2-33.失われた娘を思い出し
アレッシアはぱっと表情を輝かせ、少年へ駆け寄る。
「よかった。本当にいたんだ」
自ら彼を呼んでおいてこの言い草だ。途端にカリトンの顔が歪む。
「僕を引っ張り出しておきながら、本当にいたとは何事だ」
「だって、私が大変なときに全然助けてくれないんだもん。危ないときだって何度もあったのに、気配のけの字もないし!」
「ルドがいた。お前を守るのは彼の役目なのだから、僕が手出ししては、お前の従者への侮辱に値する」
「なら、せめて一言言ってから消えてくれたらよかったのに」
「それでは試練にならない」
アレッシアの手がカリトンの狼に伸びた。獣はその気になればひと噛みで少女の腕を食い千切れるだろうに、まるで従順な犬のように鼻を突き出して尻尾を揺らすだけだ。鼻筋を撫でるアレッシアは、何気なしに尋ねる。
「ね、ここから無事に脱出するためにはどうしたらいいと思う?」
「それを僕に聞くのか!」
「だってわからないんだもの」
目を見開くカリトンに、子供っぽく頬を膨らませるアレッシア。この気安さは従者に対するものとはまた別物で、どこか親しみが感じられる。
アレッシア自身、カリトンと再会できた喜びは、自身が思う以上に深い。心の奥底から湧き上がる尊敬の念と懐かしさは「いまの自分」にはあり得ないほどの喜びだ。
一方で、招集に応えたカリトンはどこか訝しげだ。
「僕は、僕の中にある女神への誓いが、お前の呼びかけに応えねばならないと感じたから潜伏を解いた」
「はい、とっても助かりました」
「だが僕を呼んだのはどちらだ」
「はい?」
アレッシアは首を傾げる。
このことにカリトンはいっそうしかめっ面になった。
「僕が先ほど感じたのは、たしかに記憶を失う前の……いや、無駄口だった。わかっていないならいい」
「言ってる意味がよくわからないけど、どれも私ですよ?」
変なことを言うものだ。
彼の問いが気になって追及したくなったが、広場に乱入すべく、段々と大きくなってくる罵声に状況を思い出す。テミス達が身体を張って扉の重石になっているのだ。
「そうだそうだ、なんかここまで来たのはよかったけど、その先が全然浮かばなくって。だからカリトンを呼べばなんとかなるかなーと思ったの。だから教えて!」
「脱出したいのなら、僕に命じてこの霊獣を使えばいい」
「その子は大きくなれるんですか?」
「無理だ」
「それだと全員が脱出できませんよね!」
「僕の使命を見誤るんじゃない。この状況で全員など……」
「全員です」
抑揚のない一定の声量がカリトンの意志を遮る。
彼がアレッシアを見れば、無邪気なはずなのに、まるで感情の読めない笑みを浮かべていた。
彼女はもう一度告げる。
「全員じゃないと、意味がありません」
視線が交差して数秒。
後ろ手になりながらまっすぐに立つ彼女に、カリトンは何を感じとったのだろう。わずかな時間だけ瞑目し、次に目を開いたとき、その目線は人狼へ動いていた。
「第三層は神々から見放されている地だ。もし僕の想定する方法で全員を助ければお前はこれまで以上に人の欲望に晒されることになるが……」
「カリトン」
「なんだ」
「ここは孤児院じゃありません。お説教を待ってたら、みんなが持たない」
「……説教ではなく忠告だ」
狼がゆっくりと尻尾を揺らすと、見えない甲高い音と共に、鉄の鏃がついた矢を叩き落とした。この余裕のないただ中だというのに、カリトンはそれをつまらなさそうに見下ろし、やがて求める答えを口にした。
「ルドを使えばいい」
「え?」
「全員を助けたいのだろう。なら、お前の従者に命じればいい」
アレッシアはパチリと目を見開いた。それができるなら、始めから苦労していないではないかと思ったのだ。
「え、だってルドは……彼は確かに強いですよ。でもこの大人数を無事に逃がすためにはひとりじゃ無理です。だからカリトンに助けを借りたいと思って……」
この城には軽く見積もっても数百人の人間が詰めている。常識で考えれば、仲間の人間達全員守りながら、一人で渡り合うなど到底無理だ。
だがカリトンはそんなアレッシアの『常識』を一蹴した。
「では聞くが、お前は自分の従者の何を知っている」
「ルドの、って……?」
「彼が女神の戦士に選ばれたのは、ただ人狼だからというわけではない。名うての戦士は英雄足りうる活躍を見せたからこそ、神の愛を向けられる」
そして言うべき事は告げたと言わんばかりに口を噤む。
彼の話を聞いたアレッシアは眉をキュッと寄せながら踵を返し、そして人狼と向き合う。
カリトンから言われて初めてそういえば、と思ったのだ。
彼女の従者はこの試練においては消極的で、基本的に主の指示を待つ姿勢を貫いている。アレッシアは、従者の主以外は助けるつもりはないという言葉を鵜呑みにしていた。
つまり彼に何ができるのか、何をしてくれるのかはアレッシア次第であり、まだそれを何も確認していないとカリトンは言っている。
半信半疑のアレッシアは命令を待つ人狼を見上げる。
「ここからみんなを連れて逃げる方法を、あなたは持ってる?」
この質問に対し、彼はひどく嫌そうではあったが素直に答えた。
「ある」
もっと早く言ってほしいものだが、彼には彼の理由があるらしい。
「俺のこれは強力ゆえ、節操無しに出してよいものではない、と神々に誓っている。軽々に……カリトンも言ったが、この見捨てられた地で扱うとなれば相応の覚悟が必要だ」
「だとしても、私はいま、ここであなたに皆を助けてってお願いしたい」
