邪悪なものありけり⑩
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「……へへー、ここまでくればっ」
レザは巨大な『宝箱』に双剣を突き立てたが、火花が散ったたけでびくともしない。
しかし想定の範囲内だ。
彼は双剣で短側面を削りながら速度を落とし、彫刻部分に素早く足をかけ左手でしっかりと掴まった。
すぐに触手が襲い掛かってきたので右手一本で相手をするが、レザの集中は凄まじく、その剣捌きは留まることを知らない。
「上までいかせてもらうから……ねッ!」
時折左右の手を入れ替えながら足場を少しずつ移動し、レザは上へ上へと登っていく。
レザの足に装着された道具はいまもきらきらと光を発していた。
これがなければ、こうして耐えることもできなかっただろう。
レザは『アルテミ』の仕事の早さに――柄でもないと言われるかもしれないが――感謝する。
しかし。
あと少しで縁に手が掛かる……そう思ってレザが伸び上がった瞬間、彼を振り落とそうと黒い蜘蛛が激しく体を揺すった。
「うわっ……!」
胃がひっくり返りそうな浮遊感と頬を打つ激しい空気のうねりに、レザの体が大きく振られる。
かろうじて掴まることはできたが、体勢を崩したレザの左足に黒い触手が絡み付いた。
ねっとりとした触手は思いのほかがっちりと締め付けてくる。
レザは歯を食い縛って右手をしっかりと彫刻にかけ直し、左の刃で抗おうとしたが――この瞬間を狙っていたのだろう。
触手が次々とレザに襲い掛かった。
――こんなところで……ッ!
レザはさっとバックポーチに手を伸ばす。
中に入っているのは核を燃料とした爆弾であり、この黒い蜘蛛を屠るための道具。
いままでのレザ――クロートとレリルに出会う前だ――なら、躊躇いなくここで爆弾を爆ぜさせただろう。
けれどレザは唸り声を上げて、ギリギリまで抗うことを決めた。
――そうだよ。帰るって約束したんだ、こんなところでやられるわけにはいかない……!
キンッ……
そのとき甲高い音を響かせて円月輪が閃光のごとく横切り、迫り来る触手を斬り伏せた。
「長――! 助かるッ!」
レザは大声でそう言って、左足の触手に刃を突き立てる。
しかし黒い蜘蛛も必死なのだろう。離れるどころか、触手はレザの足を凄まじい力で引いた。
「……ッ!」
体が浮き、レザは咄嗟に両手で『宝箱』の短側面にしがみつく。
双剣は薬指と小指で握っているので、残りの三本の指で――両手を合わせても六本だ――どこまで耐えられるか……正直なところレザは絶望的であるとすら思った。
……そのとき。
バァンッ!
柔らかな光を纏った一本の矢が空を駆け抜け、左足に巻き付いた触手を弾き飛ばしてレザの体が解放された。
持ち前の反射神経ですぐに体勢を立て直し、レザはごくりと息を呑む。
「…………え、いまの……?」
彼がさっと視線を走らせれば、長とは別の場所――少し離れた建物の屋上だ――に、彼らの姿がある。
瞬間、レザは体中に気力が滾るのを感じた。
「あー……へへ。守られてるのは俺のほうかもなー」
知らず笑みがこぼれ、レザは軽く左手を振って大丈夫だと合図すると一気に側面を登り切るために動く。
半数も残っていない触手が襲い来るが、振り返らない。
円月輪とマナの矢が援護してくれるとレザは疑わなかった。
彼の手が届いた『宝箱』の口に牙はない。
レザは翠色の瞳に狩人たる獰猛な光を宿し、縁に足をかけて笑った。
「さあ、悪いけど消えて――――え? これ……! しまっ……」
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カッ……
眼を潰さんばかりの白い光が『宝箱』からあふれ出し、空を染め上げる。
クロートはその瞬間、レザが『宝箱』の縁を蹴って飛んだのを見た。
着地を考えていない、ただの回避行動以外のなにものでもない跳躍。
あのままではレザは落下するだけ……近くの建物に着地できるかどうかなど、クロートにわかるはずもない。
「レザ――ッ」
……誰か見ているかどうかなんてクロートにはどうでもよかった。頭で考えるより先に自分にできることをやった……それだけだった。
「おおおおぉっ! 『創 造』ッ!」
クロートは落下するレザへ向けて手を突き出し、マナを収束させる。
――頼む。頼むから、レザを……! レザを助けてくれ!
光は視界のすべてを白く染め上げ、瞬きひとつの時間のあとには耳が聞こえなくなるほどの凄まじい轟音と爆風がクロートたちに襲い掛かった。
黒い蜘蛛が爆発したのだ――!
理解する間もなく吹き飛ばされ、どこかに叩きつけられて転がるクロートの上からなにかの破片が次々と降り注ぐ。
キ――ン……
甲高い耳鳴りと目眩。ちかちかする視界。
クロートは呻き声を上げて、なんとか体を起こす。
――痛みはある。生きてる。
(レリル……レリル、どこだ!)
叫んだはずなのに、まるで水中のようだった。頭を振って額を押さえ、クロートは彼女を捜す。
(レリル!)
……少し離れた瓦礫の下に、彼女はいた。
蜂蜜色の髪はほどけ、クロートがプレゼントした白い薔薇の髪飾りが転がっている。
クロートは軋む体に鞭打って彼女のもとに駆け寄った。
(レリル、しっかり!)
(……、……)
レリルは薄く目を開け、なにか言ったようだ。
彼女は瓦礫の隙間に挟まっている左足を指さして、それからレザがいたあたりを指さすとクロートの手を押した。
土煙が薄れていき、抉れた建物が見える。
その衝撃の中心にいたはずの黒い蜘蛛はどこにも見当たらない。
(私は、大丈夫! クロート、レザ……レザを……!)
レリルの声が少しずつ聞こえ始め、クロートは頷く。
なんとか立ち上がり彼は駆け出した。
――レザ……!
ばくばくとクロートの心臓が鳴り響く。
砕けた建物の端から見下ろすが、路地にはまだ土煙が満ちていた。
「……っ」
階段を下りる時間すら惜しい。
クロートは建物の下の階へと崩れた床から身を躍らせた。
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