してた通り、
アドルフの家は、少し荷物が解かれて、人の暮らす部屋らしくなっていた。
アドルフが僕に言う。
「すごい荷物だね。」
僕は買い物もしてきた。枕とか、タオルを買った。
でも、一番重くて容量大きいのは、撮影のためのもの。
僕は、自撮りが趣味だから。
着替えもたくさんある。
「どう?可愛いでしょう。」
と、ひらひらのワンピースを当てて見せる。
前に写真を見せたとき、褒めてくれたから、アドルフは女装の僕も抵抗ないはず。
彼は嬉しそうにほほ笑んだ。
「うん。可愛い。でも、それ着て一緒に外へは出ないでほしいな。」
「ああ。美少女と腕組んで歩いてたら、怪しまれるもんね。」
「着てなくても、腕は組まないでほしい。」
「ええ~!まあ、そうか。」
僕はため息をつく。すると彼は、
「悪いね……。僕だって、ルイスと手をつないで歩きたい。」
僕は顔をあげる。
にっこりして、彼を見つめる。
「……アドルフ。僕ってかわいい?」
彼に近づき、腕に触れる。
「うん。可愛いよ。」
「最高に可愛い?」
「うん。最高に可愛い。」
彼は愛しそうに、僕のあごと唇のヘリを指でなぞる。
僕はうれしくて、彼に抱き着いて何度もキスする……。
彼もうれしそうに笑っている。
「夕食の材料を買いに行くんだ。手伝って、ルイス。」
年上の彼氏と買い物に行って、一緒に料理を作って食べる!最高だ!
「何が食べたい?」
「何でも!たくさん食べたい!」
「ルイスは成長期だから。」
彼は楽しそうに笑って、僕の髪をなでた。
日曜日の昼間。
アドルフとリビングでいちゃついていると、インターホンが鳴った。
けど、アドルフは画面を見ただけで、躊躇して、出ようとしない。
「だれ?」
今度は続けて何回も鳴る。
「え?」
僕は眉をひそめる。
玄関ドアを叩く音がし始める。
「アドルフ!いるんだろ?開けろよ!」
「ルイス、すまない、寝室にいて。」
アドルフは難しい顔をして、僕の肩をつかんで背中を押し、寝室へ押し込んだ。
ドアを閉められる。こんな強引なことは初めてだ。
「え?アドルフ!?」
彼が、玄関ドアを開ける音がする。
僕は寝室のドアに耳をつけて、会話を聞く。
「アドルフ、なんか少しやせた?」
若い男の声。断りもせずに、家の中に入ってくる。
「何?引っ越しでもすんの?」
アドルフは黙っている。
「なら、いつもより多くもらおうかな。金貸して。
どこに引っ越すんだ?遠くじゃねえよな?」
ゆすりだ……!
僕は寝室から出る。男に叫ぶ。
「出てけ!」
チンピラみたいな背の高い若者は、ちょっと驚いてから、短く口笛を吹く。
「今は、こんな子役みてえな綺麗な子を、手籠めにしてるんだ!?」
と、下品に笑う。
アドルフは、黙って立っている。
「帰れよ!」
と、僕はチンピラをにらむ。
アドルフが僕を落ち着かせようとする。
「ルイス。いいから……。」
「通報するぞ!」
僕は手帳をチンピラに見せる。
すると彼はあごをあげて、シャツの裾をよけて、腰のナイフを見せた。
余裕でズボンのポケットに手を突っ込み、
「お前、まだこいつがどういうやつなのか知らねえだろ!」
と、アドルフを顎で示してまた笑う。
「アドルフはな、人当たりのいいやさしい大人に見えるだろ?でも実は、」
「よせ。」
と、アドルフが彼の腕に触れ、小声で言う。
「あはは!このオッサンはな、声変わり前のガキしか愛せねえ、ヤバイやつなんだよ!」
「やめて……。」
アドルフの辛そうな声。
チンピラは大口を開けて笑う。
「あははは!本当の事じゃん!俺が声変わりしたら、がっかりしてたじゃんか!」
僕のほうを見て、
「こいつ、俺と別れて一か月もたたねえうちに、また違うガキと付き合ってんの!ヤベーよな!」
と、大げさに吹き出して笑う。
アドルフはつぶやく。
「違う……。」
アドルフは、僕を全然見ない。
「違わねーだろ。あんたそういう人だろ。
このかわいい子も、すぐに愛せなくなるんだろ。」
「違う!」
アドルフが悲し気に目を伏せ、首を横に振る。
「はあ。まあ、どうでもいいや。金貸して?」
僕は叫ぶ。
「アドルフ!こんな奴に金をやるな!」
「あのな。俺と君は被害者なの。こいつ犯罪者なの。
証拠の動画もあるし、金くれれば黙っててやるって、約束してあんの。
君も早いとこ家に帰んな?後でキツイの君だよ?」
僕は手帳で通報しようとした。けれど、一瞬早く、チンピラが僕の手帳をもぎ取る。
でかいくせに、動きが素早い。
もう、頭にきた。
「帰れ!」
椅子を持ち上げ、椅子の足を彼に向ける。
「お前が帰れ!二度と来るな!」
椅子をぶつけようとした。
けれど、アドルフに椅子をつかまれた。
「ルイス!やめて!」
辛そうな表情のアドルフ。胸がズキンと痛くなる。
「あーめんどくせー!」
若者がアドルフの首に腕を回し、僕の手帳をポイと床に転がして、ナイフを抜いて、アドルフの顔に突きつける。
僕はゾッとする……。
僕もアドルフも椅子から手を離す。
「ステファン、こんなことやめてくれ!」
「おいガキ。おとなしく金持ってこい。」
僕は後ずさる。
「オッサン。指示しろ。」
「ルイス、そこの引き出しにあるから、全部渡して。」
「……。」
「ルイス。」
アドルフが、やさしく促す目で僕を見る。
僕は引き出しの中の金を、チンピラに手渡した……。
「サンキュー!」
彼は、それを丸めてポケットに突っ込み、ニヤッと笑い、ナイフを持った手をこちらに振りながら、玄関へ向かって歩いて行き、出て行った……。
僕は走って行ってドアにカギをかける。それから、
「アドルフ!」
戻ってきて、白い顔の彼を支え、椅子に座らせる。
「ハーブティー入れるね。」
「ルイス……」
アドルフは震えている。
繊細なうえに病気の彼を、こんなに苦しめるなんて……、
あいつ許さない……!
僕は、アドルフの肩をさすって言う。
「アドルフ。僕たちには、今しかない。
僕は、今が最高なら幸せだから。」
彼に微笑んだ。
「それに、アドルフは言ってたでしょ。振られっぱなしだったって。
それって、あいつがアドルフを振ったってことでしょ。
それで傷ついたんなら、僕が大人になったって、愛されなくなるわけじゃないってことだよね。
あいつ、僕のことをガキ呼ばわりしてたけど、あいつのほうがよっぽどガキだよ!
アドルフに甘えて頼って、傷つけることしかできないなんて!」
アドルフは、涙を流して僕の眼を見る。
「ルイス……信じてほしい。
僕は君がいくつになっても好きだ……!
君の一生を愛してる……!
ルイスは僕みたいな、冴えない人間にプロポーズしてくれた……!
君のためなら、生きられると思った……!
そんな人は、ルイスだけだ……!」
過去の弱さを恥じて震えて泣く彼を、僕は抱きしめた。
「アドルフ。僕はアドルフのそばにずっといたい。
低い声が嫌なら、裏声の練習するし。
背が伸びるのはしょうがないけど、若く見えるようにする方法、今はいろいろあるし。
後は慣れで。
それにさ、アドルフは冴えない人間じゃないよ。全然かっこいいよ!
ヤバくなんかないよ!
だって、僕がこんなに好きになった人は、アドルフだけなんだから!
だから、臆病にならないで!
もっと僕をほめて!
