ゆめゆめ忘れることなかれ⑨
入口とは反対方面の通路に飛び込み、相も変わらず走りにくい迷宮内をクロートたちは駆け抜ける。
道はどんどん下っており、否が応でも迷宮の深部へと向かっているのがわかった。
男は重装備ではあれど、驚くほど安定した速度で滑るように進んでいく。
男とレリルの持つランプがところどころ千切れた根の壁を浮かび上がらせ、やはり、木の根を傷付けたのは彼ではないとクロートは確信した。
彼は壁に掠りもしていないのだ。
だとすれば、根を傷付けたのは奥で悲鳴をあげた者――おそらく男の『雇い主』―――だろう。
その『雇い主』の体が大きすぎてぶつかるのなら致し方ないのかもしれない。
だが、己の痕跡を刻みながら進むのは、あまり褒められたことではない。
クロートのように簡単に痕跡に気付く者だっている。
それが悪意ある者かもしれないし、魔物かもしれないのだから。
――もしかするとこの先にいるのは、男より弱いなんて表現すらおこがましい、迷宮に不慣れな駆け出し冒険者なのかも。
クロートはその考えに至って、嫌な汗を滲ませた。
クロートだってまだまだ弱いかもしれないが、それでも生き残る術はガルムによって叩き込まれてきたのだ。
だから……さっきの悲鳴が意味するものを想像して、体中にぞっとする寒気が駆け抜けるのは仕方のないことだった。
クロートだけが感じる、甘ったるく気分が悪くなる臭いは奥へと進むにつれて濃度を増す。
やがて男のランプが二股になった道を照らし出した。
臭いは――右からだ。
クロートがそれを伝えるか迷った一瞬のあいだに、男はさっと右へと折れる。
男がなにか感じ取ったのか、千切れた木の根に気付いていたのか……クロートにはわからなかったが文句はない。
そして、その光景はすぐに彼らの視界に飛び込んできた。
核を燃料にして発光する道具によって、煌々と照らし出された大きな部屋。
……ひとことで言うなら、惨劇。
白いはずの根は、紅く……どこまでも紅く染まっていた。
転がる武器は三つ。
そして、クロートたちから見て左のほう――追い詰められているのはひとりの男だけ。
彼の前にいる『それ』がなんなのか、クロートは知らない。
甘ったるい臭いがその部屋一帯に充満して吐き気を覚えるほどで、クロートは左腕を口元に当てる。
「い、嫌だ――あ、あ! 来るな……来るなぁ!」
床にへたり込む男は、迫る『それ』を遠ざけようと無茶苦茶に長剣を振り回していた。
黒々と艶めいている『それ』がぬらぬらしているのは、おそらく仕留めた獲物――転がる武器からして三人だ――の血。
……走っても、もう間に合わない距離だった。
レリルが手を翳そうとしたのを見逃さず、クロートはその手をぎゅっと握って止める。
魔装具――弓なら、と。彼女は思ったのだ。
でも、もう間に合わない。
「あ――お前、モウリス! よ、よく追い付いた! 俺を助け……」
……へたり込んだ男がこちらに気付く。たぶん呼ばれたのであろう大男は……動かなかった。
すでに『それ』は男の目の前。
ジュルジュルと音を立てながら何本もの黒い触手が『蓋の内側』から這い出していて。
黒い、宝箱――だった。
人ひとりを呑み込めるほどの、大きな宝箱。
クロートは、知らない。あんな宝箱のことなど、微塵も。
「あああぁ――ッ!」
「……ッ」
クロートは咄嗟に、レリルを背に庇う。
同時に黒い触手が男へとものすごい速さで絡み付き、悲鳴を上げる男を軽々と引き上げ、その口――ずらりと牙が並んだ常闇――へと落として……。
ばきばきばきっ……ぶしゅっ!
「――――ッ!!」
音にならない絶叫が、煌々と照らされながら飛び散る紅い飛沫が、クロートの感情を恐怖へ叩き落とす。
人の命がいとも容易く噛み砕かれるその瞬間は、瞬きすらできないでいた彼の網膜から脳へと色濃く焼き付いて。
甘ったるい臭いは感じるのに、肺が握り潰されたのかと思うほどに呼吸がままならない。
「は……、――ッ」
「く、クロート……!」
レリルの手を握ったままだったクロートの手を、さらに上から反対の手で握った彼女の声はしっかりしていた。
なにが起きたのか理解はしていても、彼女にはあの光景は『見えなかった』のだ。
こんな状況でも安堵するのとほぼ同時に、クロートの膝から力が抜ける。
それでも、彼は足の裏を床に叩きつけるようにして踏ん張り、倒れなかった。
いま倒れることはそのまま死に直結する――だから、生きようとする本能がそうさせたのだろう。
クロートは必死で息を吸い込んでは吐き出し、ヒューヒューと引き攣るような呼吸音を繰り返しながら、剣を握り締める。
「――下がっていろ」
そのとき、横にいた男が低い声で告げた。
彼はクロートたちに向き直る黒い宝箱――そう、何度見ても外観は宝箱である『なにか』なのだ――へと武器を向けた。
その中身は縁に沿って何本もの黒い触手が蠢き、真ん中には常闇の穴が文字通り口を開けている。
蓋の裏側と穴の周りにはずらりと並んだ血塗れの牙が光っていた。
「ま、待ってくださいっ、そんな無茶は……!」
レリルが声を上げるが、男は眉ひとつ動かすことなく一直線に突っ込んでいく。
「――四人。さすがに、満腹だろう」
そして――信じられない跳躍力で――右腕を引きながら踏み切ると、男は体重を載せた刃を閃めかせ、ジュルジュルと伸ばされる触手をあっさり斬り飛ばす。
さらに、彼はすかさず分厚い革手袋をした左腕を宝箱の口にねじ込んで――。
「消えろ」
ばん、と。
光が弾けた。
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