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呪いのジソー

作者: まさか逆様

   報告書 一縷のNo Zone Me



 古い木造のアパート、その二階角部屋――。

 そこは六畳一間にキッチンと、狭いけれどダイニングが付属した、三人家族が暮らすには十分な広さがあった。

 ただ、居間とすべきその六畳間の壁沿いには、釣りの道具やサーフボード、高級な自転車が立てかけられるなど、趣味性の高い、父親の道具ばかりが並ぶ。ほぼ四畳半しかないその居間で、小さな卓袱台をかこんで、父親と、母親と、まだ小学校にも上がっていない少女が、遅めの夕食をとっていた。

 父親は、どんどん箸をすすめるが、痩せぎすで青白い顔をした母親は、小食のためか、あまり箸がすすまない。今日、初めての食事であるはずの少女は、怯えた様子で父親の方をちらちらと眺めつつ、父親がご飯をかきこんでいる間に、そっとおかずに箸を伸ばす。ただ箸のもち方が悪く、にぎり箸のため、中々甘く煮つけられた里いもをつかむことができない。焦る気持ちが、さらに掴むことを遠ざけるので、小さな茶碗を近づけて、そこに転がり入れようとして箸を里いもの中に入れた。

 その瞬間、幼女の手はがっしりと握られ、それ以上動かすことも、ましてや里いもを転がすことも叶わなくなっていた。

「行儀の悪いことをするんじゃねぇッ!」

 父親は、卓袱台の下で足をのばし、幼女の腹を思いきり蹴った。足のぶつかった卓袱台が大きく、がくんと動き、乗っていた父親のコップから水が毀れた。それをみて、自分がやったことなのに、さらに父親は激高し、追いかけるように激痛からお腹を抱えて丸くなっている少女ににじり寄り、さらにその体を蹴る。

「ごめんなさい、もうしません、ごめんなさい……」

 泣きながら謝る少女の腹を、ふたたび思いきり蹴り飛ばす。少女が吹き飛ばされると、それを追いかけ、さらに追い打ちをかける。すでに少女の意識は途切れがちとなっており、無防備に蹴られたその体は、無造作に窓際まで転がった。それでも父親の暴力は止まらず、立ち上がってその着古したぼろぼろのシャツをつかみ、小さな体をもち上げると、ほとんど意識のない少女に「こら、聞いてんのかッ! 父親のいうことが聞けねぇのかッ!?」と、その小さな体を揺さぶり、窓へと押しつけ、威圧するようにその顔を近づけ、タバコくさい息をはきかけ、目覚めたらまた暴力をふるう気満々の態度をみせた。

 だがその瞬間、父親は怯えた様子で後退ってしまう。

 夏であり、半分は網戸になったその窓の外に、人の顔が浮かび上がっていた。窓の外はベランダになっていて、そこに男が立っているのだ。しかもその男は、すでに闇となった外で部屋から零れる明かりをうけ、半笑いを浮かべており、顔だけが浮かび上がって見えるのは、腰を折り曲げて顔をつきだしているから。それでも立ち上がった父親と目が合うのだ。

「だ……、誰だ!?」

 父親はそう疑問を投げかけただけだが、その男は許可もうけていないのに、自ら網戸を開けて、その長い体を窮屈そうに折り曲げつつ部屋へ入ってくる。野暮ったいスーツに、真っ赤なネクタイを締めており、安っぽい大量生産の運動靴のまま上がりこむと、丁寧に名刺をさしだしてきた。

「わたくしぃ、擲折(てきせつ)児童相談所の、野呂居 能次蔵と申しますぅ。虐待の疑いありとの通報をうけて、やって参りましたぁ」

 間延びした、妙にねばつく甲高い声でそう自己紹介するが、〝のろい〟という名前が、その喋り方ともよくマッチしていた。ずっと気持ちの悪い半笑いを浮かべたままで、また背が高いため、天井の低い、古いアパートで窮屈そうに腰をかがめる姿が、とても不格好だった。