もっと僕を愛して!」
彼をぎゅっと抱きしめる。
「ルイス……!」
僕も抱きしめられる。
彼は、涙が止まらない……。
アドルフは、ハーブティーを一口飲んで、苦そうな顔をする。
「だけど、彼にあんなことを言わせたのは、僕だ。」
「……それは違う。彼は自分から望んで選んで、ああなったんだ。」
「だとしても、曲げてしまったのは、僕だ……。」
「アドルフは、悪くない。
だって、アドルフは、彼を嫌になったわけじゃない。
彼が、勝手に思い違いをして、一方的に振ったんだ。」
「すれ違ったのは確かだけど、
僕が……大人より少年にひかれてしまうのも、事実……。」
「アドルフ……
失われるものが貴重で、価値あるものに思えるのは、自然なことだよ。
誰だって持ってる感情だと思うよ。
僕だって……今、こうしている毎日が、何にも代えられないくらい、大事なんだ……。
だから、何も悪く思わないで……。」
「……ありがとう……。」
彼の傷を、僕の言葉が、ハーブティーが、いたわる……。
一緒に料理を作って
手をつないでドラマを見て
一緒にお風呂に入った後、寝室へ行く。
先に出たアドルフが、向こうを向いてベッドに座っている。
僕はベッドに上って、彼の後ろに座る。
彼の襟元に、耳をつけて寄り掛かる。彼は言う。
「明日は病院へ行ってくるね。」
「うん。僕も一緒に行く。」
「……ありがとう。きっと、僕が元気だから、先生驚くだろうな。」
「ふふ。」
僕は彼を背中から抱きしめる。
アドルフは、僕の腕に手を重ねる。僕は言う。
「今日は疲れたでしょう。横になって。歌を歌ってあげる。」
彼はくすっと笑った。
こちらを向いて横になって、澄んだ目をして微笑んで言う。
「ルイスは歌がうまいし、声もとてもきれいだよ……。」
……アドルフの心は、とても純粋で、きれいで、少年みたいなところがある……。
でも、ちゃんと大人なのは、たくさん傷ついたり、わからなかったりしたことを、彼なりに、考えて生きて来たからだと思う。
僕は指を鳴らしながら、ポジティブな歌を歌った……。
歌い終わると、彼が話し始めた。
「ルイス……
僕は、寂しさとか……欲望だけで、男の子に近づいたことはないんだ……。
昼間の彼も……出会ったころは、素直でよく笑う、普通の少年だった。
ルイスと出会った時みたいに、ふとしたことで繋がりができて、
一人だった彼は、僕を居場所にした。
ただ僕のことを好ましく思って、会いたがってくれてたんだけど……
彼が話したように、彼が声変わりしたことで、僕がショックで切なくなっているのに気付かれて、
信頼を失ってしまった……。
……そのまま、今に至るわけで……。
ステファンは、今日は暴力的にふるまっていたけど、本当は優しい子なんだ。
信じてやってほしい。
心根のいい子だから、僕は……追い返したりなんてできない……。」
あんなひどいこと言われたのに、なんて優しいんだろう……。
「……アドルフ。
あなたがそう言うんなら、次もし彼が来たら、邪険なふるまいを謝って、お茶でも入れてもてなすよ。」
「ありがとう。ルイスは、本当にやさしいな……。」
彼は、僕の手を握ってくれる。
「アドルフがやさしいから、僕も優しくなれるんだよ。」
僕も、そっと握り返す。
チンピラの彼は、ステファンという名前らしい。
彼は、
ずっと優しかったアドルフが、
自分の声変わりに、ショックを受けているのを知って、
裏切られたように感じたのだろう。
その痛みは、怒りは、
僕にも想像できるし、同情する。
ステファンは……、
そこから先へ、進めないでいる。
アドルフはまだ、彼を好きで、
ステファンも、時々やってくるところを見ると、まだ執着してる。
それが、頼りたい、好きでいたい気持ちなのか、
ひたすら八つ当たりしたいだけなのかは、わからないけど。
前者なら、僕からステファンに、話をしてみようと思う。
アドルフも、自分自身も、
もう、傷つけなくて済むようにしてほしいから。
どうしたらいいかは、ステファン自身、気づいてると思う。
だから、僕はステファンに、アドルフが病気だということを伝えようと思う。
いつから、どこへ入院するか、教えようと思う。
「は………はあ…………」
ベッドで……
僕はアドルフの膝の上で、
彼の顔色を見ながら、首に触れて脈を調べる。
「しんどくない?」
彼の髪をなでる。
「無理そうだったら言ってね?」
彼の肌をなでる。
「ん……大丈夫だよ……」
キスして……
お互いを抱きしめて……
僕は、もっとアドルフのことを知りたい。
「アドルフ。」
「ルイス。」
僕は微笑んで言う。
「話して。どんなことでも。何も恐れずに。今までのことを話して聞かせて。」
「うん。」
彼が語る……、
彼の生きてきた時間は……
夜と、昼の香りがして……
痛みや喜びや……
様々な感情を紡ぐ……
彼の声の調子は……
僕を、彼の過去へといざなって……
ロマンチストの彼から見た、この世界は……
どんな本よりも、好きな内容で……、
まだ僕が経験していない……
二十年の時間を……
一緒にたどって……
彼が眠った後も、僕は反芻して……
その時々の彼を、見守り、抱きしめる……。
アドルフの家に住み着いて、一週間が経つ頃。アドルフが言った。
「ルイスのピアノが聞きたい。」
そういえば、まだ弾いてあげてないんだった。
アドルフに夢中で忘れてた。
レッスンの日以外、ピアノに触ってない。
「なまってるかも。」
「近くのホールで、ピアノを貸してるんだって。」
「ああ、ステージで一時間とか、弾けるやつ。」
アドルフが予約を取って、ホールに行くことになった。
当日。
順番が回ってきた。
僕はステージへ上がる。
客席のアドルフに微笑み、ピアノに向き合う。
コンクールで弾いた曲、発表会で弾いた曲、暗譜しているのを、時間いっぱいまで弾こうと思う。
僕は、ピアノを奏でていく……。
音楽はいい。
僕は空気になる。
美しい音色を求め、欲しい音を、空間を、舞うように奏でる……。
帰り道。
「とても美しかったよ。」
「ありがとう!練習してない割には弾けたよ。」
途中、手をやすめている時、客席を見ると、
アドルフは、泣いていた……。
ルイスは、本当にいい人間だ。
とてもやさしくて、強くて、
僕を愛してくれている。
それに……とても美しい。
まるで、天使か妖精がそばにいるように思えてくる。
彼の瞳は、濃いブルー。
夜空のようでもあり、
深く、透き通った湖のようでもある。
彼は細身で、身軽で、動きが早く、
けれど、子供のようなせわしなさではなく、
動作が美しい。
彼はとても努力家でもある。
休憩しているところを、ほとんど見ない。
頭もよくて、回転が速い。
中性的で、天使のような彼は、
自分でも美しさがわかっていて、わざと自慢する。
「僕って綺麗でしょう。」
そこがまたかわいい。
自撮りが趣味で、よく撮影している。
ウイッグをかぶって、女の子の格好をすることもある。
演技もうまくて、本当に女の子と話しているように思えてくる。
かと思えば、
メンズの服をかっこよく着こなして、含みのある上目遣いで僕に微笑み、髪をかき上げる。
五年後には、本当にモデルみたいに美しい青年になっているだろう。
ずっと……彼の成長を、そばで見ていたい……。
彼は時折……、
別れの悲しみの色が混ざった微笑みをする……。
美しい横顔……。
「アドルフ……。」
別れの寂しさを含んだ声……。空気……。
「ルイス……。」
僕は、彼の……プロポーズの返事をしていない。
現実では無理だから。
でも、僕は彼をパートナーだと思っている。
僕らは、心を寄せ合って、今日を、今を、生きている……。
僕は言う。
「ルイス。きっと君は、素晴らしい恋人と出会えるよ。」
彼は少し眉を寄せる。僕は続ける。
「……こういうこと言われるのは、嫌だろうね。
でも、僕に縛られずに生きて行ってほしいから。」
「アドルフ……。」
「僕もその人と会ってみたいな。」
未来の幸せなルイスを想像する。
「幸せに生きて行って。」
ルイスは涙をこぼし始める……。
「アドルフ。あんまり僕が泣くような事言わないでよ……。約束するから……。」
僕は笑顔で彼に言った。
「ルイス。ありがとう。約束だよ。
ルイスの幸せが、僕の幸せなんだ。」
ベッドで、ルイスが、黄色い声で騒ぐ。
「あはは!アドルフ!かわいい!赤くなってる!」
彼は器用で、十五歳と思えないほど物知りで、
僕が思いもしないことを、仕掛けてくる。
積極的な子だと気づいてはいたけど、
興味津々な様子の彼が主導権を取ると、僕は少し逃げ腰になる。
彼は、それが好きらしい。
「え……そんなこと……」
ルイスが、色気のあるまなざしで、間近で囁く。
「アドルフ?いやなの?」
「……いやではないけど……」
「けど、何?」
「……。」
恥ずかしくて、僕は顔をそらす。
「ふふ!可愛い!」
彼の細い手指が、服の中へ入ってくる……。
……彼は、ズルくて子供っぽいところがあるし、
それに、とても……色気がある……。
天使な可愛らしさだけじゃない、彼の魅力なのだけれど……
僕の弱点を次々探り当てられて、恥ずかしい……。
「な……何……?これ……?熱い……」
ただ服の上から背中をなでられているだけなのに、熱が出ているみたいに熱くなってくる。
「湯船でのぼせそうになってるみたいだ……。」
「そう?やめた方がいい?」
心配そうに手を止める。
「……いや、…………気持ちいい……。」
知らなかった快感に出会ったりする……。
「へえ?後で僕にもして。……あったまる分には影響なくてよかった。」
僕の病気の話だ。
この前、二人で病院へ行ったとき、
『僕はアドルフの恋人です。』
ルイスは先生にそう言って、
自分にできることは何か、しちゃいけないこと、した方がいいことは何か、聞いていた。
本気なのが伝わったのか、先生はちゃんと彼に説明し、質問に答えていた。
……僕もルイスの背中をなでる……。
でも、僕は彼ほど器用じゃないから、同じようなことをしても、彼はのぼせなかった。
「僕にはそういうツボがないのかな。ほかには結構たくさんあるのに。」
「……ルイスって……、どうしてそんなに……」
「なに?手練れだって言いたいの?」
「……。」
前の恋人は、いったいどんな人だったんだろうか……
「それは、いろいろ見たり読んだり、自分でも研究してるから。こんなのとか。」
手帳で実写のBL動画を見せてくる。
「……」
というか、AVだ……。
「きれいでしょ?」
うっとりしている。
「でも、実際はもっと細やかさが必要だよね。」
こんなのを一体いくつの時から見てたんだ……
良い作品を、僕も見たことはあるけど……
ルイスが読んだり見たりしてるなんて……
「あはは!顔赤いよ!アドルフはロマンチストで繊細だから!
ていうか、アドルフはどんなのを参考にしたり、妄想したり、研究したりしてきたの?」
「え……」
彼は興味津々に顔を近づけてきて、間近で色っぽく囁く。
「教えてよ。
ずっと独身で、僕より二十も年上なんだ。いろんな夢を見てるはずだよ。知りたいな。
きっと素敵な設定とか、ドラマとか、あるんでしょう?聞きたいな。
アドルフの、そういう話も聞きたい。
あ、もちろん僕をどんな風に妄想したかもじっくり聞かせて?
ふふ。それとも僕のを聞きたい?
