邪悪なものありけり⑧
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クロートは混乱している人々の間から抜け出して大きな建物――迷宮調査に必要なものを売っている駆け出し冒険者向けの店舗だ――に入った。
客は勿論のこと店員らしい人影も既になく、クロートはレリルとともに上へと駆け上がる。
屋上に飛び出すと黒い蜘蛛はまだ遥か先にいるように見えたが、ここまでやってくるのにどれくらいの時間が残されているのかはわからない。
ふたりが目を凝らせば、前方に屋根の上を走っている人影がいくつか確認できた。
……残念ながら遠目にはどれがレザか判断がつかないが……それでも彼が『アルテミ』として先を走っているのは間違いない。
レザが額に巻いて靡かせていたのはアルの――彼の仲間であり家族であった男性の――『黒いバンダナ』だったからだ。
クロートは短く息を吐き出してレリルを振り返る。
「走れるか、レリル。『アルテミ』に――レザにできるだけ早く追い付こう」
「うん!」
ふたりは屋根の上を走り、ときには家と家の間を跳び越えて進んだ。
建物の多くは煉瓦造りで屋上やバルコニーがあり、特に郊外は高さも似通っているので思った以上に走りやすい。
王都の中心部であれば趣向を凝らした外観の店舗や貴族の家が増えるため、こうはいかなかっただろう。
……とはいえ、ずっと走り続けるのは無理である。
ときには息を切らせて立ち止まり、休憩を挟まなければならなかった。
……そうして何度目かの休憩で、レリルは肩で息をしながら額の汗を拭うと腰を折って両膝に手を突く。
ふたりが建物の下を窺えば、路地にはぎゅうぎゅうに詰め込まれた人々の姿が見て取れる。
早く行け、退け、邪魔だと怒鳴り声がする一方で、避難経路について指示する声も聞こえてきた。
「はあ、は……ねぇ、クロート……避難、うまくいくかな……?」
レリルは懸命に呼吸を整えながら、クロートに問い掛ける。
クロートは顎を伝う汗を手の甲で拭って払い落とし、首を振った。
「正直、全然わからない……こんなところで詰まってたんじゃ……」
彼が振り仰げば黒い大きな蜘蛛はまだもう少し先に見えるが、あの長い脚であればここまではほんの僅かな時間で到達できよう。
近付けば近付くほどにそれが巨大で恐ろしい存在であることを実感し、クロートの体は知らず震えていた。
既に『アルテミ』らしき影はどこにも見えず、もしかしたらもう黒い蜘蛛に到達しているかもしれない。
日は傾き、じきに空は茜色に染まり始めるだろう。
暗くなる前に片を付けなくては不利になる一方だと……クロートは唇を噛んだ。
……そのときだった。
「……! クロートッ」
レリルの発する警鐘に、クロートははっと我に返る。
視線の先、大きな黒い蜘蛛がその脚をガシガシと踏み鳴らし、いままでにない動きをしたのである。
「……ッ、もしかして……『アルテミ』たちが攻撃し始めたのか⁉」
クロートは思わず声を発して歯を食い縛った。
土煙が舞い上がり、地響きが轟く。
避難しようとする人々が聞こえてくる音に悲鳴を上げて、前へ前へと逃げようとするのが見える。
しかし、ただでさえ詰まっている道だ。
その行為は愚行でしかなく、いまクロートが押すなと叫んだところで、ほかになにもできない。
彼にやれることは、戦うこと……きっとそれだけだ。
――焦るな、焦るな……!
