『オリジナリティ』という言葉ほど残酷な言葉はない
どうも、22世紀の精神異常者です。
今回は、タイトルにある『オリジナリティ』という言葉について、自身の解釈を書いていこうと思います。
本題に入る前に、まずどうしてこのエッセイを書こうかと思ったかをお話ししましょうか。
きっかけは、ツイッターでとあるツイートを見たことです。もっと正確に言えば、このツイートの引用リツイートを見たことがきっかけです。
元のツイートの内容は『キャラを説明するときに「〇〇に似ている」と書いてしまうのはどうなの?』という問題提起。
初めに述べておくと、作品の中でキャラを説明する際「〇〇に似ている」はご法度だと考えています。この書き方は作品のリアリティ(これも非常に不確定的で、ともすれば『オリジナリティ』と同じぐらい残酷な言葉ですが)を著しく損ないますし、そのキャラを知らない読者にとっては全く意味をなさない文章になります。それはあってはならない、というのが私の解釈です。
例外として、作中の登場人物がアニメや漫画などに造詣が深いことを表現するために、その人物の台詞で使用するのは何も問題ないと思います。この場合はむしろ人物のリアリティが増す場合も往々にしてあるでしょう(乱用はよろしくないでしょうが)。
ただ、私が引用リツイートで見かけた、「〇〇に似ている」という文言を作品の宣伝に利用するのは「オリジナリティがない」と言っている、という主張が胸に引っ掛かりました。この考え方は、一見正しいようで、実は全く的を射ていない、頓珍漢な言葉だと思えるのです。
『似ている』は『同じ』という意味ではありません。そして、作品における『オリジナリティ』の中にはその作者の『癖』や『趣向』も含まれており、二人の作者がまったく同一のテーマとストーリーで作品を書き上げたとしても、そこに『オリジナリティ』がないなどということはあり得ません。
いくら趣向が似ていようと、いくら癖が似ていようと、二人の作者は別の人間。それまで経験してきたことは当然違いますから、そこで大なり小なり差異が生まれてきます。
広告でよく見る「〇〇に似ている」は、『話の概要、あるいはテーマが似通っている』というにすぎません。それだけで「オリジナリティがない」というのは間違っているのです。
作者による差異を除いた場合の『オリジナリティ』も考えてみましょう。世間で『オリジナリティあふれる』と評価される作品は、確かに他では見たこともないような設定、展開、キャラクターがいます。これはれっきとした事実です。
ただ、それは本当に『オリジナル』なのでしょうか? 本当に作者が何もないところから生み出したものなのでしょうか?
極論を言えば、それは絶対にないのです。真の『オリジナル』とは私たちが暮らす地球、ひいては宇宙であり、人が生み出したものに真の『オリジナル』は存在しない。これが私の結論です。
人は知覚したものを応用して、ここまで文明を発展させてきました。火であれ、文字であれ、なんであれすべては人が生み出した『オリジナル』ではありません。そして、旧石器時代に比べて途方もないほど情報があふれ、常識とされる知識や感覚が人類間で均一化されてきている現代において、周囲の道具や言葉、概念は何かのn番煎じに過ぎないのです。
小説であれ音楽であれ、絵画であれゲームであれ、新しく生み出したものが過去のいずれにも類似する要素がないなど不可能です。人は見たものからしか新たなものを生み出すことはできないので、蓄えている知識が似ている以上何かしらの共通項は生まれます。
それを「〇〇に似ている」と表現していることを「オリジナリティがない」と批判するのは全くの見当違い。あまりに暴論すぎます。
この「オリジナリティがない」という批判の、たちが悪いのが一見正しいように見えてしまうところです。どうしてか現代では「オリジナリティがある=素晴らしい」という価値観が浸透していて、なにかに似ているのはつまり質が悪いと考える人が一定数います。そして、それがいかに無茶なことなのかわかっていないのです。
オリジナリティがあろうがなかろうが、作品のクオリティには影響しません。これは、作品を数多く読んだり、聞いたり、見たりした人であればわかっていただけるとおもいます。
一つ例を出しましょう。海でサメに襲われるパニック映画である『ジョーズ』と、同じくサメが登場するものの場所が家の中であるという異様なパニック映画『ハウス・シャーク』。どちらが高品質かと問えばみな口をそろえて『ジョーズ』というはずです。何故かと言えば、『ハウス・シャーク』の質が『ジョーズ』に劣るから。
オリジナリティがある方が素晴らしいというのであれば、確実に『ハウス・シャーク』の方が素晴らしいとなるでしょう。サメが海にいるのは当たり前のことですが、サメが家の中に出現するのは当たり前とは対極の位置にある事象ですから。しかし、そうではない。
もう一度言いましょう。オリジナリティは作品の質に関係ありません。オリジナリティがあればよい作品ができるというのは幻想です。人の興味を引いても、その後名作と言わしめるのはストーリーの質であり、登場人物の厚みであり、文章の巧みさであり、作者がこれまで蓄えてきたものから出される個人の癖や趣向なのです。設定の目新しさは、あくまで要素の一つであり、名作と評されるか否かという視点においては、その重要性は下の方になります。
広告で見かける「〇〇に似ている」という文言で「オリジナリティがない」と判断するのは個人の自由です。とはいえそれは個人の指標に過ぎず、評価を左右するだけの強度はありません。この手の言葉に苦しんでいる方も多いかとは思いますが、それはまったく気にしなくてよいものなのです。オリジナリティというのは、苦心して生み出すものではありません。自分で考えて、自分で製作する。その結果生まれたものにはすべからく『オリジナリティ』がありますから。
このエッセイが、誰かを救うことを願って、締めとさせていただきます。
お相手は、わたくし22世紀の精神異常者が務めさせていただきました。
それでは。