あ、でも話すと止まらないし、驚かせたいから、やめとこうかな。」
……ルイスは天使に見えるけど、
だいぶ……かなり……。
僕はさっきから、服の上から何か所も弱点を彼に抑えられている。
これ以上は、彼の攻撃に耐えられない……。
「……は……離れてほしい、話すから……」
「え、いいじゃんこのままでも。」
と、くすくす笑う。振動が伝わって来て、僕はビクッとする。
「あっ……!動かないで……!」
彼は僕の話を待っている。
「……満月の夜に……
ないだ海に……小船で沖へ漕ぎ出して……
船は、雲間の月明かりの中を、浮かび上がって……
雲の上へ……登って行く……。
雲の上には、美しい花園と、神殿が……
月明かりを浴びていて……
ルイスが噴水に手を浸して、僕を待っている……。
僕は花を手折って束にして、君に手渡す……。
君は、竪琴をつま弾いて歌を歌い……」
ルイスは、目を輝かせてうっとりして聞いている……。
「僕は君にこうして……」
彼の腕に触れ、手を取って、甲にキスする……。
「それから……?」
僕は微笑んで話す。
「それから僕たちは、
噴水の前で……
口づけをする……。
それから、花園の小道で……。
神殿の階段で……。
柱のそばで……。
神殿の廊下で……。
中庭で……。
帳の中で……
口づけをする……。」
ルイスは、お酒に酔ったような表情でほほ笑んで、僕を見つめている。
僕は、彼を両腕で抱き、キスする。
彼は、幸せそうに笑っている。
僕は、ルイスの髪をなでながら、ささやく。
「オリエンタルな、香油の香り……。
薄いカーテン越しの、月明かり……。
燭台の明かりで眺めて愛でる、美しい君……。」
ルイスは……
僕の話は何でも聞きたがるけど……
僕が、ルイスのつらかったことを知ろうとすると、口をつぐむ。
ご両親を良く思っていないのは、はっきり伝わってくるし、
僕の前の恋人のことも何かあるようだけど、話してくれない。
「だって……
ぎりぎりで……
抑えているのを開けちゃったら、
どうなるかわからない……。
怖い……。」
不安にきしんでいるのが、伝わってくる。
「そんなのは、どうだっていいんだ。
アドルフと、こうしていられるんだから、僕はとっても幸せだよ!」
彼は、僕といる間、いやなことを全く忘れているらしい。
彼のつらさを軽くしたい。
トラウマがあるなら、話を聞いて、解消してやりたい。
でも、彼は話す気がないらしい。
いつか……
彼を愛する誰かが、彼を本当に幸福にするだろう……。
……幸せで……
……このままどこかへ…………
……彼と……手をつなぎ……
……幸福な……
……明るい明日へ……
……二人で行けるような……。
ルイスの胸ポケットに指輪を入れてキスした、あの時……、
僕は、ルイスを連れ去りたいと思った……。
連れ去って、
現実から遠く離れた暮らしをしたいと、思った……。
「ルイス。一緒に来てくれる?」
僕が壊れるまで、二人で旅暮らしをしたいと……。
もしも……衝動に任せてそうしてしまっていたら……
こんなに幸福な今は、ない……。
病気のことを隠したまま、ルイスも僕も、不幸になっていただろう。
君は言う。
「ポケットに入れてくれた指輪を見て、思ったんだ。
アドルフは、いらなくなったから僕によこすなんてことは、しない。
だったら、
僕だけに、持っていてもらいたいと思って、くれたんだと思って。」
「そうだよ。
あの時初めて、あの指輪は伊達じゃなくなったんだ。
本物のつもりで、君にプレゼントしたんだ。
でも、あんなにすぐに気づいてくれるとは、思わなかった……。」
ルイスは、ふっと笑う。
「気づくよ!だって、アドルフは表情が語ってたもん!
あの時のキスだって語ってた!
どんなに僕を愛してるか、言葉にならないくらい思ってるって……!」
『アドルフ!
僕と、結婚して!』
「ほら、ネックレスにしてみたよ!」
ルイスは襟を開いて、鎖に通してある指輪を見せた。
細い首にかかって輝いている指輪を見て、
幸せそうな彼の笑顔を見て、
僕は、複雑な気持ちになる……。
「貸してごらん。」
彼は留め金を外して、僕に手渡す。
僕は、彼の左手の薬指に、指輪をはめた……。
ルイスは嬉しそうに、幸せそうに笑う。
「あはは!緩い!」
「緩くていいんだ。そのぐらい自由なほうが。」
君を縛りたくない。
ほんの数カ月しか、そばにいてやれない僕の気持ちを、彼は察する。
「やっぱりこれは、アドルフが持っててよ。
それで、そのうち、本当に本物の、結婚指輪をくれる?」
と、彼は明るく言った。
だから僕も、明るく返す。
「うん。もちろんだよ。ルイス。」
「約束だよ!」
「うん。約束する。」
僕たちは、笑いあう……。
僕たちは、時々そうして、来ることのない未来を約束する。
涙を拭いているルイスに言う。
「ルイス。きっといつか、結婚したいと思う人と巡り合えるよ。
指輪をあげたいと思える人と……。」
「……うん。ありがとう。アドルフ。」
「その時は、僕も祝福するから。」
「うん。約束だよ!」
「約束するよ。」
僕は微笑んで、彼の華奢な左手を、両手で包んだ……。
微笑んでいるルイスの眼が、また潤んでくる。だから僕は言う。
「でも今は、僕が君のパートナーだ。」
彼はくすくす笑った。
これが、僕たちの、ちょうどいい、心地よい関係……。
「僕が病になったのは……
前世の罪のせいでも、
現世で僕が犯した罪のせいでもない……。
君が、元気で、長生きするためになんだ……。」
なんでそう思えるのかわからないけど、
アドルフは、自分の寿命と引き換えに、僕が長生きすると思うらしい。
「病気になるとね、
なぜ自分がこんな目に合うのか、答えが欲しくなるんだ。
納得して、安心したいんだ。」
僕らの日々には、
穏やかで楽しいそばに、
死が控えている。
毎日、幸せで明るくて、
死も、明るいもののように感じられる。
きっと、そうなんだろう。
明るい別れなんだろう。
そう思えて、僕は喉が熱くなる。
涙をこぼす僕を、
アドルフは抱きしめてくれる。
僕は彼に伝える。
「必ずそばにいるから。
見送るから。
最後まで、手を握っているから。」
「アドルフ。見せたいものがあるんだ!」
彼はくすっと笑う。
「なんだろう。」
僕はパソコンをテレビにつないで、動画を再生する。
テレビ画面に、制服姿の僕が映る。
場所は、実家の自分の部屋。
足を投げ出して組んで、ベッドに座って手帳をいじっている。
「これはいつのルイス?」
「中一の時だよ。」
「かわいい。」
アドルフは嬉しそうだ。
中一の僕は、
けだるそうに手帳を置いて、
ブレザーを脱ぐ。
ネクタイもほどく、
シャツをスラックスから引き出して、
ボタンを外し始める。
十二歳の僕は、
自分で自分の肌を
なでていく……。
『……ん……』
アドルフは、恥ずかしそうにこちらを見る。
「……。」
僕はにっこりする。
「よく見て。」
彼は落ち着かなげに、
「……ちょっと止めてもらっていいかな……。」
停止する。
僕はニヤッとして言う。
「アドルフ?見たくないの?」
彼は顔を赤くしている。
「……見たいよ。でも、君の隣では……恥ずかしすぎる……。」
首まで染まっていく。
「これ、三年分あるんだ。
全部見ると、丸一日かかるよ。
僕はその間、アドルフと一緒にいられないの?」
じっと彼を見る。
「……。」
真っ赤なアドルフは、片手で顔を隠して小さく震えている。
かわいい!
「でも、無理はしてほしくないな!」
と、僕は微笑む。
「いいよ!一人で見て!」
「……あの、パソコン借りていいかな……。」
アドルフは寝室へ引っ込んだ。
二十分後。
そっと覗くと、アドルフは幸せそうな表情で、画面を見ていた……。
さらに二十分後。
アドルフからラインが来る。
『ルイス……。』
「今行く!」
僕は、嬉々として寝室へ行く。
「アドルフ!どうしたい!?どうしてほしい!?」
抱きしめられた……。
「小さいルイスも、成長したルイスも、本当に可愛い……!」
「あはは!苦しいよアドルフ!」
僕の全身に、キスの雨を降らせてくれた……。
それから毎日、三、四十分、アドルフは一人で動画を見ていた。
ベッドで、僕の髪をなでているアドルフに訊ねる。
「どの動画が一番好き?」
「全部だよ。どれも美しかった。」
動画は、全部がエッチなわけじゃなくて、普通に過ごしていたり、ポーズの研究に撮ったものだったり、ダンスの練習をしていたり、いろいろ混ざっている。
普段着の僕、
パジャマの僕。
男の娘の僕。
お風呂場の僕。
ソファーの僕。
窓辺の僕……。
まあ、半分はセクシーだけど。
動画をアドルフの手帳に送信した。
「もらっていいの?」
「もちろん!」
「ありがとう。」
うっとりした笑顔でキスしてくれた。
次の日。
パソコンをテレビにつなぐ。
「アドルフ。大きい画面でも見てほしいな。
良いよね?一回見たんだから。」
再生する。
「う……ん……。」
僕は膝抱っこしてもらう。
アドルフと一緒に、お風呂に入るのが好きだ。
シャワーを浴びているアドルフも、
湯につかっているアドルフも、美しい……。
彼は恥ずかしがって、あまり僕を見ない。
「ふふ。もっと僕を見てよ!」
「……。」
「ねえ、なりふり構わず僕を求めてよ。」
体に悪くない程度にってことだけど。
「……ルイス。」
アドルフは僕を見上げ、僕の表面を伝う水滴を眺める……。
彼は、僕のお腹を伝う雫を、舌先で拾う。
うれしい!