 父親としても、児相と聞いて一瞬怯んだけれど、その不気味な顔に心折れそうになったけれど、その靴をみて、あまりに遅い時間の訪問に気づいて、相手の上に立てるとの意を強くし、居丈高となって「てめぇ、こんな時間に……不法侵入だろ! 通報すんぞ‼」と、怒鳴りつけてくる。

 耳朶を震わすその声音にも、野呂居はまったく意に介す風もなく、さらに愉快そうに口角をゆがめて「警察? どうぞ、どうぞ。通報してくださ~い。警察が介入するなら、物事が早くすすみますぅ」

 そういってポケットからスマホをとりだすと、ゆらゆら振りながら「先ほどの映像、ばっちり撮影させていただきましたぁ。虐待の証拠となりますねぇ」

 娘を蹴っていた。娘の胸倉をつかんで、威圧した。それを映像に残されていれば、確実にして、間違いない証拠となろう。父親も慌てふためきながら「い、違法に集めた証拠は、証拠にならねぇはずだろ!」

「おやおや……。ムダに浅い知識は、ムダに自分の首を絞めるだけですよぉ。警察なら、違法捜査は糾弾されますが、私は児相の相談員ですぅ。違法かどうかは、私に対する査定や評価の問題だけで、事実の認定とは一切関係ありませ~ん。虐待の事実さえあれば、児相が介入できるんですよぉ」

 嘲るように、ふざけるように語る野呂居の姿は、父親にとって恐怖の対象でしかなかった。児相に証拠をにぎられたことより、この男の手にスマホがにぎられていることの方が、すでに脅威であった。

 だから父親は、次の手をくりだす。「これは躾だ!」

「だぁかぁらぁ~。浅薄なことを言っているとぉ、首に手がかかりますよぉ。今や〝躾〟にも国の方で定められた、基準があるんですよぉ。娘の腹を蹴ったり、胸倉をつかんで威迫したり、揺さぶる態度を躾とはいいませ~ん。それ、ただの暴力ですぅ。暴行ですぅ。犯罪ですよぉ」

 野呂居はそういって、本当にその手で、父親の首にふれた。「なら、私があなたのこと、躾けちゃってもいいですかぁ? 児相の相談員として、立派な父親になれるよう、内臓が壊れるぐらい、蹴りを入れちゃっていいですかぁ? 脳みそが壊れるぐらい、頭を殴りつけちゃってもいいですかぁ? ろくに食事も与えず、空腹の相手にみせびらかすよう、ひけらかすよう、食事をしてもいいですかぁ? 相手が子供だから、自分が親だから、その立場をさかしまに利用して、何をしてもいいわけじゃないんですよぉ。躾は、親が子供に何をしてもいい、免罪符ではありませ~ん。ヒッ!」

 最後にしゃっくりのような、ひき笑いのような、不気味な声を上げた。父親は首に手をかけられ、手が後ろに回りそうになって、力なくその場に項垂れた。

 傍らにいる母親にむかって「お子さんは、私が病院へと連れて行かせてもらいますぅ。診断書も必要なもので」

 次に、へたり込んでしまった父親を見下ろしつつ「通報していただけないようですから、こちらから警察には連絡させていただきますぅ。次は拘置所でお会いしましょう。ヒッ!」

 楽し気にそう語ると、ぐったりと横たわっている幼女を軽々と抱え上げ、野呂居は先ほどとはちがって、玄関のドアからでていった。


 幼女はすぐに家へと帰された。それは母親がいるから。たとえ父親が暴行罪でつかまったとしても、母親に預ければいい、となるのは至極自然であり、ごく一般的な児相の対応としても容認されるものだ。

