2-50.本当は、ただ平穏に暮らしてほしい
「…………へ?」
リベルトの言葉を疑う気はない。
しかし、彼の言葉はしばらくの間、アレッシアから時間を奪った。
それもそのはずだ。
アレッシアが第三層に落とされたとき、最初にテミスに命を救われたことで彼らと親しくなった。無論、ニキフォロスも同じように人助けをしてくれたろうが、はじめに出会ったのがニキフォロスとテミスでは、かなり話が変わってくる。
テミスとも仲良くなれた自信はあるが、より親しくなったのはニキフォロスの方かもしれない。そうなれば選択の際、どちらを救ったかは明白であり、歴史は変わっていたはずだ。
アレッシアと同じように話を聞いていたロアが首を傾げる。
「うん? それはどういうことだ?」
「どうもこうも、そのままの意味です、我が神よ。私自身は後悔のない人生を送りましたが、それが主神はあまりお気に召さなかったようだと聞いています」
「あー……それは」
なぜか目をそらし頭を掻きはじめるロアは、ひどく気まずそうに唇を尖らせる。
「……それはやっぱ、お前が俺の信徒だからじゃないか?」
「ああ、ではやはり我が神が主神に嫌われているという噂は真実で」
「殺すぞ」
「数少ない信徒がさらに減ってもよろしいのなら」
神の家庭内事情に興味はあるが、いまはそれどころではない。
詳しい事情を求めるべく、両手で襟首を掴んでくるアレッシアへ、リベルトはやや困ったように微笑む。
「私が運命の女神に召し上げられるときに言われたんだよ。すべてを統括される神が、ミノアニア王の選定を失敗したと思っている。いずれ運命を変えられる可能性がやってくるだろうとね」
「はっ!? な、なにそれ!?」
「女神はいずれ選ばれずに消される私を憐れんで召し上げられた。だから私は女神の恩情によってここにいる」
つまりマグナリスがすべての元凶ということだろうか。
テミス王が気に入らないから歴史を変えようとしたのは――信じたくもない道理だが話としてはわかる。だがそれを実行しようとしたことも、女神がテミスにすべてを伝えたことも、今この場の状況も、まるで何もかもがわからない。
頭を掻きむしり始めそうな勢いで混乱するアレッシアを差し置き、ロアが悲鳴を上げる。
「ってことは、こっちに来てからのお前の存在は運命のヤツが隠してたってことか……暫く父上には近寄れねえなぁ」
恐ろしいものを思い出すように、ロアは両手で肩を抱きしめる。
アレッシアとしては、彼の恐怖よりも「試練」そのものについての疑惑で一杯だ。
たっぷり三十を数える程度は身を凍らせると、突如リベルトの傍を離れ、後ろを振り返った。
「ちょっと意味わかんないから聞いてくる」
「聞いてくるって、誰に」
「女神」
「え、ちょ」
……不思議なことに。
その瞬間、すぐ傍にいたはずのリベルトの伸ばした手も、反射神経は人よりもずば抜けているルドの捕まえようとした手も、アレッシアの体には指一つとして届かない。
ただ一人、一部始終を見ていた戦神が目を丸める。
「……へぇ」
他の者は知る由もないが、この戦神は人間を好意的に見ることは、基本的にない。
しかしアレッシアを追いかける視線には興味が混じり、階段を駆け上って行く背中を追い続けている。
「あいつは何だ?」
青年の姿をした神の呟きは、アレッシアには届かない。
息せき切らしながら走る姿の前にあるのは、来訪者を迎えるための入り口だ。繊細な彫りのはいった白い柱に囲まれるのは、虚無すら飲み込んでしまいそうなほど、ぽっかりと口を開けていそうな真っ暗な空間だ。
神殿の造りなど、アレッシアはいまだ知る由もない。
だというのに、その足取りには迷い一つなく、ひたむきにまっすぐに前を向いている。
神殿には多くの人が勤めている。
しかしアレッシアは誰ともすれ違わない。
やがて幾重にも重なり連なった垂れ布の空間に足を踏み入れると、影から姿を現したのは一人の女だ。
女神ではない。
おそらくアレッシアの侵入を掴んでいたのだろう。
神官長ソフィアが苦虫を噛みつぶしたような面差しでアレッシアを見ていた。
「貴女は何故ここに?」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
「では、質問は?」
「えと、神官長様ではなく、女神様に直接お伺いしたいです」
「神は会いたいからと容易に謁見できる存在ではありません」
周囲には何もない空間だから、二人の声はよく響く。
眉根を顰める神官長へ、やましいことはないはずなのに、お説教をもらったような気分になるアレッシアは、ふと思った。
怒っているようで悲しそうな表情をする神官長は、孤児院にいた仲間達に似ているような気がする。
顔立ちではないし、雰囲気でもない。
いつもにこにこ笑顔で接してくれる変わり者の少女達や、アレッシアを心配して困り顔なエレンシアという友達。ソフィアは彼女達と似ても似つかないはずなのに、刹那の瞬間――勘違いかもしれないが――彼女が見せた泣き顔に、孤児院の少女達の姿を重ねた。
無意識に心臓付近をぎゅっと握りしめ、引きそうになった自分を心で叱った。
「あ、あの人に、会わせてください」
はじめ、ソフィアはアレッシアを追い返そうとした。
彼女の表情が突然の客人を拒絶しているのだ。口を開いたとき出てくるのは「帰りなさい」だと想像できたが、事態は少しばかり違った。
神官長はアレッシアには聞けない音を拾ったのだ。
狼狽えたように周囲を見渡し、次に表情を殺すと無言で後ろに下がった。
いつの間にか消えた神官長に、ひとりになったアレッシアは再び進み始める。
そこは唯一、垂れ幕が下がっていない空間だ。
中央には石で出来た重厚な椅子に、足を組んだ女神が座っている。
肘掛けに肘を立て頬に手を当てる姿は見える限り、まるで精巧な彫像のようだ。身動き一つせず、目を閉じた神の前に、アレッシアはおそるおそる近寄った。
「……あの」
以前、こんな風に女神と話したときは、相手はほとんど背中を向けていた。
今度こそはっきりと物申してやる、と意気込んだ心はどこへやら、アレッシアはわけもわからず高鳴る心臓に汗を流した。
「聞きたいことがあるの。リベ……じゃないテミスから、ほんとは私が、ニキフォロスと出会うはずだって聞いてたんだけど」
返答はなかった。
無視……というには、あまりにも華麗すぎる無防備さだ。
むしろ空気扱いされている方が正しいかもしれないと思いはじめるくらい、女神と呼ばれる女の呼吸は静かで規則正しい。
質の悪いことに、ただ座っているはずの女の姿に、じわりと涙が浮かんでくる始末だ。
ぐいっと強めに涙を拭ったとき、アレッシアは女神に対し、ひとりぼっちで哀しいと感じていることに気付いた。
きっとこれは、テミスの件で涙腺が緩んでいるだけと自分に言いきかせ、怒るように言った。
「答えてよ。神官長に私を通していいって言ったの、あなたなんでしょ」
ソフィアに何が伝えられたかは不明だが、推測は間違っていないはずだ。
無限に広がって行きそうな空間に飲み込まれた問いかけに、長い時間をかけ、女は長い睫毛を持ち上げた。
「――すでに定まった歴史を不快だからと歪める神を、お前はどう考えますか」