「はは!もっと!」
一つ、また一つ。
彼が僕を抱き寄せる。
「あっ、アドルフ……!」
彼の熱い息。彼が、僕を愛でていく……。
僕は彼に抱えられて、一緒に湯船につかる。
「なでて。」
アドルフは、湯の中の僕をやさしくなでてくれる。
「きれいだ……ルイス……。」
唇で耳をなぞられる。
僕はそっと骨盤を揺らす。
アドルフが身じろぎする。
「あ……っ!」
やさしく体を合わせ、キスして愛でる……。
僕は湯から出て、アドルフを眺める。
湯船に浸かっている彼は、幸せそうに目を閉じている。
僕は彼の腕を引っ張る。
「ベッドへ行こう。」
彼は僕を見上げ、幸福そうに微笑む。
「うん……。」
お互いを、タオルで拭いてあげて、髪を乾かしあった。
なんだか懐かしい感じがした……。
肌触りのいいシーツの上で、
二人で笑いながらキスする。
……無理強いはしない。
アドルフが満足なら、それでいい。
彼が、僕の腰に巻いてあるバスタオルを解く……。
僕は……
彼に触れられるたび、燃え上がり……
燃え尽きる……。
横になっていると、
アドルフが毛布を掛けてくれた。彼も横になる。
「ふふ!アドルフ!」
彼の髪をなでる。
「ルイス。」
彼の満ち足りた笑顔がうれしい。
ふたりとも、よく眠れた……。
ルイス。
君が涙をこぼすと、
瞳の夜空色がにじんで
少し、涙に溶け込んで、流れてしまっているように思えるよ。
暗い場所では黒に
日の光のもとでは海の青に見える
君の瞳は、とても美しい。
君に、泣いてほしくはないのだけれど
泣く君の眼は、また特別にきれいで
僕は心が震える……。
その悲しみの、喜びの、海の色のきらめきを見ていると
より一層
僕は君のために、何でもしたくなるんだ……。
「何もない場所へ行きたい。」
アドルフが、そう言った。
「草も、生き物も、ほとんどない場所に……。」
「なんでそんな場所に行きたいの?」
「僕とルイスだけが、生きている感じがすると思うから。
はっきりと、実感できる気がするから。」
「へえ?」
「ルイスは?どこか行きたい場所ある?」
「ぼくは、アドルフの行きたいとこが、行きたい場所だよ。」
「君もちゃんとわがまま言って。」
「はは!じゃあ、普通にデートしたい!
僕、女装すれば、手つないでてもおかしくないんじゃない?大人っぽい格好すれば。
というか、生き物いない場所って、砂漠?後は、塩湖とか、溶岩の島とか、南極のど真ん中とか?」
「そう、割とあこがれてた。子供のころから。
人のいる場所も好きだけど、人のいない、過酷な場所は、とくべつで、あこがれるんだ。
デートは行こう。明日。」
僕は、メイクをして、レディース服を着る。
ゆったりしたセーター。下はミニスカートと、タイツ、ヒールのあるショートブーツ。
長い髪のウイッグをかぶったら、
「それはないほうがいい。」
とアドルフに言われたので、やめた。
「十分女性に見える。」
「ふふ!」
ネイルもしたし、バストもある。
鏡を見てみる。確かに、かつらがなくても、ボーイッシュな感じの大学生くらいの女性に見える。
「よし!いこう!アドルフ!」
彼はくすっと笑う。
「その口調だと男の子だよ!」
「あ、そっか。」
僕は演技する。
「早く行こう?アドルフ!」
買い物して、食事して、アドルフに服を見立ててあげて、
手をつないで歩いて。
すごく幸せで、楽しかった。
デートの時買ってもらった、
真っ白でシンプルなチュニックを、着てみせた。
下はショートパンツ。
この前話してくれた、雲の上の花園と神殿にいる僕をイメージして、選んだ。
サラッとした生地で、少し光に透ける。
アドルフは見とれている。
「……かわいいよ……。」
僕はゆっくりと、一つ一つ丁寧に、ファッションモデルのポージングをして見せる。
アドルフは、夢を見ているような眼をして微笑んでいる。
やっぱりこういうのが好みらしい。
彼は、本当に僕のことが好きで、最高に美しいと思ってくれている。
だから僕は、もっと美しくなれる。やさしくなれる。
僕は、椅子に座っている彼に近づき、彼の首に腕を回して抱える。
微笑んで、やさしくささやく。
「アドルフ……愛してるよ……。」
僕たちは……
キスをする……。
「……少し待ってて。」
と、僕は風呂場へ行く。
服を着たままシャワーを浴びる。
そのまま裸足でアドルフのもとへ行く。
リビングへ戻ると、彼は……
片手で両目を覆っていた。
僕は、水を滴らせて彼に近づく。
「アドルフ。」
「ルイス。風邪ひくから着替えて。」
目を覆ったままこちらを見ない。
「アドルフ。僕を見て。」
あなたが、
病気のことも、先が長くないことも、
何もかも忘れて、僕だけを見てくれるように、
僕だけを欲しがってくれるように、したい。
「……」
彼の顔が赤くなっていく。
息が上がっていく。
目を覆っている彼の手に、そっと触れる。
彼はピクッとする。
僕の
肌に張り付いて、
透けているチュニックから、
水が滴る。
顔も、足も、
しずくが伝っている。
「ルイス。……はあ……着替えてきて……。頼むから……。」
「……。僕は、あなたに何をされてもかまわない。」
アドルフは、しんどそうに言う。
「……溺れるのは、苦しいんだ……。
君に、僕の醜さを見せたくない。
君を襲いたくない。」
ロマンチストは、たがを外せないらしい。
もう数え切れないくらい、僕の裸を見ているくせに、この姿の方が性癖に刺さるみたいだ。
アドルフらしい。
僕はくすっと笑う。
「……わかった。じゃあ、キスして。」
「……。」
彼はようやく顔から手を放し、
薄目を開けて僕を見て、
両手で僕の顔を引き寄せて、
キスしてくれた。
離れると、間近で僕の眼を見たまま赤い顔で、つらそうに言う。
「風邪をひいてしまう……。」
「うん。着替えてくるよ。」
彼はまた目をつぶり、片手で両眼を覆った。深くため息をついている。
「はあ……。」
リビングを出ようとしたら、くしゃみが出た。
彼が小さく吹き出したのが聞こえた。
着替えて廊下に出ると、アドルフが床を拭いていた。
「僕がやるからいいのに!」
彼は僕の肩に触れ、見下ろして言う。
「ルイス。もう水浴びはしないで。」
「……わかった。もうしない。」
僕はちょっと反省した。
濡れた服を洗濯し、ドライヤーで髪を乾かす。
……お互い、体に悪いことはしないようにしよう。
ルイスは、僕の写真を大量に撮っている。
僕は撮影のたびに、ポージングを教わっている。
「次、こうして。右手はポケット。」
鏡写しに、僕はルイスの真似をする。
写真集を何冊も作るのだと言っていた。
ルイスが撮った僕の写真は、プロの作品のようだ。
光と影の分量も、構図も美しい。
自撮り歴は十年だと話していた。
コツを教えてもらったけど、僕にはなかなか難しい。
……僕も時々彼のカメラを借りて、ルイスの写真を撮っている。
「うれしいな、ちゃんと恋人って感じに映ってる!」
彼は嬉しそうに笑う。
僕は、ルイスが撮ってくれた写真を見て感心する。
「ずいぶんかっこよく撮れてるよ。」
「モデルがスタイル良くてかっこいいから、アイデア湧くし、何よりアドルフは目がきれいだから、すごい写りがいいんだよね。」
僕は、将来のルイスを励ましたい気持ちで、レンズを見る。
「次はパジャマ着て。ベッドに横になって。」
「え……。」
あんまり恥ずかしい写真は撮らないでほしいけど……。
「枕抱えて!キュートなアドルフが撮りたいんだ!」
「……ルイスも同じポーズの写真撮っていい?」
「もちろん!」
ルイスはいろんな寝相のポーズをした。
「可愛いよ。」
彼は普段、寝相悪くないけれど。
「じゃあ、わざとしようかな。」
僕はくすっと笑う。
「ベッドが狭いから、はみ出るよ。」
ルイスが、僕のワイシャツを着て、絨毯に寝そべっている。
下はショートパンツで、裸足。
手帳を見たり、クッションを抱えたりしながら、寝そべったまま、いろんなポーズをしている。
どのポーズも、とてもかわいくて綺麗で、色気があって、見とれてしまう。動きも美しい。
次々ポーズしながら、僕と会話している。
彼は、何通りでも、自然とポーズを思いつくらしい。
「アドルフ?」
彼の才能には舌を巻くけれど……
どうしても、むき出しの足に目が行ってしまう。
彼はニコッとして起き上がり、
「僕の足、きれいでしょう。」
後ろ手をつき、足を組んでつま先をあげて伸ばす。
今度は、座ったポーズを次々披露する。
手の位置、足の位置、目線、
しぐさも少年のしぐさをしたり、女の子のしぐさをしたり……。
万華鏡のようだと思う……。
「はあ、疲れた。アドルフ、おやつにしよう!」
彼は、さっき二人で買ってきたドーナツを食べながら、立ちポーズをし始める……。
僕は、自分の死後、
遺品整理業者に、この部屋を片付けてもらう手はずを整えてある。
……そうして空っぽになったこの部屋に……
……ルイスがたたずんでいるのを想像する。
……僕のことも……
……この部屋も……
……近い将来、思い出になる日が来る……
涙がにじむ……。
彼は、僕との思い出を抱いて……
彼らしく生きていくだろう……。
「ルイス。お願いがあるんだ。」
「何、アドルフ……。」
僕は、彼のほっそりとした手を握って言う。
「ルイス。何があっても、自殺しないで。」
「……。」
彼は何か言いかけて、けれど口を閉じる。
僕は彼に話す。
「僕は、何年も、死のうと思ってたことがある。まだ話していなかったね。」
それから微笑んで、
「死ななくてよかった。ルイスとこうして過ごすことができた。」
彼の頬をなでる。
彼は悲しそうに言う。
「過去形はやめてよ!三か月なんて、でたらめだ!アドルフはもっと生きていられる!」
彼は涙をにじませ、僕の掌にキスする。
「そうだね。ありがとう……。」
彼は僕を抱きしめ、背中をつかむ。そうして彼は言う。
「自殺はしないようにする。もう二度と。……しても意味なかったし。」
僕は心が痛くなる。
「したことあるの……?」
「いい。その話はどうでも。」
「ルイス。君のつらさを話して。楽になれると思う。」
「……。……親に、必要とされたかったんだ。それだけ。」
僕は彼の頭をなでる。彼は続けて言う。
「でも、親に放置された寂しさがあったから、今がすごく幸せに感じられるんだろうな。」
「ルイス……。」
凍えるような孤独を、彼も知っている。
僕は、彼を抱きしめる……。
彼を、孤独から守り続けてやれたら……。
でも……
きっと彼はいい出会いに恵まれる。
僕がいなくなっても、真っ暗な孤独に取り残されるわけじゃない。
そう思って、しがみつくように僕を抱きしめている彼を、やさしくなでる……。
「アドルフは……なんで自殺しようと思ったの?」
「なんということもなく。
……少しずつ、無理をしていたのが降り積もって、やめてしまいたいと思った。
自分を。人間を。
親から否定されたこともあったし、
年々、好きになる人と年が離れていったことも、自分を人から遠ざけることになった。
大学で、ゼミの仲間から恋愛対象を聞かれたりしたけど、友人はもちろん、同性愛の人にだって言えない。
未成年の、中学生の男の子と付き合いたいだなんて。
就職してからは、彼女がいるふりをしていたから、そういう話を振ってくる人はいなくなったけど、どう頑張っても、十歳以上年下の子と関係が作れなくて……。
家出の子を泊めたこともあったし……
大人とデートする仕事をしてる子と、何回か会ったり……
幼く見える大学生と付き合ったりも、したけど……
何かしらの理由で、付き合いが続かなかった。
毎回辛かった。
辛くて、消えてしまいたいと、
楽になりたいと、思ってた。」
ルイスは、僕をじっと見上げている。
「アドルフ……。」
僕たちは、心がつながって溶け合っている。
僕は彼に微笑む。
愛しい僕の恋人……。
「ルイス……。
だから、本当に君が大切で……
君は奇跡のように、僕に恋をしてくれたのに、
病気の僕は、君を引き寄せる事なんて、できなかったんだ……。」
「だけど、そもそも僕が積極的に追いかけないとだめだったじゃん?
