閑話:末期に君を想う
美しいものを見た。
それは生涯忘れがたいものだ。
しかしながら、人間の記憶は薄れやすい。
年を取ったいま、いまや記憶すらおぼろげになっているが、この時ばかりは過去を辿るために目を閉じる。
「ふん。なかなか難しいな」
なにせ過去を振り返る暇などない人生だ。
ミノアニアを平定し、隣国を手中に収め、さらに他の国を手に入れたとあらば毎日が政だから、子の顔すらろくに見てこなかった。
まあ、そのツケが回って実子に反旗を翻された挙げ句、こうして追い詰められているのだが……。
腹心も殆ど死んだから後はない。
最期は一応王らしくしてやろうと、傷ついた体で玉座に座っているのが現在だ。
いまも彼に付き従う者達が最後の抵抗をしているが、聞こえてくる喧噪の距離的に、間もなく首を落とされるだろう。
敵は、かつて青春を共にした仲間との間にできた子のため、それなりに思い入れがある。目をかけていたつもりだったが、不意打ちで受けた傷の酷さからしても、やはり母を殺した恨みは深かったようだ。
テミスは息をついた。
「やれやれ、傷が治らん。とあらば、我が天命はここまでか」
テミスは戦神ロアフェノの加護を受けた、類い希なる存在だ。
その身に宿す人智を超えた力が人々を恐れさせ、あらゆる脅威を弾いた。たとえ致命傷であろうと一日で治ったものだが、今回は無駄だろうという感覚がある。
であれば、とうとう神々はミノアニアのテミス王を見放したのだろう。
「ああ、であれば、ミノアニアは滅びるな」
ひとり言が多くなったのはいつからだったか。
なにせ彼はこの世界に置いて唯一無二の王だ。その身に宿す絶大な力と、分かち合うもののいない孤独と、一人で人の世を支えたという責務が自身との対話を深めた。
テミスは視界がぼやけるのを感じながら思う。
ここまでか、と。
テミス王がミノアニアの威光を知らしめていられたのは、神の加護あってこそのもの。
息子がその恩恵を授かった様子はないし、広大な土地を統治できる器でもない。これまで恨みの芽は潰してきたつもりだが、完全に上手くいったわけでもないだろう。
つまり、テミス王が没したあとは諸侯なりが蜂起して、国の規模は小さくなる。下手を打てばミノアニアという国自体なくなるはずだ。
せっかく国を大きくして、樹木のように大事に手入れしてきたつもりだが、こちらの心が伝わるとは限らないらしい。
中々に堪える……と思ったが、すぐに短い嘆息を吐いた。
否、それ自体は最初の王妃と側妃が裏切ったことで実感している。おまけに愛妾は胸に剣を突き刺して自殺したし、誰より自分を理解してくれていたはずの腹心は首を吊った。
まったく思い出すのも嫌な記憶ばかりだ。
楽しかった頃の記憶と言えば……ふと、巫女から側妃にした女の姿を思い出す。
そうだ。ケルテラはレアとの間に生まれた子供を抱きながら、あやすように体を揺らしていた。彼女は嫌みったらしく口を歪めて笑うのだ。
「貴方も大概になさいませ。政にかまけて夫の役割を怠るから、レアも怒るのですぞ?」
「わかっている。だが、生まれる頃には隣国にいたんだ。そこから駆けつけるなんて到底無理だろう」
「それも、出立前から妾やリンヴェ様がお願いしていたはずです。せめて子が誕生するときは、近くに居てくださいと言っていたでしょうに」
正論ばかりなので反論が返しにくい。
口をへの字に曲げるテミスは、気まずげに視線を逸らした。
「二人はいつ来る?」
「戻り次第すぐに。まったく、ご帰還すら突然なのですから、お迎えが間に合わぬのです」
「……こればかりは伝令の問題だろう。私は悪くない」
「その言い訳は妾の前のみにしてくださいませ。二人にその言葉は通じませぬ」
彼女達との関係は、即位して数年で変わったと思う。
元々は誘惑の多い仕事だから、そういった風除けに妻になってくれと頼み込んだはずだが、よく引き受けてくれたものだ……と何年経っても思っていた。特にこのケルテラなど、巫女を辞してまで還俗したのだから相当だ。
元々は単なる友愛だったが、男女の愛に変わるのは難しくない。
この頃にはすっかり一つの家族になって、テミスを支えてくれていた。たぶん、人生で一番充実していたはずで……と思ったのだが、すぐに考えを改めた。
人生で最も輝かしく、希望に満ちていたのは、皮肉にも奴隷時代だ。
弟ニキフォロスを妬み、疎み、奴隷仲間を従えながら玉座を狙っていた時期が、彼の最も楽しかった時代だ。
あの頃はまだ単純に夢を追っていられた。夢があるからこそ希望があった。
そして夢を叶えてくれたのが……。
目を開けていられなくなったテミスは、ふ、と笑う。
もはや表情が動いているのかも不明だが、彼は確かに笑えたのだ。
「アレッシア」
