2-32.まるで神の如く
もっと安全な場所など、他にあったろうか。
疑問を顔に浮き彫りにさせるテミス達に、アレッシアは上を指差す。
「上にあるんだよ。とりあえず最上階への道がわかればいいから、そっちに行こう」
それは追い込まれてしまえば逃げ道を失うということだ。自殺行為も甚だしい提案は、当然皆の反対を買う。
テミスも当然、焦りながら下を指差した。
「すまない。安全に逃げ出したい気持ちは痛いほどわかるんだけど、いまはせめて、もう少し現実的に物事を見なきゃいけないんだ」
「テミス、私は……」
「いいかい。いまなら下に行けば逃げ道も確保できるし、隠れる場所を見つけることもできる。だけど上に行ってしまったら、僕たちは追い込まれるだけなんだ」
「違うよ、テミス」
「敵に押しかけられたら、飛び降りて死ぬしかなくなる。もしかしたらルド様に期待しているのかもしれないけど、往復したってこの人数は無理だよ」
どうにも聞いてもらえない。
アレッシアは無視されて、テミス達は集まり今後の相談を始める。
放置されたアレッシアは唇を尖らせながら、不安そうなリンヴェの手を取る。
「リンヴェ」
「はい?」
「あのさ、これから変なことするけど、リンヴェはついてきてくれる?」
リンヴェが疑問を覚えたのも仕方がない。それまでたとえ窮地にあっても、快活さを失わなかった瞳に陰りが見えている。
アレッシアも表面上は明るさを繕っているが、内心はひどく焦っている。ただ、こんな提案をしたのは、決して脳天気な理由ではない。
トリュファイナの時と似ているのだ。
先ほど、しばらく会っていない、同じ後継者候補であるマルマーの巫女の、無残な亡骸が唐突に脳裏へ呼び起こされた。アレッシアは一度トリュファイナが死んだ過去を変えて命を繋いだが、その時に感じた冷たい感覚と、いまテミス達を前にしたある種の予感が一致している。
「たぶん、下は駄目なんだと思う」
「アレッシア様?」
「下は駄目。あなたやテミスは助かるけど、全員は生きられない。それはたぶん、彼を助ける人が減ってしまうということだから」
声にして、漠然とした感覚が初めて現実的なものになった。
何故だろう。
目にしたわけではないのに、アレッシアの脳裏には、脱出に失敗し、追い込まれて命絶えて行く奴隷達の姿がまざまざと浮かんでは消えて行く。
たかが妄想。
状況は深刻なのだから、不安に煽られた脳が作った幻覚だと笑い飛ばせば良いだけの話なのに、これは今から起こる悲劇なのだと全身が訴えているのだ。
明るさが形を潜めたアレッシアの手を、狼狽していた少女は握りしめる。
「貴女に救われた命です。どうぞ、リンヴェをどこへなりともお連れくださいまし」
「ありがと。ケルテラもいいよね」
巫女はアレッシアに何を感じとったのだろう。驚愕の表情を、やがてゆっくりとした笑みに変化させた。
「……どうぞご随意に」
まだ確信はない。
だが助かる道は「上」にしかないと確信を持って、アレッシアは従者に振り返る。
それはまるで、彼女の命令を待っていたかのように静けさを保っていた。
「ルド。私たちを上階の、全員が集まれそうな場所へ誘導して」
「承知した」
反論があるなら言いきかせるつもりだったが、不思議なことに彼は何も言わず従った。彼はリンヴェを抱き上げると、テミス達の予想と反する方角へと迷わず進み出す。
これに奴隷達は目を剥いた。
テミスはその場に彼らを留め退路を確保させようとしたのだが、止めたのはアレッシアである。
「誰も失いたくないなら、あなたは私についてきた方がいいと思う」
「アレッシア! ケルテラ、どうしてルド様を止めない!」
「……わらわは巫女ゆえのぅ」
「いや、今は巫女とかそういうのは関係な……」
「善き御方が命を尊ぶと言うのであれば、それに従うのみよ。それにお主も、このまま無傷で済むとは、もう考えておらぬのだろう?」
「それは……」
「彼女は誰も失いたくないなら、と言った。わらわは、その言の葉はすべてを賭けるに値すると信ずる」
絶句するテミスに、ケルテラは悠然と微笑む。