年が離れてるんだし。
アドルフは優しいから、何度デートしても、僕の手も握れなかった。」
「そうだったね。」
二人でくすくす笑う。
「……僕が、病気になってよかったと思うのはね、執着を手放せたことだよ。
それまではずっと、寂しさを埋めようと、執着してた。
でも、本当に死ぬってわかってからは、少し気持ちが楽になったんだ。
ここから去って、どの人からも、どの集まりからも離れていくことは、不安だけど、心が休まることだった。
そしたら、今までの良かったことが見えてきて、みんなに感謝するようになった。
ステファンにも、感謝してる。
僕を気にかけて、ときどき会いに来てくれるから。
でも……、つらかったことが消えるわけじゃないし、孤独なことに変わりはなくて……。
寂しかった……。
ルイス……。
君には、そんなときに出会ったんだよ……。
君が、そばにいてくれて、
本当にうれしいんだ。
君は、僕にとって、
神様からの贈り物で、何より大切な宝物だよ……。」
「アドルフ……!」
僕は、涙を滲ませている彼の髪をなでた……。
季節が、移り変わっていく……。
三か月が……半分に減った……。
「アドルフ。マフラー巻くから少しかがんで。」
僕は、彼にかっこよくマフラーを巻く。
ヒーターで温めたコートを、さばいてから着せてあげる。手袋を渡す。
「ありがとうルイス。」
今日は公園へ行って、帰りに買い物をする。
僕も手早く支度して、鍵を持つ。
「じゃあ行こう!」
元気に笑って見上げると、彼は、
「うん。」
楽しそうにほほ笑んで、うなずいた。
なるべく日向を歩いて公園へ行く。
気持ちのいい天気だ。
公園についた。
入り口に近いベンチの前で、立ち止まる。
「アドルフ、売店で飲み物を買ってくるよ。何がいい?」
「ミルクティーがいいな。」
「わかった!」
僕は早足で売店へ行く。
店から出たところで、声をかけられた。
「あの、」
見ると、僕と同い年くらいの女の子が二人いた。
「なんでしょう?」
愛想良く口元をあげると、
「あの、写真を撮ってもいいですか。すごい綺麗だから……。」
僕は笑って言う。
「はは!いいけど、これ渡してからでいいですか?」
両手にミルクティーを持っている。
「はい!」
うれしそう。目がキラキラしててかわいい。
僕はアドルフのところへ行く。
「アドルフ。はい。」
ミルクティーを手渡す。
「ありがとう。……その子たちは?」
「僕の写真を撮りたいんだって。ダサい伊達メガネかけてるのに、僕の輝きがわかっちゃうんだね。」
僕はアドルフの耳元で言う。
「調子どう?」
「いいよ。僕は休んでるから、行っといで。」
顔色は悪くない。いつもの笑顔。
「うん。」
僕は女の子の方へ行って言う。
「あっちを背景にするから、この辺に立っててください。」
「あ、はい。」
僕はメガネをはずし、コートのポケットに入れて、あずまやの前に立つ。
石柱にツタが絡まっている。
「じゃあ、撮りまーす。」
僕は、皮手袋の指先を噛む。
シャッター音。
手を引き抜く。
シャッター音。
マフラーの襟元をつかむ。
手袋を両方、コートのポケットに仕舞い、
コートの前を開け、
ズボンのポケットに手を入れる。
連写している女の子たちの表情が、真剣になってくる。
コートのポケットに手を入れて二人を見る。
石柱を片手で抱え、
横を向く。
片脚を前へ。
つま先を見る。
石柱を両手で抱えて、
彼女たちに微笑む。
一歩彼女たちのほうへ。
視線をそらし、
ポケットに片手を入れて、
コートの裾を広げて。
目を閉じ、
風上を向いて顎をあげる。
背を向けて体をひねって
糸くずを取るようなしぐさ。
振り向き、
少し視線をそらして、
微笑む。
「このぐらいでいいですか?」
「ありがとうございます!
すいません!プロの方にこんなお願いして!私写真下手なのに!」
「僕はプロなんかじゃないよ。自撮りが趣味だから、ポージング慣れてるんだ。写真見ていいですか?」
「ごめんなさい、ほんっと下手なんです!」
と言いつつ見せてくれた。
「ちゃんと撮れてますよ。大丈夫。
こうやってトリミングすれば構図は直せるし、こうして加工すれば好きな雰囲気にできるし。」
僕はアドルフのほうを見る。
ベンチに座って、楽しそうにこちらを見ている。大丈夫そうだ。
「二人の写真も何枚か撮りましょうか?」
一人ずつ、簡単なポーズをしてもらい、写真を撮った。二人のも撮った。
すごく感謝された。
「お礼がしたいです!何か食べたいものとかありますか?」
「ありがとう。じゃあ、何かスナック菓子。」
二人は売店へ行った。
僕はアドルフのところへ戻る。
「かわいい子たちだね。」
と、アドルフが笑う。
「うん。」
僕は隣へ座って、ぬるくなったミルクティーを飲む。
アドルフが、何かに気づいたように、前かがみになる。
「……ルイス。ごめん、帰ってもいいかな……。」
「!」
僕はミルクティーをベンチにおいて、彼の腕を抱える。
「立てる?」
「うん……。タクシー拾おう。」
歩き始める。
アドルフの顔が白い。不安そう。
「救急に電話するね。」
手帳で電話した。
大通りへ出た。
アドルフは、
歩道に座り込んでしまった。
僕に寄り掛かって、
ぐったりして目をつぶる。
「アドルフ!もうすぐ来てくれるから、頑張って……!」
必死に不安を押しやって、
彼の肩を抱く……。
目覚めると……
病院のベッドだった。
すぐ近くの椅子に、ルイスが座っている。こちらに気が付いた。
「アドルフ!」
病院は暖かくて、彼はセーターを脱いでTシャツになっている。
ホッとした顔をしている。
僕は微笑む。
「ルイス……。」
「よかった……!」
彼も嬉しそうにほほ笑む。僕は彼に言う。
「ルイス。謝らないで。自分を責めないで。」
「……アドルフも、自分のせいとか思わないで。」
とやさしくほほ笑んだ。
「うん……。」
ルイスは本当にやさしい子だ……。
「……そうだ、飲み物買っておいで。」
彼は笑う。
「ベンチに置いてきちゃったもんね!スナック菓子も買ってこようかな。
女の子たちが、お礼に何か買ってくるって言ったから、スナック菓子を頼んだんだ。
安いからと思って頼んだけど、なんか、無性に食べたくなってきた!」
僕はふっと笑う。いつものルイスだ。
「うん。買っておいで。」
「うん。……あとで先生が説明にくるってさ。」
「そう。」
「気分どう?」
「だるい。」
たぶん、今日から入院と言われるだろう。僕はルイスに言う。
「おいで。」
彼は、僕のそばに両肘をつく。
点滴のつながっていないほうの手を挙げ、彼の頭をなでる。
彼は、嬉しそうににっこりする。
「ルイス、ありがとう。」
気を失いそうな僕と一緒に救急車に乗り、ここへ来て、僕が目覚めるまで、さぞかし怖くて不安だっただろう。
涙がにじむ。
「ふふ。アドルフは涙もろいな!」
彼は、僕の涙をやさしく食べた。それから、
「目が覚めたって、伝えてくるね。」
と、ナースステーションへ軽やかに歩いて行った。
担当医が来て、入院だと言われた。
明日は、ルイスに荷物を取ってきてもらわなくては。
ルイスは、女の子とも付き合ったことがあるらしい。
「昨日の子たちだと、ルイスはどっちが好みなの?」
「うーん、どうかな。どっちも可愛かった。仲良しな感じが。」
「そうだね。きっとあの二人は、一生仲良しだろうね。」
……僕は、女の人をかわいいと思えるし、話す分には抵抗ないんだけど、好意を寄せられるのは苦手だし、付き合うのは無理だ。
成人男性は、いやではないけれど、しっくりこない。
「ルイスは、恋愛対象が広くてうらやましいな。」
「広いけどさ、そうそう出会いはないよ。」
彼はベッドに頬づえをついて、僕の腕を大切そうになでている。
「人間はさ、たっくさんいるけど、こうしてアドルフと出会えたっていうのは、ほんと奇跡だと思うよ!」
と、彼は目を輝かせて笑う。
「僕もそう思う。あの時、あのバス停で、君に話しかけてよかった。」
あれからの日々を思いかえす。
ルイスは嬉しそうに笑った。
「ほんと、話しかけてくれてありがとう!」
それから
「ねえ、アドルフ。もう一度……プロポーズ、してもいい……?」
「ルイス……。ずっと考えていたよ……。」
「アドルフ……。」
僕は起き上がる。ルイスが背中を支えてくれる。
「君にとって、今も将来も、一番いい形の関係でいたいと思ってる。
君のために、何でもしたい。
君の幸せは、僕の幸せだ。
そう思うし、それに僕は……、」
彼は、じっと僕を見つめている。
「僕も、ルイスと一緒になりたい。
ルイス、僕と、結婚してください。」
「……アドルフ……!」
ルイスは目を潤ませ、
幸福そうに僕に抱き着いた……。
僕も、泣いている彼を両手で抱きしめる……。
点滴スタンドが引っ張られて、ベッドにぶつかった。
アドルフの手帳が振動する。電話だ。
僕は画面を見る。
「ステファンからだ!」
「貸して。」
僕は、手帳をベッドのテーブルの上に立てる。
アドルフは通話する。
「ステファン。」
「アドルフ?なんだ?そこ、病院?」
「そうだよ。入院してるんだ。」
ステファンは心配そうに言う。
「え……なんで?事故ったのか?病気か?」
「……電話ありがとう。」
ステファンはため息をつく。
「はあ……引っ越し先を教えろよ。退院したら会いに行ってやるから。
てか、なんで入院してんだ?どこの病院?」
「ステファン。僕の引っ越し先はここだよ。西部総合病院。
ここが、僕の終の棲家なんだ。」
「は……?」
「ステファン。
最後に、もう一度君に会いたい。
君に、伝えたいことがある。
来てくれるね?
