2-45.ふたつにひとつ
だがその変化も一瞬だけ。
彼の瞳には瞬く間に稲妻が閃き、声は固く巫女に向かって眉を吊り上げる。
「何をわかったようなことを」
おかしなことに、彼はたった一言しか喋っていないというのに、兵士達の間に緊張が走った。いくらアレッシアが知るテミスが数歳……おそらく二十歳前後になるのだろうが……年を経ているとはいえ、二回り以上下の若人に、屈強な男達が怯える姿は異様であり、いまや彼が統治者であるということを、アレッシアに刻みつける。
相手を不快にさせたというのに、ケルテラは愉しげだった。
「そのご様子では、妾の言いたいことはわかっているのでしょう。最期は昔のように説教をして差し上げねばと思いましたが……」
「黙れ」
その瞬間のテミスには、アレッシアでさえ震え上がるほどの圧がある。
王を前に不敵に笑うケルテラに、これから訪れるであろう未来を想像した兵士が渋い顔になる。これに気付かない青年は、深々とため息を吐いた。
「裏切るために還俗させたわけではないというのに」
「申し訳ありませぬ。ですが、わたくしはわたくしでしかありませぬゆえ」
「謝罪する気はないんだね? もし君が謝るというのなら、此度くらいは……」
「我が君」
何故だろう、とアレッシアは思う。
夫の名を呼ぶケルテラの声量は大きくないのに、その透き通った声は決して聞き逃せない響きがある。
言葉を遮られたというのに、黙して続きを促すテミスの瞳には、彼女を突き放してもできない、そんな情が宿っている。
ケルテラはそんな彼を愛おしむように告げた。
「妾は妾の信念を持ってリンヴェ様をお助けした。そのことを後悔してはおりませぬし、誰であろうと謝る言葉を持ちませぬ」
それ以上、彼らは語る言葉を持たなかったらしい。
テミスが片手を挙げると、合図を受け取った兵がケルテラを押さえつけ、首を差し出すような姿勢を促す。
彼女は抵抗もせず、兵へは疎ましそうに言った。
「離すがよい。いまさら命乞いしようなどとは思わぬわ」
もしかしたら、ケルテラは側妃として民に好かれていたのかもしれない。
彼女にいわれるまま手を離す兵士は、彼女に対し、罪人ではなく貴人に対する礼を忘れなかった。頭を垂れる姿を見もせずに、ケルテラは首を差し出そうとするのだが……。
ほんの一瞬だけ、違和感があった。
死んでしまったリンヴェ。
変わってしまったテミス。
命を諦めるケルテラ。
仲違いしてしまった二人を前に固まるアレッシアを、まさに死に行く女が見た気がしたのだ。
「見てはなりませぬよ」
テミスも、兵も、誰もその言葉の意味を理解できたかは怪しい。
だが、アレッシアにだけはわかった。
その声は場にそぐわないほど優しく、アレッシアが知る巫女の面差しそのままであり、彼女が誰に向かって声を発したのかを理解した。
「ケルテラ!」
だが、巫女が不可視の存在を認識していたのか、知る機会はもうない。
何故ならアレッシアが駆け出す直前に刃は振り下ろされたし、惨劇を見届ける直前に景色が変わった。
すでに処刑場は厳粛な空気の漂う神殿に変わっていたし、そこに居たのも変わり果てた王ではなく、無感情な女神と、後ろ頭に両手を組む戦神だ。
女は持っていた杖で床を叩く。
「これがかつてあった過去。テミス王は王妃と側妃を処刑し、以降、彼を止める者はいなくなった」
アレッシアの脳裏に、自ら胸にナイフを突き立てたレアや、首を吊ったオミロスの姿が浮かぶ。いずれも変わってしまったテミスを憂い、命を断ったのだと言われずとも理解してしまい、自然と両肩を抱きしめる。
女神の囁きは、まるで悪魔だ。
「いまニキフォロス王子を選び直し過去を変えることで、歴史は変わるでしょう」
「は――」
「テミス王子は命を落としますが、ニキフォロス王子は兄の配下達を大切に扱います。遇された彼らはテミス王子を懐かしみながらも、彼のために励み、名を残す偉人となる未来が待っている」
そこまで言われたら、アレッシアも女神が何を言いたいのか理解できる。
全身からさあっと血の気が引くのを感じながら、顔を上げた。
「だから、私にテミスじゃなくて、ニキフォロスを選べっていうの……?」
「選べとはいいません。しかし、ニキフォロスを選べば多くの命が救われるでしょう」
そんなのは詭弁だ。
たまらず叫んだ。
「なんで私に選ばせるの! 歴史を変えたいって言うなら、貴女が選べばいいのに!」