クロートは己の頬を両手でばしんと叩き、自分に言い聞かせた。
レリルもまた不安そうな顔をしたが、それも一瞬のこと。
ふー……と息を吐き出すと、彼女は胸元にある白薔薇の核を両手で包み込み視線を上げる。
その瞳は凛として、力強かった。
「行こうクロート。私たちは私たちのやれることをしないと」
「……ああ」
目指すは黒い蜘蛛――そしてそれを率いているはずの『ラーティティム』だ。
ふたりは再び駆け出した。
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『アルテミ』が戦闘に選んだのは屋上だ。
路地では視界が悪く、攻撃された場合に避けられる確率が格段に下がってしまうためである。
なんとかして腹の部分である『宝箱』を落とす必要があると『アルテミ』は考えており、金眼たちもいまのところ近くに見当たらないのでレザも賛成だった。
……脚を攻撃できる位置に付いた『アルテミ』が一斉に攻撃を仕掛けると、巨大な黒い蜘蛛は八本の脚を激しく動かして抵抗する。
土煙に視界が悪くなるが、止まるわけにはいかない。
「やーっ、はァーッ!」
気合とともに、レザの双剣は再び黒い蜘蛛の脚目掛けて振り上げられた。
突き立てた刃が、毛の生えた黒い脚に新たな傷を穿つ。
しかしその外殻部分は異常に硬く、なかなか突破口を見出すことができない。
レザは小さく舌打ちしてひらりと隣の建物に飛び移った。
ほかの『アルテミ』たちも、それぞれが別の場所で同じように戦い続けている――それは微塵も疑う余地がない。
それが狩りを生業とする組織『アルテミ』であり、レザが長年育てられてきた環境であり、なにより我が儘を許してくれた場所である。
だからレザは一切躊躇わずに魔物に挑むことができていた。
「あーもう、面倒臭いなー! なんで脚なんか生やしてるんだよー!」
彼は盛大に文句を吐き出してギュッと腰を落とし、高く跳躍して三度剣を振るう。
彼の足首には核が填め込まれた道具が煌めいており、人とは思えないほどの跳躍と素早い移動を助けていた。
これは馬に装着して長く走らせることを目的とした道具だったが、レザが『アルテミ』に改良の話を持ち掛けていたのだ。
彼ら『アルテミ』は全員がこの道具を装備――短期間でそれだけの数を用意させるだけの財が彼らにはあった――しており、それは建物の屋上を駆け抜けるのに大いに役立った。
レザはくるくるっと双剣を回し、隣に着地した男性にちらと目配せをする。
「いっそ登れないかなー、この脚」
問い掛ければ、男は落ち着いた様子で肩を竦めてみせた。
鍛え上げられたしなやかな筋肉……その肩から先を惜しげもなく晒した男は、レザより頭ひとつ半は大きい。
黒地に金糸で複雑な模様が編み込まれた独特な衣装を纏っており、いつでも動けるよう膝を曲げて腰を落としている。
背中を覆える長さの濃い緑色の髪は首の後ろでひとつに束ね、すっと通った鼻筋に、キリリと上がった細い眉。
その下に光る眼は濃い紅色で、なによりも彼を表しているのはその長く伸びた耳だった。
そう、彼はエルフである。
扱う武器は円月輪と呼ばれる円を描く刃だ。
レザの手ほどの大きさだが、放たれた円月輪の切れ味は凄まじい。
長命であるエルフによって磨き抜かれた技は、本人いわくまだまだこれからだという。
レザからすれば絶対に戦いたくない相手でもあった。
「登るくらいであれば、もっと高いところから跳び乗るほうが楽そうだな」
男は片手にひとつずつの円月輪をヒュオンヒュオンと回し、そう言って薄い唇をにやりと歪ませる。
「高いところって言ってもなー。それって、もっと王都の中心部までいかないと期待できないじゃんかー」
不満の声を上げたレザに、男はくつくつと笑う。
こんなときにも笑えるのは彼が『アルテミ』だからなのかもしれない。
「そのとおりだ。まあ、縄でも掛けられれば別だろう」
「……縄なんて届かないだろうねー。やっぱり脚を斬り落とせってことかー」
つまり、真っ向勝負である。
レザはシャンッと双剣を打ち鳴らすと、ため息をついて黒い蜘蛛を見上げた。
あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願いいたします!
いつもありがとうございます✨