面会時間は十四時から、十……」
電話が切れた。
一時間後。アドルフの病室のドアが、勢い良く開いた。
ステファンだ。
ずかずかとやってくるなり、紙切れを僕によこした。
彼の名前と、何か番号が書いてある。
顎でアドルフを示し、
「こいつの金をここに入れろ。」
ステファンの銀行口座らしい。アドルフは僕を見て
「ルイス。彼の言う通りに。」
僕はうなずいて部屋を出た。
ルイスが退室すると、
眉間にしわを寄せたステファンが言った。
「あんたが死んだら、せいせいするぜ。」
「君は、いつでも僕を殺せたのに。恨んでるなら、ナイフで刺せばいい。」
「……殺してほしいのか?一瞬で死なせてやるぜ。アドルフ……。」
彼はナイフを抜く。目に涙が溜まっている。
僕はゆっくりとベッドから降り、彼に近づく。
「ステフ……。」
彼は、ナイフを低く腰の横で構えたまま。
僕は彼の眼を見たまま、近づいていく。
「ステファン。
君を愛してる。
そばにいてほしい。」
僕は彼を抱きしめる。
「ずっと、君を引き止めたかった……。」
「……。」
ナイフが床に落ちる。
「君は、僕の言うことをいつも信じなかったけど、
僕は、君に嘘をついたことはない。
戻ってきてほしいと何度言っても、君ははねのけた。
それほどまで、君を傷つけてしまったこと、
期待を裏切ったこと、
本当に申し訳なく思ってる…。
君は、やさしい人だ。
最初から、僕はステファンのやさしさが、大好きだった。」
「……。」
「どうか……そばにいてほしい……。」
僕は貧血になる。
腰にナイフが当たって切れたから。
ステファンが……
力が抜けていく僕を、抱えた……。
僕が戻ると、アドルフが看護師さんに腸骨の上を縫われていた。
ステファンは、ソファーに座って向こうを向いている。
「ルイス……。」
白い顔のアドルフが、僕に微笑む。だから、僕も微笑む。
「アドルフ。マフィン買ってきたよ。」
「ありがとう。」
僕は振り向いて、
「ステファン。……って、呼んでいい?いいよね。
ステファンの分もあるから。」
看護師さんが部屋を出てから、僕は言う。
「アドルフ……その位置のけがは歩けないね。トイレ行けないじゃん。」
アドルフは少し笑って、痛そうに顔をしかめる。
「車いすを借りて、ステフに何とかしてもらうよ。ステファン?お願いできる?」
ステファンは鼻で深いため息をつく……。
僕はくすくす笑ってから、大笑いする。
「あはははは!」
ついこのあいだまで、
アドルフにナイフを突きつけてカツアゲしてたステファンが、
彼の介護をする……!
何があったか知らないけど、アドルフを切ったのを、子供みたいに反省してる!
「あはははは!」
ステファンは何かぶつぶつ言ってるけど、
「聞こえなーい!」
後は彼に任せて、僕は帰った。
ルイスが帰ると、ステファンが言った。
「アドルフ……。あのガキと別れろ……!」
イラついた様子。
「ステファン……。そばに来て……。」
「……。」
彼はソファーから立ち上がり、
さっきまでルイスが座っていた、ベッド近くの椅子に、ドサッと座る。
「もっと近くに。点滴が外れると看護師が来ちゃうんだ。」
彼に手を伸ばす。
彼は前かがみになる。
「もっと。」
「……。」
彼は立ち上がり、ベッドに片膝と両手をついて、僕に覆いかぶさる。
「そう。」
僕は彼の顔に触れる。
「ステファン……。好きだよ。
君が、僕の手帳を拾って絡んできたときから。」
十四歳の彼は、僕が落とした手帳を拾ってこう言った。
『タダじゃねえ。』
食事をおごって、会話して、僕が独り身だとわかると、
『今日泊めてくんねえ?』
空き部屋に、彼を泊めた。彼は僕の手をつかんで言った。
『手を出してもいいんだぜ。』
『出さないよ。』
それ以来、彼はたびたびメールしてきて、僕の部屋へ泊った。
僕に覆いかぶさっている彼に言う。
「ステフ。
……ステファン。僕の眼を見て。」
彼は、ゆっくりと僕と目を合わせる。
「ステファン。愛してる。」
温かな涙が降ってくる……。
見つめ合い……
僕たちは……
長い……
キスをする……。
ステファンが……
苦しそうに、
泣き始める……。
僕は、ステファンの髪をなでて言う。
「傷が治ったら、二人で出かけよう。」
彼は顔をあげる。
目元が赤い。
「アドルフ……。死ぬな!」
「うん。死ねないよ。君を放っておけない。」
やさしく頬をなでる。
彼は……
その手に顔を押し付けて
幸せそうに、泣く……。
僕が、アドルフの家のリビングで自撮りしていると、手帳が鳴った。
アドルフだ。
「ステフが帰ったよ。」
「調子どう?」
「安定してるよ。彼が介護してくれた。」
「よかった。僕はこれから夕食だよ。」
冷凍の弁当をストックしてある。割と美味しいやつ。
僕とアドルフは、離れている間、手帳を通話のままにしている。
お風呂も、寝ている時も、傍らに置いて。
アドルフのいない部屋に
僕一人でいるのは、
寂しくて……。
「ステフ。
僕のこれは、この病気は、
君とルイスの悪運を、全部引き受けたものなんだ。
だから、ステフ、
この先は何も恐れず、
思うがままに生きて行って。」
彼の手に手を重ねて言うと、彼は、
「俺の運は俺のものだ。あんたの病気とは関係ねえ。
どうしてもこじつけてえんなら、あんたの親か神様か、医学のせいにしたら。」
それが、彼のやさしさだ。
彼は、それらに腹を立てている。
「ガキだった俺は、アドルフのそういう浮世離れした善良さに、ひかれたんだ。
人から褒められたことなんてなかったから、アドルフに喜んでもらえると嬉しかったし、愛されてるって信じられたんだ。
声変わりを寂しく思ってるのを知って、ショックだったけど……
今の中学生とか、ルイスを見てると、あんたの気持ちもわかる気がする……。」
僕は微笑んで、彼の髪に触れる。
「変化に……気持ちが揺れてしまったのは確かだけど、
君が好きなことに変わりないんだ……。
君は美しいよ……。
僕には、君がとても美しく見える。
神々しいくらいに。
今の低い声も好きだ。
僕は、ステフの嫌いなところなんて、ひとつもないよ……。」
「相当病気だな。一つぐらいあるだろう。」
「今のところ、ないよ。君の全部が好きだ。」
彼は目をそらす。
「……俺も……。」
彼はかがみこんで、やさしくキスしてくれた……。
僕は、アドルフのところへ行く前、近くの駅に立ち寄る。
その駅には、古いアップライトピアノが一台置いてある。
僕は手帳で録画を始める
画面に微笑み、手袋を外して椅子に座る。
演奏を、始める……。
レパートリーの中から三曲ほど選んで弾く。
僕は、曲に人の人生を重ねる……。
美しい人……。
人の気持ち……。
過去に感動した心から紡ぐから、
音が輝き、ピアノが歌う……。
四十分ほど弾いて立ち上がると、聞いてくれていた人たちが拍手してくれる。
僕はお礼を言って微笑んでお辞儀し、手帳にも手を振って録画を止める。
面会の始まる十四時に、アドルフの個室へ入る。
僕はにっこりして言う。
「アドルフ!どう?調子は。」
「いいよ。痛くなくなったから、そろそろ動かないと。」
と、傷口に手を当てる。
「歩いて体力減らないようにしないと。手伝ってくれる?」
「もちろん!」
僕はコートとセーターを脱ぎ、手櫛で髪を整えながら、
「何をしたらいい?」
「靴下と靴を履かせて。」
アドルフはゆっくりと歩いた。
「ひねらなければ痛くないよ。」
点滴も外れてる。アドルフが少し子供っぽく言う。
「家に帰りたいな。ここは壁が白すぎる。病人だらけだし。」
僕は苦笑する。
「そうだね。ハーブティー入れてきたから、後で飲もう!」
「ありがとう。」
長い廊下を行ったり来たりする。アドルフが言う。
「ステファンが、君にお礼を言ってたよ。」
僕は驚く。
「へえ?なんの?」
「ただ伝えといてって。」
「ふふ……!」
結構、律儀なヤツなのかもしれない。
何のお礼かは、想像つく。
アドルフが、僕のおかげで変わったからだ……。
「ステファンってさ、役者とか、アーティストに向いてそう。」
「ああ、そうかもね。ルイスは?何の職業に興味ある?」
「研究職かな。医学も興味ある。そっち系の研究がしたいかな。」
「そっか。白衣だね。」
「そうだね。カッコイイスーツと制服もあこがれるけどね。」
「楽しみだな。」
アドルフは、かがんで僕の頬にキスしようとして
「いた!」
傷跡を抑える。
「気を付けて!」
背中をさする。
「うん……。」
「……アドルフ。部屋に戻ったらお風呂入ろう。切られてから入ってないでしょ。」
「うん……。」
僕はにっこりして言う。
「洗ってあげるから、アドルフは僕を洗って。」
アドルフがお風呂で倒れたとき、僕も裸じゃまずいから、やっぱり僕は、服を着たまま彼の髪を洗う。
シャワーで洗い流し、スポンジで体を洗う。
アドルフ、少しやせた……。
よく洗い流した後、タオルで拭いて、新しい寝間着を着せた。
「ありがとう。さっぱりしたよ。」
顔色がいい。
手際よくこなしたけど……
もう無理だ……!