いままでは二つ返事で了承してくれたルドが渋っている。彼の用いる手段がどのようなものかはわからないが、それでも引き下がらないアレッシアに、彼は問うた。
「……テミスか?」
「うん」
いくら何でも、アレッシアの行動原理が少年にあることは気付いている。彼女の意志が変わらないと見るや、とうとう観念したらしかった。
「であれば……仕方あるまい。危ないから下がっていろ」
「わかった。カリトンも……」
「ここにいる」
「うわぁ!」
いつの間にか横にいるから驚かされた。カリトンはどこから持ってきたのか、手にはいくつかの石ころを握っていたのだが、おもむろに向かいの建物へ投石する。すると向かいの建物にあった松明の灯りが一つ消え、次に騒いでいた一団から悲鳴が上がった。
何が起こったのかを悟ったアレッシアがカリトンを見る。
「……あの距離の人に石をぶつけたんです?」
「難しくはない」
「あ、あんまり酷いことしないでくださいねぇ」
「お前を射ろうとしてたのに、優しいことだ」
居場所がとうとう割れてしまったから、階下からの喧噪は激しくなるばかり。のんびりしているアレッシア達と違い、顔色が悪くなるばかりのテミスが絶叫する。
「なんでもいいから早くしてくれ! 君を信じて上にあがったのに、このままじゃ持たない!!」
アレッシアは確実な安全を保証されている側だが、奴隷達は違う。必死の叫びを聞いたルドが数歩前へ進み出た。
「さて、主がこういうからにはやってやるが……」
従者の後ろ姿を眺めていたら、人狼の外套がふわりと舞った。彼を中心に発生するのは、頬をひと撫でするだけでぞわりと背筋が粟立つ風だ。けれどただの風のはずなのに、呼吸が苦しくなってしまうほどの力を感じ、奴隷達の中には膝をついてしまった者もいる。アレッシアははためく髪を抑えながら、ただひたむきにルドを見つめ……ふと気付いた。
明るくて眩しいくらいだった空が、いつの間にか曇っている。それどころか上空では不可解にも雷鳴さえ轟き始め、いまにも雷が降ってきそうだ。
流石にこの天災を避ける術はない。
アレッシアはカリトンの服を掴み、少年もまたアレッシアを守るように引き寄せた。人狼から発せられる風は強くなり、それどころか赤黒い影が円状になって広がり始めている。まるで禍々しさを煮詰めたような気持ち悪さを感じながら、アレッシアは従者に向かって手を伸ばす。
その瞬間だった。
目を開けていられないほどの風が辺りを凪ぎ、次いで激しい光が目の前を遮る。それが人狼に直撃した雷だったということは後から気付いた。カリトンが直前で庇ってくれたので怪我はないが、ぐわんぐわんと揺れる頭のせいで、まともに立っていられない。
支えてもらいながら輪郭を取り戻して行く視界の中で、己が目にしたものにぽかんと口を開いた。
「……ルド?」
形はアレッシアのよく知る人と狼が合わさった姿ではなかったが、それがなぜ自分の従者だと思ったのか、理由はわからない。
なぜなら目の前のそれは体積が何十倍にもなっている。全身は頑丈な鱗に覆われているから、犬科の面影は欠片もない。
むしろ、それは爬虫類と変わらない存在だ。アレッシアはいまの自分になってから、物語の絵巻物で姿だけを見たことがある。
「竜だ」
声に反応して、赤黒い鱗を持つ生き物が振り返る。当たり所が悪かったか、長い尾にぶつかった城壁が砂のようにあっけなく崩れていったが、彼は痛がる素振りも見せなかった。
竜は目を引き絞るように細め、アレッシアをじいっと見つめる。うっすら開いた口から覗くのは鋭い牙で、たった一本でも彼女の腕を千切るのは容易そうだ。
それは空想上の、しかし直接目にすれば誰もが自分を狩られる側だと認識し、闘争心を削ぐ生き物だ。
生存本能に従い誰も声を発せずにいる中で、顔を近づけてきた竜にアレッシアは触れる。鱗はとても冷たく、そして纏う空気は禍々しい。
「乗れ。安全な場所まで連れて行く」
なのに声はよく知るルドなのだから、少し混乱してしまいそうになる。
どうやって発音しているのか気になっていると、奴隷の一人が「うわぁ!?」と声を上げた。
カリトンの狼が奴隷を咥えていたのだ。甘噛みらしく怪我はない様子だが、困惑を隠せない彼らを前に、その主は向かっていった。
扉を塞ぐ人間達を退かせたカリトンは、右手を開き、再び握りしめるような動作を見せる。
アレッシアの目には五本の指先から糸が迸ったように見えたのだが、それも一瞬。石でできた建材がケーキでも切るようにすっぱりと切れ、扉ごと砕けて崩れた。
その間に、狼は咥えた奴隷を竜の背に運んでいる。
「ほら、時間稼ぎはしてやるから早く乗れ。この上、余計な手間をかけさせてくれるなよ」
奴隷達は少年の姿をした「なにか」に慄くも、テミスは彼が味方であると即座に理解したようだ。腰を抜かしている仲間に向かって指示を出す。
「皆、竜の背に乗れ! 死にたくなければ走るんだ!!」
その日、森の奥深くに佇む砦から一頭の竜が飛び立ち、タダム軍に深刻な被害を与えた。
数多の目撃証言が人々の興味を誘い、もはや滅びたと謳われる伝説の竜がタヴェルの姫に加護を与え、悪しき邪国に罰を与えたという噂が流れ出す。
噂を耳にしたアレッシアが乾いた笑いを零したとき、彼女の身柄はミノアニアの首都に保護されていたのだった。
2025/3/16
次からクライマックス入ります。一気に休みなく更新をかけたいので書ける時間ができるまでお待ちください。




