2-48.君に仕える理由
人を叩くなんて良くないことだとわかっている。
暴力なんて野蛮だ。喋る口を持っているのだから、まずは話し合いに臨むのが文明人としての矜持と言おうものだが、いまのアレッシアは怒っている。口より手が出るのは若干、現環境の気がしないでもないが、それでも他人様を殴るなんて、ストッパー役の自分が実行するのはないと思っていた。
だが今はどうだ。
アレッシアは行き場のない想いを消化できない。
すでに決まっていた未来なんて関係ない。良い終わりを迎えないと知りながら、それを回避する方法もないまま死を宣告せねばならない怒りは、アレッシアの全身を動かした。
そしてなにより腹立たしいのは、相手が、まるでアレッシアの行動を予期していたかのように動じていなかったことだ。
すべてを見通しているとでも言いたげな、全部知っていますと言いたげな涼しい表情は、あえて避けなかったのだと知り、アレッシアはさらに激昂した。
ただ、惜しむらくは感情に体がついて行けないことか。
一気に駆け女神の頬を叩いただけでも、心身共に限界だ。肩で大きく上下させるアレッシアを、まるで感情の読めない女は静かに見返している。
場が緊張に張り詰めたのも気付けないアレッシアに、女は言った。
「気は済みましたか」
矮小な人間など気に留める必要はないとでも思っていそうな態度は、アレッシアの怒りの炎に油を注いだ。
かっと全身が熱くなり叫ぼうとした唇を、伸びてきた女の親指がなぞる。
「貴女の悲しみは理解します。ですが、感情に支配を任せてはなりません」
そう言われて動けなくなったのは、怒り任せに動いた自分が本当は悲しかったからだ、と言い当てられたからだ。自身でも理解していなかった感情を正確に言い当てた女神は、どこか愛おしげとも感じられる手つきでアレッシアの頬を撫でる。
「まして、貴女は誰よりも感受性が強いのだから、これしきのことで心を乱していては、今後が持ちません」
アレッシアと女神は他人のはずだ。
孤児院にいたときも、今の自分になってからも、女神が彼女を訪ねてきたなんて話は一度も聞いていない。
なのに以前からこうだ。
運命の女神はアレッシアという人間を理解している。
知らない振りをして心では慈しんでいるのだと、何故か理解できたのは、頬に触れる指先が泣きたいくらい優しかったからで、たったこれだけのことなのに、わけもなく泣きそうに――。
「我が神!」
何かをつかみかけたはずが、神官長ソフィアに後ろから抱えられたために頭から吹きとんだ。
ソフィアはいたく慌てている。
「申し訳ありません! わたくしの監督が行き届かなかったために、玉体に傷を……!」
「人の子が触れた程度で傷つく体ではありません」
「しかし、神々の御前でこのような無礼を働くなど」
「神は寛大です」
だから許すと言いたいのだろうか。
目に見えて狼狽えるソフィアに、女神は目線だけで下がるよう言いきかせる。
「姿は見えずとも、他の神々も彼らを見ている。最高神がアレッシアを断罪していないのだから、それが許しの証拠でしょう」
アレッシアも言われて気が付いた。
どうにもあちらこちらから見られていると思ったが、それは神々の視線のようだ。
いまだ謝罪の言葉ひとつ漏らさないアレッシアをソフィアは睨み付けたが、肝心の不敬者は抱えられているので見えない状態だ。
そのままずるずると引きずられ、他の候補者達の横に並ばされる。
星河を旅する名もなき者、とかいうフードを目深く被った人物以外は、アレッシアに対して厳しい。
トリュファイナは顔を真っ青にして心配しているようだが、ディオゲネスは緊張に染まって表情が硬い。特に怖いのは人狼ギーザで、彼女は今にもかみ殺さん勢いでアレッシアを睨み付けている。
ギーザの圧が身体にのし掛かるようでアレッシアは身を縮める間に、壇上の女神は大胆に魅せる足を組みながら椅子に座る。
だが彼女から候補者達に語りかけることはない。
代わりに神官長ソフィアが告げた。
「ひとまずは第一の試練、よくぞ超えられた、と我が神は仰せです。第一の試練は貴方がたの決断を知るためのもの。勝敗や優劣を語るべきものではありませんが、無事の帰還を神々は喜んでおいでです」
ソフィアは労うも、肝心の女神は肘掛けに肘をつき、手の甲を頬に押し当てている。
妙に跪きたくなるような魅力があったが、アレッシアはその衝動を堪えて拳を握った。
神官長の言葉は続く。