「アドルフ!」
僕は、湯上りの彼に抱き着く。
「おい!起きろ!ひっついてんじゃねえ!」
ステファンの声に、目が覚める。
僕も、アドルフのベッドで昼寝している。
もうステファンと交代の時間か……。
ステファンに腕をつかまれる。
「きゃあ!触んないで!」
僕は女の子のふりをする。
「乱暴な人、嫌い!」
アドルフの腕に抱き着く。
「こいつ……!」
ステファンは、僕の胴を両手でつかんで、乱暴に引きはがそうとする。
「いや!痛い!やめて!セクハラ!変態!最低!暴力ヤロー!」
ステファンのあごを殴る。
「喧嘩はやめてね。」
と、アドルフが真顔で止める。
僕はおとなしくベッドから降りる。荷物を持って、
「じゃあまたね!アドルフ!」
笑顔で彼に手を振り、ステファンにしかめっ面で舌を出して見せてから退室する。
僕は……
僕のベッドに腰掛けたステファンを……
背後から抱きしめて……
襟ぐりから……
裾から……
手を入れて……
彼の肌を両手でなでる……。
「……あ……」
ズボンの前たてを開いて……
腰回りも……。
彼は……
苦しそうに……
嬉しそうに……
僕の寝間着の袖を握りしめる……。
「はあ……あっ……!……アドルフ……!」
僕とアドルフは
暗くて静かな景色の場所に
立っている。
遠くに
緩やかな谷を渡って
白く、青く、
いくつもの明かりがともっている。
炎のように見えるそれらは
美しいけれど、
物寂しい……。
すぐ隣にいるアドルフは、
僕を見ている。
もうすぐ
別れなければならない。
アドルフは
あっちへ行かなければならない。
……あんな火のようになってしまっては
僕はアドルフに触れない……。
抱きしめたくても、そうできない……。
僕は彼の腕をつかむ。
どうしたら
引き止められるだろう。
どうしたら
一緒にいられるだろう。
アドルフは微笑んでいる。
幸福そうに。
寂しそうに。
彼も、僕と一緒にいたい……。
暗く青い、夏の夜のような空気の中、
僕たちはたたずみ続ける……。
僕は
できる限りのことをしようと思う。
でもきっと
足りない……。
それでも僕たちは
心地よいことが一番大切で……
会えばうれしくて、楽しい。
だけど……
こんな寂しい夢を見てしまう……。
僕は
サイドテーブルに立ててある手帳の画面を見る。
病院のベッドで眠っているアドルフが
息をしていることを確認して……
彼が起きるまで眺めている……。
「おはよう。アドルフ。」
「おはようルイス。」
彼の声。彼の笑顔。
寂しい悲しい夢なんて、忘れてしまえ。
俺に、ファストフードをおごってくれてるやつが言う。
「何年生?」
俺が手帳を拾ったから、無理やりお礼をしてもらっている。
三十歳くらいの、サラリーマンっぽい人。
俺は、昨日からほとんど食ってなくて、ほおばって答える。
「中学三年。」
「そう。受験生だね。」
「俺は受験しねえ。家が貧乏だから。すぐ就職する。」
中卒は珍しい。でも、しょうがねえ。
「そう……。」
「でも、やっと家を出られる。」
八つ当たりの暴力が日常の家なんて、もう二度と帰りたくねえ。
「……。家にいたくないなら、うちに遊びに来る?」
「え?」
「僕はマンションに独り暮らしで、土日なら大抵いるから、
もしどうしても家にいたくないなら来ていいよ。」
「……あんた、ゲイの人だよな。」
「……。」
「俺もたぶんそうなんだけど。」
「……。」
「今日泊めてくんねえ?」
「いいよ。」
彼はアドルフ。
やさしいし、一緒にいて心地がいい。
彼の家も気に入った。
中学生に、遊びに来る?なんて、すんなり言うやつだから、もう何度も俺みたいなやつを泊めてるんだろう。
夕食を作ってくれて、一緒に食った。
アドルフは楽しそうで、俺のことを好きだってことが伝わってきた。
「じゃあ、お休み。」
空き部屋に、マットレスと毛布を用意してくれた。俺は、
「手を出してもいいんだぜ。今日のお礼をしたい。」
と、アドルフの手をつかむ。
「俺がタチでもいいし。」
アドルフはネコっぽい雰囲気ある。
彼は軽くため息をついて、やさしい目をして口元をあげた。
「君は手帳を拾ってくれた恩人だ。そういう悲しくなる事言わないでいいんだよ。
ゆっくり休んで。お休み。」
アドルフは寝室へ行く。
ドアの内側から、鍵がかかる音がした。
「そういう人だから誘ったんだぜ……。」
俺は、人んちなのに、よく眠れた。
次の土曜日も、彼の家へ行った。
「アドルフは、今までどんな奴を好きになったんだ?」
「……中学の同級生とか、先輩とか。
……それからずっと、大人になっても、好きになるのは中学生ばかりで……
でも、僕と付き合ってくれる子なんてそうそういないし、そもそも出会いもない……。」
「じゃあ、俺と付き合ってくれる?」
「……。」
OKしてくれると思った。
「ありがとう。いいの?」
喜んでそう言ってくれると思った。
けれど……
アドルフは目を伏せて
「うん、そうだね……。」
半分ここにいないみたいに、不安そうに、そう言った。
「……まあいいや。今日も泊めてくれる?」
「もちろん。」
やさしい笑顔。
まだよく知らない俺と、そんなすぐ付き合う気には、なれないのかもしれない。
けれど。
しばらくして、お互い知ってることが増えても、アドルフはそんな調子だった。
明らかに俺が好きなのに、快諾してくれねえ。
「俺は、アドルフを裏切ったりしねえ。」
「うん。ありがとう。」
「俺はあんたを捨てたりしねえし、何でも言うこと聞くから。」
「……。」
「どうして……?どうして黙るわけ?」
「……。」
愛されたい、愛したいと思うと、彼は毎回閉じてしまって、知りたいことを教えてくれない。
招き入れてくれても、途中で壁があって、その先は入れてもらえない。
アドルフは、自分で自分を孤独にしているように思えた。
椅子に座ってハーブティーを飲んでいるアドルフに近づいて、肩に触れた。
彼の顔に、顔を近づけて言う。
「アドルフ。キスしていい?」
「……ステファン……。……。」
「黙るなよ。いいよな?」
「……。」
「したいのに、罪悪感が邪魔してんのか?難儀な奴。
中学生が好きなくせに、良心が邪魔してて、未成年とは付き合えねえんだ?」
「……。」
「俺はあんたにとって、なんなわけ?」
「大切な人だよ。」
「じゃあ、心を閉じないで、俺を信じて受け入れてよ。」
「……。」
彼はうつむく。
「逃げんなよ。」
「……。」
「……。俺、まだここにいていい?」
「もちろん。」
俺は彼にキスした。
彼はビクッとして、恥ずかしそうに、傷ついたように、顔をそむけた……。
アドルフは、俺の欲しいものを何でも買ってくれた。
俺が喜ぶと、彼もうれしそうだった。
「アドルフ。好きだぜ。」
「うん。僕もステファンが好きだよ。」
愛しそうに俺を見るまなざし……。
「好きなら、もうちょっと恋人らしいことしてほしいんだけど。」
「……。」
温かくても、受け入れてくれない……。
だんだん……
哀しくなってきて、涙が出てきた。
「あんたさ……
今までもずっとそんなで……
俺を受け入れてくれねえんだったら、
これから先もそのままだからな……!
俺を好きなら、抱きしめてほしい!
少しの間、ハグしてくれるだけでいいから!
