邪悪なものありけり⑪
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クロートの影がひらりと身を躍らせたのを確認して、レリルは自らの足を引き抜くために上半身を捻った。
まずは髪飾りを手繰り寄せ、邪魔になる髪を手早く束ねる。
左足のふくらはぎは瓦礫の隙間に入り込んでいて、動かそうとすると鋭い痛みが走った。
――骨……は、大丈夫そうだけど……うう、なにか引っかかってる……抜けない!
右足を瓦礫の腹に当て、ぐっと力を入れたが、重なり合って複雑に固定された瓦礫はびくともしない。
それどころか刺すような痛みが酷くなるので、レリルは唇を噛んだ。
「この……ッ」
このままでは埒が明かない。
弓を収束させるために両手を伸ばそうとしたとき、彼女に影が落ちた。
「……!」
はっとして顔を上げれば、黒地に金糸で複雑な模様が編み込まれた服装のエルフが彼女を見下ろしている。
濃い緑色の長い髪を束ねた紅色の瞳の男。
指先にはふたつの円月輪。足首には核を燃料とした装具が光っていた。
……饐えた臭いが鼻を刺激し、細かな土煙がレリルの目に入る。
彼女はちくちくと痛む目を何度も瞬きながら口を開いた。
「あなたは……『アルテミ』の方ですよね? レザを助けていたのが見えました……」
その言葉に、男は感情のよくわからない表情で頷いてみせる。
細められた紅色の目にも光は――優しさは勿論、怒りも、悲しみも、憐れみも――なにひとつ灯っていない。
「そうだ。俺は『アルテミ』で長と呼ばれている」
しかし低い声で告げられた『長』という単語に、レリルはぎょっとして目を剥いた。
「長……⁉ ではあなたが『アルテミ』を率いて……痛っ、し、失礼しました、こんな体勢で……。私は『ノーティティア』のレリルと申します。レザや……アルさんたちにもお世話になりました」
地面に伏したまま挨拶するのは、おかしい話かもしれない。
けれど、レリルはどうにか頭を下げるような仕草をしてみせる。
長は彼女の様子にくつくつと喉を鳴らして笑ってから、膝を曲げてレリルのすぐそばに屈んだ。
……やはり感情の読めない表情だ。けれどひとつだけ……好奇心が覗いているようにレリルは思った。
「お前と黒髪の坊やがレザの『守りたい相手』ってやつか」
「え? ま、守りたい……相手?」
「捜す手間は省けたな。ところで、さっきのはなんだ?」
反芻した言葉は完全に無視され、反対に淡々と問われたレリルは思わず眉をひそめる。
さっきの、とは……なにを指すのだろうか。彼女にはわからなかったのだ。
「……わからないか? さっきのだよ。黒髪の坊やが作ったろう? ――『宝箱』を」
「――――ッ!」
レリルは全身が急激に冷えるのを感じた。
――見られた……宝箱設置を見られた……!
それは即ち、『目撃者の処刑』が課せられるということ。
レリルはいまこの瞬間、『アルテミ』を率いる長を速やかに排除しなければならないのだ。
しかし彼女の反応を見たエルフはくつくつと喉を鳴らして笑った。
「知られちゃまずいって顔だな。そうか、なら丁度いい。悪いがお前と坊やは死んでもらう。それでチャラだ、忘れてやろう。死因は『足が瓦礫にやられたことによる失血死』。坊やのほうは……『不慮の事故』にでもするさ」
「……! な、なにを……」
レリルが驚愕に震えた瞬間、エルフの目に初めて感情が灯った。
蔑みと、嫌悪――。
「レザはあんな腑抜けじゃ困るんだよ。アルを知ってるなら話は早い。アルはな、人を狩ることに関してなにひとつ手を抜かなかった――『アルテミ』は法の下に人を狩ることを許された唯一無二。従順で、かつ人狩りを躊躇わない人材ってのは貴重でな。レザには部隊を率いてもらう必要がある……そのつもりで育てさせたんだ」
そう言って長はゆっくりと立ち上がる。
殺気のようなものはなにひとつ感じない――それがレリルには恐ろしかった。
――この人は本気だ……。私だけじゃない、クロートのことも狙ってる……!
レリルは咄嗟にもがき、背中を床につけて手を突き出した。
「収束ッ!」
マナは弓の形を描く。
長はピュウと口笛を吹いて、薄い唇の端を引き上げた。
「はっ!」
間髪入れずに、レリルは矢を放つ。
派手な音がして瓦礫が吹き飛んだ次の瞬間、彼女は右足で屋上の床を蹴って抜け出していた。
転げるようにして長から距離を置き、左の膝を突いたレリルは弓を引き絞る。
「――マナ術の魔装具……レザと一緒か。類は友を呼ぶもんだ。俺はハイアルムとは友人でな。お前たちが罪なき者を狩ることがあるのも知っている。『ノーティティア』ならもうちょっとレザをうまく育てると思ったが、とんだ計算違いだよ――」
笑うエルフが、ゆっくりとレリルとの距離を詰めてくる。
――罪なき者って……宝箱設置を見られて処刑された人たちのこと……?
レリルはぎゅっと弓を握り直し、息を吸った。
――この人は知っていて『ノーティティア』を見逃してきた……ハイアルム様となにか取引をして。そういうことなんだ……。
彼の指先で光る円を描いた刃は、レリルの首を躊躇いなく斬り落とすだろう。
レリルにはそれが恐かった。
それでも光る矢を『アルテミ』の長に向けたまま、彼女は唸るように紡ぐ。
「……ハイアルム様もアルさんも、レザのこと喜んでくれていると思います」
ここで狩られるわけにはいかない。挑発は得策ではない。レリルはそれをわかっている。
――だけど言わずにいるなんてできない! この人は黒い蜘蛛と同じくらい『邪悪なもの』だ――!
「『アルテミ』の敵は私たちじゃない。いまはそんな場合じゃない! それでもあなたが私たちを狩るというなら――」
本当なら、宝箱設置を目撃されたことで彼を処刑しなければならない事実からも眼を逸らしたかった。
――でも、それもできない。クロートに、レザに……これ以上背負わせるなんて……!
「た、戦います――私が……ッ!」
最後の最後で声は上擦ったが、レリルの矢は迷いなく一直線に『アルテミ』の長へと放たれた。
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