ゆめゆめ忘れることなかれ⑧
男の気迫は恐ろしく鋭く、重い。
クロートはレリルを背に庇いながら、精一杯胸を反らし、男に対抗しようと試みた。
……正直なところ足は竦んでいたが、だからって引くこともできない。
――やばい。この男は、絶対にやばい。
クロートの頭のなかで警鐘がかき鳴らされる。
色黒の肌で、赤みがかった茶色をした短髪。吊り上がった太い眉の下には灰色の双眸。
傷だらけの黒いブレストプレートは歴戦の猛者のような貫禄を滲ませている。
右腕には易々と魔物を貫いた珍しい形の武器。
左腕は肘の上まである黒い革の手袋で覆われていて、肩当てと手袋の間に僅かに覗く肌には、どうやら太い傷痕があるのがわかった。
その巨躯を前に、クロートは指先ひとつ動かせない。
――引いたら、狩られる。
彼がそう感じるのも無理はなく、その後ろのレリルも息を殺して微動だにしない。
この大男はどう見ても【アルフレイムの迷宮】に挑むような冒険者ではなく、はるかに経験豊富な熟練の戦士だった。
「…………」
やがて無言のまま、男は右の太腿に装着された鞘のようなものに武器をねじ込み手放すと、興味をなくしたようにクロートから視線を外す。
「迷宮はガキの遊び場じゃない――誰かれ構わず助けようなどと思うな」
低い声で発せられた言葉が、根が絡み合う壁へ、床へ、吸い込まれていく。
「――あ」
レリルがその言葉に反応してようやく身動いだころには、男はその広い背中をふたりに向けていた。
「あの……ごめんなさい……」
レリルは男の咎めるような口調に、自分の行動が迷惑だったのだと悟ったらしい。
彼女の口から絞り出したような声で謝罪の言葉がこぼれたが、男は肩越しにひらっと右手を――たぶん了承と同時に、帰れという意味が込められている――振るだけ。
クロートは冷や汗が頬を伝うのを感じながら、握った剣の感触を確かめた。
……男の発していた殺気のようなものが弛緩したのは間違いなく、すべての感覚が戻りつつある。
けれど同時に、言いようのない不安が胸のなかをいっぱいにしてクロートはごくりと喉を鳴らした。
「……なんでそんなに強いのに……こんなとこに?」
だからクロートは聞かずにはいられなかった。いや、聞かねばならなかった。
男はランプを拾い上げると半分だけ身を引いて、横目でクロートを見る。
「関係ない。言っただろう、迷宮は遊び場じゃない」
「関係あるさ! 俺たちだって、当然遊びにきたんじゃないんだ。この迷宮を攻略しにきたんだから。おま……いや、ええと……あなたみたいな強い人がいたら、それだってままならないだろ?」
クロートはカチンときてそう言いながらも、あちこちが千切れていた白い根のことを考えていた。
……この男は確かに大きく、通路は彼にとって狭かったかもしれない。
けれど、根をちぎりながら進まなければ通れないかといえば、そんなことはないだろう。
だからこそ――クロートはおかしいと思ったのだ。
――あれは別の誰かが引っかけたものなんじゃないか。
その考えがクロートの頭から離れない。
「……」
男は再びクロートへと射貫くような眼光を浴びせる。
しかし今度はクロートの足は震えない。
――この人は、『少なくともいまは』敵じゃない。俺たちにここから帰れと合図したのは、きっと思い違いじゃないはずだ。
その確信が、クロートの心のなかにあった。
ただ、ほかに誰かがいるとしても謎の宝箱とこの男に関わりがないとは言い切れない。
むしろ実力を考えれば、怪しいくらいだ。
ところが。
「――それならなおのこと諦めろ。俺は雇われで、この先には雇い主のパーティーがいる」
発せられた言葉に、クロートは目を見開いて唇を開きかけ……噤んだ。
――いや、それどういうことだよ。スネイキー五体だぞ? それに囲まれた仲間を放っていったってことか――? 確かにこの人なら大丈夫だった。でも、それでも……近くにすらいないなんて!
「それ……置いていかれたってこと――ですか」
言葉にするのを躊躇ったクロートとは反対に、レリルがぎゅっと表情を歪めて呟くように言う。
クロートはその声が震えているのに気付き、はっとした。
レリルは自分で家族がいないと話していたのだ。
もしパーティーにそういうものを重ねていたとしたら、彼女にとってそれは許せない行為だろう。
「――いても邪魔だ。それでいい」
男はなにかを感じ取ったのか、いくぶん声音を和らげてそう伝える。
つまり、この先にいるのは男より強いパーティーではないということだ。
でもレリルはぶんぶんと首を振った。
「そういう問題じゃないです! 雇い主だからって雇った人を置いて、あんな危険な……!」
「……! レリル、静かに!」
そのとき。
クロートが咄嗟に彼女の前に左腕を出し、言葉を遮った。
男も見かけによらない機敏な動作で再び武器を取る。
まるで意志があるように、ガチン、ガチンと音を立てながら武器が男の右腕に装着されたのを――クロートは舌を巻いて――確認した。
……そして。
〈うわあぁ――ッ〉
迷宮の奥、微かに聞こえた叫び声にレリルの表情が凍り付く。
「……」
男は踵を返し、無言で奥へと走り始めた。
「っ! クロート、私たちも行こう!」
弾かれたように駆け出したレリルをクロートはすぐに追い抜いて、ギッと歯を食い縛った。
――なにか叫ぶ状況に瀕した人がいる。でも、それだけじゃ、ない。
彼は肩越しに、レリルに言い放つ。
「レリル……奥から『甘ったるい臭い』がする。……忘れるな、ここは『迷宮』だ、無茶しないでくれ!」
少し空いておりましたが更新です。
二作を同時進行してたのでまちまちでしたが、少し更新速度を上げさせていただきます。
ポイントも260まで来ました!
嬉しいです。
いつもありがとうございます。




