失われた日常
遅刻した五奇は放課後、担任に呼び出され事情を訊かれたが、黒武の圧を思い出し、適当にはぐらかした。そのため、帰宅できたのは夕方だった。
なんの部活にも入っていない五奇にとって、こんなに遅くまで学校にいたのは珍しかった。
(今日は変わった日だなぁ)
という感情以外思い浮かばなかった。ため息を吐きながら、玄関の扉を開け、中に入る。
「ただいまー父さん。……父さん?」
──何かがおかしい。
五奇が異変に気付いたのは、リビングに着いてからだった。
(……静かすぎないか? 父さん、家にいるときはテレビつけっぱなしなのに)
「とう……さん? どこに、いるんだ、よぉ~?」
弱々しい声で父を呼びながら隣の仏間まで向かうと、中からブツブツと父の声が聞こえてきた。ホッとした五奇はふすまを勢いよく開けた。
「父さん! いるならいるって言ってくれ……よ? えっ?」
しかし、そこにいたのはいつもの優しく頼れる父の姿ではなく。
虚ろな目、正座をしながらも宙をさまよう両手、そして……。
「三月……三月ぃぃ。あ、あ、あ、三月ぃぃぃぃ……」
ただただ亡き母の名前を呼ぶその声に、五奇は言葉を失った。思考が全く追いつかない。
(はっ? え、何が起こっているんだ?)
声を出すまでに数分かかった。五奇は力を込めながら、父に呼びかけた。
「父さん! しっかりしてよ、父さん!」
だが、反応は全く帰ってこない。
「な、なんだよ! なんだよこれ!?」
五奇の動揺がピークに達した時だった。さきほどまで誰もいなかったはずのリビングから、聞きなれない声が響く。
「おっかえり~♪待ってたよぉ~♪もぅ! あまりにも遅すぎたから、キミのお父さんで遊んじゃった♪」
慌てて父から視線を外しリビングの方へと向き直ると、そこには長い金髪を三つ編みにし、ピンクのロリータドレスを着た若い女がいた。
「あ、ボク可愛いでしょ? でもね~男なんだよね♪お・と・こ♪」
現実離れしたこの状況の中で彼は不気味なほど陽気かつフレンドリーに、五奇に向かって声をかけた。
(怖い……なんだよ、コイツ……)
いまだ母の名を呼ぶ父を庇いながら、五奇は勇気を振り絞って男に向かって声を張り上げた。
「なんなんだよ! お前が父さんをこんな風にしたのか!?」
「うん、そうだよ? どう? イイ感じでしょ?」
「なっ!?」
悪びれるどころか笑顔で答えた男は、あっという間に五奇の近くまでやってきて、心の底から嬉しそうにとんでもない言葉を発した。
「うん、その顔もいいな~♪ その赤みがかった茶髪といい……左目の泣きぼくろといい……。キミ可愛いね? 優しく殺してあげようか?」
五奇が言葉の意味を理解するのに、数分かかった。
「はっ?」
(殺す? 殺される? 俺が?)
思わず相手の目を見れば、悪意しか感じない笑顔が返ってきた。
「ん~? なあに?」
(本気だ……本気で、殺す、気だ)
脳が理解した途端、身体が恐怖で震えてきたのがわかった。
(どうしよう? どうしたらいい?)
パニックになっている間にも、男はとてつもなく愉快そうに言う。
「じゃあまずは、その心から殺してあげようかな~♪」
あっさり告げると、胸元から振り子を取り出し、五奇の目の前で揺らしだした。それを見た途端猛烈に五奇の頭が痛み出した。
「う、うぅ……うわぁああああ!?」
あまりの痛さに、思わず両手で頭を押さえれば、男は不思議そうに首をかしげる。
「ありゃりゃ? もしかしてキミ、耐性持ち? へぇ……」
男の目に鋭い光が宿る。だが、五奇は気づく余裕がなく苦しむしかない。いよいよ痛みの限界が来た時だった。突然、仏間の窓が割れたと同時に頭の痛みもなくなった。
「はぁ……はぁ……一体なにが?」
目に涙を浮かべながら五奇が顔を上げれば、白い布が守るようになびき、長い茶髪に右目に眼帯を付けた、黒いライダースーツの男の姿が見えた。
「大丈夫かい? 少年」
優しく声をかけられたが、なにが起こったのか理解できず、五奇はただただ頷くことしかできなかった。白い布もとい、白いマントの男は五奇に向かって優しく微笑みながら言う。
「さて、どうしようか?」
ロリータドレスの男の前に立ちはだかった。さきほどまで余裕ぶっていた男は表情を変えて、たいそうつまらなそうに告げる。
「あ~あ~。トクタイかぁ……。お兄さんは好みじゃないし、撤退するかなぁ~。じゃあね~♪」
それだけ言い残すと、黒い影に包まれてロリータドレスの男は姿を消した。
「えっ!?」
驚く五奇に対し、白いマントの男は言う。
「空間転移持ちだったか。逃げられたね、どうするかなぁ。……君も、そちらの男性も無事じゃなさそうだね?」
立て続けに色々起こったため、返事を返せない五奇と、どう見ても異常な状態である父の姿を見て男はが尋ねる。
「立てるかい?」
そう声をかけれられて、五奇は全身から力が抜け、意識を失った。