俺を……俺の心を受け止めてほしい……!」
アドルフは、心を動かされた目をして、近づいてきた。
髪をやさしくなで、
肩に触れ、
両手で抱いて、
そっとハグしてくれた……。
離れると、
頬に触れて、
かがんでキスしてくれた……。
うれしかったけど……
それでも、壁はまだあって、
受け止めてもらえない……。
本当に、
何と言ったら、何をしたら、
彼は、自分のことも、俺のことも
見るようになるんだろう……。
ハグして、と言えばしてくれるようになったし、キスもしてくれる。
俺がハグしても拒まない。
鍵の閉まった彼の寝室へ、窓から入って添い寝したら、一緒に寝かせてくれるようにもなった。
こうして、そばにいさせてくれるんだったら、
少しずつ、何かが良いほうへ変わっていって、
壁の向こうへ通してもらえるチャンスが、巡ってくるかもしれない。
いつになるかわからねえけど、それを待とう。
「これ、声変わりみたいだ。」
風邪かと思ったけど、ずっと喉がこの調子のわりに、体調は問題ない。
「うん。……ステファン、急に背が伸びたしね、そうだと……思った……。」
アドルフは、俺を見ない。
「アドルフ?」
何かいつもと違うと気づいた。
何かに動揺して、悲しんでいる。
「アドルフ?俺を見て。」
両腕をつかむ。彼は俺を見ない。
俺は彼をじっと見ながら言う。
「……俺が、声変わりするのが嫌なのか……?」
「……。」
辛そうに目を細める。
「俺が……
背が伸びて……子供に見えなくなって、
声が低くなったら、アドルフは悲しいんだ……?」
一瞬、俺の眼を見た。
なぜ、アドルフが孤独で、心を閉じているのか、わかった。
そして、
もうあの優しい、いとおしむまなざしで俺を見てくれないこと、
これからはずっと、
悲しみのこもった目で見られ続けるのだということも……
わかってしまった……。
アドルフは……
俺を見るたび……声を聞くたび……
自分のセクシャリティに傷つく……。
「アドルフ。俺、帰るよ。」
「……そう……。僕のせいだね。わかってたよ。」
アドルフは、俺の眼を見て口元をあげる。
「ステファンは、本当にやさしい。」
辛そうに微笑む彼は、
俺には温かくても、
心に氷の剣が突き刺さっている。
俺がいると、
傷はますます広がり、深くなる……。
「またいつでもおいで。」
俺だって傷ついてるし、腹が煮えてしょうがねえ。
変われねえアドルフにも、
変えられなかった俺にも、
離れなきゃならなくなった、
全てに怒っていて、
憎い。
そして……
悲しい……。
一月後。
アドルフの家のチャイムを鳴らす。
ドアを開けたアドルフに、俺は言った。
「ほしいものがあるんだけど。金貸してくんねえ?」
もう、彼のことを何とも思っていないふりをして。
何度目だろう。
アドルフの家に行くと、中学生らしき小柄な少年がいた。
俺は、いつも通り部屋に上がり込んでアドルフに言う。
「金貸してよ。」
彼が取りに行っている間、俺はガキに小声で言った。
「あいつは優しそうに見えるけど、声変わり前の子供しか抱けねえヤバイやつなんだぜ。」
家出少年なのだろう彼は、手元のリュックを持ってまっすぐに部屋を出て行った。
戻ってきたアドルフが、動揺して言った。
「あ……ステファン……本当に心から悪いと思ってるよ……。」
アドルフは、俺がアドルフを憎んで恨んでいると、思ってる。
「ああ、だからこれは口止め料だよ。」
金を受け取った。
「ステファン、戻ってきてほしい。」
自分のセクシャリティを、必死に押さえつけている。
毎回そう言うけど、一緒にいても、アドルフが消耗するし、俺も悲しくなるから嫌だ……。
俺は無言で外へ出た。
帰りは、泣けてしょうがなかった。
少年に恋をして
成長すると悲しむ。
傷が増えていく。
孤独が深まっていく。
アドルフ……!
どれだけ繰り返せば、気が済むんだ……!
それから三年後。
アドルフの家へ行くと、物がずいぶん減っていた。
「何?引っ越しでもすんの?」
彼は黙っている。
「じゃあ、いつもより多くもらおうかな。」
すると、アドルフの寝室からガキが飛び出してきた。
金髪の、やたら顔の綺麗なそいつは、燃えるような眼をして、
「出てけ!」
精一杯、俺を威嚇した。だから、彼にも言ってやった。
「このオッサンはな、声変わり前のガキしか愛せねえ、ヤバイやつなんだよ!」
少し目が見開かれ、一瞬動揺したようだけど、すぐにまた俺をまっすぐににらむ。
ああ、そうか。と思った。
そうか、アドルフを変えるのは、こいつなんだ。
こいつには、俺にない強さがある。
アドルフが、こいつのそばにいて、変わらねえはずがねえ……。
「ルイス。そこの引き出しに入ってるから、全部渡して。」
ルイスが持ってきた金を受け取り、俺は立ち去った。
ルイスは最後まで、貫くように、まっすぐに俺をにらんでいた。
アドルフのすべてを肯定して守る、
守り神のように……番犬のように……。
「……よかった。よかったな。アドルフ。」
俺はうれしかった。
もう俺は、心配しなくていいんだ……。
あいつがいれば、アドルフは、幸せだ……。
それでも、アドルフの家へ足が向く。
日曜に家を訪ねても誰もいねえから、アドルフに電話した。
彼は入院していた。
「ステファン。
最後に、もう一度君に会いたい。
君に、伝えたいことがある。」
俺は病院名だけ聞いて、通話を切った。
……最後って……
……最後ってなんだよ……!
ロマンチストも、大概にしろ!
俺は怒りに震えた。
アドルフを……
病気なんかに殺されるんなら
俺がこの手で殺してやる……
俺の口座番号をルイスに渡して、出て行かせた。
俺はアドルフをじっと見て言う。
「あんたが死んだらせいせいするぜ。」
「君は、いつでも僕を殺せたのに。恨んでるなら、ナイフで刺せばいい。」
「……殺してほしいのか?一瞬で死なせてやるぜ。アドルフ……。」
俺はナイフを抜く。
本当にそうできたら、と思った。
アドルフはゆっくりとベッドから降り、俺に近づく。
「ステフ……。」
俺は、ナイフを低く腰の横で構えたまま。
彼は俺の眼を見たまま、近づいてくる。
アドルフから、
自分のセクシャリティを必死に押しやる、あの感じが、
全く消えている。
変声前のあの頃の俺を見ていた
同じ瞳で
いとおしそうに、
やさしい微笑みで、
俺の大好きな微笑みで、
俺を見つめて、
「ステファン。君を愛してる。そばにいてほしい。」
アドルフが、俺を抱きしめた。
「ずっと、君を引き止めたかった……。」
両腕で、しっかりと抱きしめられる。
「……。」
俺は、ナイフを持っていることを忘れている。
ナイフは手から滑り落ち、床に。
「君は僕の言うことをいつも信じなかったけど、
僕は君に嘘をついたことはない。
戻ってきてほしいと何度言っても、君ははねのけた。
それほどまで君を傷つけてしまったこと、
期待を裏切ったこと、
本当に申し訳なく思ってる…。
君は、やさしい人だ。
最初から、僕はステファンのやさしさが好きだった。」
水滴が波紋を作るように、
アドルフの言葉の一つ一つが、
愛が……
俺の心に広がっていく……。
「……。」
「どうか……そばにいてほしい……。」
アドルフは貧血になる。
腰にナイフが当たって切れたから。
俺は、泣きそうなのを必死にこらえながら、
もうほとんど、身長も体格も差のないアドルフを……
抱き留めた……。
腰を縫われてベッドに横たわっている彼に、覆いかぶさって、ひとしきり泣いた後、顔をあげて俺は言う。
「アドルフ。
俺はあんたを憎んでなんかいなかった。
俺がそばにいると、あんたは自分で自分の心を傷つける。
それを俺は止められねえし、見てらんねえから、出て行ったんだ。
そりゃ、成長してほしくないと思われてることは、ショックで嫌だったけど、
あんたが憎かったんじゃなくて、
それを変えらんねえ、俺自身が憎かったんだ……。
ルイスが、あんたになんて言ったのか知らねえけど、
あんたが……孤独じゃなくなって、ほんと良かった……。
また明日も早引きして見舞いに来てやるよ。」
俺が微笑むと、
アドルフは涙を流した。
「ステファン……わかってたよ……。
僕も、変わりたくても変われない自分が、
君を引き止められない自分が、嫌だった……。
もう、僕のことは忘れてほしいと思っていたけど、
会いに来てくれるたび、うれしかった。
だから、戻って来てと、毎回言わずにはいられなかったんだ……。」
いとおしそうに微笑んで、俺に片手を伸ばし、頬をなでてくれた。
「ステファン。心から、愛してる……。ありがとう……。」
「俺も愛してるよ。五年前から、ずっと……。」
俺はかがんでキスした……。
「アドルフ、怪我させてごめん……響くからもう泣くなよ。」
「うん……」
アドルフは幸せそうに微笑んで、
俺の手を握ったまま、離さなかった。
アドルフは……
医者に見放され……
適応年齢を過ぎているから、
コールドスリープもできず……
命の燃料も残り少ない……。
俺は今まで
アドルフほど大切に思える人はいなかった。
すれ違ってしまったせいで、
ずっと、彼のことを考えると苦しかった。
ようやく彼が、大切な人と出会って、幸せになれたのに、
病気だと知って、俺は運命をひどく憎んだけど、
ようやく
こうしてお互い、心が通じるようになったのは、
もしかしたら、
病気になったからなのかもしれないと、思えてしまう……。
だからもう、
俺は、
何も、誰も、病さえ、
憎まないことにした。
穏やかで、幸せで、
アドルフのまなざしに包まれて……。
俺にできることは、
この一瞬一瞬を、
大切にすること……。