 父親が逮捕された翌日、手続きや何やらの喧騒も一段落し、母親と二人、火の消えたように静かな居間で、遅めの夕食をとっていた。

 ただ、小食な母親に合わせるよう、卓袱台に乗っているのは茶碗と小皿だけ。しかも、小皿にはかまぼこ二切れと、ほうれん草のお浸しがあるだけで、おかずはそれしかない。茶碗にもぎゅっと握ったらお団子にしかならないぐらいのご飯しかなく、それで一食分。母親はゆっくりと箸を動かして、少しずつそれを口にはこぶ。幼女も無言のまま、ゆっくりと噛みしめるように口の中でご飯をすりつぶし、愛おしそうに飲みこむ。こうして夕食をとりながらも、空腹に耐えかねてお腹は悲鳴を上げる。それは育ち盛りの体が上げる悲鳴でもあり、それでも少女は言葉にしない。

 母親は自分の食事を終えると、ゆっくりと立ち上がった。もう食事の時間は終わり。幼女は慌てて残りのご飯を口に抛りこむ。といっても大した量ではないが、幼女の食事が終わったかどうかにかかわらず、母親はその手から茶碗を奪いとり、辛苦へと……いや、シンクへと運ぶと、黙々と洗い物をはじめた。

 幼女は居間の角で、カーテンをマントのように纏いながら、そこでじっと体育座りをした。そこが彼女にとって唯一の居場所であり、安心できるところだった。それは父親が逮捕されていなくなっても同じ、この部屋で彼女が落ち着けるのは、冬物の分厚いカーテンに包まることができる、そこだけだ。

 洗い物を終えた母親は、嵌めていたビニール手袋を慎重に外しながら「お風呂、入るわよ」と告げた。

 その声に反応し、幼女は脱兎のごとくお風呂場に走り、給湯器の電源を入れた。洋服のままシャワーヘッドを手にとり、お湯をだして、その温度を確認しはじめた。母親がくる前に、お風呂に入れるよう、整えるつもりだ。

 アパートなので浴室は小さく、脱衣所もないのでダイニングにカーテンを引いて、そこで脱衣する。風呂とトイレは別だけど、浴室自体がせまく、親子二人で入るにはかなり窮屈だ。だから一緒に入ったことはない。娘がお風呂に入るときは、母親がビニール手袋をして、外から手を貸すだけ。五歳となった今では、母親が先にお風呂に入り、自分は後。だから母親がお風呂に入るための準備だけを、今は娘がする。

 母が全裸で浴室に入ってきた。娘は邪魔になるから、慌ててお風呂場から出て行こうとするが、手が濡れていたせいで、シャワーヘッドを取り落とし、硬質のプラスチック同士がぶつかって甲高い音を立てつつ、お湯を噴き上げながら、そこに転がった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 水圧で暴れるシャワーヘッドを追いかけるも、中々手につかない。少女の服はびしょびしょになってしまった。母親にはそれが気に喰わない。

「何しているのッ!」金切り声を上げ、瞼をひん剥き、怒らせ、娘へと詰め寄った。

 恐怖で泣きじゃくり、声がふるえ「赦してください、赦してください」と懇願するそんな娘の姿に、母親の怒りはさらに増す。母親は〝所有物〟に対して、〝自分〟を押しつけることができる……。母親がその体をつかみ、小さな体を揺さぶると、痩せこけて小さなその体は、まるで操り人形のように力なくぶらんぶらんと振られ、その足が湯船を覆うふたにぶつかった。湯船に浸かる予定はないので、水を張ったままの湯船をみて、躊躇いもなく娘の体をその中につっこんだ。

「あんたがいるから……あんたのせいで、あの人が捕まったじゃない! あんたなんて、あんたなんて……いなくなればいいのにッ‼」

 そんな母親の叫びを、娘は聞くこともできない。頭は完全に水没しており、手を暴れさせるものの、それも水の中でのこと。か細くて今にも折れそうな母親の腕は、弱弱しくも抵抗するぐらいではびくともせず、か弱き娘を水没させつづける。バタつかせていた手足は、すぐに力を失って、ぐったりしてしまう。抵抗する体力も、生きようとする気力すらなく、諦めが早くなっていたのだ。