「第一の試練は候補者の素養を知るためのもの。時間の流れに逆らった者は、本来時の渦に呑まれ存在を失うものですが、五体満足で戻ってきたことを喜ばしく思います」
アレッシアは過去に渡るのが危ういものだと初めて知ったのだが、周囲は当然知っていました、とでも言いたげな表情だ。
もしかしたら、本来は集まる必要もなかったのかもしれない。
現に女神は淡々と――アレッシアから見ればつまらなさそうな表情のまま、ソフィアの代弁と労いのまま終わってしまった。こちらとしてはまだ言い足りないのだが、解散の雰囲気になった途端、風のような速さでルドが主人を抱え上げ、神殿から退散したせいで何もかもままならない。
しかも何故か、逃げるように出た先には戦神がいる。
彼はとても凜々しく、少なくとも外見だけは神の名を冠するのも納得の人物だ。しかしはっと目を引くような姿とは反し、静謐な空気を漂わせる神殿に馴染んでいる。
よぉ、と長年の友達のように手を上げる青年に、アレッシアは露骨に嫌悪感を露わにしたが、彼はそんなことは気にする様子もなく人狼を労った。
「父上は心配するな。あの女を引っぱたいたとき、両手を叩いて喜んでたから」
「それはそれで複雑なんだけど」
ほっとするルドとは反対に、本音が漏れ出るアレッシア。
以前からもしかして、と感じていたが、主神と運命の女神は仲が悪いらしい。
それよりも戦神が馴れ馴れしい態度で接してくるのがいただけない。仮にも前の自分の仇のはずなのに、まるで仲良しのように頭へ肘を置いてくるのも気に食わなかった。
「でも、あんまり気に入られるような真似はするなよ?」
「やめて、私の頭は肘置きじゃない」
「人間が父上にかかわると、あんまりいいことにはならないからな。そういうのはストラトスが教えてるだろ?」
「別に気に入られようなんて思ってない――だからやめてってば」
「それが問題なんだよ」
ほんのりとアレッシアを心配するような響きも、肘置きにされているせいで台無しだ。
苦言を呈してもロアは離れてくれないし、アレッシアが四苦八苦していると、遅れてやってきた人の声が耳に届いた。
「神殿を出るのはいいけど、何処に行くかは教えてほしかったんだけどなあ」
ルドへ明るい調子で苦言を呈するのは、アレッシア達を追ってきたリベルトだ。
普段だったら何気ない光景のはずだが、彼の姿を認めた途端、アレッシアの動きは止まった。
なんとも複雑そうな面持ちは、そのまま中年へ向けられている。
「ねえ、リベルト」
「出迎えが遅れてすまない、アレッシア。無事に帰ってきてくれてよかったよ」
心から嬉しそうに主人へ跪き視線を合わせる、アレッシアの従者。
女神への愚痴は、後回しだ。
というかそれどころではない。
アレッシアは落ち着かない心を整理するように、指と指を絡め合わせる。
「あのさ……」
「うん、どうしたんだい」
まるでアレッシアが愛おしくてたまらないといいたげな従者は、実際、そのくらいの愛情を注いでくれているのだろう。
正直、初めて出会ったときからやたらと優しくて、自分を疑いもせず接する姿に、本心では違和感があった。彼は元々ディオゲネスの従者だったし、もしかしたらスパイかも? なんて一瞬だけ疑ったこともある。しかし、アレッシアを信奉するような姿に嘘はない、と感じたのもまた事実だ。
女神へ激怒した理由に、アレッシアは目頭が熱くなる。
気付けたのは偶然だ。
選択の間際に女神の元へ戻された瞬間、ほんの刹那に彼との共通点を見出した。
あのとき、テミスを選んだのは覚悟が決まったからではない。ただ、その行く末を察してしまったから、彼を消したくないと願っただけだ。
このときばかりは戦神も口だししてこないのは、彼はとっくに気付いていたからかもしれない。
話の通りなら『彼』は戦神の加護を受けているから、加護を授けた人間を見逃すはずないからだ。
「これでよかった?」
涙は相手の感覚をおかしくするから、卑怯だと思っている。だから泣きたいわけではないが、今回は我慢はできない。そもそも感情を制御できるようなら、はじめから女神に殴りかかるような真似はしなかった。
泣くことを我慢するようなアレッシアに、リベルトは口を噤む。
「私の選択は、あなたを苦しませた?」
彼も気付かれていることに気付いたのだ。
ただ、泣く子をどう宥めようかと考えているような従者の雰囲気に、アレッシアは声を震わせる。
「ねえテミス。あなたはあなたの人生に後悔はなかった?」