「なんなら神託として下してやろうか。なればそなたも動きやすい」
作戦指揮を乱されたせいもあったろうか。
テミスは下唇を噛み、頭を掻いてボサボサにしながらも、上へ登るための指示を出し、自らもルドの後を追い始める。
皆の気持ちを後押ししたのはケルテラだろう、とアレッシアは不思議と理解した。
本来民のためにあるはずの巫女が奴隷達に目を向けることは、決してない。自ら使い捨てである奴隷達について回る女を、奴隷達は声にせずとも感謝していて、そしてそれはテミスも同様だ。
――あ、そっか。
アレッシアは唐突に理解する。
彼女の死を見た気がしたのだ。
たぶん、下の脱出ルートを選べばケルテラは命を落とす。それは少年のために非ずと感じるからこそ、アレッシアは上を目指そうと言ったのだ。
――この感覚は、一体なんなんだろう。
まるで今ならなんでもできそうな万能感と、世界から浮いているようなふわふわした気持ち。それは例えば映画館から演者達を眺めているような感覚で、ともすればいつ消失するかもわからないものだ。
ルドの誘導は的確だった。
まるで長い間住み、見知った城のように最上階を目指す彼は、あっという間にアレッシア達を上階の広場へ連れて行ってくれる。
見張り盾や敷物なんかが散乱しているから、たとえば訓練等にしようしていたのかもしれない。晴れ渡った月明かりは、広場に駆け込んだ全員を余すことなく照らしてくれる。
ルドの足元には、すでに彼に倒された衛兵が転がっている。
アレッシアは彼を労うこともせず、ただ真ん中に進んで空を見上げた。
「なんにもない」
電気なんて無粋なものに邪魔されていない分、とても美しい夜空だ。このまま転がって月見としゃれ込めば、さぞ楽しい時間が堪能できたはずと想う。
広場は、他の塔から丸見えになる位置にある。
やがて遠くで自分たちを見つけたような怒号が続く。遠くから射られた空を裂く風切り音は、彼女に届く事なく人狼によってたたき落とされた。
テミス達はリンヴェを安全な場所に置き、入り口を塞いで守っている。本当にこれで善かったのか、テミス達の視線を一身に受けるアレッシアに従者が問うた。
「何を待っている」
「考えてるとこ」
このような回答、テミスが聞けば絶句したに違いない。ルドはこれから迫ってくるであろうタダムの兵の数を思うと、テミス達は全滅を免れないと確信している。命がけでも、まだ地上を駆けた方が助かる道はあったはずだが、それを変えたのはアレッシアだ。
彼には、主が一体なにを考えているのかわからない。
正直なところ、アレッシアは未知の存在だ。
そこらにいるであろうただの子供で、ともすれば感性も脆弱で、そのまま育てば間違いなく食い物にされて終わる人間のはずなのだが、彼女はふとしたときに覚醒する、とそろそろ覚え始めている。
託宣を受けた巫女……というよりは、それ以上の『何か』だ。
正体不明のもやを見極めるべく主を見つめる人狼と、空を仰ぎ見つづける主。
やがて屋上に続くドアの前で怒声が響き始めた頃「あ」と彼女が口を開く。
「そこにいますよね、カリトン」
常であれば確実に無視されたであろう呼びかけだ。
ルド自身は、女神の命である以上はどこかに「いる」とは思っていた。だが少年は、あの外見で神に選ばれた戦士として相当長く生きている。気配どころか完全な隠形で姿を隠しているし、この任が終わるまで、彼は姿を見せないと信じていた。
それほど忠実に、長く役割をこなしてきた戦士なのだ。
女神の命を破るなどあり得るはずなかったが、この予想は完全に裏切られた。
風に揺られて声が届いたのだ。
「なんだ」
広場の中央には褐色の肌をした少年と、彼をひと飲みにできるであろう巨大な狼が座っている。
いるはずのない場所から幻のように姿を現した少年は、間違いなく上層世界からアレッシア達と共に第三層へ降り、そして姿を消したカリトンである。
現実ではあり得ない大きさの狼と、唐突に出現した異国の少年の到来は、人間達へ本能的に畏怖を植え付けていた。