 力なく項垂れる自分の娘を、母親は尚も水中に押しこみつづける。もうそれは厭きた玩具と同じだ。後悔なんてない。壊して、痛めつけて、憂さを晴らす道具でしかない。

 娘のそれほど長くなかった髪の毛が、水中に広がったように見えた。いや……水全体が黒く濁ってきた。母親も違和感どころか、恐怖を感じたそのとき、湯船から二本の腕がぐいーんと伸びてきて、両手ではさみこむよう母親の顔をがっしりと掴んだ。すると、水中にぼんやりと顔が浮かび上がり、それが浮上すると、そのままの勢いで母親にその顔を寄せてきた。

 それはあの気持ち悪い男、野呂居だった。

「いけませんねぇ。自分の娘に『いなくなればいい』なんて、それも虐待ですよぉ」

 水を滴らせているのに瞬き一つせず、気色悪い半笑いを浮かべ、粘つく甲高い声をだす。顔を両腕でがっちりと挟みこまれており、また背後には浴室の壁があって、容易く逃げだすこともできない。まるで顔をこすりつけんばかりであり、母親は恐怖心を揚げ雲雀のごとく高めるも、尚も野呂居はつづける。

「あなた、昨日娘が蹴られていたとき、笑っていましたねぇ? 映像にちゃんと残っていましたよぉ。普段、自分が蹴られたり、殴られたり、それが娘へと向かうのをみて、自分じゃないことに優越を抱いていたんですかぁ? ストレス発散ですかぁ? 本来、止めるべき立場ですよねぇ、あなた。

 でも父親が逮捕され、自分にかかるストレスもなくなったけれど、これまで溜まったストレスの捌け口もなくなりましたぁ。だから早晩、あなた自身が虐待する側になることは、予見できたんですよぉ。ほら、娘さん、死んでいらっしゃる。いけませんねぇ、いけませんねぇ、これはいけませんよぉ。ヒッ!」

 最後に、ひき笑いのような耳障りの悪い声をだしたことで、母親も耐えきれずに野呂居の手をふりきって、浴室から飛びだした。全裸のままで、濡れた体は仕切りとしていたカーテンがまとわりつき、その場に激しく倒れこんだ。ヒザと右腕を強打し、激痛にうずくまる。ただ、ふと悪寒が走るようなおぞましい気配を感じてふり返ると、そこにはまるで浴室から引きずり出されたようにうつ伏せとなった野呂居が、痛んだ右の足首をつかむ姿があった。

「どうして逃げるんですかぁ? ダメですよぉ、娘さんを置いて行っちゃ……。このままじゃあ、死んじゃいますよぉ……ヒッ‼」

 母親は発狂し、必死で足首をつかんでいるその手を蹴りつけ、緩んだ隙に逃げだした。全裸のままアパートをとびだし、転げるようにして街中へと駆けだしていった。


 そんなアパートの階段を、ゆっくりと上がる人影があった。野暮ったいスーツ姿で、まったく濡れていない野呂居が、開け放たれたドアから部屋に入ると、迷わず浴室にむかった。そこに倒れている幼女の体をみつけると、すぐに抱え上げて居間にはこび、人工呼吸をほどこす。ほどなく、幼女は息を吹き返した。

「お、お母さんは……?」

 目覚めた少女の第一声に、野呂居は穏やかで、温かい笑みを向けた。それはもう、薄気味の悪い半笑いではなく、安心感を与える微笑みであった。

「お母さんはね、お出かけしてしまったんだ。今日はもう戻らないって言っていたから、君もお泊りしようね。昨日も行った、あそこだよ。あそこでゆっくりと眠ろう。今日は僕もついていてあげるから」

 少女も今は安心したように頷く。野呂居はその幼女を抱え上げると、殺伐としたその部屋からでていく。扉を閉める直前、ふり返った彼の顔は、不気味な半笑いを浮かべるのだった。


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