選べない、と叫ぼうとしたアレッシアの前で、女神は杖を振るう。
何もない空間から椅子を出現させると、長い足を組みながら腰を落ち着けた。
「選べないというなら選ぶまで待ちましょう。心配はいりません、時間に限りのある人間と違い、神は無限の刻を生きるのですから」
「俺はさっさと選んでほしいんだが」
「付き合ってくださいとはいっていませんよ、ロア」
女神はアレッシアが選ぶまで待つつもりらしい。
つまり王子のどちらかを殺す選択をするまで解放されないと知ったアレッシアは、その場に崩れ落ちるようにへたりこむ。床を這うように両手を押しつけると、歯を食いしばるように地面を見つめた。
大勢を助けるために、一人を殺せというのだ。
冗談ではない、とアレッシアは思う。
もしこれが何も知らない、何も関わってこなかった人達なら、多少迷いはすれど選ぶことは出来た。なぜならまったく遠い世界の知らない人間だからだ。
だがアレッシアはテミスを知ってしまった。
一人を見殺しにするには、彼がどんな風に笑うのかを脳に焼きつけてしまった。
アレッシアにとって、彼はもう友人だ。
彼が仲間を大事にしていたことも、奴隷達の命が無為に失われることに本当は怒っていたのも、ニキフォロスに「兄」と言われて、本当は少し照れていたのも、全部目の当たりにしている。
「友人」を殺すなどしたくない。
だが女神に見せられた青年のテミスが、あの光景は嘘ではないとも知っている。
誰に教えられたわけでもないが、アレッシアにはわかるのだ。
女神は嘘を言っていない、と。
だからこそアレッシアは迷う。
迷って迷って迷って――額に汗を流し、長い時間をかけた末に、はっと顔を上げて周囲を見た。
選べないなら、時間を先延ばしにしよう。
逃げてしまおうと、神の前でそんなことができるはずもないのに、本心では無理だと悟っていながら責務に抗おうとした。
だが現実は、そんな都合の良い逃げ道などなかったし、女神は監視するようにアレッシアから目をそらさない。
好奇心に満ちたロアの視線から逃げるように首を背けて、そこでやっともう一人の従者の存在を思いだした。
リベルトだ。
姿は認識していたが、貝のように口を噤んでいるから存在を忘れていた。
彼が黙っているのは相変わらず。
この世界の人間にとって、神々の話に割り込むなど不敬だから、彼の行動自体は当然だったが、つい惹かれてしまったのは眼差しだ。
だが彼女を慈しむように見つめる眼。
アレッシアがどんな選択をしても、どちらを選んでも、受け入れると言わんばかりの柔らかく温かな、包み込むような力強さ。
「あ」と小さな唇を開き、両目を開いたアレッシアは、従者に釘付けになったまま言った。
「テミスを選ぶ」
その宣言に女神は両目を閉じる。
「宣言に偽りはありませんね」
「ない。私はテミスを選ぶって、いま、ちゃんと決めた」
一瞬だけ吐息を漏らしたのは、変わらぬ歴史に安堵したのか、それとも失われる命の数に憂いを吐いたのか……。
真偽は不明だが、杖は再び床を叩き、その音は広間に高らかに響く。
「では、そのように」
女神の宣言と同時に、アレッシアの姿は再びミノアニアにある王の間に戻っている。
神殿で体験した出来事はほんの一瞬か、それともこちらでは刻は止まっていたかもしれない。
いずれにせよ、アレッシアの第一声はすでに神に届いているのだ。
「ふぅん。まあ、俺は構わないさ」
ゆらりと身体を動かしたのは、神殿にいたロアではなく、過去のロアだ。これからミノアニアを半壊に追い込むであろう戦神は、アレッシアの宣言を聞き、ニキフォロスに向かって歩き出す。
「ニキフォロス様!」
叫んで飛び出したのは彼の腹心だ。
運命の選択であろうと忠誠心を止めることはできなかったのか、神に対し剣を抜こうとするザカリアを、ロアは一言で終わらせた。
「邪魔」
屈強な大男の身体は、たったそれだけで二つに分かれた。
腹にぷっつりと線を走らせた男は二つに割れ、主君への忠誠を叫ぶ前に、儚く命を散らす。
アレッシアが見たのは、迫る魔の手を前にし、縋るように己を見つめるニキフォロスだ。
どうして、と訴えるような少年に、アレッシアは胸の前で両手を握りしめる。
「――ごめん」
掠れた声がニキフォロスに届くことはない。
戦神の腕の一振りと共に、少年の首はあっけなく宙を舞った。