ケルテラと袂を分かった瞬間から、長らくその名は口にしていなかった。
理由は単純。
思い出せば懐かしくなる。未練がある。少年の頃の輝かしい時代が何よりも大切だったからこそ、迂闊には口に出来ない。その名を口ずさみ、懐かしむのが許されるのはケルテラだけだった。
彼女は、アレッシアは、テミスに幸運をもたらした神の御使いだ。
初めて森で彼女を見つけたときは目を疑った。
傷ひとつない柔肌に、引き込まれそうなまでにきらめく大きな瞳。成長過程特有の魅力にあふれる均整の取れた体つきに、純白の衣装はこの世の人ではなかった。だから自分の正気を疑って、実際捕まえてから、本当に存在する人間だったと驚いたのだ。
ただでさえ目を離せない面差しが笑顔に彩られると、誰もが目を惹かれた。
彼女は表情豊かな、苛立つくらいのお人好しだ。でも他人の痛みに対し、自分の事のように泣いてくれる。その感受性にニキフォロスも彼女に惹かれていた。
掠れる意識の向こうで、誰かが叫んでいる。
おそらくは息子だろう。
とうとう目の前まで迫ってきたらしいが、耳も遠くなってきたので聞こえにくい。
かろうじて「母」とだけ聞き取れたから、やはりレアの自殺の件を恨まれていたのだろう。
テミスとて彼女の死は心外だ。
二十代の頃にリンヴェとケルテラが逝って、過去を共有できる人は減った。テミスなりにいっそう大事にしたつもりだったが、テミスの行いに「責任を持つ」といって命を断つなど思いもしなかったのだから。
そろそろ肉体の死が近い。ようやく過去を振り返った結論を、テミスは心で呟く。
――大事なものから、零れていったなぁ。
絶対の力を手に入れて夢を叶えた。
満足していたはずだった。
だが、大切にしたいと願った人達から目の前からいなくなった。
そうなると心はいつも空虚で、最終的に、よすがになったのは神の加護だ。誰かが自分を肯定してくれている証左に縋るように、確認するように次々と侵略した。
アレッシアが消える瞬間の言葉を覚えている。
“いい王様になって、いい国を作ってね”
返事をしたかった。覚悟を聞いてほしかった。
だがその前にアレッシアは消え、返すことのできない約束だけをテミスは抱くことになった。
体が揺れる。
誰かに引き倒されて、うなじを晒すように体を支えられた。
痛みはもうない。
想像していたよりゆるやかな最期に、テミスはぼんやりと思う。
……たくさん殺してきたから、いい王様とは胸を張れなくなった。
流した血の分だけ豊かな治世を敷いたつもりだが、帳消しになってくれるか不明だし、
何より神の加護が失せてしまったので、テミス王は悪い王と判断された可能性が出てきた。つまり自信が消え失せた。
やり残しが多く、まったく締まらない人生だったが、最期にアレッシアへ伝えたい。
君に出会えなかったら……と考えるなら、やはり悪くない生涯だった。
奇跡の少女と出会えたこと、幻の人狼と出会い、お伽噺に出てくる竜の背に乗って敵陣から飛び立った夜。あの時見上げた星空と、彼女の笑顔がテミスを生かした。
現実のテミス王は、既に虫の息である。
王子は父王への怨みを聞かせることができなかっためか、業を煮やし、配下に王の体を動かすよう命じる。
これは首を落とされる寸前、意識もまばらだった王が呟いた言葉だ。
「会いたかったな」
アレッシアに。
ルドに。
ケルテラに、リンヴェに、レアに、オミロスに。
こうしてテミス王は死を迎えたが、彼が高みに誘ったミノアニアの末路は悲惨だ。
まずテミス王の首は三日三晩晒され、肉体は豚の胃に納まった。
神の加護を失ったミノアニアは信頼をなくした。もとよりこの国が遠く離れた地まで治世できていたのは、テミス王と彼を信奉する優秀な配下あってこそのもの。まともに引き継がれたわけでもない上、裏切り者の王子の才は乏しく、以降はたった二十年で侵略した領地をすべて失い、最後に残った土地も侵略される結果となる。
テミス王を裏切った王子は小さな村に逃げ延びるも、最後は捕まった末に処刑に至り王族は滅亡。ミノアニアは新しく興った国に吸収され、その名は本にのみ残ることとなる。
奴隷から一国の王へ。
王から偉大な覇者へ。
神に選ばれしテミス王の偉業は、三百年経った後も人の歴史に刻まれている。
しかしいくら書を紐解こうとも、彼に王冠を授けし“神託の巫女”の正体だけは、誰も解き明かせず謎のままとなっている。
後世の歴史家は冗談交じりに“神託の巫女”を本物の神の使いだと言った。
まさかそれが事実であるなどつゆ知らず、今日も歴史書を紐解き続けている。
王となったテミスと女性陣の関係は
リンヴェ=正妃
ケルテラ=側妃
レア=愛妾
になります。これは彼女達の元の身分が考慮された結果です。




